chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 思い出フォト 49 2019年10月 2 台場

    ゆりかもめ新橋駅靖国神社に参拝し、台場へ行きました。フジテレビお台場のガンダムレインボーブリッジ品川台場(台場公園)ペリーと黒船来航に衝撃を受けた江戸幕府は品川沖に砲台を備えた台場の造成を行いました。俗に台場公園とされる場所は、砲台跡や弾薬庫跡等が残る第三台場を指します。弾薬庫跡(左側)砲台跡第六台場思い出フォト492019年10月2台場

  • 現代語訳 昭和天皇 実記 4 御養育係 川村純義

    御養育係川村純義1901年明治34年7月かねてより裕仁親王(昭和天皇)の御養育については、御誕生以前より東宮輔導顧問会議において議論され、親王御誕生の場合は適任者を選任して御養育を委嘱し、内親王御誕生の場合は皇太子(大正天皇)・同妃が御自ら御養育なさるべしとの案が出される。御養育担当者の候補として、男爵楫取素彦・侯爵西郷従道などの名も挙がるも、本年三月二十二日の会議においては、伯爵川村純義を親王御誕生の際の御養育の最適任者とし、翌二十三日、東宮輔導威仁親王は明治天皇に拝謁し、その旨を言上する。その際威仁親王は、内親王御誕生の場合であっても、皇太子妃にとっては初めての御養育となり、東宮御内儀においては御養育の経験を持つ者がいないため、今回は御養育担当者に委ねるべしとの意見を申し添える。天皇はこれを御嘉納にな...現代語訳昭和天皇実記4御養育係川村純義

  • 思い出フォト 48 2019年10月 東京 靖国神社

    東京メトロ半蔵門線九段下駅2019年10月に東京見物しました。この年に中国より発生したあのウイルスが翌年には大流行し、旅行も出来なくなるなんて、思いもよらなかったです。靖国神社靖国神社創建については、歴史紀行特別編33に掲載済みです。2019年は靖国神社創建150周年の節目の年にあたりました。大村益次郎像彰義隊を壊滅させ、上野戦争を1日で終わらせた日本陸軍草創の父。近代兵学を駆使して武士の世の戦いに楔を撃ち込んだ大村ですが、彼の命を失わせたのは、刺客らによる刀の刃でした。愛児への手紙孕石春二大東亜戦争当時、戦地から我が子へ向けた手紙を認(したた)めた孕石上等兵。彼も靖国の英霊です。孕石上等兵について和歌短歌俳句紀行5〜に掲載済みです。靖国神社拝殿遊就館零戦〜海軍零式艦上戦闘機52型零戦については、歴史紀行...思い出フォト482019年10月東京靖国神社

  • 思い出フォト 47 2018年10月 奈良、和歌山〜高野山

    山上の仏教地区高野山大門中門金堂西塔孔雀堂三鈷の松根本大堂智泉大徳廟弘法大師最愛の弟子が甥でもある智泉でした。空海が無名の僧であった当時より一緒に入唐。高野山開創に尽力したものの、病に倒れました。総本山金剛峯寺真田坊蓮華定院関ヶ原の戦いで真田昌幸、信繁(幸村)父子は西軍に加担したことで死罪の可能性もあったものの、嫡子信幸の嘆願により死罪は免れ九度山にて蟄居、謹慎処分となった父子、真田庵に入るまで、蓮華定院で過ごしていました。奈良公園の鹿落慶した興福寺中金堂思い出フォト472018年10月奈良、和歌山〜高野山

