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  • ローン・レンジャー

    今日で2月も終わり。早かったですね。そして2月29日はロッシーニの誕生日です。イタリアのオペラ作曲家で軽妙洒脱で喜劇性の高い作品(オペラ・ブッファ)を次々と発表しましたが40作目のオペラ「ウィリアム・テル」を発表後、引退しました。絶頂期真っ只中でしたが引退の理由は美食と料理で大好きなトリュフを探す豚を飼育するためでした。(゚∀゚)彼はすでに築いた巨万の富でパリにサロンを開きましたが彼の名の付いた数々のレシピが残っています。トゥルヌドロッシーニロッシーニカクテル彼の最後の作品である「ウィリアム・テル」序曲日本では運動会の定番曲として親しまれてきましたが1958年からTVで放映されていた「ローン・レンジャー」のテーマ音楽でしたのでとても懐かしいです。ローン・レンジャー

  • お菓子の家

    ヨーロッパではクリスマスの時期に「ヘンゼルとグレーテル」のオペラが上演されます作曲はフンパーディンクでライン川の支流ジークブルクに生まれケルン音楽院で学んだのちイタリアに留学しました。イタリアではワーグナーに出会いバイロイトで「パルジファル」の上演の助手をつとめてワーグナーの仕事から多くのものを学びます。「ヘンゼルとグレーテル」の作曲のきっかけは妹から夫の誕生日に子供達が演じるための音楽を依頼されたからです。グリム童話の残酷な部分をのぞいて明るい台本を書いたのは依頼した妹でした。森の朝を思わせるホルンの音色で始まる序曲子供から大人までハッピーになれるオペラです。初演はリヒャルト・シュトラウスの指揮で行われました。唯一のメルヘン・オペラでドイツ圏では現在でも上演回数上位の人気作品です。「ヘンゼルとグレーテル...お菓子の家

  • エリザベートと美しく青きドナウ

    革命後の不安定なオ―ストリア帝国の皇帝に18歳で即位したフランツ・ヨ―ゼフ。一目惚れを実らせて妃に迎えたのが16歳の美貌の皇妃エリザベートでした。身長は172cm、ウエスト51cm体重45kgの体型を保つために激しいトレーニングとダイエットにのめり込みますがお菓子も大好きでした。エリザベートはハプスブルク家の家風や厳格な宮廷が肌に合わずさまざまな口実を見つけてはウィーンを離れて旅を続けていました。彼女はハンガリ―で人気があり彼女自身もハンガリ―贔屓でした。エリザベートが愛したハンガリ―の陶器ヘレンド↓1867年オーストリアがプロイセンとの戦争に負けて落ち込んでいる国民を励ますためにシュトラウス2世が「美しく青きドナウ」を作曲しました。同年の4月―10月にかけて開かれた第2回パリ万国博覧会でシュトラウス2世...エリザベートと美しく青きドナウ

  • 莫大な財産を後ろ楯に。

    ヨ―ロッパのルネサンス時代にドイツで大きな出来事がふたつ起こりました。ひとつはグ―テンベルクの活版印刷、もうひとつはルターによる宗教改革でした。この頃に活躍した作曲家がジョバンニ・ダ・パレストリーナでした。サン・ピエトロの聖歌隊の楽長として11人の教皇に仕えます。最初の妻が世を去り宮廷出入りの裕福な毛皮商の未亡人と再婚し莫大な財産と土地と家を手に入れます。100以上のミサ曲と250曲を超えるモテットを書いて「教会音楽の父」と呼ばれカトリック教会ではグレゴリオ聖歌に次いで重要視されています。ルターによる宗教改革でカトリック教会に対する批判の動きはヨ―ロッパ各地にひろがりカトリック教会の普遍的な権威はゆらぎますがカトリックもこれを機に教義の明確化と内部改革をおこないます。パレストリーナの≪教皇マルチェルスのミ...莫大な財産を後ろ楯に。

