ちょっと深く、されど、受験日本史において本当に必要な情報だけを紹介する、全ての受験生に贈る高校日本史ブログです。 —桓武天皇が選んだ遷都の先はなぜ「京都」であったのか。― 自信を持って説明できますか?
【藤原頼通の不遇な人生】栄華一転、摂関政治はなぜ終焉したのか。外寇や地方反乱まで頼通の時代に起こった出来事を解説!【平等院鳳凰堂】
さて、これまでの記事で繰り返し述べてきたことではありますが、藤原氏内部における‘‘氏の長者‘‘争いは、最終的に道長の一人勝ちに終わり、 藤原摂関政治および藤原摂関家は藤原道長・頼通父子のときに全盛期を迎えることとなります。 今回は、藤原頼通についてのお話です。 あまりに偉大な道長の息子として、難しい政治の運営を迫られることになった頼通は、強運の持ち主であった道長と比べてなんとも運がなく、 そしてその時代もなかなかに不遇なものでありました。 今回は、そんな不遇であった藤原頼通の時代について、さらには全盛を迎えた道長・頼通の時代の後に一転して摂関政治が衰退・終焉を迎えることになってしまった背景について、 順番に分かりやすく解説していきま
【氏の長者争い-後編-】道隆VS道兼、道長VS伊周。栄華を極めた藤原道長の人生。その政策は?なぜ道長は関白にならなかった?【徹底解説】
さて、後編では藤原道長を中心として、どのような氏の長者争いが展開されたのか、 さらにはその最終勝者として権力のトップに躍り上がった藤原道長の人生について解説していきます。 前編で紹介した図と同じものではありますが、復習を兼ねてここでもう一度、藤原氏北家の家系図を確認しましょう。 前編では、大きな回り道を経ながらもついに摂関の地位まで上り詰めることに成功した兼家の生涯についてまで解説しました。 その死後には、今度はその子供たちによって激しい争いが展開されていくこととなるのですが、後編ではその以下2つの氏の長者争い、 ❑ 道隆[兄] vs 道兼[弟] ❑ 道長[叔父] vs 伊周[甥] について解説していきます。 ⇓⇓⇓授業ノートはコチ
【氏の長者争い-前編-】兼通VS兼家の摂関の地位をめぐる対立。藤原氏のトップはどのように変遷した?【徹底解説】
平安時代半ば頃、969年の「安和の変」の以後には摂関の(ほぼ)常置体制が確立され、藤原摂関政治の全盛期が訪れるのですが、 この「安和の変」にて源高明の排斥に成功すると、もはや藤原氏を脅かすような他氏の存在はいなくなり、 以後藤原氏内部の勢力・トップ争い、いわゆる‘‘氏の長者‘‘をめぐる争いが激しく展開されていくことになります。 しかし、いくら「争い」といっても、武力同士が激しくぶつかり合うような表面的なものではありません。 繰り広げられたのは、藤原氏内部での権力を求めていく「政争」だったのでした。 今回のテーマはズバリ、藤原氏による「氏の長者」争いです! 藤原道長・頼通親子のときに、藤原氏北家ないし藤原摂関政治は全盛期を迎えるのです
【藤原摂関政治】「摂関政治」完全まとめ。その特徴・仕組み・経済基盤など分かりやすく解説!【論述対策】
今日のテーマは、ズバリ藤原氏による「摂関政治」です! 安和の変ののち、摂関の(ほぼ)常置体制が築かれ、藤原氏北家による摂関政治の全盛期が訪れるのですが、 この摂関政治は一体どのような特徴を持つ政治形態であり、一体どのように運営されていたのか、 これを明確に文章で表現でできる受験生は非常に少ないです。 しかしながら、実は、摂関政治は大学受験日本史における論述問題で非常に頻出のテーマであります。 なぜなら、「摂関政治」という分野だけで、運営の仕組みやその特徴、経済基盤などなど様々な問い方ができるからです。 さらに、摂関政治の論述問題においては、それを実際に運営した藤原氏の名前(道長、頼通など)や、 それにまつわる単語(摂政、関白、外戚政
【安和の変】藤原氏最後の他氏排斥事件!なぜ源高明は排斥されたのか?源満仲はなぜ藤原氏側についたのか?【徹底解説】
平安時代も半ば頃になると、律令制の崩壊はさらに加速していき、もはやかつてのように天皇が日本のトップに君臨し、 その影響力が全国各地に及ぶといったような時代は終わりを迎えました。 ここから、日本という国の在り方が、大きく転換されようとする時代が訪れます。 平安時代4つ目の時期区分、【藤原摂関家全盛の時期―藤原道長・頼通の活躍する太平の時期―】の到来です。 「平安時代」と聞いたときに我々が真っ先に思い浮かべるような、色とりどりの装束に身をまとった貴族たちが太平の世を謳歌する穏やかな期間。 藤原摂関家が大いに活躍した ‘‘The 平安時代‘‘ とも呼ぶべき時期でございますね。 今回は、藤原氏こそがNO.1なのだという時代を創り上げる上で最
【菅原道真の生涯-後編-】道真の死後、京都で相次ぐ異変・・・怨霊化した道真の逆襲劇!天神信仰とは?なぜ学問の神様に?
