後悔は気付き、気付きは教訓、教訓は学び、学びは成長。 後悔も気付きも傷付きも、すべては自分という人間を築かせてくれるゲームである。 日常の発見や思想の記録。 主に研鑽と啓発を目的とした自己対話ブログです。
人は他人(ひと)の言葉だけでなく、自分自身の身から出た言葉にさえリアクションを起こせてしまえるもの。だから「疲れた」とか「休みたい」とか「もう嫌だ」とか、そうした言葉達を外に出してあげる事は、その分の【反動】をご自身や周囲に与える行為でもある事をきっと知っているんですよね。心の病を抱えるという事は、そうした弾かれたり疎まれ易い「行き場のない言葉達」の居場所に、自分がなってあげられていたという証拠なのだと思います。そうして今日まで頑張って来た【心の跡】でもあるのではないかと思うんです。その方は、ご自身にも周りにも優しく在りたかった人なんです。だから一概には言えませんし、これは不謹慎な言い分なのか…
人は他人(ひと)の言葉だけでなく、自分自身の身から出た言葉にさえリアクションを起こせてしまえるもの。だから「疲れた」とか「休みたい」とか「もう嫌だ」とか、そうした言葉達を外に出してあげる事は、その分の【反動】をご自身や周囲に与える行為でもある事をきっと知っているんですよね。心の病を抱えるという事は、そうした弾かれたり疎まれ易い「行き場のない言葉達」の居場所に、自分がなってあげられていたという証拠なのだと思います。そうして今日まで頑張って来た【心の跡】でもあるのではないかと思うんです。その方は、ご自身にも周りにも優しく在りたかった人なんです。だから一概には言えませんし、これは不謹慎な言い分なのか…
「夜明け前が一番暗い」という言葉がありますが、仮に今を【夜】として、これから【朝】を迎えるのだと自分の中で決めていたら、明ける朝よりも夜明け前を楽しみに感じてしまう自分が居たりする訳ですよ。まるで祭りを間近に控えた準備期間中の高揚感すら覚えてしまうから不思議なものです。
ファンという立場だからこそ見える景色があるように、アーティストには、アーティストという【当事者】だからこそ見える景色と死角がある。だからこれは、烏滸がましく差し出がましい行為なのかも分かりませんが、彼等の【もう一つの目】となってあげられるのがファンなのだと思います。時に辛辣な物言いになりますし伝える為には言葉を選びませんし、疎ましくも忌避される事もあるかと思いますが、第一「発言する」という事は、それと同時に周りからのリアクションを甘んじて受ける行為でもありますから、常日頃のツイートでもストーリーでもブログでも、元より覚悟は出来ています。彼らには歌で笑える「人」で在って欲しい。【自分が心から楽し…
一握りの千円札に、果たしてどれ程の時間が宛てがわれて、 どれだけの【一部】がそこに置かれて来たのでしょう。 今この時って「もうここには戻らない」時間でもあるんですね。 後にも先にも「もう無い」最初で最期の一秒間。 皆が全員、そんな1日24時間というタイムリミットの中で生きている。 そしてその内の一つに充足するのが、 【労働】という時間です。 食事にも趣味にも安全な部屋で眠るにも、 この世に生きている以上、 その命には常に【お金】が発生します。 例外はありません。 仕事って、そんな人生の幾分かに自分を充てる「やらなければ【行けない】時間」でもあるのだと思います。 自分が「やりたい事」を成す為に…
だから【アーティスト】であるそれ以前に【人間】である必要があるんですよ。
「アーティストは歌でしか感謝をお伝えする事が出来ない」 と、各歌い手様からお聞きする言葉ではありますが、 日頃の会話や立ち居振る舞いから【誠意】や【切実】、【真心】を感じられなければ、 その方のお人柄に重みを感じる事が出来なければ、 この歌すらも心に届く事は叶わないのだと思います。
発言するという事は、それに伴う共感なり反感といった【リアクション】を甘んじて受ける事でもある。
「欲しい欲しい」と要求を続け、貰えなくなったら手を放す。「来る者拒まず去る者追わず」と言ってしまえば心象も変わるのかも分かりませんが、「貰える物は貰う」のではなく「与えられる物は与える」事が出来ないのは、それを拒まれた時の【擦過傷】や行為に連れ立つ【責任】を伴いたくないからです。
ファンにはファンからの視点でしか観えない景色があるように、アーティストにはアーティストだからこそ観える景色と死角がある。それを伝え合う機会と時間、総じて【足並みを揃えられる場】を設けなければ、認識は擦れ違い、理解は誤解へと展開し、着いて行く事すら儘ならなくなってゆく。これはファンとアーティスト間に限った話と言うよりも寧ろ、活社会に於ける人と人との【コミュニケーション】の問題なのだと思います。知る事が出来るから喜ぶ事も怒る事も叶いますし、その先の和解や解釈へと転じて行く事も出来るんです。人は知る事が出来て初めて【人】に寄り添える。気持ちを持ち合う事も理解に努める事も可能になる。そのスタートライン…
ファンにはファンからの視点でしか観えない景色があるように、アーティストにはアーティストだからこそ観える景色と死角がある。それを伝え合う機会と時間、総じて【足並みを揃えられる場】を設けなければ、認識は擦れ違い、理解は誤解へと展開し、着いて行く事すら儘ならなくなってゆく。これはファンとアーティスト間に限った話と言うよりも寧ろ、活社会に於ける人と人との【コミュニケーション】の問題なのだと思います。知る事が出来るから喜ぶ事も怒る事も叶いますし、その先の和解や解釈へと転じて行く事も出来るんです。人は知る事が出来て初めて【人】に寄り添える。気持ちを持ち合う事も理解に努める事も可能になる。そのスタートライン…