  • 歴史紀行 73 富士川の戦い 平家越 碑

    平家越碑静岡県富士市新橋町伊豆へ流された源頼朝が挙兵したという知らせが京の平清盛にもたらされたのは、1180年、治承四年9月3日のことでした。清盛はかつて母、磯野禅尼の必死の嘆願により頼朝を助命して伊豆、蛭ヶ小島へ配流処分とし、監視には伊東祐親を付けて以来20年あまり、平家全盛の世を謳歌して半ば滅亡寸前の源氏の嫡流のことなど忘れていたことでしょうが、後白河法皇との暗闘、以仁王の挙兵に忙殺され、驚愕しますが、孫の維盛(これもり)を総大将として、追討軍派遣を決定し、東国を鎮めよと、鎮圧の軍勢を差し向ける命を出します。この時点で石橋山の戦いに敗れ、間一髪、敵の追撃から逃れた源頼朝は、真鶴から舟で海路、安房国(現在の千葉県南部)に渡りました。清盛の命じた通り、直ぐ様軍勢を駿河、伊豆、鎌倉へと差し向けていれば、平家...歴史紀行73富士川の戦い平家越碑

  • NEXT HISTORY PLACE 歴史紀行 73 平家越 碑

    世に伝わる平家の軍勢が水鳥の羽ばたきに驚き逃げ散った富士川の戦い。今夜アップする予定です。NEXTHISTORYPLACE歴史紀行73平家越碑

  • 思い出フォト 46 2018年10月 2 京都

    京都駅2018年10月、第3週の週末は京都、奈良、和歌山、二泊三日の旅行でした。夜行バスを降りると京都タワーが目に入ります。羅城門跡碑西寺跡碑東寺と対をなす西寺が羅城門を挟んで創建されたのですが、いまは石碑が遺るのみ。若一神社平清盛公の西八条殿跡平清盛公像祇王歌碑清盛の寵愛を受けていた祇王、祇女の白拍子の母子でしたが、やがて清盛の心変わりを察して去り仏門へ。清水寺舞台で有名な本堂は工場中です。牛若丸(源義経)誕生地紫式部像宇治橋平等院鳳凰堂10円硬貨にも刻まれた見事なお堂です。秋の午後は逆光で撮影し難いです。思い出フォト462018年10月2京都

  • 思い出フォト 45 2018年10月

    清見寺山門静岡市清水区興津清見寺町2018年10月、最初の週末に静岡市清水区興津(おきつ)にある清見寺を訪ねています。清見寺は、古代天武朝の時代からの関所、清見ケ関が設けられた地に創建された古刹です。山門をくぐると…参道は東海道本線によって分断されており、迂回して鉄橋にて境内へ向かいます。鐘楼血天井鎌倉幕府の御家人、梶原景時の変で梶原一党がこの地で滅亡した際の戦いの生々しい痕跡。徳川家康公手習いの間竹千代君の人質少年時代、この清見寺でも手習いを受けていました。本堂仏堂徳川家康三女、振姫寄進五百羅漢石像群清見ケ関跡思い出フォト452018年10月

  • 歴史紀行 特別編 39 - 2 ノーベル文学賞作家 川端康成 墓所 2

    川端康成(川端家墓所)神奈川県鎌倉市十二所鎌倉霊園ノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した川端康成は、大阪市北区に開業した医師の父、栄吉。母、ゲンの子として生まれ、早くに両親を亡くして祖父母に引き取られ、溺愛に近い育てられ方をします。そして祖父〜三八郎は幼い康成に対して、くどい位に川端家の始祖について言って聞かせ、鎌倉幕府三代執権の北条泰時(比企の乱や牧氏事件の初代執権北条時政。承久の乱や、二代将軍源頼家暗殺に暗躍した二代執権、北条義時は悪名高いためか?二人の先代執権の名は入れず。)に始まる由緒を語り続けました。三代執権、北条泰時の異母弟〜北条有時に、駿河五郎道時なる人物が生まれます。【泰時も有時も共に父は北条義時】さらにその道時の子が川端舎人助道政〜を名乗り、この頃には執権、北条氏が権勢を誇った幕府は滅び...歴史紀行特別編39-2ノーベル文学賞作家川端康成墓所2

