ブログみるアプリ
日本中の好きなブログをすばやく見られます
無料ダウンロード
ブログ村とはIDが異なります
メインカテゴリーを選択しなおす
フォロー
三 新田義貞に綸旨を賜ふ事 ~2~
中心となって戦っていた軍勢たちはあれこれ理由を付けてそれぞれの国に帰ってしまった。兵糧運搬の道は途絶えて、千剣破城の寄せ手はすっかり気力を失ったということが噂されたので、また六波羅から宇都宮が派遣された。宇都宮の手勢、紀氏と清原氏の千余騎が寄せ手に加わ
2021/04/30 08:24
三 新田義貞に綸旨を賜ふ事 ~1~
上野国の住人、新田小太郎義貞というのは、八幡太郎義家から十七代の子孫で、源氏直系の名門である。しかし平家が世を治めて全国がその威勢に服していた時なので、やむなく幕府の命令に従って金剛山攻めの搦め手に向かっていた。 この時にどのような考えが浮かんだのだろ
2021/04/29 09:04
二 千剣破の城軍の事 ~4~
同じ三月四日、幕府から飛脚がやって来て、「戦いをせずに無駄に日を送るのはよろしくない」と指示があったので、主立った大将たちが協議して、味方の正面の陣と敵の城との間に高く切り立った堀に橋を渡して城に討って入ろうと策を立てられた。 このために京都から大工
2021/04/28 09:24
二 千剣破の城軍の事 ~3~
長崎四郎左衛門尉はこの様子を見て、「この城を武力で攻めるのは、人が討たれるばかりで成功しない。ただ取り巻いて兵糧攻めにせよ」と命じて、戦いをおやめになったので、退屈さに耐えかねて、専門の連歌師を呼び寄せて、一万句の連歌を始めた。その初日の発句を、長崎九
2021/04/27 08:31
二 千剣破の城軍の事 ~2~
この時、赤坂の大将金沢右馬助が大仏奥州に向かって、「この前に赤坂を攻め落としたのは、すべて兵士の手柄ではない。城中の構えを推測して、水を止めましたことによって、敵はまもなく降参したのです。このことからこの城を見ますと、これほど小さな山の頂に用水があると
2021/04/26 08:13
二 千剣破の城軍の事 ~1~
千剣破(ちはや)城の寄せ手は、前の八十万騎に、赤坂の勢、吉野の勢が加わって百万騎を越えたので、城の四方十余㎞の間は相撲見物のように取り囲んで、残る土地なく兵が満ちあふれていた。戦の旗が翻って靡く様子は秋の野のすすきの穂よりも多く、刀剣が日に映えて輝く有
2021/04/25 11:23
一 吉野の城軍の事 ~4~
南から回り込んだ吉野の僧の軍勢五百余騎が、長年住んで土地を知っているので、行く手をふさいで威を示しとどめ申し上げようと取り囲む。村上彦四郎義光の子、兵衛蔵人義隆は父が自害した時に一緒に腹を切ろうと第二の門の櫓の下まで駆け寄って来ていたが、父が大いに諫め
2021/04/24 08:29
一 吉野の城軍の事 ~3~
正面の合戦は切迫しているようで、敵味方の鬨の声が互いに混じり合って聞こえていたが、どうやらその戦いに直接戦いに臨んで戦うことが多かったと見えて、村上彦四郎義光が、鎧に立った矢六本が枯れ野に残る冬草が風に倒れたように折れ掛かったまま宮の御前に来て、「正面
2021/04/23 09:56
一 吉野の城軍の事 2
その頃、搦め手の兵が思いもよらず勝手明神の前から押し寄せて、宮がおいでになる蔵王堂へ討ちかかってきたので、大塔宮はもはや遁れられなくなったと覚悟をなさって、赤地の錦の鎧直垂に緋縅のまだ真新しい鎧をきっちりと身に着けられて、龍頭の兜の緒を締め、白檀磨きの
2021/04/22 08:34
一 吉野の城軍の事 ~1~
元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊は、六万余騎の軍勢で大塔宮がお籠もりになっている吉野の城に攻め寄せる。菜摘川の川岸から城の方を見上げると、峰には赤旗、白旗、錦の御旗が深山颪に吹きなびいて、雲か桜かと思われるほどである。麓には数千の宮の軍勢が兜を輝
2021/04/21 08:40
六 赤坂合戦の事 付けたり人見・本間抜け駆けの事 ~5~
