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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅳ240] 日本人とか日本社会とか(20) / 日本人の宗教的心性/仏教観  

    鑑三翁の「仏教観」については、キリスト者としての冷徹な見方も示している。珍しく次のような問答形式の一文を書いている。「仏教」に関するもので、問答形式で少し気楽に執筆しているのが特徴だ。《》内は質問者。【《世の中の人は一般的に世界の宗教の中で「仏教」は最も哲学的だとする考え方がありますが、あなた〈注:鑑三翁のこと〉もそのように考えていますか。》その通りです。もし「哲学的」という言葉が「形而上学的」という意味であれば、そのとおりだと考えます。私は仏教ほどその教義の中に逃げ道を備えた宗教はないと考えています。仏教は実に全ての宗教を総合した宗教のように考えられます。その中には何でもあるというのですが、それは何もないという事を証拠だてるのかもしれません。《しかしあなたは仏教というものがわが国にもたらした大きな貢献(...[Ⅳ240]日本人とか日本社会とか(20)/日本人の宗教的心性/仏教観 

  • [Ⅳ239] 日本人とか日本社会とか(19) / 尊い宗教的素養はどこへ

    鑑三翁は先述のように往時の日本人の宗教的信仰心の希薄さを指摘する一方で、下記のように実は日本人は数千年来古くから”宗教的素養”を有していたのだと記している。明治初めから”祭政一致”をスローガンとする政府の「神道国教化」政策が打ち出され、この神仏分離政策によって「仏教排斥運動」が全国各地で展開され、仏堂や仏像、経文などが毀壊された。その結果として日本人は”宗教的信仰心”への信頼を希薄化させてきたのだと鑑三翁は断言する。この歴史観は興味深いものだ。【私は多くの良き信仰をもった日本の仏教徒を友人に持っている。日本人は元々は宗教的な民族である。明治時代と大正時代の日本人からは日本人の深い宗教性を推し量ることはできない。日本人は元々はこのような宗教心のない敬虔な心を持たない民族ではなかった。宗教的には全く無関心の薩...[Ⅳ239]日本人とか日本社会とか(19)/尊い宗教的素養はどこへ

  • [Ⅳ238] 日本人とか日本社会とか(18) / 人情と世間風潮の傀儡児

    また鑑三翁は「情/理/義」の面から見た日本人の特徴的性向について次のように記している。【情は天然のものであり、理は学習で修得するものであり、義は信仰に由るものだ。情の人は生まれたままの人であり、理の人は修養を積む人であり、義の人は信仰をもつ人だ。歌人は情の人である。哲学者は理の人である。預言者は義の人である。情の民は日本人、理の民はギリシャ人、義の民はヘブライ人(ユダヤ人)に代表される。この三者の中で最も貴い民はいずれかは言うまでもない。日本人は特に情の民である。日本語は情を表すのに最も適している。日本人は義理と人情とを区別することができない。日本人の間では、不人情は不義である。忠孝道徳は情的道徳である。日本人は情に打ち勝つことがどれほど偉大な事かを知らない。多くの日本人は毎年情のために生命を捨てる。しか...[Ⅳ238]日本人とか日本社会とか(18)/人情と世間風潮の傀儡児

  • [Ⅳ237] 日本人とか日本社会とか(17) / 日本人の”癒し"と"慰め” 

    日本の「臓器移植法」の成立に関しては、人体の臓器を他人に移植すると言う現代医学の進展によってもたらされた革新的医学技術の採用の可否をめぐって、数年間にわたって議論が沸騰した。その結果1997年に法律は制定された。それ以後日本人の臓器提供者は欧米に比較すれば(移植する臓器にもよるが)、比較的少数で推移している。「臓器」の「移植」は日本人の「性分」にそぐわないのかもしれない。神から与えられた自分の身体の臓器を他の人の生命と福利のために提供することに抵抗感の比較的少ない欧米の人たちと比較すると、あるいは日本人の身体感覚は曖昧で盪(とろ)いのかもしれない。神との対峙で鍛錬されてきたキリスト教徒の国の人間との違いが「臓器移植」という医学技術の適用に如実に表れているのかもしれない。そして正月には神社に初詣、結婚式はキ...[Ⅳ237]日本人とか日本社会とか(17)/日本人の”癒し"と"慰め” 

  • [Ⅳ236] 日本人とか日本社会とか(16) / 日本人は浅い民である

    【日本人は浅い民である。日本人は喜ぶ際にも浅く喜ぶ、怒る際にも浅く怒る、日本人はただ己の我(が)を張る際に強いだけだ。いまいましいことは日本人が怒る時の主なる動機であって、日本人は深く静かに怒る事ができないのである。誠に日本人の中には、人間が永久に深遠に怒る事がいかに正しくて神らしい事であるかをさえ知らない者が多い。だから彼らの反対はこわくない。彼らが怒る時には怒らせたままにしておけばいいのである。電気鰻(うなぎ)が溜めておいた電気を放散すれば、その後は無害になってしまうように、日本人は怒るだけ怒れば、その後は平穏な人となってしまうのである。だからもし外国人が日本人のこの心裡を知ってしまえば、彼らは日本人を扱う方法を知ってしまい日本人を少しも恐れなくなるであろう。‥‥「淵々呼びこたえ」(詩篇42:7)(注...[Ⅳ236]日本人とか日本社会とか(16)/日本人は浅い民である

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