本記事は、道真の生涯に焦点を当てた、前編・後編のセット記事です。 よろしければ、まず以下の前編の記事からご覧くださいませ。⇓⇓⇓ 【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真VS醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は? さて、昌泰の変の結果、大宰府に左遷させられた菅原道真は、北九州の地で実質的な軟禁状態のなか、 衣食住もままならない侘しい生活を強いられることとなり、左遷から2年後、その地で無念の死を遂げてしまいます。 しかし、道真の物語はここで終わりませんでした。 道真の死後しばらくしてから、京都では不穏な出来事が相次いで発生することとなるのです。 怨霊と化した道真の、逆襲撃が始まったのでした。 今回
【天皇だって、猫がお好き】平安時代の猫好き天皇。宇多天皇の愛猫べた褒めツンデレ日記とは?
突然ですが、あなたは猫がお好きですか? 猫ブームが到来して久しい今日この頃。 自分もきっての猫好きで、街中でのんびりしている猫を見つけるとついつい足を止めてしまいます。 あのハッキリとした顔立ちに愛くるしいフォルム、さらには自由奔放でマイペースな性格に時折見せるツンデレ具合。 むさ苦しい昨今の世を生きる我々現代人の中でも多くの方が、猫のこの悪魔的な魅力にどハマりしてしまっていますが、 どうやら猫の魅力に傾倒してしまうのは、我々現代人に限った話ではないようです。 というのも、1000年以上も前の時代――平安時代真っただ中の日本でも、この生き物のトリコになってしまった人物がいたといいます。 猫の魅力というのは、時代を超えて愛される、普遍
【天暦の治】村上天皇の親政を解説!皇朝十二銭はなぜ12回も作られたの?【乾元大宝】
今回の記事のテーマは、村上天皇の「天暦の治」です! 9世紀後半から10世紀半ばにかけての藤原摂関政治の一時的な中断期には、 これまで述べてきたような宇多天皇の「寛平の治」や醍醐天皇の「延喜の治」といったように、 天皇による親政が数世代にわたって行われてきました。 今回は、藤原摂関政治の中断期の最後の時代である、村上天皇の「天暦の治」について解説していきます! 正直村上天皇の治世で行われた出来事の中で、入試で問われるようなものはほとんどないです。 村上天皇といったらコレが問われる!といったように、問題の出され方も決まっているので、 そういった点をきちんと押さえていただけたらなと思います! ⇓⇓⇓当記事に該当するノートはコチラ! 授業ノ
【承平・天慶の乱-前編-】平将門の乱について解説!現代にまで根付く将門の呪いとは?将門の怨霊とは?【徹底解説】
