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2021/07/23

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  • あわてないでいいよ

    それがなんなの?いう色を付けない話です。生きていると人からの意地悪、悪意があります。それは誰も避けては通れないです。ですから、そういうものだとして体験をします。意地悪や悪意に対して過剰に反応してしまうこともあります。そういうときはそれがなんなの?という視点です。意地悪は意地悪だし、悪意はただの悪意です。意地悪や悪意に影響力があるのではなく、影響を受けている私がいます。相手はそういうことをする人なのです。意地悪はただの意地悪であって、悪意はただの悪意です。そんなこと気にせずに自分の生活をしましょう。つまり、意地悪、悪意にあわてなくてよいということです。ありがとうございます。あわてないでいいよ

  • 心身をゆるめる、脱力している

    心身をゆるめることを感じます。つまり心身を脱力させるということです。これは真我に目覚めますと体も心も脱力します。もっと目覚めが深りますと体が透けます。ですから、今の現状で心身が脱力して感謝して生活できていたならば、目覚めの美味しいところだということです。緊張もしますし脱力もします。その緩急で良いのだと思います。この体験を良い、悪いと色をつけずとも、体験するだけだ、感謝して通過するだけだと思えればいいですね。目にみえる景色もやがて過ぎ去っていきます。景色に対して執着していると心身は無理な緊張をするものだと思います。体験も景色も流していけたらよいです。今日も太陽、地球、大自然に感謝です。ありがとうございます。心身をゆるめる、脱力している

  • 第三の視点とは

    第三の視点とはなんでしょうか?これを見事に解明したのが日本の湯川博士です。中間子を発見しました。湯川博士は、老子を嗜んでいたと思われます。では、私たちにとって第三の視点とはなんでしょうか?遊ぶこと、楽しむこと、感謝すること、掃除すること、質素倹約すること、控えめな発言、控えめな態度でいること、育てること、善意、思いやり、予算内でのおしゃれ、栄養バランスの良い食事、筋トレ、体幹、安心感。。。人により様々ですが以外な視点が発展を呼ぶかもしれません。今日もこの生活の中で感謝して楽しみます。ありがとうございます。第三の視点とは

  • 自分を喜んで欲しい、自分をお喜びいただきたい

    人は、人に自分を喜んで欲しいものだと思います。子供の頃の気持ちを思い出しましても、親に自分を喜んで欲しかったものです。大人になりますと、子供の頃の誰かに喜んでもらいたい気持ちも薄れてしまうかもしれません。しかし、いつでもあの時の喜んでもらいたい気持ちは思い出せるはずです。その思いは動物へかもしません大自然へかもしれません公共の施設の掃除かもしれません家族の住まう自宅の掃除かもしれませんどんなことにせよ、喜んでくれる人がいるというのはなんと嬉しいことでしょうか。もし、嫌な人、嫌な過去があっても相手に喜ばれているならそれでいいやという奉仕も良いでしょう。これで憑物が抜けるように肩の力が抜けるかもしれません。皆様の参考になれば幸いです。ありがとうございます。自分を喜んで欲しい、自分をお喜びいただきたい

  • 体を動かしながら心は安心していていいよ

    人の希望を一言で表現するならば「安心したい」ということだと思います。生活に困る「かも」しれないから生活の努力をします。収入に困る「かも」しれないから仕事を努力します。人生に困る「かも」しれないから生きることに努力します。そのどれもが「安心したい」からだと思います。楽しい、暇、美しさに感動している、飽きた、感謝をしている。これらは安心しているからこそできる感情なのだと思います。安心とは、身近にあるのです。つまり、体は動かして生活の努力をしますが心は安心していていいのです。ほっとする瞬間が誰にでもあるものです。努力の中を楽しみながら頑張りましょう。ありがとうございます。体を動かしながら心は安心していていいよ

  • お休み

    本日の記事の更新はお休みです。楽しみにされていた方申し訳ないです。お休み

  • 恨まないことは幸運を兆し

    相手の立場を考えてみると、そうなるのもしかたないよな、と思えることがあります。自分だけの視点だと加害者ー出来事ー被害者となります。自分が被害者であるのは当然なのですが、それだけだと自分が被害を受けた上に加害者を恨んで幸運を無くします。恨みの気持ちもわかりますが加害者の立場になってみるのです。相手に無防備になるのではなく、もう被害を受けないように想定と対策をします。相手に人に言えない悲しみ、不幸があったのかもしれません。相手の立場を思いやって慈悲をかけることは、相手に効くものです。慈悲をかけた上で、自分の生活をします。出来事は忘れられないものです。相手のことは法的に淡々と済ましたら、あとは天に委ねます。恨みに自分の人生を支配させてはダメです。けど、慈悲や誠実さで対応しても相手に通じないこともあります。そうい...恨まないことは幸運を兆し

