ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~4~
夕暮れになって戦が終わったので、千種殿が本陣峰堂に帰って味方の負傷者と死者を調べると、七千人を越えていた。その中で主に頼りとしておられた大田と金持の一族以下数百人が討たれてしまっていた。そこで一方の大将ともなるべき者とお思いになったのだろうか、児島備後
七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~3~
そうしているころ、忠顕朝臣は神祇官の役所の前で集まって軍勢を分けて、北は大舎人寮から南は七条大路まで小路ごとに千余騎ずつを差し向けて攻めさせられる。武家側は防備の備えをして射手を前に立て騎馬を後ろに置いているので、敵のひるむところを見て駆けだしては追い
七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~2~
四月二日、宮は篠村をご出発になって、西山の峰堂を陣所とされ、従う軍勢二十万騎が谷堂、葉室、衣笠、万石大路、松尾、桂の里に拡がり、半ば野宿であふれていた。殿法印良忠は八幡に陣取る。赤松入道円心は山崎に陣を張る。その陣と千種殿の陣との間がわずか六㎞あまりな
七 主上みづから金輪の法を修せしめたまふ事 付けたり千種殿京合戦の事 ~1~
京都での数回の戦いで官軍が敗れて、八幡・山崎の陣もすでに小勢となったと噂されたので、主上は天下の情勢はどうなるのだろうとお心を傷められる。船上山の皇居に壇を作られて天子自ら金輪の法を行われる。その七日目の夜、日天子と月天子と星天子が一緒に壇上に現れたの
播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗というのは、薩摩の氏長の子孫であって、力が人並みを越え、力量は世に傑出していた。十二歳の春のころから好んで相撲を取っていたが、日本全国でついに片手でも相手になる者がない。類は友を呼ぶということで、同じ一族十七人が、みな同じく世
美作国の住人菅家の一族は三百余騎で四条猪熊まで攻め入り、武田兵庫助、糟谷、高橋の千余騎の軍勢と戦って数時間に渡って戦ったが、後方にいた味方が引き退いた様子を見て、初めから退かないつもりだったのか、または相手に後ろを見せまいと思ったのか、有元菅四郎佐弘、
この時赤松の軍勢の中から兵四人が進み出て、数千騎控えている敵の中へしゃにむに討って掛かった。その勢いは決然としていて、まるで樊噲や項羽が怒った形相以上である。近づくにつれてこれを見ると背丈二mを超える男で鬚が両方に生え分かれてまなじりが裂けてつり上がり
その日の午前十時頃、三方全てで同時に戦いが始まって、入れ替わり入れ替わりして戦う。寄せ手は騎馬の兵が少なく徒歩の射手が多いのであちこちの小路を塞いで一斉に激しく射る。六波羅勢は騎馬の兵が多いので行き違いながら駆け回り敵を取り囲もうとする。孫子の千変万化
先月十二日、赤松が合戦に敗れて引き退いた後は、幕府軍が常に勝ち続けて敵を討つこと数千人であったけれども、全国は依然として静まらず、そればかりか叡山が幕府に敵対して大比叡岳に篝火を焚き坂本に兵を集めて、なお六波羅へ攻め寄せるだろうと噂されたので、衆徒の機
この時、東塔の南谷の善智坊に一緒にいた豪鍳と豪仙といって全山に名の知れた勇猛な僧がいた。味方の大軍に引っ張られて心ならずも北白川を目指して退いていたが、豪鑒が豪仙を呼び止めて、「戦の習いとして勝つ時もあり負けることもあり、時の運によることだから恥ではあ
両六波羅はこれを聞いて、「思うに、叡山の者たちは大軍ではあっても、騎馬の兵は一人もいないだろう。こちらでは騎馬の射手を揃えて三条河原で待ち受けさせて、散ったり集まったりして左右に引きつけて狩りをするように射かければ、僧たちは勇猛だとは言っても歩くのに疲
京都で合戦が始まって、幕府方がどうかすると不利になっているということが噂になったので、大塔宮から使者を立てられて叡山の衆徒を味方にしようとされた。 これによって三月二十六日、全山の衆徒が大講堂の庭に集まって、「そもそも我が寺は仏が七社となって現れた霊
赤松はこれを聞いて、三千余騎を三手に分ける。一つの隊には足軽の射手を選りすぐって五百余人、小塩山へ回す。一隊を野武士に騎馬の兵を少し加えて千余人、狐川に構えさせる。一隊を槍・刀の正規の武士八百余騎を揃えて向日明神の後ろにある松原の陰に隠しておく。 六波
この頃全国は大いに乱れて、戦火が空を覆った。天子は玉座に座られたが、一年中穏やかな時が無い。武士は矛を振るって、軍旗のはためかない日が無い。これでは仏法の力で逆臣を鎮めなければ穏やか時が来ることはないというので、諸寺・諸社に命じて大法・秘法を行わせられ
しばらくすると七条河原や西朱雀で蹴散らされた兵達があちらこちらから駆け集まってまた一千余騎になったのだった。赤松がその兵を東西の小路を通って進ませ七条辺りでまた鬨の声を揚げたので、六波羅勢七千余騎は六条院を後ろにして押したり引いたり四時間ほど攻め合った
