大倭神社は日本武尊東征の際に素盞嗚尊を祀り氷川神社とし、創建したと伝えられ明治年間に近在の村社を合祀し,現在の名に改称したと伝わる古社であるそんな由来はさておき興味深いのは片隅に安置された特異な庚申塔だ邪鬼に坐した丸彫りの青面金剛像が笠付角柱の上に乗る高さ2.5㍍ほどの石像角柱の塔身の上部に青面金剛種子を刻み、その下に力士に担がれた二童子を刻む台石には二鶏と三猿を浮き彫りで表現している早めの七五三を祝うか着飾った童女が老爺に手を引かれ参拝するほかに人気はなしあまり例のない大宮市文化財を碧空の下こころ往くまで堪能。おおやまとじんじゃさいたま市西区三橋大倭神社
全山赤いドレスに装いをこらした景色を届けますいつもと目先を変えましたコロナ禍お出かけもままならない諸兄,諸姉には刺激が強いかとは思いますが苗場ドラゴンドラ片道25分紅葉の空中散歩を楽しみましたどらごんどら
梵鐘を前に六地蔵はじめ石仏が程よく並ぶ気にいりに場所だ・・・・が、鐘は近年の物先代の鐘は今次大戦の激化に伴い軍に徴用され音声を断ったとかこの時、全国の梵鐘の80%が供出されたという一般に鐘楼はのバランスを保つため多くの寺院では石・コンクリート等で作られた代替梵鐘を吊り下げられたと聞く当山がどのようにこれを凌いだか聞き洩らしたが今は代替品ではない鐘が。帰りみち路上で見かけるオーナーらしき女性に声をかける(これ渋柿?)「甘いと思うよみんな持って行って袋もあるよ」(袋は遠慮するよ)「袋なしじゃどこかで盗ったと思われるでしょ」(二つ、三つ頂きます)今日の青空のようにご婦人のさわやかな言葉にこころ軽く帰途におっと清河寺の話を忘れるところだった永く、戦火や苦難の道をたどったようだ再三の盗難、火難に遭遇したが620年の法燈を...清河寺鐘と柿と
朝のうちのどんよりした空からやがてしとしと雨がそして今もしきりに雨が書棚から本を岩浪文庫を取り出す岩浪文庫の創刊は昭和2年7月以来「真理は万人によって求められることを自ら欲し芸術は万人によって愛される事を自らから望む。。。」岩波文庫発刊に際して『読書子に寄す』との文が巻末に今もなお締めくくりに崇高な《挨拶》が綴られている最初の刊行作品は『こゝろ』、『五重塔』、『にごりえ・たけくらべ』等22点其の後刊行された『出家とその弟子』を含めた書肆が若者に熱狂的に迎えられ当時の岩浪文庫人気を支えたようだたまたま家に在った本だが既に数十冊の発行を重ねている雨の一日ページをくくり当時の若者になった気分に浸るのもよかろう・・と今の若者の愛読書がどのあたりか知識はないが聞こえてくるのはアニメや軽い読み物や《読書離れ》決してそれが悪...岩波文庫
神明社2社に参拝する神明社は天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮を総本社とする神社である通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多いと、ここまではPCにての知識一般に天照大神が飛んできたことに由来し、創建したとの伝承が残っているようだ実際には主に御師と呼ばれる伊勢の伝道師が起こしたもののようだが文蔵神明社神殿は当然のことながら『神明造』根岸神明社こちらも『神明造』どちらも神話との関りはなさそうで村人の真摯な願いからの創建のようだ文蔵神明社はこの地の土地改良以前には水難がありその水難除け祈願から根岸神明社は江戸時代中期に活発になった伊勢信仰によっての創建のようだおのおのそのいきさつは異なるものの当時の人の信仰心に伝道師が火をつけたそういったところかと勝手に推察しているのだがぶぞうしんめいしゃ文蔵神明社さいたま市南...二つの神明社