  • 紳士の国の紳士

    近代イギリスの音楽の父サ―・エドワ―ド・エルガ―ほぼ独学で作曲を学びました。大作曲家にはワイルドで奔放な人生を生きた人が多い中、エルガ―は愛妻家で紳士でした。1899年「エニグマ変奏曲」の初演の大成功で世界的に有名になります。当時の国王エドワ―ド7世は母ヴィクトリア女王が長寿であったため58歳まで皇太子でした。彼はヨ―ロッパ中で浮き名を流し放蕩息子で過ごしたことで有名でした。ヴィクトリア女王の崩御に伴い王位に就くことになったエドワ―ド7世の戴冠式のガラ・コンサ―トへの楽曲の依頼を受けたエルガ―は「威風堂々」第1番を作曲します。初演を聴いたエドワ―ド7世はたいそう気に入り「中間部分のメロディーに合唱を入れては?」と提案しました。翌年の国王の戴冠式。「戴冠式頌歌」の終曲の「希望と栄光の国」に威風堂々のメロディ...紳士の国の紳士

  • シャム猫達

    中学生のお嬢さんがラヴェルの「水の戯れ」の練習をしています。「無理しないで。」と言っていますが少しずつ譜読みするのが楽しいようです。✨✨✨✨✨ドビュッシーとラヴェルは近代フランス音楽の代表的作曲家です。1901年に完成したラヴェルの「水の戯れ」は音楽史上初の印象主義の手法による作品でした。ラヴェルより13歳年上のドビュッシーが完全な印象主義の手法による初の作品「版画」を書いたのはその2年後でした。ドビュッシーは幼い頃から感受性が強く異常なほど神経質でした。上等な版画や書物に囲まれていなければ我慢できずプライバシーを頑なに守り知らない人と同席すると落ち着かなくなりました。人間よりも猫が好きでシャム猫を飼っていました。✨✨✨✨✨そしてラヴェルはもっとも凝り性で洗練された作曲家でした。ダンディで一分の隙もない身...シャム猫達

  • レモン アイスクリーム

    4月並みのあたたかさと思ったら一転して冬の寒さに逆戻り。着るものに迷いますね。昨日は厚めのジャケットにロング・ブ―ツで出かけました。手袋を片方落としたので買いに出かけましたが靴売り場にも寄り道です。✨✨✨✨✨ウィーン郊外リヒテンタールに生まれたシュ―べルト。子供の頃から抜群の才能を発揮して8歳で難関の国立神学校コンヴィクトの試験を受けます。この学校はアントニオ・サリエリの指導下にありウィーン楽友協会音楽院の前身校でした。試験官の一人であるサリエリはシュ―べルトに一番をつけています。サリエリは異例の要請を行い寮の外出禁止の規則を特例で免除して週に2度サリエリの自宅でレッスンを受けられるようにはからいます。15歳のシュ―べルトはサリエリの熱心なレッスンを受けたあと甘いものの好きなサリエリと共にグラ―ベン通りの...レモンアイスクリーム

  • ピ―チ・メルバ

    ワ―グナ―のオペラ「ロ―エングリン」結婚式でお馴染みの「結婚行進曲」が演奏されるオペラです。初演はリストが指揮しましたがパトロンであるル―ドヴィヒ2世のお気に入りの作品でした。✨✨✨✨✨アントワ―プを治めていたブラバンド公の息子ゴットフリートは魔法使いに白鳥の姿に変えられてしまいますがゴットフリートを殺害したと妹のエルザがぬれぎぬを着せられます。エルザが自分のために戦ってくれる勇者を探していたところ謎の騎士(ロ―エングリン)が現れエルザとの結婚と自分の素性を聞かないことを条件に助けてもらいます。約束通り二人は結婚することになりますが結婚式を終えたエルザは謎の騎士に素性を聞いてしまうのです。謎の騎士は「ロ―エングリン」と名前を明かしますが約束を破られたためエルザの元を去ります。去り際、ロ―エングリンは白鳥に...ピ―チ・メルバ