  • 歴史紀行 特別編 39 ノーベル文学賞 作家 川端康成 墓所

    川端康成墓所(川端家墓所)神奈川県鎌倉市十二所鎌倉霊園10月はノーベル賞月間です。今年は日本人の受賞者が出なかったこともあり、日本国内ではあまり話題にもならなかった印象が強いです。日本人初のノーベル賞受賞者は、湯川秀樹博士が1949年、昭和24年に物理学賞を受賞。日本はこれまで物理学、化学、医学(生理学)、文学、平和と、経済学を除く五つで賞を受賞。受賞者は28人にもなり、世界ではトップがダントツのアメリカです。1位〜アメリカ(376人)2位〜イギリス(118人)3位〜ドイツ(86人)4位〜フランス(64人)5位〜スウェーデン(33人)6位〜スイス(30人)7位〜日本(28人)アジア圏では日本が突出しており、次いで受賞者が3人の中国と、大きく水をあけています。ぼくが印象に残る受賞者は、詳しくはわかりませんが...歴史紀行特別編39ノーベル文学賞作家川端康成墓所

  • 思い出フォト 44 2017年10月 2

    2017年10月、近場、島田市の西、金谷地区を巡りました。諏訪原城跡甲斐武田氏が遠江侵攻を目論み、重臣馬場美濃守が築城。その後、長篠の戦いを契機に勢力を拡大した徳川家康が落とし、牧野城として改修します。諏訪原城本丸跡城主には、徳川家中のリアルな出来事を書き記した(家忠日記)を世に遺し、関ヶ原の戦い前哨戦の伏見城攻防戦で鳥居元忠らと共に玉砕した松平家忠。また、滅亡した駿河今川氏、最後の当主だった今川氏真が北条氏の元を去り、徳川家康に庇護された際、城主を務めたものの、やはり国境最前線の城将としては力量不足とされたのか?1年ほどで御役御免となりました。東海道石畳〜菊川の坂東海道の三大難所小夜の中山久遠寺西行歌碑西へ難所を越えると日坂宿。思い出フォト442017年10月2

  • 思い出フォト 43 2017年10月

    2017年10月、静岡市駿河区の登呂まつりを訪ねています。登呂遺跡は戦時中の昭和18年、軍需工場建設の際の土地の調査で発見された弥生時代の集落跡で、この調査により、当時の農耕集落の暮らしぶりの一端が垣間見えました。思い出フォト432017年10月

  • 歴史 今日の出来事 1561年10月18日 第四次川中島の戦い 終結

    川中島古戦場信玄、謙信一騎討ちの像上杉謙信武田信玄山本勘助の墓1561年10月18日〜第四次川中島の戦い~山本勘助の戦術、啄木鳥戦法の策で軍勢を二手に分け、上杉軍の布陣した妻女山へ夜襲をかけるべく別働隊を出した武田軍。上杉謙信は武田軍の策を見破って秘かに妻女山を下り、濃霧の晴れた武田軍の眼前には上杉軍の大軍勢がありました。川中島、八幡原の戦いでは、車懸りの陣で車輪を回すように新手を次々と繰り出して波状攻撃をかける上杉軍に武田軍は防戦となり、信玄の弟、信繁は信玄本陣の右翼で必死に耐えます。兄、信玄の身を案じた信繁は、信玄に急使を送り、~私が上杉を防ぎますので、その間に勝つ算段を考え下さい、私にお構い無く。~と伝えると、敵中へ大声で名乗り上げながら斬りまくり、壮絶な討死を遂げました。また、策を具申した山本勘助...歴史今日の出来事1561年10月18日第四次川中島の戦い終結

