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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅷ308] 世の変革者(8) / 鑑三翁の弁明

    鑑三翁の誠実と豪胆とは、神にあって自由なキリスト者としての深い信仰に基づくものであり、井上氏の受け狙いの個人攻撃にもひるむことなく独り立ち上がった鑑三翁の姿は、かのパウロを彷彿とさせる。パウロはキリスト・イエスの昇天後に弟子たちによるキリスト信仰が拡大しつつあることを危惧して彼らを迫害する立場にあったが、ある日イエスの十字架の死の直後紀元35年(33年の説もある)、復活のイエスと出会いイエスの声を直接聞きパウロは回心した。そしてその後は翻ってキリスト・イエス信仰の宣教を行ってきたが、聖都エルサレムに帰ると、アジアのユダヤ教徒からの反感を買い彼らはパウロを捕え殺そうとした。パウロは殺される直前に千人隊長に助けられ、ローマ皇帝に助命を嘆願することになった。そこで千人隊長はパウロにユダヤ教徒に対して弁明する機会...[Ⅷ308]世の変革者(8)/鑑三翁の弁明

  • [Ⅷ307] 世の変革者(7) / 反駁を開始する !   

    以上の井上哲次郎の批難に対して鑑三翁は正面から反駁を行っている(『教育時論』第285号(明治26年3月15日発行)「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状:内村鑑三」)(全集6、p.126掲載)。鑑三翁の反駁文の要旨を記した。【‥‥私の第一高等中学校礼拝事件に関する井上氏の報知は事実ではないことをでっち上げている(※原文「誣〈ふ〉す」)と言わざるを得ない。私が天皇の尊影に対して奉り敬礼しなかったというのは全くの虚偽に過ぎないものだ。拝戴式当日には生徒も教員も尊影に対しての礼拝を命じられた事実はなかった。ただ教頭久原氏は私に命じて一人ずつ御親筆の前に進み出させて礼拝させた。ところが貴殿の記事中には「このような偶像や文書に向て礼拝しなかった」云々というような言葉は私の発したものではない。天皇陛下は我ら臣民に対して...[Ⅷ307]世の変革者(7)/反駁を開始する!  

  • [Ⅷ306] 世の変革者(6) / 「不敬」と言わば言え!

    私はかつてこの連載で《[Ⅳ234]日本人とか日本社会とか(14)/鑑三翁の気骨「不敬事件」》と題して、鑑三翁のいわゆる「不敬事件」について次のように記した。「鑑三翁は1891(明治24)年、当時勤務していた第一高等学校教育勅語奉読式典で、天皇真筆(のはずはないのだが)に奉拝(最敬礼)を為さなかった故に、同僚教師や生徒によって密告され批難された。その後新聞紙上では既に名の知られていた鑑三翁を批判する論調を掲げ、自宅には汚物が撒かれ生徒が押しかけて暴言を続けるなどの暴力もあった。キリスト教会関係者も、ごく一部を除いて手のひらを返す如く鑑三翁と離反し政府寄りの主張を繰り返した。いずれも全ては明治政府及びこれに連なる”お上”への恭順を示す迎合だった。」この「不敬事件」当時の鑑三翁の世間・社会への”反骨と抵抗と抗議...[Ⅷ306]世の変革者(6)/「不敬」と言わば言え!

  • [Ⅷ305] 世の変革者(5) / 福澤諭吉 何するものぞ

    今でもしばしば鑑三翁を旧約聖書「ヨブ記」のヨブの再来と呼ぶ人がいる。上述の一文を読めば、私にはよく理解できる。ヨブは、全くかつ正しく神を恐れ悪に遠ざかる日々をおくっていた。東方の人々のうちで最も大いなる者と言われていた。ところがある日神のゆるしを得た上でのサタンの企みにより、家畜の羊七千、らくだ三千、牛五百、雌ろば五百、多くのしもべたちを全て殺された。さらに彼の愛する子どもたち男の子七人、女の子三人全員をも殺されてしまう。そしてヨブ自身も足の裏から頭までいやな腫物で悩まされるのだった。そんな彼を慮った信頼する妻も、神を恨みのろって死になさいと言い彼の許を去った。これを聞きつけた老若の友人たちがヨブの許を訪ね慰撫する。ところが友人たちは、ヨブの神への信仰が不足していたからだとまで言う。だがヨブはそんな愛情の...[Ⅷ305]世の変革者(5)/福澤諭吉何するものぞ

  • [Ⅷ304] 世の変革者(4) / ”大社会”に対する悲憤慷慨   

    【私に欲念があるからこそ、私は社会という化け物にとらわれでしまうのだ。私の肉は食われ血まで啜られてしまうのだ。私が野心を満たそうとするから、私は政治家の罠にかかり、地縁血縁などの門閥によってたぶらかされてしまうのだ。社会は大きく、しかも強力なものとはいえ、私を誘惑する際には名誉や利益(※原文「名利」)を求めるだけで、それ以外には何ものもない。だから私が名誉や利益を嫌悪するに至ったときには、私は社会の厄介者となって、社会が私を憎んで私を殺さない限り、社会に隷属する危険は私にはなくなるのだ。これは宗教家が言うところの「世に死して天に生きる」の途であって、社会を足下に踏みつけるためには、欲念を心の外に棄て去ることが重要である。‥‥しかしながら社会というものは大きく強大なものだ。私はこれに比していかにも小さくして...[Ⅷ304]世の変革者(4)/”大社会”に対する悲憤慷慨  

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