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古代四方山話 https://blog.goo.ne.jp/kaorio39

古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。

咲くやこの花
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2020/07/24

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  • 神功皇后の裏切り

    第10代崇神天皇が実在する初めての天皇で、倭の五王「武」=第21代雄略天皇が現れるまでは、ヤマト政権はずっと連合国家であり、天皇は連合の盟主だったと考えています。「宋書倭国伝」には讃と珍は兄弟、興と武も父親を済とする兄弟であると書かれています。ところが、珍と済がいかなる関係にあったのかについては書かれておりません。二つの系譜は血縁関係になかった可能性があります。このことから倭の五王の頃までの天皇というのは、万世一系ではなく、連合しているクニグニの首長の持ち回り制だった可能性さえあるのではないかと、最近、私は疑っています。そんな中、第12代景行天皇からヤマトタケルを経て第14代仲哀天皇までは、血族で皇統を引き継ぎ、専制君主を目指して東奔西走していたのではないでしょうか。代が替わるごとに宮を遷す歴代遷宮が当たり前の...神功皇后の裏切り

  • オオクニヌシの幸魂 奇魂 ②

    神話の中でオオクニヌシの幸魂・奇魂は自らを「やまとの国の三輪山(御諸山)に祀れ」と指示しています。指示どおりに祀られた三輪山・大神神社の大物主神がこのオオクニヌシの幸魂・奇魂です。倭大物主櫛甕魂という名前もお持ちです。この名前の櫛甕魂も怪しい…。ひょっとしてオオモノヌシが小さな蛇となって櫛笥に入っているのも櫛=越で、越を暗示している可能性はないでしょうか?するとオオモノヌシは出雲の神と思いきや、越の神なのでしょうか?神武天皇即位前紀では、神武天皇がヤマトにやってきたとき、ヤマトに盤踞していたのは「夷」だったことが歌われています。蝦夷であるならば、出雲よりも越や関東のほうがそれらしい…。櫛甕魂の櫛は奇であり越だとすると、甕とは関東の神と考えられる天津甕星の「甕」でしょうか?天津甕星=天香香背男は関東といっても常陸...オオクニヌシの幸魂奇魂②

  • オオクニヌシの幸魂 奇魂 ①

    縄文時代の人口密度の数字を眺めていると、また妄想に捕らわれてしまいました。今回は幸魂・奇魂についてです。縄文後期の100万方kmあたりの人口(推定)は、関東が一番多く161人、中部が73人、東北65人、北陸63人、東海54人と続きます。中国地方が最も少なく7人です。推定人口16万300人のうち、14万700人が東日本、西日本はたったの1万9600人だそうです。今から約2500万年前に気候が寒冷化して急激な人口減少がおこるまでは、東日本が圧倒的に先進地だったようです。中国地方の出雲は、縄文時代にはまだ過疎地域だったことでしょう。日本書紀のオオクニヌシ(オオナムチ)に関する神話に幸魂・奇魂が登場します。神々しく海を照らしてやってきた光が「私がいなければ、あなたは国を平定できなかった。私が共に国造りをしたからこそあな...オオクニヌシの幸魂奇魂①

  • 褐鉄鉱製鉄 ③

    原始的製鉄では世界的に褐鉄鉱が使われていたのだそうです。スウェーデンやハンガリーでは泥状沼鉄による褐鉄鉱製鉄が行われていました。鉄は熔解しなくとも700度~800度で可鍛鉄が得られるらしいですから、縄文土器を焼く温度で製鉄も可能です。1870年には既にドイツの学者、ルードヴィヒ・ベッグ氏が青銅器よりも先に鉄器がつくられたという「鉄器先行説」を主張してます。もし作られていたとしても粗製鉄器は腐食しやすいため、残らないのだといいます。古代の日本においても、ベンガラの材料として高師小僧や鬼板などを日常的に熱していたのであれば、褐鉄鉱による製鉄があったとて不思議ではないと思うのです。岡山県赤磐郡の門前池遺跡は弥生中期末の遺跡です。浅いピット内の一部に焼土面があり、その側から多量の褐鉄鉱(沼鉄)が出土してます。報告書では...褐鉄鉱製鉄③

