chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き https://taiheiki.blog.jp

「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」

『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】  に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。

いかるのうた
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2021/01/03

arrow_drop_down
  • 七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~4~

    夕暮れになって戦が終わったので、千種殿が本陣峰堂に帰って味方の負傷者と死者を調べると、七千人を越えていた。その中で主に頼りとしておられた大田と金持の一族以下数百人が討たれてしまっていた。そこで一方の大将ともなるべき者とお思いになったのだろうか、児島備後

  • 七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~3~

    そうしているころ、忠顕朝臣は神祇官の役所の前で集まって軍勢を分けて、北は大舎人寮から南は七条大路まで小路ごとに千余騎ずつを差し向けて攻めさせられる。武家側は防備の備えをして射手を前に立て騎馬を後ろに置いているので、敵のひるむところを見て駆けだしては追い

  • 七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~2~

    四月二日、宮は篠村をご出発になって、西山の峰堂を陣所とされ、従う軍勢二十万騎が谷堂、葉室、衣笠、万石大路、松尾、桂の里に拡がり、半ば野宿であふれていた。殿法印良忠は八幡に陣取る。赤松入道円心は山崎に陣を張る。その陣と千種殿の陣との間がわずか六㎞あまりな

  • 七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~1~

    京都での数回の戦いで官軍が敗れて、八幡・山崎の陣もすでに小勢となったと噂されたので、主上は天下の情勢はどうなるのだろうとお心を傷められる。船上山の皇居に壇を作られて天子自ら金輪の法を行われる。その七日目の夜、日天子と月天子と星天子が一緒に壇上に現れたの

  • 六 四月三日合戦の事 付けたり妻鹿孫三郎勇力の事 ~5~

    播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗というのは、薩摩の氏長の子孫であって、力が人並みを越え、力量は世に傑出していた。十二歳の春のころから好んで相撲を取っていたが、日本全国でついに片手でも相手になる者がない。類は友を呼ぶということで、同じ一族十七人が、みな同じく世

  • 六 四月三日合戦の事 付けたり妻鹿孫三郎勇力の事 ~4~

    美作国の住人菅家の一族は三百余騎で四条猪熊まで攻め入り、武田兵庫助、糟谷、高橋の千余騎の軍勢と戦って数時間に渡って戦ったが、後方にいた味方が引き退いた様子を見て、初めから退かないつもりだったのか、または相手に後ろを見せまいと思ったのか、有元菅四郎佐弘、

  • 六 四月三日合戦の事 付けたり妻鹿孫三郎勇力の事 ~3~

    この時赤松の軍勢の中から兵四人が進み出て、数千騎控えている敵の中へしゃにむに討って掛かった。その勢いは決然としていて、まるで樊噲や項羽が怒った形相以上である。近づくにつれてこれを見ると背丈二mを超える男で鬚が両方に生え分かれてまなじりが裂けてつり上がり

  • 六 四月三日合戦の事 付けたり妻鹿孫三郎勇力の事 ~2~

    その日の午前十時頃、三方全てで同時に戦いが始まって、入れ替わり入れ替わりして戦う。寄せ手は騎馬の兵が少なく徒歩の射手が多いのであちこちの小路を塞いで一斉に激しく射る。六波羅勢は騎馬の兵が多いので行き違いながら駆け回り敵を取り囲もうとする。孫子の千変万化

  • 六 四月三日合戦の事 付けたり妻鹿孫三郎勇力の事 ~1~

    先月十二日、赤松が合戦に敗れて引き退いた後は、幕府軍が常に勝ち続けて敵を討つこと数千人であったけれども、全国は依然として静まらず、そればかりか叡山が幕府に敵対して大比叡岳に篝火を焚き坂本に兵を集めて、なお六波羅へ攻め寄せるだろうと噂されたので、衆徒の機

  • 五 山徒京都に寄する事 ~3~

    この時、東塔の南谷の善智坊に一緒にいた豪鍳と豪仙といって全山に名の知れた勇猛な僧がいた。味方の大軍に引っ張られて心ならずも北白川を目指して退いていたが、豪鑒が豪仙を呼び止めて、「戦の習いとして勝つ時もあり負けることもあり、時の運によることだから恥ではあ

