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「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
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2021/01/03

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  • 三 北山殿謀反の事 ~2~

    いよいよ明日正午に臨幸なさるということを仰ったその夜、主上がしばらくお眠りになった御夢に、赤い袴に鈍色の衣を着た女が一人来て、「前には怒っている虎、狼がいます。後ろには恐ろしい熊がいます。あすの行幸はおやめ下さい」と申し上げる。主上が、夢の中で、「お

  • 三 北山殿謀反の事 ~1~

    故相模入道の弟の四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時に自害した振りをしてひそかに鎌倉を逃れて、暫くは奥州にいたのだったが、人に見破られないように、還俗して京都に上り西園寺殿をお頼りして、田舎侍が初めてお仕えしているということにしていた。これも承久の合

  • 二 藤房卿遁世の事 ~2~

    このことが帝のお耳に入ったところ、帝はこの上なくお驚きになって、「その居所を急ぎ尋ねだし、再び政道を助ける役に就けよ」と父宣房にお命じになったので、宣房は泣きながら車を飛ばして岩蔵へ尋ねて行かれたところ、中納言入道はその朝まで岩蔵の坊にいらっしゃったが

  • 二 藤房卿遁世の事 ~1~

    その後藤房卿は続けて諫言を申し上げなさったけれども、帝はついにお聞き入れにならなかったので、大内裏造営のことも止められず、詩歌管弦の御遊びはなおも度々催されたので、藤房はこれを諫めることができず、「臣下の道は私としては行った。もはや今は身を退くのがよい

  • 一 龍馬進奏の事 ~2~

    暫くして万里小路中納言藤房卿が参上された。座が定まった後、主上が藤房卿に向かって、「天馬が遠くから来たことの吉凶について、諸臣の意見はすでに皆言い終わった。藤房はどう考えるか」とお訊ねがあったので、藤房卿が、「天馬が我が国に来たことについて、まだその

  • 一 龍馬進奏の事 ~1~

    皇居の西、二条高倉に馬場殿として、急に離宮を造られた。帝がここにおいでになって、歌舞や蹴鞠の間に弓や馬の名人を召されて、競馬を競わせ、笠懸をさせてお遊びの興を添えられる。 その頃、佐々木塩冶判官高貞の所から、駿馬だと言って月毛の肩までの丈が百五十㎝の馬

  • 七 兵部卿親王流刑の事 付けたり驪姫が事 ~4~

    そもそも今、武力による改革が一気に鎮まって、廃された帝が再び即位なさったということは、ひとえにこの宮の武功によることであるから、例え小さな過ちがあっても、戒めてお許しになるべきであったのに、検討もなく敵の手に渡されて遠流に処せられたことは、朝廷が再び傾

  • 七 兵部卿親王流刑の事 付けたり驪姫が事 ~3~

    孝行な子供がその父に誠意を尽くしても継母がその子の悪口を言う時は国を傾け家を損なうということは、昔からその例は多い。 昔、異国に晋の献公という人がおられた。その后斉姜は三人の子を生まれた。嫡子を申生と言い、次男を重耳、三男を夷吾と言った。三人の子が大人

  • 七 兵部卿親王流刑の事 付けたり驪姫が事 ~2~

    宮は二m四方の回りに木を打ち付けた中に、出入りする人は一人もないまま、涙に濡れる床に起き伏しなさり、「これは一体どういう定めで、元弘の初めは武家のために身を隠し、木の下や岩の隙間の露に濡れ涙に濡れた袖を濡らし、帰洛の今は一生の楽しみをまだ一日も終えない

  • 七 兵部卿親王流刑の事 付けたり驪姫が事 ~1~

    兵部卿親王は、天下が乱に向かう時はやむなくその身の難を逃れるために僧の姿を変えておられたけれども、天下がすでに鎮まったので、もとのように叡山全体の貫長の位に戻って、仏の教えと帝の政治の弥栄にお勤めになることこそ、仏意にもかない帝のお考えとも一致するのだ