  • ちょうどよくなっていくよ

    以外に思われるでしょうか?苦しみも楽しみも悲しみも喜びも今の自分にちょうどいいのです。つまり浮かれることなく現状への感謝をして逝くのです。苦しみがあれば平時を感謝でいられます。何事もないとは幸福であるのがわかるからです。苦しみがあれば苦しみをこのくらいで済んでありがたいと感謝でいられます。苦しみは、自分のところに来るまでは、もっと大きな苦しみかもしれなかったのがご先祖様やなんらかによって、この程度で済んでいます。だから、幸福も不幸も生まれる時も死ぬ時期も自分にとってちょうどいいのです。この時代に生まれ、生きられることもありがたいですね。ありがとうございます。ちょうどよくなっていくよ

  • 心のご馳走とは大自然への感謝の気持ちであった

    心のご馳走とは、感謝の心です。全ての生き物の幸福とは、今日もお日様が登ることです。これに感謝をすることが心の贅沢です。物もお金も服も異性も欲しい。けど、お日様が今日も登るからそれらを欲しがれるのです。大自然こそが私たちです。他人と大自然と私という区切りはないです。言葉は独立していますが心にはそれらを区切るものはないです。けど、犯罪や事故や災害もあるから無理はダメです。つまり、大自然への感謝です。心とは大自然です。心の宇宙に感謝をします。ありがとうございます。心のご馳走とは大自然への感謝の気持ちであった

  • 地獄を見ると逆に微笑みます

    自分の子供の頃を思い出しますと、ある時までなにかあると泣き叫んだりしていたと思います。けど、虐待がひどくなるにつれて泣き叫ぶこともなくなったと思い出します。つまり、泣き叫んでいるうちはまだまだ元気があるということです。地獄を見ると人は泣くのをやめて、静かに微笑むようになるようです。それもよいか、と笑顔の苦労になります。中途半端な苦労は人を泣かせますが、地獄は人を微笑ませます。これは逆に言いますと微笑んでいる人は注意が必要ということです。静かな微笑みとは怖いですね。私たちもこの世という地獄=天国を微笑みながら生きてやりましょう。どんなこともちょうど良いようになります。どんなことも自然な流れになります。生きていることに感謝をします。ありがとうございます。地獄を見ると逆に微笑みます

  • 脱力するんだよ〜

    心と体を脱力する。余計な力が入っていない。これが良いと思います。剣道の達人の無料の動画を見ましても、腹にビリビリと感じるものがあります。けど、そのお方は体に力みがないのです。危機の数秒に潜在能力が出るのは、脱力状態と言われています。では、なぜ脱力できないのか?それは、人によく思われたいからという他人の視線を意識しすぎているから体に余計な力が入っているのではないでしょうか?つまり、人に愛されたい気持ちがあるのでしょう。私は、今のそのままの状態でも十分に愛されていると思います。ですから今まで生きてこられました。「愛されるのをやめよう」と思うだけでも体が脱力するものです。皆様の参考になれば幸いです。ありがとうございます。脱力するんだよ〜

  • 体験=神様

    人間に名前を付けられた神様とは本当に神様なのでしょうか?私は、人間に知覚された時点で違うと思います。神様=真我=宇宙=母性だと思います。これは経験であり、存在です。ですから直感的にわかる、個人で経験するとしか言いようがないのです。名前や知識ではないのです。今も直感的にわかっている人が増えています。ありがとうございます。体験=神様

  • 生きるとはプレゼント

    人生とは、プレゼントです。楽しさもプレゼントです。苦しみもプレゼントです。人生も神様からのプレゼントです。ですから、楽しさにも苦しみにもありがとうなのです。しっかりもまだまだ、ぜんぜんもちゃんともできなくて良いのです。しっかりもまだまだもぜんぜんもちゃんともできない自分だからありがたいのです。人生や自分に問題があるからありがたいのです。つまり、良し悪しを決めるより目の前の人生のプレゼントに感謝しているのが良いのです。理由は?生きるとはプレゼントだからです。これでいいのです。今日も自分にもありがとうです。ありがとうございます。生きるとはプレゼント