10世紀の半ばに差し掛かろうというところ、律令制は完全に崩壊し、それに基づいていた朝廷の地方支配体制は動揺していくこととなるのですが、 朱雀天皇ー藤原忠平摂関期の時代には、その朝廷の地方支配の動揺を大いに印象付けた大事件が発生しました。 935年から数年間にわたって発生した大反乱、「承平・天慶の乱」です。 地方武士の台頭や、朝廷の地方支配の動揺を露呈したという点で、日本史において非常に 意義のある重要な出来事ですね。 今回は、前編では「平将門の乱」、さらに後編では「藤原純友の乱」について2記事にわたって、 反乱の後に日本三大怨霊となってしまった平将門の現代にまで至る怨霊伝説や、 海賊の取り締まりをしていたはずがいつの間にか自身が海賊
【承平・天慶の乱-後編-】藤原純友の乱について解説!なぜ純友は海賊の棟梁に?2つの乱の歴史的意義とは?【論述対策】
この記事は前編・後編のセット記事です! ⇓⇓⇓ぜひとも前編からお読みくださいませ! 【承平・天慶の乱-前編-】平将門の乱について解説!現代にまで根付く将門の呪いとは?将門の怨霊とは?【徹底解説】 さて、今回は「承平・天慶の乱」に関する記事の後編です! 関東において平将門が大暴れしていたのとちょうど同じ頃、西日本では瀬戸内海域を中心に、藤原純友という男が大暴れしていました。 いわゆる「藤原純友の乱」ですね。 今回の記事では「藤原純友の乱」についてその内容や経緯について述べていくとともに、 藤原純友の人物像や、彼が反乱を起こそうと決意した理由まで、ちょっと掘り下げて解説していきたいと思います! ⇓⇓⇓該当する授業ノートはこちら! 授業ノ
【新旧の説、徹底解説】武士の発生・登場の起源について解説!「武士」はどのようにして生まれた?【武士のルーツ】
「武士」――日本が有する長い歴史の中で1000年近くの間、実質的な頂点として君臨し、支配してきた武将集団。 日本の歴史の中で重要な位置づけをされる武士ですが、実はその発生・登場の起源については諸説あり、まだ決定的な学説が生まれていません。 それにより、ネット上はおろか教科書・参考書においても旧説や新説が混在しており、その本当の姿を見出すのが非常に難しい状況となっています。 そこで今回は、それらの学説についてなるべく中立的な立場をとりながら、武士の発生・登場の起源について新旧両方の説を紹介していくとともに、 武士たちのその初期の頃の在り方に焦点を当て、解説していきたいと思います! ⇓⇓⇓該当する授業ノートはコチラ! 授業ノート【平安時
【官物・臨時雑役とは?】租税賦課方式の一大転換と国司の変容&‘‘売官売位‘‘の風潮【論述対策】
さて、これまでずっと見てきたように、奈良時代の律令政府は農民たちに対してあまりに重すぎる負担をかけてしまったがために、 農民たちの間で偽籍、浮浪・逃亡などの納税忌避手段が一般化し、朝廷は戸籍・計帳に基づいた人民支配が困難になってしまいました。 そしてそれ以降、公地公民制を基本理念とする律令制は徐々に弛緩していきます。 もちろん朝廷もただ指をくわえてその崩壊を見つめていたわけではなく、例えば桓武天皇や醍醐天皇のように、 深刻な状況を打開すべく、果敢に改革を行った人物もいました。 しかしそれでも結局、朝廷にも律令制の瓦解を食い止めることはできず、平安時代の半ば頃、 10世紀の前半~半ば頃において、朝廷は自ら、律令制を放棄する道を選ぶので
【摂関政治の一時的復活】朱雀天皇の時代の出来事について解説!
