ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
いよいよ明日正午に臨幸なさるということを仰ったその夜、主上がしばらくお眠りになった御夢に、赤い袴に鈍色の衣を着た女が一人来て、「前には怒っている虎、狼がいます。後ろには恐ろしい熊がいます。あすの行幸はおやめ下さい」と申し上げる。主上が、夢の中で、「お
故相模入道の弟の四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時に自害した振りをしてひそかに鎌倉を逃れて、暫くは奥州にいたのだったが、人に見破られないように、還俗して京都に上り西園寺殿をお頼りして、田舎侍が初めてお仕えしているということにしていた。これも承久の合
このことが帝のお耳に入ったところ、帝はこの上なくお驚きになって、「その居所を急ぎ尋ねだし、再び政道を助ける役に就けよ」と父宣房にお命じになったので、宣房は泣きながら車を飛ばして岩蔵へ尋ねて行かれたところ、中納言入道はその朝まで岩蔵の坊にいらっしゃったが
その後藤房卿は続けて諫言を申し上げなさったけれども、帝はついにお聞き入れにならなかったので、大内裏造営のことも止められず、詩歌管弦の御遊びはなおも度々催されたので、藤房はこれを諫めることができず、「臣下の道は私としては行った。もはや今は身を退くのがよい
暫くして万里小路中納言藤房卿が参上された。座が定まった後、主上が藤房卿に向かって、「天馬が遠くから来たことの吉凶について、諸臣の意見はすでに皆言い終わった。藤房はどう考えるか」とお訊ねがあったので、藤房卿が、「天馬が我が国に来たことについて、まだその
皇居の西、二条高倉に馬場殿として、急に離宮を造られた。帝がここにおいでになって、歌舞や蹴鞠の間に弓や馬の名人を召されて、競馬を競わせ、笠懸をさせてお遊びの興を添えられる。 その頃、佐々木塩冶判官高貞の所から、駿馬だと言って月毛の肩までの丈が百五十㎝の馬
そもそも今、武力による改革が一気に鎮まって、廃された帝が再び即位なさったということは、ひとえにこの宮の武功によることであるから、例え小さな過ちがあっても、戒めてお許しになるべきであったのに、検討もなく敵の手に渡されて遠流に処せられたことは、朝廷が再び傾
孝行な子供がその父に誠意を尽くしても継母がその子の悪口を言う時は国を傾け家を損なうということは、昔からその例は多い。 昔、異国に晋の献公という人がおられた。その后斉姜は三人の子を生まれた。嫡子を申生と言い、次男を重耳、三男を夷吾と言った。三人の子が大人
宮は二m四方の回りに木を打ち付けた中に、出入りする人は一人もないまま、涙に濡れる床に起き伏しなさり、「これは一体どういう定めで、元弘の初めは武家のために身を隠し、木の下や岩の隙間の露に濡れ涙に濡れた袖を濡らし、帰洛の今は一生の楽しみをまだ一日も終えない
兵部卿親王は、天下が乱に向かう時はやむなくその身の難を逃れるために僧の姿を変えておられたけれども、天下がすでに鎮まったので、もとのように叡山全体の貫長の位に戻って、仏の教えと帝の政治の弥栄にお勤めになることこそ、仏意にもかない帝のお考えとも一致するのだ
戦乱の後、邪気が依然として災いの予兆を見せていた。その災いを消すには真言密教の効験によるほかはないということで、急に神泉苑を修復なさる。 その神泉苑というのは、大内裏が初めてできた時に、周の文王の霊園にならって、九百m四方に造られた庭園である。その後、
元弘三年七月に改元があって建武に改められた。これは後漢の光武帝が王莽の乱を収めて再び漢の世を継がれためでたい先例だとして漢王朝の年号を取られたとかいうことである。その年天下に流行病があって病死する者が大変に多かった。これだけでなく、その秋頃から紫宸殿の
四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~3~
どうしてこういうことを言うかというと、文治年間、都に一人の僧がいた。その名を解脱上人と言った。その母が七歳の時に、夢の中で鈴を呑んだ夢を見て身ごもった子供だったので、ただの人ではないと思い、三歳になった時からその身を仏門に入れ、ついに尊い聖となったのだ
四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~2~
この人はまだ俗人だから言うには当たらない。あの文観僧正の振る舞いこそあきれたことである。たまたまいったん名利の世界を離れてすでに真言修行の道にお入りになっていたのも甲斐なく、ただ利欲名聞のほうにひたすら進んで、まったく仏道修行の勤めを忘れているようであ
四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~1~
中でも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫でいらっしゃったので、文の道をこそ家業となさるべきであったのに、二十歳の頃から自分の道ではない騎馬や弓矢の道を好み、賭け事や淫らな遊びを専らにされたので、父有忠卿は父子の間柄を切って勘当してしまわれた。し
元弘三年の春、筑紫では規矩掃部助高政と糸田左近大夫将監貞義という平氏の一族が出て来て、先に滅んだ者たちの残党を集め、あちこちの反朝廷の徒党を呼んで国を乱そうとする。また河内国の賊徒等が佐々目憲法僧正という者を大将にして飯盛山に城郭を構えた。これだけでな