  • 豊葦原の褐鉄鉱とベンガラ

    「豊葦原の瑞穂の国」「豊葦原千五百秋瑞穂国之水穂国」記紀における日本の美称です。瑞穂はとにかく、葦原をなぜ称えるのでしょうか。葦原が「豊葦原」と称えられたことは、葦の根もとに高師小僧や鈴石などと呼ばれた褐鉄鉱ができたことと関係しているのかもしれません。葦そのものは茅葺などに使用され、根もとの褐鉄鉱はベンガラの材料となったのだと思われます。ベンガラは人類が最初に使用した顔料です。17000年前のフランス・ラスコー洞窟の赤色壁画にもベンガラが使用されていることは有名ですね。日本においても旧石器時代の石皿や石臼に付着しているといいますし、縄文早期からは赤彩土器や赤色漆などの使用例があります。9500年前の鹿児島県・上野原遺跡の土器や、6000年前の福井県・鳥浜遺跡の櫛など、ベンガラを使用した遺物が多数出土しています。...豊葦原の褐鉄鉱とベンガラ

  • 天叢雲剣と越の国

    記紀神話の中で天岩戸隠れの際に、八咫鏡と八尺瓊勾玉は作られています。八咫鏡と八尺瓊勾玉が一般名詞であるならば、瓊瓊杵尊が天照大神からもたらされた鏡と勾玉が岩戸隠れの際のものと同一であるとは限りませんが、ヤマト政権のご先祖はどうやら八咫鏡と八尺瓊勾玉を作ることができたようです。八咫鏡と同じサイズと思われる平原王墓出土の大型内行花文鏡は仿製鏡だと考える研究者が多く、このことからも八咫鏡は自らで作成可能な鏡であると推測できそうです。対して天叢雲剣はヤマタノオロチの体内から出た剣とされます。ヤマタノオロチを退治したスサノオの十握剣(天羽々斬剣)ではなく、敗者の側の剣が天皇のレガリアとなっていくのです。天叢雲剣とはそれほど別格なものなのでしょうか。スサノオの十握剣が欠けたというのですから鉄剣のように思われるのですが、江戸...天叢雲剣と越の国

  • なぜ草薙剣は固有名詞なのですか

    八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣。なぜ剣だけが固有名詞なのかが、ずっと気になっています。卑弥呼の墓かもしれない福岡は平原王墓出土の大型内行花文鏡は、直径46.5センチもある鏡です。この鏡の円周は、漢の時代の寸法で「八尺」=八咫となるため、発見当時から伊勢神宮に伝わる八咫鏡との関係が取り沙汰されてきました。具体的な数字ではなく大きいという意味で「八」が使用されたと思われてきましたが、平原王墓の鏡が出土以降、八咫は寸法と考える研究者も増えたようです。また八咫鏡は、周防国の神夏磯媛が服従の意を示すために景行天皇に差し出しています。唯一無二のものではないようです。八咫鏡というのは円周が八咫の長さになる大きな鏡を指す一般名詞だと考えられます。八尺瓊勾玉についても、岡県主・熊鰐や伊都県主・五十迹手、周防・神夏磯媛が服従に差し出し...なぜ草薙剣は固有名詞なのですか

  • 大王(おおきみ) 絶対君主と連合体の盟主

    3世紀の遺跡と考えられる奈良県の纏向遺跡からは、他の遺跡より多くの比率で外来土器が出土しています。この遺跡は実在した初めての天皇とされる崇神天皇から垂仁、景行天皇と三代にわたる都の跡だと考えられています。遺跡のあり方から初期ヤマト政権は絶対君主が統治したものではなく、各地のクニグニが連合して国家を成したものとの説が昨今では有力です。ヤマト政権の大王が絶対君主ではなく、各地域の連合体の「盟主」という存在だったのは、いつまでなのでしょうか。少なくとも、倭の五王「珍」や「済」の時代までは連合体の盟主だったように思えます。「宋書倭国伝」に425年の珍の朝貢の際「珍、又倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む」と記されています。自身が「安東将軍倭国王」の称号を賜るにあたり、何故か臣下の称号まで宋の...大王(おおきみ)絶対君主と連合体の盟主