そのうちに隅田と高橋の大軍が小寺と衣笠の小勢に追い立てられ、退こうとするけれどもできず、朱雀大路を北へ内野を目指して退いていく者もあり、七条通りを東に向かって逃げる者もある。馬に離れた者はやむなく引き返して戦って死ぬ者もある。陶山はこれを見て、「あまり
陶山が河野に向かって、「どうしようもない寄せ集めの兵と一緒になって戦うと、なまじっか足手まといになって進退も思うままにならないだろう。六波羅殿から付けられた軍勢を八条河原に置いて鬨の声を挙げさせ、我々は手勢を選りすぐって蓮華王院の東から敵の中に駆け入り
日野中納言資名と同じく左大弁宰相資明の二人が一台の車に乗って内裏へ参上なさったところ、四つの門が開きっぱなしで、警護の武士は一人もいない。主上が南殿にお出ましになり、「誰かいないか」とお訊ねになるけれども、衛府その他の役所の役人も、弁官・文官もどこに行
これを見て飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、川原林二郎、小寺相模、宇野能登守国頼の五騎が続いてざっと川に飛び入る。宇野と伊東は馬が強くてまっすぐに流れを切って渡る。小寺相模は逆巻く水に馬を流されて兜の頂だけがわずかに浮かんで見えていたが、波の上を泳いだのだろ
その頃赤松入道円心は三千余騎を二つに分けて、久我縄手と西の七条から押し寄せた。正面の軍勢が桂川の西岸に臨んで川向かいにいる六波羅勢を見渡すと、鳥羽の秋の山風に家門ごとの旗が翻り、城南の鳥羽離宮の西門から作道、四塚、羅城門の東西、西の七条口まで固めて、雲
六波羅ではそういうこととは夢にも知らず、摩耶の城へは大軍を送ったのだから敵を攻め落とすのに一日もかかるまいと安心していた。その結果を今か今かと待っていたところに、寄せ手が負けて逃げ上ってくるという知らせがあって、実際の様子はまだ伝わらない。詳細の分から
兵達が何もせずに戦場で退屈すると敵に気力で負けてしまうと、同じ月の十一日に赤松は三千余騎で敵陣に押し寄せて、まず相手の様子をうかがい見ると、瀬川宿の東西に各家門の旗が二、三百たなびき、梢の風に翻ってその勢二、三万騎もいるだろうと見えた。味方はそれに比べ
こうするうちに、備前国の地頭や御家人もほとんど敵になったと伝わったので、摩耶城へ軍勢が加わらない前に討手を行かせよということで同じ月二十八日にまた一万余騎の軍勢を差し向けられる。赤松入道はこれを聞いて、「勝ち戦の利を得るには作戦としては不意を突き、大軍
先帝がすでに船上山にお着きになって、隠岐判官佐々木清高が合戦に負けた後、近国の武士たちが皆馳せ参じたということを出雲や伯耆の早馬が次々に六波羅に告げたので、ことはいよいよ大変なことになっていると、聞く人は皆顔色を失った。 これにつけても、京都に近いとこ
そうしている時に同じ月二十九日、隠岐判官と佐々木弾正左衛門がその手勢三千余騎で南北から押し寄せた。この船上山というのは、北は大山に続いてそびえ、三方は急な傾斜で、峰に懸かる白雲が中腹を取り巻いている。急いで作った城なので、まだ堀の一つも掘っておらず、塀
六条中将忠顕朝臣が、ひとりまず船からお降りになって、「この辺りには誰が武人として人に知られているか」とお訊ねになると、道行く人が立ち止まって、「この辺では、名和又四郎長年という人が、その人自身はそれほど名のある武士ではありませんが、家は富み一族は多く
夜もすでに明けたので、舟人は艫綱を解いて順風に帆を揚げて港の外に漕ぎ出す。船頭は主上のご様子を見申し上げて、ただ人ではいらっしゃらないようだと思ったのか、屋形の前に跪いて、「このような折に御船をお出し申し上げるのは、我々の生涯の面目でございます。どこの
官女がこのことを申し上げると、主上はなおあの者が騙そうとして言っているのではないかとお思いになったので、義綱の志の程をよくよく確かめてみようと、あの官女を義綱にお与えになった。判官は身に余る面目と思って大事にする事この上なかったので、ますます強い忠義の
畿内の戦がまだ収まらないのに、さらに四国、西国が日を追って乱れていったので、人は皆薄氷を踏む思いで、国の危ういことは深い淵に向かっていくようだ。 「そもそも今このように天下が乱れているのは、ひとえに先帝のお考えから事が起こっている。ひょっとして幕府に反
六波羅では、一方の討手に頼みにしていた宇都宮が千早城に向き合っており、西国の軍勢は伊東にさえぎられて上洛できない。こうなったら四国の軍勢を摩耶城に向かわせようと評議していたところに、閏二月四日、伊予国から早馬を立てて、「土居二郎と得能弥三郎が帝方になっ
そうしている間に、楠軍が強くて京都が無防備になったと噂されたので、赤松二郎入道円心が播磨国の苔縄城から討って出て、山陽と山陰の二つの道を塞いで山里と梨原の間に陣を構える。 その時、備前、備中、備後、安芸、周防の軍勢が六波羅の命令で上洛したが、三石の宿に
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下