  • マーマレード

    夏ミカン3個でマーマレードを作りました。今朝はトーストとマーマレードの朝食です。↑朝食といえば懐かしい山の上ホテルが閉館です。カザルスホールや文京シビックホールの時に宿泊しました。夕食はカウンターの天麩羅がとても楽しみでしたが若かったのですね。(笑)✨✨✨✨✨ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル↑(薔薇ヘンデル)25歳の時にハノーファーで宮廷楽長として仕えていましたがその職を捨ててイギリスに渡ります。2週間で書き上げたオペラ「リナルド」が大成功をおさめ、アン王女から厚遇を受けてロンドンに居着いたのです。アン王女が急逝し、ハノーファー選帝侯ゲオルグがジョージ1世として即位します。ヘンデルは船上で「水上の音楽」を演奏しましたが巧みな演出で王に気に入られ宮廷付きの音楽家となりオペラのプロデュース業でも名声を得ました...マーマレード

  • パリのサロン

    ↑バロン・ド・ロスチャイルドドイツのフランクフルトに生まれたユダヤ人マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが開いた銀行はヨーロッパの主要都市に拠点を構えて19世紀には世界最大規模となり桁外れの巨大財閥に成長します。ビジネスで得た莫大な資産で芸術を庇護しサロン文化の中心的な存在となりました。サロンでは女主人が取り仕切る場合が多く食事や飲み物が出され音楽演奏、政治や芸術談議などが行われましたがロスチャイルド家のサロンは当時パリに多数存在したサロンの中でも最上級でした。屋敷を改装して40人編成のオーケストラが演奏できる舞台を持ち3000人収容可能な舞踏会場を作ります。当時、人気絶頂だったリストの演奏会を開き料理やお菓子でもてなしました。リストがニコロ・パガニーニの演奏を聴いて自らも超絶技巧を目指しますがその演奏を...パリのサロン

  • ウィーン楽友協会ホール

    ドイツのお土産に頂いたシュトレン。一口サイズで柔らかくてとても美味しいです。3月末までの日持ちということはイースターまでを意識してなのかしら…✨✨✨✨✨✨クラシック音楽館は追悼マエストロ小澤征爾2002年ニューイヤーコンサートのダイジェスト版です。指揮棒を持たないで指を自由自在に操り目からも顔からもビー厶が出ている❗全曲、頭に入れていて譜面台には曲順を書いた小さなメモが置いてあるだけ。ウィーン・フィル相手に「ウィーンかたぎ」も小澤ワールド全開。凄い❗中央の座席に美樹夫人、征良さん、征悦氏楽しそうな様子が何度も映し出されました。✨✨✨✨✨この楽友協会の大ホールは27年前から毎年多くの合唱団と共に弾かせて頂いた懐かしいホールです。客席はこんなに満席ではなくお花はありませんが名演奏が染み込んでいるホールの響きに...ウィーン楽友協会ホール

  • 初恋の味

    ルードヴィヒ・ヴァン・べートーヴェン1770年ドイツ西部の町、ボンで生まれました。父ヨハンは宮廷歌手として働いていましたかお酒が好きで毎日浴びるほど飲んでいました。母のマリア・マグダレーナは料理上手でしっかりものでしたが肺病で世を去ります。その時に往診に来てくれた医学生ヴェーゲラー。ルードヴィヒより5歳年上でしたが生涯切り離せない友情で結ばれます。母親の死後はヴェーゲラーからブロイニング家の子供達にピアノを教えてほしいと頼まれ多くの時間をブロイニング家で過ごしました。当主は若くして未亡人となったヘレーネでルードヴィヒを我が子のように扱い遊びに連れていったり礼儀作法、ドイツ文学、ラテン語の初歩も教えました。哲学書や文学書が揃うブロイニング家でルードヴィヒはゲーテやシラーの詩に出会います。ブロイニング家は彼に...初恋の味