  • 歴史 今日の出来事 1561年 10月17日〜10月18日 第四次川中島の戦い

    信玄謙信一騎討ちの像長野県長野市小田島町川中島古戦場八幡原史跡公園1561年10月17日(永禄4年9月9日~10日)、1553年天文22年から三度に渡って勃発してきた越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄による川中島の戦いがこの日、4度目の激突となりました。10月17日の夜半月以上妻女山に陣取り、武田軍の動きを観ていた上杉謙信は、海津城から昇る炊煙がいつもと違うことから出陣があることを察知、八幡原に本隊を配置した武田軍が、別動隊が突くことを見破ります。深夜〜10月18日夜明け二手に分かれた武田軍の本隊を叩くべく夜陰に乗じて妻女山を降りた上杉軍、夜明けの霧が晴れた時に武田軍の眼前に上杉軍が現れたため、武田軍は動揺し、序盤戦は上杉軍が圧倒しました。二万の軍勢の一万二千を妻女山に向けた武田軍に対して、全軍を八幡原に集中...歴史今日の出来事1561年10月17日〜10月18日第四次川中島の戦い

  • 墓前紀行 10 山岡鉄舟 墓所

    山岡鉄舟座像静岡市清水区村松鉄舟寺山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。1868年慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。ここで京都で勃発したのが鳥羽伏見の戦いです。幕府軍1万5千に対して新政府軍は約五千と開戦当初は3倍もの兵力差がありながらも、新政府軍は錦の御旗【にしきのみはた、きんき】を翻(ひるがえ)...墓前紀行10山岡鉄舟墓所

  • 思い出フォト 42 ジャニーズ

    ソニーミュージックスタジオジャニーズ事務所本社併設ソニーミュージックスタジオに近い乃木坂駅記事制作に使う写真を探していたら、乃木神社を訪ねた際に通った時に見つけたソニーミュージックスタジオの写真が出てきました。最近、芸能界を大騒ぎにしている事務所本社のビルを写していました。社名変更に伴い、看板を撤去したそうで、今はもう見られないですね。思い出フォト42ジャニーズ

  • 墓前紀行 9 清水次郎長 墓所

    清水次郎長墓所清水次郎長像静岡市清水区南岡町梅陰禅寺清水次郎長清水次郎長(本名、山本長五郎)は、1820年文政3年に清水の美野輪で生まれました。伯父の山本五郎八の養子となり、五郎八の伜(せがれ)の長五郎だから次郎長だとして、いつしか次郎長と呼ばれるようになります。若い頃の次郎長は、けんか、博打に明け暮れ、縄張りを広げ、ついには街道一の大親分と怖れられます。やがて日本は、幕末明治維新と時代の大転換期を迎えますが、次郎長も自身の人生を大転換させることとなります。暴風を避けるために清水湾に入港した幕府海軍の咸臨丸が官軍の攻撃を受け、艦上にいた兵士が死亡し、遺体は海に投げ棄てられます。官軍を怖れ、地元民すら遺体を引き揚げようとしないなか、次郎長が子分を引き連れて現れ、兵士の遺体を収用して埋葬まで行ないました。後日...墓前紀行9清水次郎長墓所

  • 歴史 今日の出来事 慶応3年10月14日 大政奉還 奏上

    大政奉還に際し、将軍徳川慶喜が在京の諸藩重臣を集め諮問した二条城二の丸御殿1853年嘉永6年のペリー来航以降、外圧による開国の要求、尊王攘夷運動に始まる治安の急速な悪化と、日本国内はもはや幕府のみによる政権運営は不可能とされました。江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は、朝廷に武家政権を返上する大政奉還を慶応3年10月14日(1867年11月9日)に明治天皇へ奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許したことにより、鎌倉時代より続いてきた武家政権が終わりを告げることになります。歴史今日の出来事慶応3年10月14日大政奉還奏上