この荒れた石仏群にすっかり惚れてしまったそうだ・これなんだよ・・・ともう少し整備された墓苑も本堂横にあることはあるのだが我が気にいりはこちらお寺さんにとって迷惑千万な事だろうが我が憧れの石仏群はなんといってもこちら本堂?を正面から見る裏手には荒廃した石仏群が・・・。恐らく無縁となってしまた墓に石仏だけが残されて始末もならずこんな具合にかこんな石仏が好きで探し歩いていたのだから我ながら〈悪趣味〉といえる写真映えの良さそうなのを(今の言葉で言えばインスタ映え?)いくつか披露するさわやかな秋の陽ざしの中、朽ち果てそうな石仏を見て廻る姿はやはり〈変〉かもうらわまんぞうじ埼玉,さいたま市南区辻2丁目浦和萬蔵寺
ラッキー転じてラッチー雌の犬なのでラチコこの名でいつしか10年以上も家族の一員として皆に愛され一緒に暮らした妻は特に愛情を注いでいたようだ妻が亡くなりすっかり元気をなくしたラチコは好きだった散歩も嫌がるようになり気力とともに脚力の衰えが激しかったのだろう最後は途中まで乳母車に乗せて散歩12月の寒い夜毛布にくるまった状態であの世にまるで妻の後を追うようにしてせめて妻と一緒の墓に葬ってやろうと寺と折衝したが受け入れられず庭の片隅に冬は陽ざしのもと、夏は涼風を求めいつもそこにいた海棠の根元に即席の粗末な墓のようなものを造り土葬。。。。。思えばそこは妻の病室の前、海棠は妻が嫁入りに際し持参した花不思議な縁だ散歩で立ち寄った市内の寺にペットの霊を弔う《畜霊合祀塚》の存在を知ったいまさらの墓移しもなるまいそこは仏間から妻も...ラチコの墓
琵琶湖北岸・湖北地方は・戦国時代には賤ケ岳野合戦等幾たびものいくさが繰り返されそのさなか仏像を戦火から守るため村人たちは、土中に埋めたり田んぼに隠したりとし、この地に栄えた仏教文化・ホトケたちを守ったという今、人たちはウチのホトケさんウチの観音さんと呼び、絶対的な存在で「良いことはすべて、観音さんのおかげ、悪いことは自分のせい」と思って暮らしている人が多いと聞くそんな琵琶湖・長浜のホトケさんを一点づつ東京上野市の場づ野池畔で展示閲覧してくれていた得難い場所私はしばしばここを訪れ小一時間も見とれて過ごしたそれも今月いっぱいで閉館というこの空白の時間をいかに過ごすか思案に暮れているところだコロナ禍での10か月振りの訪れが見納めとなった訪問時は長浜・総持寺・の「千手観音立像」丸顔で柔和な表情の面相丸みを帯び痩身とも言...KANNONHOUSE
川口市内の神社35社内、中核をなす9社を線で結ぶと『勾玉』の形になりあたかも『市』を囲み守護しているがごとく鎮座しているらしい参拝者は九社を巡拝することで勾玉を形作ることになり「生命の浄化・再生が九社のご加護で得られるとのこと私、自身はその大半を参拝しているのが未だ「浄化・再生」の実感はない未だ参拝していない二社を心を込めて参拝せよとの事か勾玉とは神代より祭祀具または装身具としても重要視されており、八咫鏡草薙剣とともに三種の神器の内の1つにも挙げられる三種の内勾玉は慈悲を象徴しているとの事だ何とか巡拝を済ませその慈悲にあやかりたいものだ・・・・が、徳の薄い我が身では無理な相談か川口勾玉巡り
万年寺は見沼代用水の工事を指揮した井澤弥惣兵衛の碑があることでも知られる弥惣兵衛は八代将軍徳川吉宗に招かれ、幕府勘定方に着任し、享保12年から埼玉県に広がる見沼の開発に着手利根川の水を下中条(行田市)から引き入れ、距離60kmにおよぶ見沼代用水路を掘り進め着手から半年という驚異的な短期間で掘りあげたと伝わっているその際、ここ万年寺に工事事務所を置いたらしい今に残る国、史跡の閘門式運河・見沼通船堀りもその事跡の一つとの事だそんな万年寺を訪れしばしその功績を偲ぶつもりが思わぬ降雨で長居はならず早々に引き上げた雨はすぐに止んだので少し早まったかの思いもまんねんてら(またはばんねんじ)さいたま市見沼区片柳万年寺