延喜の治を行った醍醐天皇の跡を継いだのが、第61代天皇朱雀天皇です。 そのあとには、これまた有名な天暦の治を推進した村上天皇が続きます。 センターでも頻出レベルの醍醐天皇・村上天皇に挟まれ、教科書や参考書等ではイマイチ存在感薄目な朱雀天皇ですが、 実は朱雀天皇が在位していた930~946年の間には、日本史において重要な出来事がいくつか発生しているのです。 今回は、朱雀天皇の時代における出来事について簡単に触れていきたいと思います! 目次― 1.一時的な摂関の復活 2.律令制の崩壊と租税賦課方式の一大転換 3.東で西で、大反乱。承平天慶の乱の発生 1.一時的な摂関の復活 死の間際に譲位した醍醐天皇の跡を受け、即位を果たしたのが朱雀天皇
【論述対策】平安時代における律令制の弛緩&崩壊に対する朝廷の対応【桓武天皇の改革・直営田の設置・醍醐天皇の改革】
飛鳥時代末期より徐々に成立してきたとされる律令制ですが、奈良時代の半ば頃から少しづつ弛緩していったと言われています。 理由は、律令制の根幹を支える存在である農民たちに対して、朝廷があまりに大きな負担をかけすぎたからです。 律令体制下において、ピラミッド構造の最下層かつ最多数を構成する農民たちは、租・調・庸・雑徭・兵役・・・などなど多種多様な課役を負担したのですが、 この負担があまりに大きすぎたために、生活に困窮した農民たちの間では、偽籍や浮浪・逃亡、私度僧といった納税忌避手段が一般化し、 そのために、国家は、戸籍・計帳に基づいた人民の把握が困難となり、「公民制」が崩壊してしまったのでした。 そして、公民制の崩壊は同時に、口分田の荒廃
【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制・律令制の弛緩&崩壊【後編:公地制の崩壊】
当記事は、奈良時代における公地公民制・律令制の弛緩・崩壊についてまとめた、前編・後編のセット記事です。 ⇓⇓⇓ぜひとも、まずは前編からご覧くださいませ。 【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制の崩壊&律令制の弛緩【前編:公民制の崩壊】 さて、まずは前編の復習から簡単にいたしましょう。 律令には、租・調・庸・雑徭・・・などなど多種多様な農民負担が規定されていたのですが、 成人男性(とくに正丁)に偏重したこれらの諸負担は、貧しかった農民たちにとって非常に重いものであり、 徴税から逃れようとした農民たちの間では、偽籍や浮浪・逃亡、さらに私度僧といった納税の忌避手段が一般化するようになります。 朝廷による戸籍と計帳に基づいた
【論述対策】奈良時代における農民負担の増大と公地公民制の崩壊&律令制の弛緩【前編:公民制の崩壊】
さて、「公地公民制」の理念のもと、飛鳥・奈良時代における朝廷は中央集権的な体制の建設を進めていったのですが、 飛鳥時代の終わりごろから徐々に成立されたとされる律令制は、奈良時代半ばごろからだんだんと弛緩(しかん)していき、 天皇を中心とした、この「公地公民制」は徐々に崩壊していくのでした。 一体何が問題であったのでしょう。 今回の記事では、奈良時代を語る上で非常に重要である【公地公民制の崩壊による律令体制の弛緩】について、紹介していきます。 古代日本の「税制度」「土地制度」を理解する上で、その根幹となるテーマです。 ここが分からないと、平安時代半ばごろに徴税方式が転換された理由や、中世的な土地制度へと移行した背景などが非常に理解しづ
【菅原道真の物語-前編-】昌泰の変はなぜ発生した?ポイントは宇多&道真vs醍醐&時平の対立構造!大宰府での道真の生活は?
(※画像は左が菅原道真。残り3つが現在の太宰府天満宮。) さて、宇多天皇の譲位に伴って即位した醍醐天皇も、自ら親政を行うようになります。 いわゆる「延喜の治」――後世において理想視された天皇親政の世が訪れるのでした。 しかし、いくら天皇親政といっても、当初醍醐天皇は、なかなか自分の思ったように政治が行えなかったといいます。 理由は宇多上皇の存在でした。 宇多は上皇となったのちも、しばらくの間は国政に大いに絡み、醍醐天皇の治世に対してあれこれ口出ししてきたようです。 そして、もう一つには菅原道真の存在がありました。 宇多天皇は譲位する際、醍醐天皇に対して道真を重用することを強く求め、上皇となったのちも道真の後ろ盾となり、彼を大いにバッ
【延喜の治】「延喜の荘園整理」とは?なぜ行われた?『意見封事十二箇条』とは?醍醐天皇の諸政策について解説!
(※画像は醍醐天皇) さて、寛平の治を推進してきた宇多天皇でしたが、皇太子の敦仁親王が元服すると同時に、突如彼に対して譲位を行いました。 こうして登場したのが醍醐天皇です。 (宇多天皇がまだ幼少の醍醐天皇に突如即位を行ったのには、藤原氏北家の政治的自由状態を確保したり、 息子を即位させることで自分の皇統の正統性を主張するという意図があったとも言われています。 なお、宇多天皇が譲位するときに幼い醍醐天皇に与えた、天皇としての心構えや作法・朝廷での業務や儀式などが詳細に述べられた教訓書である 『寛平御遺誡』という単語も、入試で問われることがあるので、頭の片隅にでも入れておくとよいでしょう。) そして、醍醐天皇自身も父である宇多天皇に引き
【延喜の治】「延喜の荘園整理」とは?なぜ行われた?『意見封事十二箇条』とは?醍醐天皇の諸政策について解説!
