ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
そうしている内に、熊野の別当定遍がこのことを聞いて、十津川へ攻め寄せることは、たとえ十万騎の軍勢があってもできない、その近くの里人たちの欲の心を煽って、宮を別の場所におびき出し申し上げようと考えて、道の辻に札を書いて立てて、「大塔宮を討ち申し上げた者に
こうして十日あまりをお過ごしになったが、ある夜、主人の兵衛尉が客間に出てきて焚き火などさせながら世間話をした折りに、「皆さんはきっとお聞きになっていらっしゃる事もあるでしょう。本当でしょうか、大塔宮が京都をお出になって熊野の方にお出かけになったというこ
宮をそばの辻堂に置き申し上げて、お供の人々は民家に行って、熊野参詣の山伏どもが道に迷って来たと話をすると、民家の人々は気の毒がって、粟飯や栃の実の粥などを取り出して、その飢えを助けてくれる。宮にもこれを差し上げて二、三日ほどが過ぎた。こうしてずっといる
その夜は茂みの中のほこらで露の中に袖の片方を敷いて臥し、一晩中、「南無帰命頂礼三所権現、全山の仏法の守護神、仏の十万の眷属、八万の金剛童子、人々を救う穏やかな光が明るく、凡人聖人の区別無くこの世の闇を照らすなら、逆臣が滅んで朝廷が再び威光が輝く世を取り
こういうことでは南都の隠れ家はしばらくの間も安全ではなくなったので、すぐに般若寺をお出になって、熊野の方にお逃げになる。お供の人々は、光林坊玄尊、赤松律師則祐、小寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎と、かれこれ九名である
大塔宮二品親王は、笠置の城の安否をお聞きになるために、しばらく南都の般若寺に潜んでいらっしゃったが、笠置の城がすでに落ちて、主上は捕らえられなさったと聞いたので、虎の尾を踏む恐れがご自身の上に迫って、天下は広いと言っても御身をお隠しになれる所がない。月
時代はすでに末法に世になって、武家が天下の権力を握ることが、源平両家のどちらかとなって以来度々である。しかし天道は満ちても欠けるものだから、ある時は一代にして滅びあるいは一代も持たずに消えた。今、相模入道の一家が天下を治めることがすでに九代に及んでいる
相模入道はこうした妖怪にも驚かず、ますます変わったものを好むことの已むことがない。ある時庭先に犬たちが集まって噛み合っているのを見て、この禅門は面白いことだと思ってすっかりこれが好きになってしまった。 すぐに諸国に触れを出して、あるいは本来の税や年貢と
またその頃、洛中に田楽を楽しむことが盛んで、身分の上下に関わりなく皆がこれに夢中になっていた。相模入道がこのことを聞き及び、京都の本座や奈良の新座の田楽を呼び寄せて、夜も昼も他のことを放り出して楽しんでいた。夢中になる余り、主な大名たちに田楽師を一人ず
万里小路大納言宣房卿は、もとは先帝の世で長くお仕えになって信頼の篤かった人である上、息子藤房・季房の二人が笠置の城で生け捕られて遠流に処せられたので、父の卿も罪の深い人であるはずだったが、優れた力のある人だという評判が高いということで、幕府は特別にその
元弘二年三月二十二日に、後伏見院の第一の皇子が、御年十九歳で天子の位にお即きになる。御母は竹内左大臣公衡の御娘で後に広義門院と申し上げるお方である。同じ年、十月二十八日に賀茂の河原で大嘗会の御祓いがあって、十一月十三日に大嘗会が行われる。関白は鷹司の左
さて、先帝は出雲の美保の港に十日余りご逗留になって、順風になったので、舟人はとも綱を解いて御船の準備をして兵の船三百余艘を前後に並べて、雲の彼方を北へ漕ぎ出していく。青海原は暗く重く日は西北に沈み、雲や山を高く見せて月が東南の空に出ると、漁の小舟が帰る
そもそもこの詩の意味するところは、昔中国に呉、越といって並んだ二つの国があった。この両国の諸侯はみな王の道を行わず、武を以て国を治めていたので、呉は越を討って取ろうとし、越は呉を滅ぼして併合しようとしていた。こうして争い合うこと多年にわたった。呉・越互
その頃備前国に、児島備後三郎高徳という者がいた。主上が笠置にいらっしゃった時、お味方として兵を挙げたが、事が成らないうちに笠置は落とされ、楠も自害したと伝わったので、力を失って静かにしていたが、主上が隠岐国へ流されなさると聞いて、信頼できる一族たちを集
