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2022/02/27

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  • 自己愛と自意識過剰

    自己愛と自意識過剰とはどういう関係だろう。共に自己防衛本能に起因する。自己愛は先天性のもので他人を意識しない。他人を気にしない。自分を優先するから遠慮はない。総じて自己愛傾向の強い人は当然乍らエゴも強い。自意識過剰は後天性で、自分が他人の目にどう見えているか、どう映っているかに強く拘泥する。従って、自意識過剰の人にエゴイストはいないと見てよさそうだ。自意識過剰の人は他人の目を気にするので遠慮深い。人前で喋ったりパフォーマンスすることが苦手である。人に良く思われたくて堪らないのだが、いざとなるとそれを発揮できない。遠慮深さのために、願望が鬱屈している。自己顕示欲とか自己承認欲などは、自己愛から生まれる欲求である。自己本位である。これらは間違いなくエゴイズムの強い人間が備えているものである。自己愛の人は妬み易...自己愛と自意識過剰

  • 運命

    運命は人の幸・不幸に大きな影響を与える。人の運は、最終的に皆平等であると考えるのが、確率からいうと正しいだろう。それが事実かどうかを、データで示すことができないのだから、そう考えても矛盾はない。好い運命を願い、悪い運命を避けようと希うのは、運命の女神の裁量を否定するものである。運命の女神はその人間の越権行為をエゴと怒るに違いない。八百万の神々に無病息災やご利益を祈ることは、運命の女神の存在と役割を否定し、延いては造物主の存在そのものを認めていないことである。過剰な医療依存や、サプリメント漁りは、自己過信から来る。運命に甘んずる心は、自然に身を委ねることである。自然を畏み畏れることは人間に生まれながら身についたものと思う。畏み畏れて悲運を耐え忍び、運命が好転するのを待つのは、無力な人間の習性である。好いもの...運命

  • 1600年前からの交際

    春は卒業・入学・就職で、若者が送迎されるシーズン。長い祝辞を聴くのが苦手な若者がほとんどだろう。大勢の若者の前で祝辞を述べることは、大人には欣快この上ないことのようだ。だが日本の若者は、大人たちの祝辞の常套語「前途洋々」の美辞麗句に踊らされてはいけない。日本の大人は、このような白々しい無責任な言葉で、若者たちを未来に送り出す悪弊をキッパリ断つべきである。人の前途は、紆余曲折があるのが普通であろうし、将来は未知で予測不可能である。この世は誰もが、前途洋々で人生を渡れるほど甘くはない。社会生活は対人関係で成り立っているから、利害の衝突・感情の行き違い・讒言・誤解・曲解・妬み・嫉みなど、凡ゆる曲事に満ちている。だが、この世には捨てる神もいれば拾う神もいてくれる。若者は未知を虞れることはない。前途洋々と持ち上げら...1600年前からの交際

  • 笑顔

    中学に入る前後のことだったと記憶しているが、舊くから家族同様に親しくしていた年配の婦人から「アンタは笑顔が好いから、いつも笑顔でいなさい」と言われた。その後肉親に死なれたり、失恋したりする度に笑顔は減って、高校を卒業する頃には、柔らかみのない顔になっていた。その頃の写真を見ると笑顔が少ない。笑顔が多少元に戻ったのは、成人し、恋人を得てからのように思う。幸せは外に顕れる。人は境遇によって、心の相も顔の相も変わる。孤独や寂しさは、笑顔にも翳を射しかける。妻も私も、互いに相手の笑顔にあった翳を感じとったから、放っておけず夫婦になったのだろう。それからン10年、孫たちには、笑顔が溢れている。自分は昔人に褒められた笑顔に戻れるのだろうか?どうも老人の笑顔というものは、想像してもピンとこない。顔は心を映す鏡だ。中学生...笑顔