死んだ者は再び生き返ることはない。どちらにしても死ぬ命なら、皆がそれぞれ力の落ちる前に出て行って、敵と刺し違えて思い通り討ち死にしようとしたのを、城の主の平野将監入道が高櫓から走り下りて、袖を取って、「もうしばらく軽率な事をなさるな。今はこれほどに力尽
2021/04/20 08:40
六 赤坂合戦の事 付けたり人見・本間抜け駆けの事 ~4~
さて、阿曽弾正少弼は八万余騎の軍勢を率いて赤坂へ押し寄せ、城の五百m四方を雲霞のごとくに取り囲んで、まず鬨の声を揚げた。その音は山を動かし地を震わせたので、苔の生えた崖も崩れるほどである。この城の三方は、川岸が高く屏風を立てたようである。南の方だけは平
2021/04/19 09:25
六 赤坂合戦の事 付けたり人見・本間抜け駆けの事 ~3~
惜しいことに、父の資貞は無類の弓取りで国の主要な人物である。また息子資忠は例のない忠孝の勇士であり一家の誉れである。人見は、歳は取っていたが、義を知り天の定めを承知していた事は、時とともに語り継がれる。この三人が同時に討ち死にしたと伝えられたので、知る
2021/04/18 10:49
六 赤坂合戦の事 付けたり人見・本間抜け駆けの事 ~2~
ここまで軍に付き従って兵に最期の念仏を勧める僧が二人の首を頼んで引き取り、天王寺に持って帰り、本間の息子源内兵衛資忠に初めからの有様を話す。資忠は父の首を一目見て、一言も口にせず、ただ涙に咽んでいたが、どう思ったのか、鎧を肩に掛け馬に鞍を置いてただ一人
2021/04/17 08:46
六 赤坂合戦の事 付けたり人見・本間抜け駆けの事 ~1~
その時、赤坂城に向かっていた大将阿曽弾正少弼は、後続の軍勢を待って合流するために天王寺に二日留まって、同じ二月二日の正午に開戦になるだろう、抜け駆けの者があったときは処罰するという触れを出した。そこに武蔵国住人で人見四郎入道恩阿という者がいた。この恩阿
2021/04/16 09:09
五 関東の大勢上洛の事 ~2~
こうしている間に、元弘三年正月末日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分けて、吉野、赤坂、金剛山へお向けになった。 まず吉野へは二階堂出羽入道道蘊を大将として、ことさら他の軍勢を加えず、二万七千余騎で上道、下道、中道から三手になって向かう。 赤坂へは、阿曽弾
2021/04/15 10:37
五 関東の大勢上洛の事 ~1~
その頃、畿内・西国の謀反人が日に日に蜂起するということが六波羅から早馬を仕立てて鎌倉に報告される。相模入道は大変驚いて、それでは討手を送れということで相模守の一族その他東国八か国の中のしかるべき領主を促して上洛させる。まず一族としては、阿曽弾正少弼、名
2021/04/14 08:14
四 赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜ふ事
その頃、播磨国の住人で村上天皇の第七皇子具平親王の子孫の六代目、従三位季房の末裔に赤松次郎入道円心と言って、弓矢を取っては無双の勇士がいた。生来度量が広くものに拘らず、親分肌だったので、この頃途絶えているものを受け継ぎ、廃れているものを興して名声を揚げ
2021/04/13 08:37
三 正成天王寺の未来記披見の事
元弘二年八月三日、楠兵衛正成は住吉に参詣して神馬三頭を献上する。翌日天王寺に詣でて白覆輪の鞍を置いた馬と白覆輪の太刀、鎧一揃いを献上する。これは、大般若経転読のお布施である。仏への祈願が終わって長老の寺僧が読んだ経の目録を持ってきた。楠はすぐに対面して
2021/04/12 08:22
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~6~
夜が明けると、宇都宮は七百余騎の軍勢で天王寺へ押し寄せ、古宇津の民家に火を掛け、ときの声を上げたけれども、敵はいないので戦いにならない。 「何かたくらんでいるのだろう。この辺りは馬の足場が悪くて道が狭いから、走り込んでくる敵に中を割られるな。背後を囲ま
2021/04/11 10:34
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~5~
