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2021/06/06

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  • 「経験中心の履歴書」と主張した人の特徴を、教育心理学の観点から考察。

    今週の頭ぐらいからか、「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ[1]」なる主張を中心に議論が展開された。私がSNSを視聴した時は、経済格差と学歴の構造を理由とした批判が殆どだったが。学歴やら経験やらといったお話は教育心理学にも関係があるため、本来なら私も「経験中心の履歴書が一般化したときに発生する災禍」といった真っ当な批判を投稿するべきだろうが、真っ当な批判はすでに成田悠輔さんをはじめとした方々が構築されているのでそちらを参照してほしい。この記事では、当該議論を違う視点から考察する。「経験中心」を主張した人が、なぜこのような主張をするに至ったかを、教育心理学の観点から考察していく。 まず、「個人が持つ唯一無二の経験。いつからでも、自分の頑張り次第で結果も生み出せて[1]」の文脈より、主張した人にとっての経...「経験中心の履歴書」と主張した人の特徴を、教育心理学の観点から考察。

  • 大前提として、意欲関心は健康な人が扱えるものと定義されている。

    WHOは健康の定義を「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」としている。単に病を患っていないだけでなく、心身共に充足され、幸福に生きる権利を基本的人権として説いている。ここで説かれている健康は、意欲関心のあり様を主に説く自己決定理論の大前提とほぼ同じ内容である。自己決定理論は大前提として、意欲関心は健康な人が扱えるものと定義しているのだ。 自己決定理論は、人間を「活動的で成長志向で、自身の精神を統一させたく、また自身を社会に適応させようとする前向きな生物である(DeciandRyan2000)」と仮定している。また、人間は自身の成長のための活動や学習に喜びを見出せるよう作られているという。この仮定は自己決定理論が生得的...大前提として、意欲関心は健康な人が扱えるものと定義されている。

  • 「私はこれをすべきだ」と「私はこれをする理由がある」は別物だ。

    「私はこれをすべきだからやる」「私はこれをする理由があるからやる」どちらも対象自身の意思決定の表れである。ゆえに、この2つは混在されがちだが、実際は天地ほど違う。 前者は自分に対する指示や強制に近い文脈だ。「私はこれを「すべき」だから」と対象は自身に行動を課している。「すべき」に適切な説明や目的がつくことはなく、「すべき」は主に本人の不安や罪悪感を解消するべく発生する。言い換えれば「これをしなければ不安だから、罪悪感が生まれるから、やる」となる。行動の理由が明確ではなく、目的も定まらずただやることによって不安を解消するその実態は、他人に「いいからやれ」と強制されているのと同じである。これ即ち、他人に強制された時とほぼ同じ現象と症状が発生する。「すべき」ことがちゃんとできるか、緊張やプレッシャーに押しつぶさ...「私はこれをすべきだ」と「私はこれをする理由がある」は別物だ。

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