  • 淡路島の弥生鉄器工房

    鉄器製造が北部九州に偏っていたとされることに、まず一石を投じたのが淡路島です。播磨灘を見下ろす海抜200メートルの地にある五斗長垣内遺跡は、弥生時代後期の遺跡です。23の竪穴式建物のうち12棟が鉄器工房とみられ、約130点もの鉄器が出土し世間を驚かせました。およそ100年間にわたり鉄器作りをしていた様子です。ほぼ同時期、五斗長垣内遺跡から6キロほど南西に舟木遺跡が存在しています。舟木遺跡からも4棟の竪穴建物跡と刀子などの鉄器や鉄片、約60点が出土したそうです。どちらの遺跡も2世紀後半が最盛期で、3世紀には終わっていたようです。突然山の上に現れた2つの遺跡は、3世紀、大阪湾の奥に纏向遺跡ができた頃に何故か消滅しています。この2つのムラに当時貴重だった鉄器を作らせていたのは、はたして淡路島の勢力だったのでしょうか。...淡路島の弥生鉄器工房

  • 淡路島と銅鐸

    国産みの島、淡路島からは21点もの銅鐸が出土しています。淡路島の銅鐸を思うに、イザナギは鐸(さなき)の神だと感じます。松帆銅鐸は弥生時代中期前半の最古級の銅鐸と同じ特徴を持っているそうです。出雲の荒神谷と同范の銅鐸も出土しています。この銅鐸に付着した植物片の放射性炭素年代測定を実施したところ、銅鐸は紀元前4世紀から紀元前2世紀に埋納されたということがわかったと、南あわじ市の教育委員会より発表されています。松帆銅鐸の研究が進み、私には銅鐸を埋納した理由がますますわからなくなりました。銅鐸が埋納された理由は、首長霊信仰の成立によるものであると多くの研究者が発言されています。しかし松帆銅鐸は紀元「前」4世紀から紀元「前」2世紀に既に埋められたというのです。この埋納が首長霊信仰と本当に関係しているのでしょうか。しかも銅...淡路島と銅鐸

  • 国生みの天瓊矛と鐸鉾

    記紀の国生み神話において、伊弉諾尊・伊弉冉尊が下界をかき回した「天瓊矛」。「瓊」とは玉のことなので、天瓊矛とは玉で飾られた矛だと解釈されています。御統の玉が触れ合う音を「瓊音もゆらに」と表現されているように、玉が触れ合う音には霊性があると考えられていたようです。天瓊矛も一つの勾玉が飾られていたということではなく、御統のようにたくさんの玉が飾られていたことと思われます。矛を動かすことにより玉が鳴り、霊性を高めて島を生んだのでしょう。またアメノウズメは「鐸つけたる矛」を持って舞っています。長野県の小野神社の「鐸鉾」には12個の鉄鐸が吊り下げられています。アメノウズメの矛もこれと同様に鉄鐸がついていたことでしょう。どうも神事に使用する矛は何かを付けて、音を立てて使うものだったような匂いがします。伊弉諾・伊弉冉が天瓊矛...国生みの天瓊矛と鐸鉾

  • 出雲大社 雲太・和二・京三 ②

    出雲大社を建てたのはさて本当にヤマト政権側だったのでしょうか。当初、出雲大社を建てたのが、ヤマト政権を嫌って飛び出した(あるいは追い出された)出雲サイドだったら面白いのですが。まつらわぬ民、蝦夷とともに出雲のモニュメントとして、大国主神鎮魂の巨大神殿を勝手に建てていたら…と思うのです。縄文時代から越や東北では巨木柱の文化がありました。金沢市のチカモリ遺跡では直径92センチもあるクリの巨木を切り出してウッドサークルを作っています。能登半島の真脇遺跡でも同様の堅いクリの巨木によるウッドサークルが出土しています。富山県の桜町遺跡では、はるか縄文時代に既に高床式の建物が存在し、渡腮仕口などの高度な木材加工技術を使いこなしていたことが判明しています。著名な青森の三内丸山遺跡でも巨木の掘立柱建物が再現されていますね。この巨...出雲大社雲太・和二・京三②