  • 街道紀行 5 朝夷奈切通

    朝夷奈切通【あさいなきりどおし】神奈川県鎌倉市十二所〜横浜市金沢区朝比奈町坂東武者の都【鎌倉】源氏と鎌倉との繋がりは、河内源氏の源頼義が奥州(東北地方)、安倍氏討伐の戦いとなった前九年の役(1051年〜)で、この地に石清水八幡宮を勧進して戦勝祈願を行ったのが始まりで、頼義の子、八幡太郎義家(源義家)が後三年の役へ赴く際、父が勧進した社殿を修繕して信仰し、なお、この戦いは私戦であるとして朝廷からの戦費が獲られなかったことから、私財を投じて兵に恩賞を与えたことから坂東で声望が高まりました。源頼朝の父、義朝も鎌倉に居を構えて勢力を蓄え、後に頼朝が鎌倉入りした際には、義朝と縁を交わした御家人達が加わり、鎌倉幕府草創の礎となりました。鎌倉幕府の本拠地となった鎌倉は、三方を山に囲まれ、南に由比ヶ浜のある相模湾と、攻め...街道紀行5朝夷奈切通

  • 墓前紀行 8 崇徳天皇御廟

    崇徳天皇御廟京都市東山区祇園崇徳天皇菅原道真、平将門と並び三大怨霊として怖れられています。崇徳天皇は、平清盛が台頭し始めた平安時代末期の天皇で、この頃の朝廷は、父の鳥羽法皇と、崇徳天皇(この時点で崇徳上皇)を実の子であることを疑って毛嫌いした関係の悪さと、後白河天皇、藤原摂関家の暗闘も加わり、さらに鳥羽法皇が崩御。この権力争いに源氏と平氏の武家が両方に介入。鳥羽法皇の崩御から9日。1156年保元元年7月11日、保元の乱が勃発しました。崇徳上皇は藤原摂関家の長者藤原頼長と源氏嫡流の源為義(源頼朝祖父)、平忠正(平清盛叔父)らの勢力を得るも、対する後白河天皇は、平清盛、源義朝ら、源氏平氏多くの武家勢力を味方につけ、戦いは1日で終結しました。崇徳上皇は讃岐国(現在の香川県)に配流となり、この地で罪を許される日を...墓前紀行8崇徳天皇御廟

  • 墓前紀行 7 - 4 久能山東照宮 4

    廟門国宝久能山東照宮4静岡市駿河区根古屋廟所参道廟門から廟所へ繋がる参道で、徳川家に仕えた武家により奉納された石燈籠が左右に並びます。神廟1616年元和2年4月17日、徳川家康公が薨去した後、その夜のうちに遺骸が駿府城から運ばれ、埋葬されました。遺骸は遺言により西へ向けて納められました。久能山より西へは生まれ故郷の三河岡崎、さらに西には京の都の方を向いてます。家康公愛馬の墓神廟石垣の脇で死んだ家康公の愛馬が埋葬されています。金のなる木金のなる木の由来についてあるとき、家康公が家来に~世の中には、金のなる木があると聞くが、誰か知っておるか。しかし、誰も答えられず。家康公は、「誰も知らないなら私が示そう」といい絵を描き始めました。そして、木の幹を最初に書き、これに三つの枝を描いてこういいました。一つ目の枝は「...墓前紀行7-4久能山東照宮4

  • 墓前紀行 7 - 3 久能山東照宮 3

    久能山東照宮二ノ鳥居国宝久能山東照宮3静岡市駿河区根古屋唐門御宝搭御門とも呼ばれる門で、正面にすぐ拝殿があります。正月三が日や家康公薨去の日にあたる4月17日など、重要な日に限って開門されます。神庫奈良、正倉院と同じく校倉造りの建物で、東照宮の宝物を納めていました。奉納されたプラモデル静岡市は、模型の世界首都を名乗ってます。世界有数の模型メーカータミヤ、バンダイ、など、国内シェアでもトップを誇ります。元々は、家康公の隠居城駿府城や浅間神社、それに久能山東照宮の造営に際して様々な全国の職人が集まったのが始まりで、とくに浅間神社の造営には60年を要したため、職人たちも世代交代をして進められ、様々な技術が伝統工芸として伝わり、現在の模型が盛んな都市の礎となりました。日枝神社唐門の塀を挟んで拝殿に隣接する大山咋命...墓前紀行7-3久能山東照宮3