  • 愛犬家

    リヒャルト・ワーグナー利己的で尊大しかし革新的で魅力的な天才作曲家です。彼は詩、音楽、絵などあらゆる芸術の一体化を目指しました。しかし初めは苦難の連続で借金まみれのワーグナーは妻ミンナを連れて逃亡を企て一旗揚げようと花の都パリへ行くことを決めます。しかし60kg近い巨大な愛犬のせいで馬車に乗ることができないのです。それでも犬を絶対に手放そうとせずにロンドンまで船に乗りそこから又、船でパリに向かうことにしました。ようやく乗り込んだ船が大嵐に見舞われ難破寸前になり地獄のような船旅を体験しますが何とかパリに到着します。この経験により出世作になる「さまよえるオランダ人」が作られたのです。≪さまよえるオランダ人≫ベルリン・フィル指揮クラウディオ・アバド(3‘08)このように亡命生活で各地を移動するときもコジマと再婚...愛犬家

  • ミドルネームはヴォルフガング

    昨夜のクラシックTVは若い演奏家達。ピアノにヴァイオリンチェロの演奏でしたが特に印象に残った曲はコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の第1楽章でした。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト20世紀のモーツァルトと讃えられ子供の頃から才能を存分に発揮してウィーンの音楽界に確固たる地位を築きます。10歳で書いたカンタータ≪金≫はマーラーに絶賛されR・シュトラウスは14歳で書いた管弦楽曲≪演劇序曲≫と≪シンフォニエッタ≫を手放しで褒めました。18歳で書いたオペラ≪ヴィオランタ≫プッチーニを感動させます。23歳で作曲したオペラ≪死の都≫はヨーロッパ中の話題になり30歳でウィーン国立アカデミーの作曲科教授に就任しました。そんな輝かしい人生に影が射します。ナチス・ドイツのオーストリア併合に伴いアメリカに亡命。疎開先に選...ミドルネームはヴォルフガング

  • ボンボン・ワルツ

    昨日はバレンタイン・ディ。可愛いチョコレート❣️を頂きました。(*^^*)✨✨✨✨✨ヨハンシュトラウス2世「ボンボンワルツ」op.307ウィーンの祝祭舞踏会でパウリーネ・フォン・メッテルニヒ侯爵夫人に献呈されました。彼女の夫はパリのオーストリア大使でありヨハン・シュトラウスとヨーゼフ・シュトラウス兄弟がパリで開催される万国博覧会に出席することを望んでいました。そしてヨハンはパリのオーストリア大使館でガラ・コンサートを指揮することになりましたがその時のオーケストラがのちのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が誕生するきっかけとなるのです。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が1900年のパリ万国博覧会に参加するときにはパウリーネ・フォン・メッテルニヒ夫人から支援を受けて初めての海外ツァーを行いました。世を去る少...ボンボン・ワルツ

  • 親の七光り届かず

    ↑モーツァルテウムフランツ・クサ―ヴァ・モ―ツァルト1791年、ウィーンに生まれました。モ―ツァルトの息子ですが彼が生まれて4ヶ月後に父親は世を去ります。母のコンスタンツェは息子を一流の音楽家に習わせてウィーンで勉強させました。父モ―ツァルトのピアノを作った職人でもあるシュトライヒャ―、父の弟子の一人であるフンメルウィーン音楽界の重鎮のサリエリなどウィーンの音楽界が総出でサポートしましたので青年時代までは良かったのですがその後は教授陣から教わった流行遅れのスタイルが影響したのか名声を得ることは出来ませんでした。1841年ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの没後50年の年にモーツァルテウム(現在の音楽大学)が設立され母のコンスタンツェは初代楽長は息子にと思っていましたが願いはかなわず53歳で世を去りま...親の七光り届かず

