今頃、かもしれないけど虹の橋を渡ったあの子のことを考えてYouTubeをたぐっているうちにぶつかった。無理になにかの宗教にあてはまらなくても大丈夫だと感じた。既存の宗教にきちんとはまるのはなぜか窮屈なのだ。奉仕って私の生活にあてはめてなんだろう?私は産んでいない子供を育てている親の介護をしている動物が好きでたくさん育ててるたくさん、見送っている大変な状況に生まれてきた動物を守る人達のお手伝いをしているすこしでも地球環境のために太陽の光を電気に変えているいまなにしてる?といわれたらこれくらいしか思い浮かばないけど奉仕は流動的で目の前にあらわれたことをひとつひとつできるだけのことをすることなんだろ…
愛犬が旅立ったあっと言う間だった。体調を崩してたった2日で。ペットは愛と光だけでできているんだとあの子の亡骸をみて思った人間みたいに邪心や信念やらプライドやらめんどくさいものにしばられないで大好きな飼い主とご飯と寝床と散歩父が亡くなっているので父の写真が預かるさきに遊んでると、いった、聞こえたきがした。大切な家族、ペットがさきに死ぬということはいきること、しぬことが地続きになる混在することになるある意味、親がさきに死んでおけば子は少しは、しぬことが怖くないか、とも最近おもう。昨日はこんな落とし穴がまっていたのか、と思い今日は泣きながらも青空がまぶしいあの子に会えるまで頑張っていきていこう。そし…
キリスト教の原罪という言葉が嫌いだったなんかよくわからない罪悪感を背負わされるようで。でもお正月、映画十戒をみた。なんと人間はあんな昔からおなじことを綿々と繰り返している現状に嘆き救い主を求めたり救い主なんてこないとやけっぱちになったり嫉妬していじわるしたり目の前の奇跡があったとしてもすぐ忘れてしまって希望の光がみえないと悪い言葉にすぐ乗ってしまったり欲望には逆らえなかったり、、人間が理想や希望を持っても非常に揺らぎやすい存在であることが原罪と考えるほうが自然ではないだろうか?みたことないアダムとイブがりんごをたべたからと言われるよりも。そんなことを思った今年のお正月でした。
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