この神社明治時代に近隣6社を合祀して『七郷神社』と改称したとの事だが神社の国家管理の為に時の政府が推進した神社の合併策によるものなのだろうか神社合祀の目的はその数を減らし残った神社に経費を集中させることによって一定基準以上の設備・財産を備えさせ威厳を保たせ継続的経営を確立させるこ事にあったようだ一見、善政のようだが・・・・・。その結果、大正初期には全国20万社あった神社の7万社が廃され取り壊されたと聞くこの官僚的合理主義に基づいた合祀政策により「おらが村の鎮守様」は居住地からは氏子が参拝に行くことも「祭り」にも参加できない地域もできたと推測されるここ戸塚村周辺の居住者がそうした憂き目にあったか否か聞いてはいないが恐らく一時的には寂しい思いがしたのではないだろうかどこか今の世情に似ているような気がするのは考えすぎ...七郷神社
時として夏姿で歩けるような陽気があるかと思えば秋の訪れを実感するような小寒い日日があったりとまさに「女心と秋の空」定まらぬ中の気まぐれ散歩神社やお寺もいいがたまにやそんなことを忘れての歩きで過ごした一日だった見沼田んぼ秋景色
その昔、弘法大師が馬子に積み荷の塩鯖を施して欲しいと頼んだところ、馬子はそれを断った。すると馬が急に苦しみだした。驚いた馬子が非礼をわびて鯖を差し出すと、大師は馬に水を与え、馬は回復。それどころか、海に放った塩鯖も蘇生、元気に泳ぎだしたという鯖伝説欲を戒めた弘法大師の教えである四国の鯖伝説の残る本坊を訪れた当山住職が大師の教えに触れその姿を建立朝晩の寒さとは一転暑いほどの陽ざし当地を訪れる海辺でもないこの地に『鯖』は首をかしげたくなるが伝説を読めば納得した気分に信じた訳でもないがこじんまりとしたお寺になぜか不思議とホッとさせられたさばだいしこうしょうじ川口市差間2丁目鯖大師興照寺
ここは江戸だあちこちから人が集まり渦巻き、うごめく人が生まれるのも死ぬのも、珍しくないそんな江戸で殺された女と焼けた帯、謎めいた帯の奇妙な繫がりが、因縁の男達病心に虚空を抱える同心・木暮信次郎とその手下の伊佐治、そして実父から暗殺者に育てられ今は深い闇を抱える商人・遠野屋清之介これら三人各々の心を突き動かす事件は新次郎のいつもの通りやりきれない手法で真実があぶり出されていく風が鳴る。冬が来る。江戸の厳しい、そして美しい冬がそこまで迫っているのだで、終わる「バッテリー」シリーズで野間児童文芸賞、日本児童文学者協会賞、小学館児童出版文化賞、「たまゆら」で島清恋愛文学賞を受賞したと同一作家の手になるとは思えない大人向けの作品でそれら児童スポーツ小説も恋愛小説をも読み終えた私に驚きと感動を与えてくれる作品だあさのあつこ『雲の果て』読了
作者は青春野球小説の「バッテリー」で知られる文庫本全6巻は延べ1000万部を超のベストセラー小説で野間児童文芸賞を受賞の作品で野球少年である我が孫も全巻読み通したと聞いている一方、こちらはどうなんだろうそのあたりの調査はしてはいないのだが雨の一日久しく遠ざかっていた大人向けのあさの作品を手にする『弥勒シリーズ』8,9冊目それ以前の作は既に読破しているコロナ禍の時期本を求めて歩く足勇気がなく手近ので間に合わせてたのであさの作品を久しぶりに手にして感動をあらたにしつつあるところだ内容紹介や個人的評価は控えるそういったものは素人がみだりに表明すべきではないとの思いがあるから雨の日も楽しと『あさのワールド』『弥勒』の世界に遊んだ一日だった雨の日あさのあつこを読む