  • 五 山徒京都に寄する事 ~2~

    両六波羅はこれを聞いて、「思うに、叡山の者たちは大軍ではあっても、騎馬の兵は一人もいないだろう。こちらでは騎馬の射手を揃えて三条河原で待ち受けさせて、散ったり集まったりして左右に引きつけて狩りをするように射かければ、僧たちは勇猛だとは言っても歩くのに疲

  • 五 山徒京都に寄する事 ~1~

    京都で合戦が始まって、幕府方がどうかすると不利になっているということが噂になったので、大塔宮から使者を立てられて叡山の衆徒を味方にしようとされた。 これによって三月二十六日、全山の衆徒が大講堂の庭に集まって、「そもそも我が寺は仏が七社となって現れた霊

  • 四 禁裡仙洞御修法の事 付けたり山崎合戦の事 ~2~

    赤松はこれを聞いて、三千余騎を三手に分ける。一つの隊には足軽の射手を選りすぐって五百余人、小塩山へ回す。一隊を野武士に騎馬の兵を少し加えて千余人、狐川に構えさせる。一隊を槍・刀の正規の武士八百余騎を揃えて向日明神の後ろにある松原の陰に隠しておく。 六波

  • 四 禁裡仙洞御修法の事 付けたり山崎合戦の事 ~1~

    この頃全国は大いに乱れて、戦火が空を覆った。天子は玉座に座られたが、一年中穏やかな時が無い。武士は矛を振るって、軍旗のはためかない日が無い。これでは仏法の力で逆臣を鎮めなければ穏やか時が来ることはないというので、諸寺・諸社に命じて大法・秘法を行わせられ

  • 三 持明院殿六波羅に行幸の事 ~4~

    しばらくすると七条河原や西朱雀で蹴散らされた兵達があちらこちらから駆け集まってまた一千余騎になったのだった。赤松がその兵を東西の小路を通って進ませ七条辺りでまた鬨の声を揚げたので、六波羅勢七千余騎は六条院を後ろにして押したり引いたり四時間ほど攻め合った

  • 三 持明院殿六波羅に行幸の事 ~3~

    そのうちに隅田と高橋の大軍が小寺と衣笠の小勢に追い立てられ、退こうとするけれどもできず、朱雀大路を北へ内野を目指して退いていく者もあり、七条通りを東に向かって逃げる者もある。馬に離れた者はやむなく引き返して戦って死ぬ者もある。陶山はこれを見て、「あまり

  • 三 持明院殿六波羅に行幸の事 ~2~

    陶山が河野に向かって、「どうしようもない寄せ集めの兵と一緒になって戦うと、なまじっか足手まといになって進退も思うままにならないだろう。六波羅殿から付けられた軍勢を八条河原に置いて鬨の声を挙げさせ、我々は手勢を選りすぐって蓮華王院の東から敵の中に駆け入り

  • 三 持明院殿六波羅に行幸の事 ~1~

    日野中納言資名と同じく左大弁宰相資明の二人が一台の車に乗って内裏へ参上なさったところ、四つの門が開きっぱなしで、警護の武士は一人もいない。主上が南殿にお出ましになり、「誰かいないか」とお訊ねになるけれども、衛府その他の役所の役人も、弁官・文官もどこに行

  • 二 三月十二日合戦の事 ~3~

    これを見て飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、川原林二郎、小寺相模、宇野能登守国頼の五騎が続いてざっと川に飛び入る。宇野と伊東は馬が強くてまっすぐに流れを切って渡る。小寺相模は逆巻く水に馬を流されて兜の頂だけがわずかに浮かんで見えていたが、波の上を泳いだのだろ

  • 二 三月十二日合戦の事 ~2~

    その頃赤松入道円心は三千余騎を二つに分けて、久我縄手と西の七条から押し寄せた。正面の軍勢が桂川の西岸に臨んで川向かいにいる六波羅勢を見渡すと、鳥羽の秋の山風に家門ごとの旗が翻り、城南の鳥羽離宮の西門から作道、四塚、羅城門の東西、西の七条口まで固めて、雲

  • 二 三月十二日合戦の事 ~ 1~

    六波羅ではそういうこととは夢にも知らず、摩耶の城へは大軍を送ったのだから敵を攻め落とすのに一日もかかるまいと安心していた。その結果を今か今かと待っていたところに、寄せ手が負けて逃げ上ってくるという知らせがあって、実際の様子はまだ伝わらない。詳細の分から