  • 春は枯草にも顕れる

    川の土堤の枯草の色が、ほんの僅か赤みを帯びている。よくよく注意していないと変化に気づかない。節分を過ぎる頃から、雨が降る度にほんのり赤みがさしてくるのである。早春の先駆けを、林床の草花や木々の芽吹きに見るのでなく、枯草の赤らみに認めるようになったのは、ここ数年のことである。まさか土に還るほかない枯草に、春の先駆けを見出そうとは、思ってもみなかった。車での遠出も山歩きもできなくなって初めて知ったことである。オオイヌノフグリ・タンポポ・ホトケノザなどの草花より早く、枯草に春をキャッチできるようになったのは、高齢になったからだろう。枯草の間に緑が目立つようになると春は盛り、桜に目を奪われ、花々に浮かれている間に、枯草は消える。春は枯草にも顕れる

  • 誠意と誠心

    誠意は態度で示すほかに伝えようがない。言葉は誠意を伝える力が弱い。熱弁になる程,誠意は遠ざかるもののようだ。人の誠心は必ず外に顕れるものであり、誠意を疑われることがあっても、誠心さえ失わなければ、いつか誠意は伝わるだろう。言葉で誠意を示そうとしても、却って逆効果を招くものである。私は友誼の絆は互いの誠意に拠るものと理解しているので、誠意を欠いた友誼というものは信じない。互いの間に誠意が失われたら、友誼は終了する。生身の人間だから、外見も中身も経年変化するのは避けられない。誠意を失わないようにするには、できるだけ不動の誠心を保たなければならない。誠心を保っている人は、知己・友人に限らず、凡ゆる人に誠意で接する人であろう。誠意と誠心

  • 南京虫

    トコジラミという害虫が国内で増えているらしい。戦前まで南京虫の名で日本人に汎く知られていた吸血昆虫だ。南京豆(ピーナッツ)・南京錠・南京玉すだれ(芸能)・南京ハゼ(街路樹)など、南京の名が付く日本語はよく耳にする。戦前の婦人用時計は、その大きさと形が似ているので、南京虫と呼ばれた。敗戦後、占領軍が濫用したDDTのお陰?で、この悪名高い虫は姿を消したと思っていたら、国策のインバウンド・アウトバウンドの隆盛に伴い、近年国内に持ち込まれ、国内で増殖しているらしい。交通機関、宿泊施設で被害が相次ぎ、今年は昨年の3倍の勢いとか。南京虫の名では外交的に差し障りがあるのでトコジラミの名が使われるようになったのだろうが、どう名称を変えようとも私には、聞くだに悍しい凶悪な吸血南京虫だ。私が山歩きをしていた50代の頃、当時中...南京虫

  • 猥雑の極み

    昨年11月18日に行われた自民党青年局近畿ブロック会議の後の懇親会、余興で目を覆いたくなる醜態が演じられていたことが、英国のBBCからXを通じて世界中に拡散されてしまった。洵に議員にあるまじき猥雑の極みである。青年局の名が泣くだろう。自民党は落ちるところまで落ちたということか?破廉恥な画像映像がBBCから拡散されたことで、多くの日本人は初めてこれを知った。日本のマスコミは、この画像を入手していながら国民に報道せず、伏せていたということだろう。事実確認に慎重だったでは通らない。購読者や視聴者への許し難い背信行為である。日本のマスコミが、政権党に対して批判力を失っているのは、周知の事実だが・・・日本の政治風土を歪めている旗頭のひとつが、政権におもねて日本国民に正確な内外の情報を伝えようとしないマスコミであるこ...猥雑の極み