  • 連休

    1月はお正月以降毎週、東京泊りでハイ・テンションで過ごしましたが年ですね。疲れは1週間後にやってきました。右肘と左肩・首の痛みでブログも連休?です。腰痛にもドキッとしましたがこれは思いがけない方法で治りました。2度目の東京行き新幹線。京都を過ぎたあたりですでに腰が痛い。スマホで検索した結果椅子に角度をつけるとよくないことがわかり背もたれを倒さず太い大きなベルトをウエストに巻いた事で腰痛解消しました。肩や腕は日薬でしょうか。🥀🥀🥀🥀🥀昨夜、レッスンにやってきたお嬢さん。学校コンサートを終えたばかりですが又、新たな伴奏を引き受けてきました。今日の音楽の時間に弾くそう。「美女と野獣」1時間たっぷり楽しんで帰りました。ピアノ清塚信也連休

  • 訃報

    先日、ピアニストの江戸京子さんの訃報を知ったばかりでしたのに昨日は小澤征爾氏。中学生の頃から憧れていた指揮者が世を去られ寂しい限りです。目覚ましがいつ鳴るのかと思われるくらい長い夜になりました。訃報

  • 年に一度

    ドイツから帰国している方がレッスンにおいでになりました。レッスン後はご主人も加わりランチ・タイムです。焼き立てのビゴのパンのガーリック・フランス、明太子フランスにアン・プー・ドゥのふわふわのエッグ・コッペを召し上がって頂きました。デザートはダニエルのケーキ。混雑のまえに買うことが出来てラッキー。✨✨✨✨✨バッハ家の始まりはファイト・バッハという人物でボヘミアのドイツ系移民で白焼きパンの職人でした。プロテスタントでしたのでカトリックの迫害から逃れてルターの地である中部ドイツに落ち着きます。無類の音楽好きで仕事の傍らチターを手放しませんでした。その子供たちもパン職人をしながら音楽の修行に励んで町の楽士になります。さらにその子供達の中には教会のオルガン奏者を務めるものも出てきます。ヨハン・セバスティアン・バッハ...年に一度

  • 水仙 サー・ウィンストン・チャーチル

    今頃、五十肩?左腕が全く上がりません。右肘と首の痛みで今日はダウン。BSで「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」を観ました。✨✨✨✨✨✨若き日のチャーチル。この写真は良く覚えています。チャーチルは絵が上手くパブロ・ピカソは「チャーチルは画家としても充分食べていけるだろう」と言っていたそうです。約830万ポンド(12億4000万円)で落札されたチャーチル作の絵画「クトゥビーヤ・モスクの塔」チャーチルが第2次世界大戦中に米国のルーズベルト大統領に贈った絵ですが複数の人の手に渡ったあと米女優アンジェリーナ・ジョリーのコレクションになっていました。水仙サー・ウィンストン・チャーチル

  • ぶっつけ本番

    1789年のフランス革命で多くの教会が破壊されました。19世紀のフランスでは国が資金を提供して各地で新しい教会が作られていましたがそれに合わせてパイプ・オルガンも制作されることになりました。この時代に活躍したのがオルガン制作家のアリスティド・カヴァイエ・コルでした。コルは音の強弱が操れるようにあるいはオルガン1台でオーケストラの音色が出せるように改良したのです。先日、東京の教会で弾かせて頂いたオルガンは真新しいフランス製のオルガンでしたがこの機能が無くてデリケートな音は出せないのです。急遽、本番にはリードオルガンを使う事にしました。しかしお客様はパイプオルガンの音色を楽しみにしておられるとのこと。開演2分前に突然、ソロのリクエスト❗無茶振りでしたがオルガンへの階段を上がりながら曲目を考え💦...ぶっつけ本番

  • 弦が切れて!

