ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
この頃、吉野の将軍の宮と申し上げたのは、故兵部卿の親王の御子、御母は北畠准后の御妹でいらっしゃる。ご幼少の頃から文武の両道いずれにも達者にお見えだったので、この宮こそまことに全国の動乱をも鎮められて、旧主先帝のご無念をもお晴らし申されるご器量でいらっし
こうしているところに、また住吉の神主津守国久がひそかに、「今月十二日の正午ごろに当社の神殿がしばらく鳴動した。その後庭先の楠が風もないのに中程から折れて、神殿に倒れかかった。しかし枝がたくさんに支えて宙に横たわったので、社殿は無事だった」と内々の奏上を
紀伊国の軍に寄せ手が多く討たれて、今は和佐山の陣でも味方は保ちがたいと言ったので、津々山の軍勢も尼崎の大将も、がっかりして顔色を変えた。しかし、仁木左京大夫義長一人は、「それは面白い。思った通りだ。いっそ同じことなら津々山や天王寺、住吉の軍勢どもも追い
四条中納言隆俊が紀伊国の軍勢三千余騎を率いて紀伊国最初峰に陣を取っていらっしゃるということが伝えられたので、その年、四月三日、畠山入道道誓の弟、尾張守義深を大将として、白旗の一隊、平の一隊、諏訪祝部、千葉の一族、杉原の一門等々全部で三万余騎が最初峰へ向
さて、寄せ手はその年二月十三日、後陣の兵三万余騎を住吉、天王寺へ入れ替えさせて、後ろを心配ないようにして、先陣の軍勢二十万余騎は金剛山の北西に当たる津々山に上って陣を取る。敵味方の間はわずかに五㎞あまりを隔てている。互いに時を図ってまだ戦いが始まらない
その頃、足利新征夷大将軍義詮朝臣は、延文四年十二月二十三日に都を発って、南方の正面へお向かいになる。付き従う人々には、まず一族細川相模守清氏、弟の左近大夫将監、同じく兵部大輔、同じく掃部助、同じく兵部少輔、尾張左衛門佐、仁木右京大夫、弟の弾正少弼、同じ
この頃吉野の新帝は河内の天野という所を皇居としておいでだったので、楠左馬頭正儀と和田和泉守正武の二人は、天野の皇居に参上して、「畠山入道道誓が関東八ヶ国の軍勢を率いて二十万騎、すでに京都に着いているそうです。山陽道は播磨まで、山陰道は丹波まで、東海、東
思いのほかに世の中が穏やかであるにつけても、二人の英雄がいれば必ず争うものであるので、鎌倉の左馬頭殿と宰相中将殿との御仲は、きっと不和が生じるだろうと人々は気に懸けていた。これを聞いて畠山大夫入道道誓が左馬頭殿に向かって、「故左大臣殿がお亡くなりになっ
延文三年(正平十三年 一三五八)十二月から 延文五年五月末頃まで。 鎌倉贈左大臣尊氏公がお亡くなりになった折りに、世の人が心配することは深みに臨んで薄氷を踏むようであって、天下は直ぐにも転覆してしまうと見えていたところに、この人こそまことに
こういうことで、江戸と竹沢の忠功は抜群であると、ただちに所領数カ所の恩賞をいただいた。「あっぱれ武士の面目だ」とこれを羨む人もあり、また「汚い男の振る舞いだ」と批判する人もある。 竹沢はなおも謀叛の協力者を徹底的に探し出せと御陣に留められて、江戸の二人
その後竹沢は自分の力では討てないだろうと思ったので、畠山殿の所へ使いを遣って、「兵衛佐殿の隠れておられる場所を詳しく知っていますが、小勢では討ち洩らしてしまうと思われます。急いで一族の江戸遠江守と下野守を来させて下さい。彼らとよく相談して討ち申しましょ
九月十三夜は夕暮れの空が晴れて月も名前どおりの姿を現したので、今夜、明月の会に事寄せて佐殿を我が館へお招きして酒宴の折りに討ち申し上げようと企て、二心無い一族、郎等二百余人を呼び集め、自分の館の脇に隠して置いた。日が暮れると竹沢は急いで佐殿の所に参って
さてもこのことをどうしようかと、畠山入道道誓は日夜考えていたが、ある夜ひそかに竹沢右京亮を呼び寄せて、「そなたは先年武蔵野の合戦の時、あの義興の手下でいて忠義だったのだから、義興もきっとその昔のよしみを忘れていないと思われる。だからこの人をあざむいて討
さて、尊氏卿が御逝去になった後、九州はこのように乱れたと言っても、東国はまだ静かであった。そこに故新田左中将義貞の息子の兵衛佐義興とその弟の武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の息子の義治の三人が、この三、四年間越後国に城郭を構え、国の半分を従えていたのを、
八月十六日の夜半に菊池はまず夜討ちに馴れた兵を三百人選りすぐって、山を越え水を渡って搦め手へ回す。本隊の兵七千余騎を三手に分けて、筑後川の岸に沿って川音に紛れて険しい山地を回って押し寄せた。正面の寄せ手がもう近づいただろうと思われる頃に、搦め手の兵三百