  • 六 神泉苑の事

    戦乱の後、邪気が依然として災いの予兆を見せていた。その災いを消すには真言密教の効験によるほかはないということで、急に神泉苑を修復なさる。 その神泉苑というのは、大内裏が初めてできた時に、周の文王の霊園にならって、九百m四方に造られた庭園である。その後、

  • 五 広有怪鳥を射る事

    元弘三年七月に改元があって建武に改められた。これは後漢の光武帝が王莽の乱を収めて再び漢の世を継がれためでたい先例だとして漢王朝の年号を取られたとかいうことである。その年天下に流行病があって病死する者が大変に多かった。これだけでなく、その秋頃から紫宸殿の

  • 四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~3~

    どうしてこういうことを言うかというと、文治年間、都に一人の僧がいた。その名を解脱上人と言った。その母が七歳の時に、夢の中で鈴を呑んだ夢を見て身ごもった子供だったので、ただの人ではないと思い、三歳になった時からその身を仏門に入れ、ついに尊い聖となったのだ

  • 四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~2~

    この人はまだ俗人だから言うには当たらない。あの文観僧正の振る舞いこそあきれたことである。たまたまいったん名利の世界を離れてすでに真言修行の道にお入りになっていたのも甲斐なく、ただ利欲名聞のほうにひたすら進んで、まったく仏道修行の勤めを忘れているようであ

  • 四 千種殿ならびに文観僧正奢侈の事 付けたり解脱上人の事 ~1~

    中でも千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫でいらっしゃったので、文の道をこそ家業となさるべきであったのに、二十歳の頃から自分の道ではない騎馬や弓矢の道を好み、賭け事や淫らな遊びを専らにされたので、父有忠卿は父子の間柄を切って勘当してしまわれた。し

  • 三 安鎮国家の法の事 付けたり諸大将恩賞の事

    元弘三年の春、筑紫では規矩掃部助高政と糸田左近大夫将監貞義という平氏の一族が出て来て、先に滅んだ者たちの残党を集め、あちこちの反朝廷の徒党を呼んで国を乱そうとする。また河内国の賊徒等が佐々目憲法僧正という者を大将にして飯盛山に城郭を構えた。これだけでな

  • 二 大内裏造営の事 付けたり聖廟の御事 ~2~

    そもそもその北野天神というのは、風流の本家、文章道の元祖である。天にいらっしゃる時は日月の光となって現れて国土を照らし、地に天下ってはなくてはならぬ臣となって人々に恩恵をもたらされる。その由来を申すならば、菅原宰相是善卿の南庭に五、六歳ほどの顔だちの美

  • 二 大内裏造営の事 付けたり聖廟の御事 ~1~

    翌年正月十二日、諸卿が協議して、「帝王の仕事は何事に付けても多岐にわたっており、多くの役所と官位を設けています。今の内裏はわずか四百m四方の中ですので、場所が狭く、儀と礼を行うのに窮屈です。四方へ百mずつ広げられて、殿舎を建て宮殿を作ります。これでもか

  • 一 公家一統政道の事 ~4~

    その年八月三日から、軍勢の恩賞のことがあり、洞院左衛門督実世卿を担当首席と定められる。これによって諸国の軍勢は戦功の証拠を示して申請書を提出して恩賞を望む者たちは、幾千万と数知れない。本当に手柄のある者は功績を頼みとしてへつらうことをせず、手柄のない者

  • 一 公家一統政道の事 ~3~

    これによって宮の御鬱憤も晴れたのか、六月十七日に志貴をお発ちになり、石清水八幡に七日間逗留なさって、その月の二十三日に御入京なさる。その行列や装いは天下が目を見張るものだった。まず赤松入道円心が千余騎で前陣を勤める。二番目は殿法印良忠が七百余騎で進む。

  • 一 公家一統政道の事 ~2~

    宮は清忠をお側近く召されて、「今、天下が一挙に鎮まって万民が平和になったことを喜んでいることは、陛下の寛大で聡明な徳によるものであり、私のめぐらしたはかりごとによるものだ。ところが足利治部大夫高氏がわずか一度の戦いの功績によって、自分の野心を天下に押し