漢字の読解すら儘ならなかった当時。テレビを流れる「地震速報」の帯と字幕越しの市街地は、当時の自分に取ってまだ遥か遠い地の出来事だった。時を経て歳を重ね、「地元」と言う名の箱庭から出た先で、かつての渦中を生きた人々の生の声を聞く様になった。そうした人々が恩師となり後輩となった。震災を知らない世代や「風化」という声がポツリポツリと気泡を立てて行く中で、それでも少なくとも自分に取って、27年前の災害は、【27年前】よりももっとずっと身近な出来事になっていた。戦禍も災禍も肌で感じる機会の希薄だった自分に取って、唯一出来る歴史の継ぎ方が【人に出会う事】なんです。それはその人の【踏み跡】に触れる作業でもあ…
漢字の読解すら儘ならなかった当時。テレビを流れる「地震速報」の帯と字幕越しの市街地は、当時の自分に取ってまだ遥か遠い地の出来事だった。時を経て歳を重ね、「地元」と言う名の箱庭から出た先で、かつての渦中を生きた人々の生の声を聞く様になった。そうした人々が恩師となり後輩となった。震災を知らない世代や「風化」という声がポツリポツリと気泡を立てて行く中で、それでも少なくとも自分に取って、27年前の災害は、【27年前】よりももっとずっと身近な出来事になっていた。戦禍も災禍も肌で感じる機会の希薄だった自分に取って、唯一出来る歴史の継ぎ方が【人に出会う事】なんです。それはその人の【踏み跡】に触れる作業でもあ…
諦めるという事は「明らかになる」という事です。「無理」の定義は社会が決める事では無く、自分の中の【解釈】と【見切り】が大前提の話ですが、出来ないと分かった時もう無理だと踏んだ時人は初めて【諦める】発する言葉を失くした時は、自分が見切りを付けた時。「それ」が明らかに成った時。
ファンにはファンからの視点でしか観えない景色があるように、アーティストにはアーティストだからこそ観える景色と死角がある。それを伝え合う機会と時間、総じて【足並みを揃えられる場】を設けなければ、認識は擦れ違い、理解は誤解へと展開し、着いて行く事すら儘ならなくなってゆく。これはファンとアーティスト間に限った話と言うよりも寧ろ、活社会に於ける人と人との【コミュニケーション】の問題なのだと思います。知る事が出来るから喜ぶ事も怒る事も叶いますし、その先の和解や解釈へと転じて行く事も出来るんです。人は知る事が出来て初めて【人】に寄り添える。気持ちを持ち合う事も理解に努める事も可能になる。そのスタートライン…
対象の人物を指し示す時「人を指差しちゃいけません」と言う事や言われる事ってあるのではないかと思います。由来は諸説ありますが、もしも自分がこの理由を求められたとするのなら、私はきっと「お相手に【威圧感】を与えるから」と答えるのだと思うんです。これは個人的な心象とイメージの問題でもありますが、例えば五指での提示は掌を見せる様な形となる分、「お相手を受け入れる」という【迎合】の姿勢や【意思表示】として捉える事が出来るんです。そこに掌分の【空間】やお相手への【尊重】を残す事で、心へ負荷するストレスを少なからず和らげる。対して人差し指のみでの提示は掌を隠す形を取る為、意見交換の固辞や一方向から言い付ける…
少なくとも自分の場合、【心の精算】は【言葉の生産】でしか果たす事が出来んのですよ。
思考でも筋力でも、【体力】を持て余すのではなく傾けられるお相手が居るというのは、自分自身へ注ぐ事の出来る【充足】でもあるんですよね。浪費ではなく消費出来る人が居る。徒労ではなく疲労で在れる自分が居る。貰えるものは貰うのではなく、与えられるものは与えてやれる自分自身が誇らしい。
対象の人物を指し示す時「人を指差しちゃいけません」と言う事や言われる事ってあるのではないかと思います。由来は諸説ありますが、もしも自分がこの理由を求められたとするのなら、私はきっと「お相手に【威圧感】を与えるから」と答えるのだと思うんです。これは個人的な心象とイメージの問題でもありますが、例えば五指での提示は掌を見せる様な形となる分、「お相手を受け入れる」という【迎合】の姿勢や【意思表示】として捉える事が出来るんです。そこに掌分の【空間】やお相手への【尊重】を残す事で、心へ負荷するストレスを少なからず和らげる。対して人差し指のみでの提示は掌を隠す形を取る為、意見交換の固辞や一方向から言い付ける…
スーパーやコンビニで偶に頂く割り箸って、作りや材質によっては真ん中で割り易い物や左右どちらかに偏って割れ易い物など色々あるかと思うのですが、私が小学生の頃、この割り箸の割れ方によって好きな人に想われているかを占うという遊びが一時期流行したんですよね。左右どちらかを自分、もう片方を片想いのお相手と見立てて箸を割り、割れた面積の大きい方が「お相手への想いも大きい」という見方だったかと思うのですが、そんな事を思い出しながら先程割り箸を割ったところ、ものの見事に右側のお箸が広めにパッキリと割れました。最近は割り箸も改良され、こんな風に割れる物も少なくなって来ましたが、割れ方次第で気分を滅入らせてしまう…
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