  • 続、自分を信じること

    今日の記事は短めです。自分を信じるとは、つまるところ「私は在る」「私は真我で在る」を直感でわかるということだと思います。自分の正体を知るとも言うのでしょう。私は在る。ありがとうございます。続、自分を信じること

  • 自分を信じる

    自分を信じるとは、どういうことでしょうか?心理系の本に書かれているのは自分のどんな「イメージ」を信じているかです。ダメな自分を信じている人もいますし、良い自分を信じている人もいます。不幸な自分を信じている人もますし、幸福な自分を信じている人もいます。信じている対象に対して、しっかりした理由もあることでしょう。しかし、私が思うに、足りない自分を信じるのではなくて、今のままで足りている自分を信じることなのだと思います。今のままで足りている自分とは、言葉通りで信じる対象を足りてないくらいで十分だと感謝し信じることです。足りないという不足感は、いつでも急に充足感になります。不足感は、感じ方だからです。言葉で書くなら不足している自分、不足感を信じているのです。他人比べての充足ではなく、このくらいの自分にとっての充足...自分を信じる

  • お休み

    本日の記事の更新はお休みです。楽しみにしてくれてた方申し訳ないです。お休み

  • 真我の目覚めとは、自覚があるかないかだけ

    真我に目覚めるとはなにか?私は、生きるだけだと思います。つまり、自分の日常を、目の前のことを頑張るだけです。だから、誰もが目覚めているのです。誰もが自覚がないだけで目覚めています。真我に目覚めているとしても、日常に帰るだけです。真我に目覚める自覚が有無でなんら違いはないです。えらい人になるわけでもなく、すごい人になるわけでもないです。普通の人のままです。等しく、同じように死んでいくのです。目覚めとは、自覚があるかないかの違いだけです。もう救われているのに、なにを救われるのでしょうか?救われていない私はどこにもいないです。救われている私が実在です。今日も自分の生活ができることに感謝です。ありがとうございます。真我の目覚めとは、自覚があるかないかだけ

  • 全ての帳尻は合わされるから、自分の人生を生きましょう

    海はどんなに底が深くても水面は水平に保たれます。つまり天の意思は、どんなことも水平にならされるのです。生きている間だけの不満、不公平だけでは考えるのではなくて、死んだ後のことを考えれば、全ての帳尻は合います。この世で得をしてもあの世での損もあるのです。ですから、あわてずに自分の人生を歩めればいいのです。職場、学校、家庭にあっても自分一人で歩く覚悟です。花は外側に向けて咲くのではなくて、自分の内面、内側に咲かせます。見るべきは真我です。今日も真我に感謝をします。ありがとうございます。全ての帳尻は合わされるから、自分の人生を生きましょう

  • たまには日常の話

    最近は、モーツァルトやバッハを聞きます。この二人の音楽は、心身が楽になり、幸運の兆しを感じさせます。そのまま何時間と聞きたいものですが、途中でロックを聞いたりアニソンを聞きます。たまには動画配信で映画も見ます。最近は、鬼滅の刃を見ました。面白いですね。生活の途中で踏み台昇降や腕立て伏せをします。体幹もゆっくり育ててます。あわてずにするのが良いです。義務感であれをしなければいけない、というよりその時の自分に合ったことをして感謝して楽しむ視点が幸運を招くでしょう。せっかく目の前にあるのだからありがたくいただきたいですね。ありがとうございます。たまには日常の話

  • 同じ感謝なら、感謝しなければソンソン〜

    私たちの心の歌は、なんでしょうか?私は、ありがとうございます、だと思います。自分なりの感謝の言葉で良いのです。良いことがあっても、良いことをいただいてありがたい。嫌なことがあっても、これくらいで済んでありがたい。感謝が私たちの心の歌なのです。目の前のことに不満があることもあります。けど、自分の因果に応じた目の前のことなのです。誰もが自分の因果に応じた考えや体験を持ちます。ある人は感謝であり、ある人は不満であります。私たちは、自由意志があるのでいつも感謝ができるチャンスがあります。感謝できるかどうかは、「自分から」感謝をすることです。何にでも感謝する力が私たちにはあるのです。今日も心の歌は感謝で溢れています。ありがとうございます。同じ感謝なら、感謝しなければソンソン〜