  • 一 摩耶合戦の事 付けたり酒部・瀬川合戦の事 ~3~

    兵達が何もせずに戦場で退屈すると敵に気力で負けてしまうと、同じ月の十一日に赤松は三千余騎で敵陣に押し寄せて、まず相手の様子をうかがい見ると、瀬川宿の東西に各家門の旗が二、三百たなびき、梢の風に翻ってその勢二、三万騎もいるだろうと見えた。味方はそれに比べ

  • 一 摩耶合戦の事 付けたり酒部・瀬川合戦の事 ~2~

    こうするうちに、備前国の地頭や御家人もほとんど敵になったと伝わったので、摩耶城へ軍勢が加わらない前に討手を行かせよということで同じ月二十八日にまた一万余騎の軍勢を差し向けられる。赤松入道はこれを聞いて、「勝ち戦の利を得るには作戦としては不意を突き、大軍

  • 一 摩耶合戦の事 付けたり酒部・瀬川合戦の事 ~1~

    先帝がすでに船上山にお着きになって、隠岐判官佐々木清高が合戦に負けた後、近国の武士たちが皆馳せ参じたということを出雲や伯耆の早馬が次々に六波羅に告げたので、ことはいよいよ大変なことになっていると、聞く人は皆顔色を失った。 これにつけても、京都に近いとこ

  • 七 船上合戦の事

    そうしている時に同じ月二十九日、隠岐判官と佐々木弾正左衛門がその手勢三千余騎で南北から押し寄せた。この船上山というのは、北は大山に続いてそびえ、三方は急な傾斜で、峰に懸かる白雲が中腹を取り巻いている。急いで作った城なので、まだ堀の一つも掘っておらず、塀

  • 六 先帝船上へ臨幸の事 ~4~

    六条中将忠顕朝臣が、ひとりまず船からお降りになって、「この辺りには誰が武人として人に知られているか」とお訊ねになると、道行く人が立ち止まって、「この辺では、名和又四郎長年という人が、その人自身はそれほど名のある武士ではありませんが、家は富み一族は多く

  • 六 先帝船上へ臨幸の事 ~3~

    夜もすでに明けたので、舟人は艫綱を解いて順風に帆を揚げて港の外に漕ぎ出す。船頭は主上のご様子を見申し上げて、ただ人ではいらっしゃらないようだと思ったのか、屋形の前に跪いて、「このような折に御船をお出し申し上げるのは、我々の生涯の面目でございます。どこの

  • 六 先帝船上へ臨幸の事 ~2~

    官女がこのことを申し上げると、主上はなおあの者が騙そうとして言っているのではないかとお思いになったので、義綱の志の程をよくよく確かめてみようと、あの官女を義綱にお与えになった。判官は身に余る面目と思って大事にする事この上なかったので、ますます強い忠義の

  • 六 先帝船上へ臨幸の事 ~1~

    畿内の戦がまだ収まらないのに、さらに四国、西国が日を追って乱れていったので、人は皆薄氷を踏む思いで、国の危ういことは深い淵に向かっていくようだ。 「そもそも今このように天下が乱れているのは、ひとえに先帝のお考えから事が起こっている。ひょっとして幕府に反

  • 五 河野謀反の事

    六波羅では、一方の討手に頼みにしていた宇都宮が千早城に向き合っており、西国の軍勢は伊東にさえぎられて上洛できない。こうなったら四国の軍勢を摩耶城に向かわせようと評議していたところに、閏二月四日、伊予国から早馬を立てて、「土居二郎と得能弥三郎が帝方になっ

  • 四 赤松蜂起の事

    そうしている間に、楠軍が強くて京都が無防備になったと噂されたので、赤松二郎入道円心が播磨国の苔縄城から討って出て、山陽と山陰の二つの道を塞いで山里と梨原の間に陣を構える。 その時、備前、備中、備後、安芸、周防の軍勢が六波羅の命令で上洛したが、三石の宿に

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、いかるのうたさんをフォローしませんか?

ハンドル名
いかるのうたさん
ブログタイトル
「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き
フォロー
「太平記」読み~その現実を探りながら~現代語訳付き

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用