  • 万葉の森公園8カタクリ

    今春初めての万葉の森公園。まだ風は強く冷たい。先ず「伎倍の茶屋」で地場(三方原)産の作物を買い、甘酒で体を温めてから、植物を見て周る。今どきお汁粉や甘酒、昔ながらの甘味を出してくれる店は珍しい。まだ樹木の梢に芽が出ていない。暖地でも空っ風の吹く遠州は春が遅い。カタクリオキナグサスモモボケミツマタいつも思うのだが、ミツマタは仄暗い場所に密生して生えているものの方が、断然花の見映えが好い。ミツマタは和紙の原料で、自生の群落はほとんどなく、群生を見るのは栽培地。栽培者は繊維が細く柔らかい樹皮を求め湿潤で陽の翳る谷地を選ぶ。やや日陰の谷間が、栽培者には好適地なのである。その様な場所で見るミツマタの花々は、暗がりに浮かぶ無数のクリーム色の泡の様に見える。その幻想的な光景は、一度見たら忘れられない。植物自体は、陽当た...万葉の森公園8カタクリ

  • 知的生産力

    学力は知的生産力とは相関しない。それは最高学府を出ても、知的生産物を産む人が少ないことでわかる。ここで知的生産物と謂うのは、引用を伴わない当人のみの創作による著作物である。その人の全知能から生まれたものである。従って、学術論文はそれがどんなに有用有益であっても除外される。このことによって私たちは、知的生産力は学識の埒外にあるものであることを理解する。学ぶ能力は非生産的なものである。ここを勘違いすると、学んだだけで事足れりになってしまう。自ら何も生産しない人生を歩んでしまう。学歴主義が問題なことは、学歴が目的化することである。しからば,知的生産力は何をもって上げることが出来るかというと、それに適う答えは無い。敢えて言うなら,生産する意欲ということになるだろう。中国由来の学力神話に毒された儒教三国の親たちは、...知的生産力

  • 恋愛という糖衣錠

    恋愛という明治の造語は、日本に昔からあった恋という語に、同じく昔からありながら現代の意味とニュアンスを異にする愛の語を重ね、これを西洋語のloveに該当する概念の言葉とした。したがって、恋愛の語は日本語としては恋し愛でる意味でしかなく、love本来がもつ西欧的な愛の意味が欠けた言語である。つまり、恋愛はloveの訳語に適さない急拵えの日本語である。loveの感情は西洋人のものなので、どう訳そうともその感情を表す語は日本語には無いしつくれらものでも無い。このloveの擬似造語が、以後の日本の若者たちに、愛の比重の軽い恋愛認識を定着させてしまった。恋と愛とは似た概念と誤解されているが、本質的には全く異なる。従って、同義文字の連結による熟語の構成の原則を逸脱している。勿論対義文字の連結にも該らない。日本語の熟語...恋愛という糖衣錠

  • 深坂越えご案内

    目下視聴率で苦戦が続いているNHK大河ドラマ「光る君へ」の次回(17日)は、紫式部の父藤原為時が、越前国の国司の守に任官し、国府の武生へ赴任するとか。紫式部は国の長官に成った父に随伴して長徳2年(996年)に越前国に赴いている。その2年後の長徳4年(998年)、父の赴任時には通らなかった深坂越え(塩津山)の難所を経て、紫式部はひとり京に帰る。越前敦賀から近江塩津へ、国守の娘だから、従者たちを連れての旅だったろう。かつて山友と、近江塩津から越前敦賀へ、往昔の面影を今に遺す深坂古道(深坂古道-道々の枝折)を歩いたことがあった。道脇に清冽な水が音を立てて流れている長閑な道だった。近江の歴史探索に熱心な頃だったが、真夏の暑さには閉口した。ちょうどこれからの季節、紫式部一行の辿った行路、福井県敦賀のJR新疋田駅から...深坂越えご案内

  • 折り合いをつける

    「折り合いをつける」ことは、社会生活を円滑に進捗させる上で極めて重要である。この世は折り合いの「つけっこ」で成り立っている。折り合いのつけ方の上手・下手は、世渡りの巧拙を決めることになる。トラブルの種を蒔かないためには「折り合いの宜しき」が肝要である。「長いものに巻かれる」のは、折り合いをつけるひとつの便法だが、そればかりでは人生が面白くないだろう。ゆるく巻かれるのと堅く巻かれるのとでは、大きな違いがある。ゆるく巻かれて生涯を終えることができるなら、結構安全で安定した生き方であろうが、堅く巻かれてしまうのは息がつまり、わが身を損なう素になるだろう。長いものに巻かれない、自由で自立した生き方を望む人は多いが、これは誰にでもできるものではない。安全性・安定性を担保するものがない生き方は、タイトロープを渡るに近...折り合いをつける