その頃備前国に、児島備後三郎高徳という者がいた。主上が笠置にいらっしゃった時、お味方として兵を挙げたが、事が成らないうちに笠置は落とされ、楠も自害したと伝わったので、力を失って静かにしていたが、主上が隠岐国へ流されなさると聞いて、信頼できる一族たちを集
明ければ三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉が五百余騎で道中を警護し申し上げて、先帝を隠岐国へ遷し申し上げる。お供の者と言えば、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、お世話する女房は三位殿御局だけである。そのほかは、皆甲冑を身にまとい、
三月七日、いよいよ先帝が隠岐国に流されなさるという話が伝わったので、中宮が夜に紛れて六波羅の御所へおでかけになって、中門にお車を差し寄せると、主上がお出ましになってお車の簾をお上げになる。 帝は中宮を都に残し申し上げて、宿で波の音を聞き、海辺で月を眺め
去る元亨元年の春の頃、元の国から俊明極といって、徳と智を備えた禅師が来朝していた。帝が直接外国の僧にお会いになるということはこれまでまったくなかったけれども、この帝は禅の宗旨をお聞きになって、さまざまな教えを受けようというお気持ちがおありだったので、仏
第九の宮は、まだ幼くていらっしゃるからというので、中御門中納言宣明卿に預けられ、都の中にいらっしゃった。この宮は今年八歳におなりだったが、普通の人よりも人柄がしっかりしていらっしゃったので、いつも、「帝がすでに人も通わぬ隠岐国とかに流されなさるなら、私
東宮に仕えていた万里小路季房は、常陸国へ流罪にして、長沼駿河守に預けられる。中納言万里小路藤房は、同じ国に流罪にして、小田民部大輔に預けられた。 左遷や遠流の悲しみは、いずれ劣らぬ悲しいことであるが、ことにこの二人の公家の心中は、推し量っても哀れであ
平宰相成輔は、河越三河入道円重が連行し申し上げて、これも鎌倉へとのことだったが、鎌倉までもお下し申し上げなくて、相模の早川尻で処刑された。 侍従中納言公明卿と別当実世卿の二人は赦免するということだったが、やはり警戒するところがあったのだろうか、波多野上
同じ月の二十一日、関白家の法印良忠を、六波羅の大炊御門油小路詰め所の小串五郎兵衛秀信が召し捕り、六波羅に差し出したので、探題・越前守仲時が斉藤十郎兵衛を使いにして申されたのは、「このごろ帝でさえ果たせなかったご謀反を、あなたのような身分で思い立たれたこ
源中納言具行卿を佐々木佐渡判官入道道誉が道中を警護申し上げて鎌倉へ送り申し上げる。途中で処刑されるだろうと、先にお教え申した人がいたのか、逢坂の関をお越えになる時に、 帰るべき時しなければこれやこの行くを限りの逢坂の関 勢多の橋を渡る時に けふの
笠置の城が攻め落とされる時召し捕られなさった人々の処分のことは、去年は歳末の諸事の取り込みのためにしばらく脇に置かれていた。年が替わると、公家の帝への挨拶、幕府の正月の評定が始まって後、幕府の使いの工藤次郎左衛門尉と二階堂信濃入道行珍の二人が上洛して、
その頃、桜山四郎入道は、備後国半分を手中にして、備中へ越えようか、安芸を落とそうかと思案していたところに笠置の城も落とされなさり、楠も自害したと噂が流れたので、一時味方に付いた者たちは皆逃げ失せてしまった。今や身近な一族、長年仕えてきた若党二十人あまり
寄せ手が手を変えて攻めれば、城の中は細工を変えて防いで、もはや何ともしようがなくて、ただ兵糧攻めにすべきだと一決した。こうして後は、全く戦うことをやめて、それぞれの陣に櫓を組み、逆木を並べて遠巻きにしたのだった。これには、かえって城中の兵は気が晴れるこ
さしもの東国勢も、思いの外に失敗をして、最初の合戦に負けてしまったので、楠の武略は侮りがたいと思ったのだろうか、吐田、楢原あたりにそれぞれ打ち寄せたけれども、そのまままた押し寄せようとは構えない。ここ暫く控えて、畿内の土地に明るい者を先立てて、背後を攻
はるばると東国から上ってきた大軍勢がまだ近江国へも入らないうちに笠置の城がすでに落ちたので、残念なことに思って一人も京へは入らない。ある者は伊賀、伊勢の山を越え、ある者は宇治、醍醐の道を通って、楠兵衛正成が立て籠もっている赤坂の城へ向かった。 石川河
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下