  • 自分の生活できること、食べられること、住宅に住めること

    ニュースや家族の話を聞いていて思うことがあります。ニュースや家族の話題に上がる人物に、自分がなっていたかもしれないと思うのです。きっかけはちょっとしたことでいくらでもニュースになると思います。けど、自分はいつも通りに日常生活をさせていただいているのです。病気や怪我や貧乏でありましても自分の生活があります。ですから、ニュースを見ると相手の人を心配すると同時に、自分が生活できることに感謝をします。たまたま自分の生活ができています。この奇跡は言葉にできないです。説明もできません。ただ、そのありがたさに涙を流し感謝をするだけです。忙しい日常生活の中で、自分にできることは少ないけれど、心中だけは相手の人を思いやっていたいです。自分の生活ができることに感謝しながら。ありがとうございます。自分の生活できること、食べられること、住宅に住めること

  • 幸運も奇跡も自分の心が作っていた

    幸福も続くと飽きるものです。苦痛も続くとうんざりするものです。つまりどちらにしても飽きたり、うんざりするものです。どちらにも共通するのが自分の受け身の姿勢です。幸福が続いて飽きてきた時に、「想像力」を使って感謝ができるかどうか。苦痛が続いてうんざりした時に、「自分から」悟ろうとしたのかどうか。これの継続が幸福の継続、苦痛の変化になると思います。どちらも目の前のことに感謝です。文句を言ってしまう時もあるし、不平不満が出る時もあります。それでも心中だけでも感謝できれば大したもんです。生きるとは苦しみなので、誰もが文句を言ってしまうように作られている世界だし、不平不満が出てしまうように作られた世界なのです。そこで心中でも感謝を一言思い、感謝を継続できるとは奇跡です。つまり、幸運も奇跡も自分の心が作っていたのです...幸運も奇跡も自分の心が作っていた

  • ギリギリの生活だから自分の本性が出てくる

    ギリギリだからその人の本性が出る。ギリギリだからその人の本性が炙り出される。確かにそうです。余裕があればいい人になれます。しかし、苦しく余裕のない様であれば陰陽の自分のどちらかが出るでしょうか?これを真我は見たいのです。余裕がないと罪を犯してしまうかもしれませんし、自分の心の弱さが出ることでしょう。けど、罪を犯して、心が弱いままではないです。これからいくらでも罪を償えるし、心の弱さを克服できます。だから今は余裕がないとしても生きていましょう。ギリギリの自分を見てご先祖様は頑張れ〜っと応援してくれています。ご先祖様と一緒に頑張りましょう。ご先祖様と一緒に生きましょう。ありがとうございます。ギリギリの生活だから自分の本性が出てくる

  • 生死という区切りはないのです。在るのは意識、存在、感謝です

    終わりがあるという区切りはないのです。これが終わればひと段落ということはないです。また日常が続きます。これは生死の視点からも言えます。人に生死という区切りはないのです。「生まれる」から「死」があるように「生まれるという名前」がなければそれは何になるのか?名前で区切っているから、まるでそれが実在するような気がするが、本当は名前が生み出した幻なのです。私たちは名前、ネームバリューを比べて考えているだけなのです。名前の印象に騙されています。生まれた、死ぬという名前も本来はないです。生まれた、死ぬという名前の印象から実在すると思い込んでいます。私たち人間も大自然の一部です。継続するのは意識です。継続するのは存在です。継続するのは感謝です。今日も私は生かされていることに感謝をします。ありがとうございます。生死という区切りはないのです。在るのは意識、存在、感謝です

  • みなその人なりの心の弱さ、寂しさがあるんだね。けど、生きているから心の弱さに寄り添えるね。

    私は、子供の頃に実の親から虐待を受けていました。今はこの歳まで餓死することもなく、5体満足でいることができます。あの時助けてくれた社会やみなさんのおかげです。今、思うに逆説的な発想でありますが、あの時苦しかったからよからぬことをせずにすんだのかもしません。もし、あの時、生活に余裕があったら道を踏み外す可能性が高かったのでしょう。今は自分の生活をさせてもらっていますが、苦しい時に手を抜いてしまったのが悔やまれます。自分の肉体が強いと勘違いして立場の弱い弱者を見捨ててしまうこともあったと思います。けど、その苦しい体験が私を育ててくれました。まだ生きているつもりなので、あの時の人にしてしまった嫌な態度の自分を改めることが出来ます。両親には、あれをして欲しい、これがして欲しいという要求は、自分を産んでくれただけで...みなその人なりの心の弱さ、寂しさがあるんだね。けど、生きているから心の弱さに寄り添えるね。

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