  • 墓前紀行 7 - 2 久能山東照宮 2

    久能山東照宮楼門国宝久能山東照宮2静岡市駿河区根古屋久能山東照宮楼門二階建ての楼門で、後水尾天皇(第108代天皇)の宸筆(しんひつ)による東照大権現の扁額が掲げられていることから、勅額御門とも呼ばれてます。徳川家康公実物手形鼓楼もとは鐘楼として梵鐘が備えられていましたが、明治になり鐘は撤去されてしまったため、旧幕臣の小島勝直が江戸城にあった太鼓を奉納しました。神厩徳川家康公の愛馬を飼育していましたが、愛馬の死後、左甚五郎による木製の神馬が製作され、奉納されました。神馬家康公の愛馬は、逝去後は厩舎にて飼育されてました。家康公の遺骸が神廟に納められると、毎晩神廟側で休み、朝になると厩舎に戻りました。ある日朝に馬が戻らないので見に行くと、眠るように死んでいました。この話を聞いた左甚五郎が馬の人形を製作し、奉納し...墓前紀行7-2久能山東照宮2

  • 歴史紀行 72 - 3 鶴岡八幡宮 舞殿

    鶴岡八幡宮舞殿神奈川県鎌倉市雪ノ下舞殿は、八幡宮本宮拝殿の下に配置されていることから下拝殿とも呼ばれます。この辺りは、かつて頼朝が奉還した由比若宮の回廊があり、頼朝に社殿を造営した大工への褒美として与える馬を曳くよう控えていた源義経に命じたところ、義経が渋っていたことに頼朝は激怒したことがあります。やがてこの周囲に神楽坂が設けられました。平家滅亡に大いに貢献した義経と頼朝の兄弟仲が決定的に破滅した1186年(文治2年)3月、逃亡を続ける義経主従と吉野で別れた靜御前が捕らえられ、鎌倉に護送されました。4月8日、頼朝は靜御前に八幡宮神楽殿で白拍子の舞を命じます。【しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな】【吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき】靜は頼朝、政子以下、鎌倉の御家人衆らが居並...歴史紀行72-3鶴岡八幡宮舞殿

  • 秋の旅路

    おはようございます。30度超えの日がまだ続くと思いきや、急に季節が進んだ様な朝の気温です。今日は外気が20度前半の予報なので、長袖装備で出かけます。今日は東、来週末は西へ行く予定。命の危険がよぎる暑さも、もう無いでしょうから、旅には良い季節です。移動中の車内から。秋の旅路

  • 墓前紀行 7 - 1 久能山東照宮 1

    久能山東照宮一ノ鳥居徳川家康公の廟所もある久能山東照宮は、駿河湾に面した有度山の久能山城跡に築かれました。一ノ鳥居高さ6・5メートル、柱の直径は60センチにもなり、大正4年4月17日、東照宮三百年祭に奉納されました。東照宮への参詣はここから始まります。国宝久能山東照宮静岡市駿河区根古屋久能山東照宮参道久能山徳音院徳音院は徳川家康をはじめ3代将軍に仕えた南光坊天海(慈限大師)により開かれ、徳川家康が元和2年4月に逝去し、遺言により遺骸を、久能山に納めた後、徳音院は学頭として創建しました。久能山東照宮表参道久能山山上の徳川家康公が眠る神廟まで17曲がり、1159段の階段が続きます。一ノ門17曲がりの石垣階段を山下から上り、東照宮の山門にあたる門で、門の前からは駿河湾の美しい景色を楽しめます。一ノ門から駿河湾の...墓前紀行7-1久能山東照宮1