この辺額を見て瞬時に「一隅を照らす」その言葉が浮かんできてしまった「片すみの誰も注目しないような物事にきちんと取り組む人こそ尊い人である」との意味最澄の精神天台宗の寺でもないのに何でこの言葉が浮かんだか「照」と「光」の字に反応したか好きな言葉ではある因みに当山は曹洞宗の寺あまり関係はないのだがおそらく誰もが関心を寄せないだろう石造にひかれる中央に十二支が取り巻くこれをしつこく撮るりまくる何の意味もないのだが見渡せば我が好みに合致の石仏もどこか人間臭い所が痛く気に入ったちょっと載せすぎたかいいじゃないか明日は雨模様寺廻りは出来そうにない今日の処は誰も注目しないところに取り組んでみよう「一隅の精神で」。。とかみのだしょうこうじさいたま市緑区上野田上野田照光寺
恒久平和を願う「常泉寺『広島・長崎の火』を囲むつどい」が常泉寺で開かれた。参加者がキョウチクトウの葉で、原爆の熱線で溶けた「原爆瓦」に献水。「さいたま・常泉寺に『広島・長崎の火』を永遠に灯(とも)す会」が主宰した《詳細略9月7日東京新聞より一部抜粋・転写》この火を永遠に灯し核兵器と戦争をなくす被爆者と日本国民の願いを語り広げる為この地に「広島・長峰の火」モニュメントを建設したとある我がブログに政治は持ち込まないを信条としているのでこれ以上は語らないがこの寺で深い感銘を受けたことを伝えたく敢えて掲載したじょうせんじさいたま市見沼区染谷さいたま常泉寺原爆の火
国昌寺山門を観る改めて見るのは久しぶりの事山門は、江戸時代中期宝暦の頃、建築欄間の龍は、左甚五郎の作と伝わる棺を担いで門をくぐり抜けると龍に中身を喰われて軽くなるという伝説があるそのため門は閉じられ「開かずの門」になったと伝わっているまた、この龍はもと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もある日本全国いたるところにある左甚五郎伝説の一つかもしれないが・・・。」見落とされがちだが庭園もまた見事だ以前はこの辺りで不断に見られたであろう白鷺も今は石像に姿を残すのみか??????自然石だと思うがこちらは石の亀でも何でここに石仏と離れて弱い秋の陽ざしの中でのんびり庭園を見るのもまた楽しだ何度も訪れたところがまたいつもとちがったように見えるのも...国昌寺山門
新井宿源長寺ここは江戸時代見沼代用水の開発にあたった伊奈氏の菩提寺4代忠克以後の代々の墓があり地元民として感謝の意を伝えたい寺ではあるが今日の処は境内に横たわる巨大な釈迦涅槃像に関心が行く沙羅双樹のもと弟子や動物たちの深い悲しみの中釈迦は身を横たえ80歳で入滅像は頭を北向きお顔を西向きにして横臥この姿を「寝釈迦」と呼んでいるおだやかなお顔だ人生で何事かをなした人の寝顔は見んなこんなものなのか些細なことで悩んだり他人をうらやんだりが常なわが身ではとてもこのようには行くまい巨人の寝姿に感じ入っての合掌。げんちょうじ川口市赤山(SR新井宿駅近く)源長寺の釈迦涅槃像
代山正八幡宮は日光御成街道に面して鎮座している日光御成道は、江戸時代将軍の日光社参専用道路であった。元和3年「徳川家康の遺骸が駿河の久能山から日光に移された時、将軍秀忠が日光に向かった時が御成道の最初の通行という。以降、日光社参に利用された街道となったことから幕府管轄となったと伝わるこの先岩槻が当夜の泊りというから行列一同緊張と空腹を抱えてこの地を歩いたことが想像される多分八幡様参拝などは思いもよらなかったことだろう当時の殷賑ぶりは不明ながら現在は街道沿いの幾分さびれた鎮守様である半分、駐車場となった境内では数人の男達が食後の喫煙所とし談笑しているほかほかに参拝するものとてなくただ索漠とした広場は寂しいばかり…だっただいやましょうはちまんぐうさいたま市緑区代山代山の正八幡宮
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