そもそもその北野天神というのは、風流の本家、文章道の元祖である。天にいらっしゃる時は日月の光となって現れて国土を照らし、地に天下ってはなくてはならぬ臣となって人々に恩恵をもたらされる。その由来を申すならば、菅原宰相是善卿の南庭に五、六歳ほどの顔だちの美
翌年正月十二日、諸卿が協議して、「帝王の仕事は何事に付けても多岐にわたっており、多くの役所と官位を設けています。今の内裏はわずか四百m四方の中ですので、場所が狭く、儀と礼を行うのに窮屈です。四方へ百mずつ広げられて、殿舎を建て宮殿を作ります。これでもか
その年八月三日から、軍勢の恩賞のことがあり、洞院左衛門督実世卿を担当首席と定められる。これによって諸国の軍勢は戦功の証拠を示して申請書を提出して恩賞を望む者たちは、幾千万と数知れない。本当に手柄のある者は功績を頼みとしてへつらうことをせず、手柄のない者
これによって宮の御鬱憤も晴れたのか、六月十七日に志貴をお発ちになり、石清水八幡に七日間逗留なさって、その月の二十三日に御入京なさる。その行列や装いは天下が目を見張るものだった。まず赤松入道円心が千余騎で前陣を勤める。二番目は殿法印良忠が七百余騎で進む。
宮は清忠をお側近く召されて、「今、天下が一挙に鎮まって万民が平和になったことを喜んでいることは、陛下の寛大で聡明な徳によるものであり、私のめぐらしたはかりごとによるものだ。ところが足利治部大夫高氏がわずか一度の戦いの功績によって、自分の野心を天下に押し
先帝の再度の即位の後、正慶の年号は廃帝の年号だというのでこれを廃されて、もとの元弘に返された。その二年の夏の頃、天下の政治を一回の評議で定めることとし、賞罰や法令の全てを公家だけで行うようにしたので、民衆がその統治下に帰することは、霜が春の陽に溶けるよ
九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~3~
承久の乱の後、北条が政権を執って以来九代、年数にしてすでに百六十余年になったので、一門が天下にのさばって、威を振るい権勢をほしいままにしてきたあちらこちらの探題、国々の守護やその名を天下に知られている者は優に八百人を超えている。ましてその家々の郎党であ
九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~2~
佐介左京亮貞俊は、北条の一門である上に、武略、才能ともに兼ね備えていたので、きっと一方の大将をも命ぜられるだろうと自負していたが、相模入道はそれほど重用することもなかったので、恨みに思い憤りを抱きながら金剛山の寄せ手の中にいた。そうしているところに千種
九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~1~
京都の街はすでに静かになったとは言え、金剛山から引き返した幕府勢は、なお奈良に留まって京都を攻めようとしていると噂が流れたので、中院中将貞平を大将として五万余騎が大和路へ差し向けられた。楠兵衛正成に畿内の軍勢二万余騎を付けて河内国から搦め手に向けられた
その人たちの霊魂や亡霊がなおもこの地に留まって、夫婦の尽きぬ思いの妄念を残したのだろうか、この頃越後から上る舟人がこの港を通ると急に向かい風になり波が荒れたので、碇を降ろして沖に舟を泊めると、夜が更けて波が静まり波音のような松風や芦穂の月という旅泊の様
越中の守護名越遠江守時有と弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持の三人は、出羽、越後の後醍醐帝方の者が、北陸道を通って京都へ攻め上るに違いないと聞いたので、道中でこれを防ごうと思って越 中の二塚という所に陣を張って、近国の兵達を集めた。そうしているところに、六波
淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中に北国の蜂起を鎮めるために越前国に下って、大野郡牛原という所におられた。いくらも経たないうちに六波羅が陥落したと伝わったので、同行していた国の兵達がわずかの間に逃げていなくなって、妻子と一門の者の他は訪ねてくる者もなか
長門の探題遠江守時直は、京都の合戦で苦戦していると聞いて、六波羅に助力しようと大船百余艘に乗って海上を上ったが、周防の鳴門で、京も鎌倉もすでに源氏のために滅ぼされて、天下はすべて帝に従ったと聞いたので、鳴門から舟を漕ぎ戻して九州の探題と手を組もうと、様
大友と少弐が今日か明日かとよい日を選んでいるところに、英時が少弐の陰謀の企てを聞いて、事の真偽を探ろうと、長岡六郎を少弐のところに遣わした。長岡はすぐに行って、少弐に会いたい旨を言ったところ、たまたま病気だと言って会うことができない。 長岡は仕方なく少
探題はかねて準備をしていたことなので、多くの兵を城門から外に出して戦わせたが、菊池は小勢だと言ってもみな命を塵芥のように思い、武士の道理を大切にして攻め戦ったので、防ぐ兵が多く討たれて、最後の城に立て籠もった。 菊池は勝ちに乗じて塀を乗り越え、城門を破
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下