その頃、七月に征西将軍の宮を大将として、新田の一族と菊池の一門が太宰府へ攻め寄せると噂されたので、少弐は陣を構えて敵を待とうとして、大将太宰築後守頼尚、息子の築後新少弐忠資、甥の太宰築後守頼泰、朝井但馬守将監胤信、築後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後
少弐と大友は菊池に九州を討ち従えられて、その支配の下に従うことを面白くなく思ったので、細川伊予守の下向を待って旗を挙げようと計画していたが、伊予守は崇徳院の御霊に罰せられて無駄死にしたと伝えられたので、勢いを失って動きを見せない。 こうしているところに
今年の春、筑紫の探題として将軍に派遣された一色左京大夫直氏と弟の修理大夫範光は、菊池肥前守武光に敗れて京都へ上られたところ、少弐、大友、島津、松浦、阿蘇、草野に至るまで皆宮方に味方して、筑紫九国の中には、ただ畠山治部大輔だけが日向の六笠城に籠もって将軍
同じ四月十八日、吉野の新待賢門院の女院がお亡くなりになった。一方の帝の国母でいらっしゃったので、帝を初め申し上げて全ての官吏が女院の御座所の月に涙を流し、後宮の露に嘆きの思いを寄せながら一体どういうことであろうかと涙を拭っていたところに、また同じ年五月
その年四月二十日、尊氏卿の背中に出来物ができてお加減が悪くおなりになったので、内科外科の医師が数多く集まり参上した。倉公や華陀のような医師が手を尽くし、さまざまな種類の薬を施し申したけれども、一向に効き目がない。陰陽寮の長官や効験のある高僧が集まって、
公家の人はこのように生活に苦しんで溝や谷間に埋まり道路にさまようけれども、武家の者たちは、富貴がこれまでより百倍になって、身にはきらびやかな衣服を纏い、食事には贅を極めている。先代相模守が天下を治めた時、諸国の守護は大犯三箇条の検察処断の他は介入するこ
こうしてことの有様を見聞すると、天下はこの二十余年の争乱で、皇居、院の御所、皇族の亭宅、後宮を初めとして、公卿、殿上人、諸官吏、役人の家々が多く焼け失せて、今はわずかに十の内の二、三が残っていたのだったが、また今度の東寺の合戦の時、すっかり焼き払って、
足利左兵衛佐直冬、尾張修理大夫高経、山名伊豆守時氏、桃井播磨守直常以下の官軍は、この度諸国から攻め上って、東寺、神内でたびたびの合戦に敗れたので、みなそれぞれの国に逃げ帰って、なおその宿願を果たそうとことを謀っている。これによって洛中は今静かな様子で、
ここで逃げてきて集まった軍勢を見ると、五万騎を超えていた。この上に伊賀、伊勢、和泉、紀伊国の軍勢たちが、なお馳せ参じるだろうと伝えられたので、しばらくこの軍勢を解かないで、もう一戦するべきではないかと諸大将の意見がまちまちだったところ、直冬朝臣は、「そ
三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原が皆で集まって七千余騎が七条西洞院へ押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦い、一手は尾張修理大夫高経と戦う。この陣の寄せ手はどうかすると攻め立てられる様子に見えたので、将軍から使者を立てられて、「那須
二月十五日の朝は、東山の軍勢たちが上京に出て来て兵糧を取ると伝えられたので、蹴散らそうと、苦桃兵部大輔と尾張左衛門佐が五百余騎で東寺を出て、一条と二条の間を二手になって見回る。これを見て細川相模守清氏と佐々木黒田判官が七百余騎で東山から下る。尾張左衛門
文和四年(正平 十 年 一三五五)二月から 延文四年(正平十四年 一三五九)十月頃まで 昨日神南の合戦で山名が敗れて本陣へ引き返したと伝えられると、将軍は比叡山を下って、三万余騎の軍勢を率いて東山に陣を取る。仁木左京大夫頼章は、丹後、丹波の軍勢
山名右衛門佐の兵達は因幡を発った最初から、今度は必ず都で屍をさらそうと心に決めていたことなので、伊田、波多野、多賀谷、浅沼、藤山、土屋、福依、石原、久世、竹中、足立、川村、首藤、大庭、福塚、佐野、火作、歌川、沢、敷美以下、主だった侍八十四人と、その一族
敵の近づくこと二百mほどになったので、赤松律師則祐は、陣幕をさっと打ち上げて、「天下の勝負はこの一戦で決まるだろう。いつのために命を惜しむことがあろうか。名将の御前でみごとに討ち死にして、後代へ名を残せ」と命じたところ、「承知した」と平塚次郎、内藤与次
二つの陣が破られた後、兵は皆乱れて、総大将の軍勢と一緒になろうと崩れて引いて行ったので、伊田、波多野の者たちは、「逃がすなのがすな」と喚き叫んで追いかけた。石や岩は苔で滑りやすく、茨が道を塞いでいるので、退く者も逃げ切れず引き返す兵は討たれない者がいな
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下