  • 歴史紀行 72 - 2 鶴岡八幡宮 段葛

    鶴岡八幡宮段葛神奈川県鎌倉市小町、若宮大路〜雪ノ下若宮大路碑段葛碑段葛の参道段葛の石堤太鼓橋鎌倉駅東口を出て大通りへ進むと、現在の鎌倉市のメインストリートでもある〜若宮大路へ出ます。この若宮大路は、かつては現在よりも広く道幅が取られ、海岸のある由比ヶ浜に一の鳥居が立ち、横須賀線の線路を越えて二の鳥居にたどり着きます。二の鳥居からは、周囲より一段高い堤が参道として三の鳥居まで続きます。それが段葛【だんかずら】です。治承四年10月6日、源頼朝が鎌倉入りした際、由比郷にあった元八幡(由比若宮)を由比ヶ浜から現在の雪ノ下(旧小林郷)に10月12日、奉還した頼朝でしたが、曲がりくねる鎌倉の道に、整備を決断しました。若宮大路です。若宮大路の整備には頼朝自身が監督し、鎌倉入りした北条や畠山といった有力御家人が率先して行...歴史紀行72-2鶴岡八幡宮段葛

  • 歴史紀行 特別編 38 読売巨人軍発祥の地碑

    読売巨人軍発祥の地碑読売巨人軍発祥の地碑千葉県習志野市谷津3丁目谷津バラ園前プロ野球セ・リーグの巨人は本日、リーグ最終戦を戦い、横浜DeNAベイスターズを1対0で下し、2023年の公式戦を終えました。既に優勝はおろか、優勝争いからも脱落したチーム事情を象徴するように原辰徳監督が退任するという知らせが今朝、報道され、先ほど最終戦を終えたグラウンドで原監督自身が退任の挨拶を延べていました。今年のペナントレースの戦いはともかく、かつての巨人軍は球界の盟主とも言われるほど強い日本を代表するプロ野球チームでした。巨人軍がまた憎らしいくらい強く、セ・リーグを盛り上げることを願ってやみません。その巨人軍が日本初の職業野球球団(プロ野球球団)として誕生した経緯をまとめました。昭和9年4月、元警察官僚で読売新聞社の辣腕社長...歴史紀行特別編38読売巨人軍発祥の地碑

  • 歴史紀行 72 鶴岡八幡宮

    鶴岡八幡宮神奈川県鎌倉市雪ノ下平安時代から鎌倉時代にかけて、坂東武者(関東地方の武士)たちの精神的支柱ともなった鶴岡八幡宮。始まりは、1063年(康平6年)8月に河内源氏2代目、源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(元八幡、由比若宮社〜現在の材木座1丁目)に、前九年の役戦勝の凱旋時に祈願成就したことに感謝し、祭神を鶴岡若宮として勧請したのが始まりです。1081年(承暦5年)2月には、河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)は、後三年の役へ、奥州へ赴く途中に鎌倉に立ち寄り、父の勧進した社殿を修復し、義家は源氏の氏神として信仰しました。義家は後三年の役で鬼神の如き働きをしたものの、朝廷はこの戦いを私戦であるとして恩賞を与えることを拒否した...歴史紀行72鶴岡八幡宮

  • 思い出フォト 41 2016年10月

    2016年10月の訪問。最初の週末は袋井市。袋井駅前のマキの木。平治の乱で討死した源朝長(頼朝の次兄)の菩提寺〜積雲院を再興した可睡斎の等膳和尚が植えた庭園のもの。駅前休憩ベンチの眠り猫家康公拝謁の場での可睡斎、等膳和尚の居眠りエピソードにちなんだものでしょうか。等膳和尚は家康公の幼少からの旧交の恩と縁から、可睡斎を破格の遠州一の待遇を得ました。正岡子規の句碑〜冬枯れの中に家居や村一つ〜子規が帰路、東海道本線の車窓から観た袋井の村落を詠んだもの。奈良時代創建の法多山尊永寺厄除け団子が名物です。厄除け団子徳川13代将軍徳川家定にも献上されました。思い出フォト412016年10月

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、aoikitakaze4390031さんをフォローしませんか?

ハンドル名
aoikitakaze4390031さん
ブログタイトル
日本歴史紀行
フォロー
日本歴史紀行

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用