  • 一 公家一統政道の事 ~1~

    先帝の再度の即位の後、正慶の年号は廃帝の年号だというのでこれを廃されて、もとの元弘に返された。その二年の夏の頃、天下の政治を一回の評議で定めることとし、賞罰や法令の全てを公家だけで行うようにしたので、民衆がその統治下に帰することは、霜が春の陽に溶けるよ

  • 九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~3~

    承久の乱の後、北条が政権を執って以来九代、年数にしてすでに百六十余年になったので、一門が天下にのさばって、威を振るい権勢をほしいままにしてきたあちらこちらの探題、国々の守護やその名を天下に知られている者は優に八百人を超えている。ましてその家々の郎党であ

  • 九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~2~

    佐介左京亮貞俊は、北条の一門である上に、武略、才能ともに兼ね備えていたので、きっと一方の大将をも命ぜられるだろうと自負していたが、相模入道はそれほど重用することもなかったので、恨みに思い憤りを抱きながら金剛山の寄せ手の中にいた。そうしているところに千種

  • 九 金剛山の寄せ手等誅せらるる事 付けたり佐介貞俊が事 ~1~

    京都の街はすでに静かになったとは言え、金剛山から引き返した幕府勢は、なお奈良に留まって京都を攻めようとしていると噂が流れたので、中院中将貞平を大将として五万余騎が大和路へ差し向けられた。楠兵衛正成に畿内の軍勢二万余騎を付けて河内国から搦め手に向けられた

  • 八 越中の守護自害の事 付けたり怨霊の事 ~2~

    その人たちの霊魂や亡霊がなおもこの地に留まって、夫婦の尽きぬ思いの妄念を残したのだろうか、この頃越後から上る舟人がこの港を通ると急に向かい風になり波が荒れたので、碇を降ろして沖に舟を泊めると、夜が更けて波が静まり波音のような松風や芦穂の月という旅泊の様

  • 八 越中の守護自害の事 付けたり怨霊の事 ~1~

    越中の守護名越遠江守時有と弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持の三人は、出羽、越後の後醍醐帝方の者が、北陸道を通って京都へ攻め上るに違いないと聞いたので、道中でこれを防ごうと思って越 中の二塚という所に陣を張って、近国の兵達を集めた。そうしているところに、六波

  • 七 越前の牛原地頭自害の事

    淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中に北国の蜂起を鎮めるために越前国に下って、大野郡牛原という所におられた。いくらも経たないうちに六波羅が陥落したと伝わったので、同行していた国の兵達がわずかの間に逃げていなくなって、妻子と一門の者の他は訪ねてくる者もなか

  • 六 長門の探題降参の事

    長門の探題遠江守時直は、京都の合戦で苦戦していると聞いて、六波羅に助力しようと大船百余艘に乗って海上を上ったが、周防の鳴門で、京も鎌倉もすでに源氏のために滅ぼされて、天下はすべて帝に従ったと聞いたので、鳴門から舟を漕ぎ戻して九州の探題と手を組もうと、様

  • 五 筑紫合戦の事 ~3~

    大友と少弐が今日か明日かとよい日を選んでいるところに、英時が少弐の陰謀の企てを聞いて、事の真偽を探ろうと、長岡六郎を少弐のところに遣わした。長岡はすぐに行って、少弐に会いたい旨を言ったところ、たまたま病気だと言って会うことができない。 長岡は仕方なく少

  • 五 筑紫合戦の事 ~2~

    探題はかねて準備をしていたことなので、多くの兵を城門から外に出して戦わせたが、菊池は小勢だと言ってもみな命を塵芥のように思い、武士の道理を大切にして攻め戦ったので、防ぐ兵が多く討たれて、最後の城に立て籠もった。 菊池は勝ちに乗じて塀を乗り越え、城門を破

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