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【寛平の治】宇多天皇と菅原道真の政治。親政を展開できたのはなぜ?遣唐使が廃止された背景・理由は?
(画像は宇多天皇) さて、「阿衡の紛議」による藤原基経の示威行動によほど懲りたのか、891年に基経が簿してからは、 宇多天皇は摂政・関白を置くことなく、自ら政治を行うようになりました。 平安時代3つ目の時期区分、【三天皇による治世の時期―宇多・醍醐・村上天皇による天皇親政】が到来するのであります。 今回の記事で紹介するのは、宇多天皇によって行われた「寛平の治」についてです。 基経の死後、宇多天皇は摂政・関白を置くことなく、基経の子である時平と、 阿衡の紛議の際に基経をいさめた菅原道真らを登用し、自ら意欲的に親政を展開したといいます。 今回は、宇多天皇によって行われた「寛平の治」の全貌、さらにはこの親政において行われた政策の中で最も有
【寛平の治】宇多天皇と菅原道真の政治。親政を展開できたのはなぜ?遣唐使が廃止された背景・理由は?
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【基経の政治】阿衡の紛議はなぜ起こった?その背景・過程・歴史的意義は?【陽成・光孝・宇多天皇】
(画像は左から、陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇・藤原基経) さて、応天門の変の混乱の中、清和天皇の摂政となることに成功した藤原良房は、 同天皇のもと、法制の整備にも力を入れて、『貞観格式』を完成させるなどしています。 『貞観格式』は、嵯峨天皇の時代の『弘仁格式』、醍醐天皇の時代の『延喜格式』と並び、日本三大格式とされているもので、 センターでも頻出の、非常に大事な歴史的固有名詞です。 ⇓⇓⇓『弘仁格式』や「格」「式」についての復習はコチラから! 【論述対策】嵯峨天皇の諸政策について解説!検非違使とは?その役割や権限の変遷は?【検非違使】 藤原氏北家の発展に尽くした良房が亡くなったのは、応天門の変から7年後、872年のことでした。 そし
【基経の政治】阿衡の紛議はなぜ起こった?その背景・過程・歴史的意義は?【陽成・光孝・宇多天皇】
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【理由を解説】大伴氏と伴氏の違いは?大伴氏が伴氏に改名したのはなぜ?【ポイントは「諱(いみな)」】
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【徹底解説】良房の外戚政策と応天門の変について解説!その歴史的意義は?
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【良房の陰謀】承和の変はなぜ発生した?真の目的は恒貞親王の排斥?【理由を解説】
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【論述対策】嵯峨天皇の諸政策について解説!検非違使とは?その役割や権限の変遷は?【検非違使】
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【論述対策】薬子の変はどのようにして発生した?その過程は?歴史的意義は?【徹底解説】
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【論述対策】藤原氏北家が台頭・発展できたのはなぜか?その策略は?契機は?
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【理由・仕組みを解説!】なぜ藤原氏は外戚政策を行うことで摂政・関白となれたのか?【ポイントは‘‘妻問婚‘‘】
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天皇の名前(呼び名)はどう決まる?【諱って何?】【諡号・追号とは?】【後〇〇天皇って何?】
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【桓武天皇の諸政策について解説】なぜ勘解由使の設置が地方政治の引き締めに繋がるの?【勘解由使】
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【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-後編-】
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【年表付き!蝦夷征討完全まとめ】 蝦夷征討の過程は?そもそもなぜ行われた?【-前編-】
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【日本も導入!】中華思想とは?周辺アジア諸国に与えた影響は?【番外編:天命思想と易姓革命】
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【理由を解説】西が右京で東が左京。左右逆なのはどうして?~番外編:右と左ではどっちが格上?~
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【違いを解説】「山背国」と「山城国」の違いは?いつ・なぜ変わったの?
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【理由を解説!】長岡京からすぐに平安京へと遷都されたのはなぜか?非業の死を遂げた早良親王の怨念?
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桓武天皇はなぜ「京都」の長岡京・平安京へと遷都したのか【理由を解説】
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平安時代概観!約400年間続く混沌の平安時代を分かりやすくまとめてみる【実は6つの時期に区分できます】
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