    ↑チェコの国花菩提樹交響曲「新世界より」を作曲したチェコのボヘミアに生まれたアントニン・ドヴォルザーク音楽家でもあったドイツ語の先生が彼の音楽の才能に気づきます。息子を家業の肉屋にしようとする父親を説得しプラハのオルガン学校に進学できるように取り計らってくれました。プラハの管弦楽団にヴィオラ奏者として入り沢山の音楽を演奏する機会に恵まれます。音楽の手ほどきを受けると同時に常に音楽の現場に身を置いていました。オーストリア政府の奨学金を得るため交響曲第3番を提出しますがこれが審査員の1人であったブラームスの目に留まり強力な推薦を得て奨学金を獲得したほかブラームスの紹介で≪スラブ舞曲集≫を出版しますがヨーロッパ中で大ヒットしたのです。ブラームスとドヴォルザークの兄弟のような付き合いはこの時から始まりました。すべ...弦が切れて!

  • 余韻の中で…

    休日の朝は少しゆっくり起きて演奏会の余韻に浸りながらゆったりとした時間を過ごしました。ベルギー・ワッフルトースターであたためました。2枚も頂いてしまったあとの写真です。素敵な薔薇の花のチョコレート。✨✨✨✨✨夜のクラシック音楽館は後半のシベリウスの交響曲第1番から楽しみました。指揮はユッカ・ペッカ・サラステ最後はサラステの過去の演奏から①「トゥネラの白鳥」シベリウス作曲②「カンツォネッタ」シベリウス作曲③「悲しいワルツ」フィンランド出身の指揮者ですので母国語を話すように自然に音楽が流れてしかもクール。お若い頃よりも現在の方が断然、素敵でした。今日はお休みしたレッスンの補講で夕方から夜までびっしり。💦💦余韻の中で…

  • あっと言う間に。

    楽屋に荷物をおいてすぐにリハーサル開始。リハーサルが始まると終演まではあっと言う間。あたたかい沢山の拍手頂いて無事に終了しました。以前はステーキを頂いたりしっかり栄養補給して本番にのぞんでいましたが最近は年のせいでしょうか。お腹一杯だと集中できないので水分を取るくらいにしています。打ち上げで乾杯したあと帰りの新幹線でビールとともにゆっくり一人宴会(笑)となりました。あっと言う間に。

  • 今日は本番

    昨日、東京入りしました。今朝、カーテンを明けると青空ですがガラスが雲っていてとても寒そう。9時にホール入り。どうか良い演奏会になりますように。今日は本番

  • その後…

    学校のコンサートが無事に終わったと断崖君のお母さまから連絡が入りました。✨✨✨✨✨一日早く「月光」のソナタを演奏したお嬢さんは今までの弾いた中で一番気持ち良く弾けたそうです。終わってしまうのが残念だと思うくらい楽しかったと息をはずませながら報告してくれました。そして「こんなダサい曲弾きたくない」とむくれていた断崖君。本番前日のレッスンは今までにないくらい綺麗な仕上がりでしたが本人は気になるようで何回も弾いては前奏の音色やペダリング遠くに消えていくようなパッセージなどを確認していました。(゚∀゚)日頃、運動部で活躍していますがピアノが弾けることを音楽の先生も友達にも内緒にしていたようで皆は吃驚❗「完璧だったと自画自讃です」とのお母さまからのメッセージに大笑いしてしまいました。鼻高々でやってくるであろう断崖君...その後…

  • 冬の旅

    能登半島の地震で大変な幕開けとなった1月も終わり今日から2月。✨✨✨✨✨シューベルト作曲の「冬の旅」は最晩年に書かれた傑作歌曲集です。シューベルト自身が死を意識しながら作ったといわれる曲集で恋に破れた青年が生きる望みを失いあてどもない旅に出るのですが全曲は24曲からなっています。この歌曲集を半分まで書いたときに友人達を自宅に招き出来上がったばかりの作品を聴かせたところ内容があまりに暗すぎるので仲間達は当惑したと言われています。しかしシューベルトは「いや、今に君たちもきっとこの歌の良さがわかるようになる」と言っていたそうです。シューベルトの万感の思いが込められた「冬の旅」は彼が世を去ったあとにようやく出版されました。🥀🥀🥀🥀🥀ち...冬の旅

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