  • ソバーキュリズム(Sobercurism)からの帰還

    私のオッチョコチョイ・新しがり屋は老いても熄まず、家族の迷惑の種になっている。「ソバーキュリアスSoberCurious」という考え方に興味を抱き、酒好きの私にも、素面(しらふ)の夕べと酔わない生活が可能なものかどうか、早速実体験に取り掛かったのは昨年の7月だった。1年半のソバキュリアン生活を実践した後の今年の2月、飲酒を再開した。ソバーキュリアス教を宗旨替えしたのである。意外なことに、お酒を已めるのは、想像していたよりも簡単だった。常習飲酒といわれる晩酌の習慣を断つのは、何の支障も無かった。飲酒習慣が惰性で成り立っていることを確かめさせてくれたことは、Sobercurismの提唱者に深く感謝している。生活の中から酒を取り除くことは、それまで想っていたより簡単だった。酔わない生活というものは、私に多くの好...ソバーキュリズム(Sobercurism)からの帰還

  • コーヒーの花

    室内で栽培しているコーヒーの木に花が咲いた。白く清楚でかぐわしい香りが漂う。育てて10年にはなるだろうか。高さは約150cm、一時は水遣りを怠って枯れかけたこともある。コーヒーの木を眺めながら、朝飲む一杯のコーヒー、これが老爺には何よりの活力の素になっている。もうひとつ今盛り花はムラサキサギゴケ。この齢になるまで、迂闊にもその存在を知らなかった。この仲間にはサギゴケというものもあって、花色の変化が多く、草もの盆栽に仕立てる人もいるようだ。コーヒーの花

  • 日欧城郭比較論

    私は小学校の4年生ぐらいからお城が好きだった。小学校は浜松城の二の丸に在り、生徒たちは隣接する本丸の丘一帯を「お天守」と呼んでいたが、其処には天守台の石垣はあるものの、天守閣は無かった。もともと浜松城には、築城当時から天守閣がなかったらしい。後に要所に石垣を築いたのは、秀吉時代の城主、堀尾吉晴らしい。家康が築城した当時は、急迫する甲斐武田勢への防備に追われ、自然地形を生かした急拵えの野戦陣地に近い城だったのだろう。その後幾つかのお城を訪ねたが、学童の狭い体験の中で最も強い印象を受けたのは、近江の彦根城だった。石垣と水堀、天守閣と櫓や門が整備された、初めて見る典型的な城郭だった。中学生になったら、西欧のシロに関心が移った。キッカケはフランス映画の時代劇で、多分そのシロはオープンセットだったと思う。中学1年生...日欧城郭比較論

  • Decade

    昔通っていた寿司店の親方が健在だった頃、修業した年限を尋ねたことがあった。10年との回答だった。技能と知識で生きる職人が一人前になるには、一般的に10年はかかるのが普通だろう。職人の世界ばかりでなく、商人も同じである。商品の知識・値踏み・仕入れ・販売のコツなど取引に明るくなるまでには、そのくらいの年月を必要とする。会社員でも、職場の実務に精通しヴェテランに成るには、10年前後の時を必要とするものかと思う。人が技能に習熟し知識を蓄えるには、標準的に10年の時限を必要とするのは、今も昔も変わらないだろう。実務は反復で習熟するものである。反復繰り返しの回数が習熟点に達するには、どうしても10年の歳月を必要とするように出来ているに違いない。万物は秒・分・時間で動いているが、人間の認識や技能の習熟には、寡なくとも1...Decade

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