そういう時に、河内国の住人で和田孫三郎がこのことを聞いて楠の前に来て、「先日の合戦で負けて腹を立てて京から宇都宮を差し向けるそうで、それが今夜すでに柱松に着いていますが、その軍勢は六、七百騎に過ぎないという話です。先に隅田と高橋が五千余騎で向かいました
2021/04/10 08:32
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~4~
両六波羅はこれを聞いて、おもしろくなく思われたので、再び攻めようと計画なさった。その頃京都があまりに無防備になるということで、鎌倉から上っていた宇都宮字治部大輔を呼び寄せて評議なさったのは、「合戦の習いとして、運によって勝敗が変わることは昔から無いわけ
2021/04/09 08:16
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~3~
そうしているうちに、明ければ五月二十一日、六波羅の軍勢五千余騎が、各所の兵を一カ所に集めて渡部の橋まで来て、川向かいに備えている敵の軍勢を見渡すと、わずか二、三百騎に過ぎない。しかも痩せた馬に縄の手綱を掛けたような武者たちである。隅田と高橋はこれを見て
2021/04/08 10:49
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~2~
楠はその湯浅の手勢を合わせて七百余騎で和泉・河内の両国を随わせ、大軍になったので、五月十七日にまず住吉・天王寺へ討って出て、渡部の橋から南に陣を張る。そうしているうちに和泉・河内の急使が次々に楠がいよいよ京都へ攻め上るということを伝えたので、洛中の騒ぎ
2021/04/07 09:08
二 楠天王寺に出張りの事 付けたり隅田・高橋・ならびに宇都宮が事 ~1~
元弘二年三月五日、左近将監時益と越後守仲時が南北の六波羅に任ぜられて、関東から上洛する。この三、四年は、常葉駿河守範貞一人で両六波羅の業務を執っていたが、強く辞退申し上げたためという話である。 楠兵衛正成は、前年赤坂の城で自害して焼け死んだ振りをして逃
2021/04/06 14:11
一 民部卿三位局御夢想の事 ~2~
お気の毒に、以前であれば錦の帳にお姿を隠し、あるいは紗羅のすだれの部屋にあでやかな身を隠して、侍る侍女は数知れず、あたりを華やがせて、大切にお仕え申し上げなさっているはずであるが、たちまちに変わったお忍びのお籠もりなので、都は近いけれども言葉を交わす人
2021/04/05 08:37
一 民部卿三位局御夢想の事 ~1~
そもそも年月の過ぎ去ることは、矢のように流れ下る急流のようである。悲しみと喜びが入れ替わることは、木が春赤い花を咲かせ、秋に葉を黄色く染めるようである。してみるとこの世の有様は、まったく夢と言おうか、現実と言おうか。人とはその憂いと喜びにともに心を動か
2021/04/04 10:31
六 大塔宮熊野落ちの事 ~9~
寄せ手は楯を雌鶏が翼で頭を覆うように隙間を作らぬように重ね並べて上にかざし、防ぐ兵は刀の鞘を外して、互いに近づくところに、北の峰から赤旗を三本、松の風に翻して、その勢六、七百騎程が駆け出てきた。その軍勢は近づくにつれて三手に分かれて、鬨の声を揚げて玉置
2021/04/03 09:39
六 大塔宮熊野落ちの事 ~8~
その夜は椎の木の垣根の隙間の多い山家に宿られて、夜が明けると小原を目指して、薪を背負った山の人と行き会って道の様子をお訊ねになると、無知な木樵でもさすがに分かるのであろうか、薪を下ろして跪いて、「ここから小原へお行きになるには、玉置庄司殿と言って、無二
2021/04/02 08:50
六 大塔宮熊野落ちの事 ~7~
その途中、小原、芋瀬、中津川という敵方の難所を通っていく道なので、かえって敵を頼りにしてみたいとお思いになって、まず芋瀬の庄司の所にお入りになった。芋瀬は、自分の屋敷にはお入れせず、傍の仏堂にお入れ申し上げて使者を送り、「熊野三山の別当定遍が幕府の命を
2021/04/01 11:18
2021年4月 (1件〜100件)
「ブログリーダー」を活用して、いかるのうたさんをフォローしませんか?