  • 出雲大社 雲太・和二・京三 ①

    雲太・和二・京三10世紀の公家の子弟たちの副読本「口遊」にある、巨大建築のベスト3です。出雲大社が太郎で一番、大和の大仏殿が二番、京都御所が三番目に大きいという意味です。当時の奈良・東大寺大仏殿は今と同じ約45メートルだったそうです。出雲大社はそれよりも大きく、上古には32丈、中古には16丈(約48メートル)あったと伝えられています。そんな高い建築物なんて伝説に過ぎないと思われてきましたが、2000年に出雲大社の境内から、直径1.35メートルほどのスギの大木を鉄の輪で3本束ね、直径約3メートルの柱とした跡が発見されました。出雲大社に伝わる本殿の平面設計図「金輪御造営差図」に描かれた9本の柱のうち、最も重要な「心の御柱」「宇豆柱」「側柱」が図面通りに発掘されたのです。大手ゼネコン大林組が古代出雲大社復元プロジェク...出雲大社雲太・和二・京三①

  • 久延昆古命 ②

    クエヒコはヤマタノオロチ。名前を言い換えていくとそうなります。クエヒコ→山田のソホド→山田の案山子→山田の蛇→ヤマタノオロチ古事記ではヤマタノオロチは「越(高志)」だとされます。そして久延昆古命を祭神とする神社が越にもちゃんとあります。能登半島にある延喜式内の古社、久氐比古(くてひこ)神社です。「くて」は地滑りを表す語であるから「くてひこ」は石動(いするぎ)と関係する神との説もありますが、久氐比古神社には天目一箇命や火産雷神も祀られていることから、久氐比古は製鉄神と考えられます。たたら製鉄の鍛冶師は片目で炉を見続けるため片目を失明してしまうことから、天目一箇命は製鉄の神として信仰されます。この神が一時、久氐比古神社の主祭神でした。また鍛冶師たちは片足でたたらを踏み続けるため、片足を痛めてしまう、一本足の案山子は...久延昆古命②

  • 久延昆古命 ①

    三輪山をご神体とする大和国一之宮大神神社の末社に、久延彦(くえひこ)神社があります。御祭神は久延昆古命(くえひこのみこと)。社殿前の展望台は奈良盆地、大和三山が眺められるビュースポットです。古事記に「大国主命の国譲りの際、少彦名命の名前を誰も知らなかったが、久延昆古命だけはその神が少彦名命であることを知っており大国主に教えた」というエピソードが記されています。久延昆古命は「足はいかねども天下のことをことごとく知る神」と記されており、知恵の神として信仰されています。また「謂はゆる久延昆古は今者(いま)に山田の曾富騰(そほど)というぞ」とあります。「そほど」とは案山子のこと。久延昆古命は山田の案山子だというのです。久延昆古とは崩彦で、風雨にさらされ朽ち果てゆく案山子のことだと解釈されています。古事記は何故、久延昆古...久延昆古命①

  • 崇神天皇と纏向遺跡 ②

    纏向遺跡から考えるに崇神天皇というのは共立された実権の薄い、どちらかといえば祭祀王的な天皇であると想像されます。祭祀王のはずなのに、崇神天皇は祭祀を次々と手放しています。大物主神は神の指示どおり、子孫の大田田根子を探し出して祀らせます。倭大国魂神も、倭大国魂神の子孫である市磯長尾市に祀らせます。天照大神も祀れません。皇女の豊鋤入姫に託して笠縫邑に祀らせます。出雲の神・大物主神や、大和の地主神と考えられる倭大国魂神を祀れないのはともかく、八咫鏡・天照大神を祀れないというのはどういうことなのでしょうか。卑弥呼の鬼道の時代ですから、神は巫女が祀るものだったからなのでしょうか。大物主神も倭大国魂神もそれぞれ子孫が祀っています。崇神天皇は、天照大神とは関係のない氏族だということなのでしょうか。では崇神天皇は一体どこの何者...崇神天皇と纏向遺跡②

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