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義時が冷酷な悪人になったのは、実は先週と先々週だけで、それまでは「迷い」がありました。迷いなく殺したのは、比企一族と一幡だけで、それも史実から言えば時政がやったことです。私はやや義時びいきですので、今回、また義時が多少の「迷い」を持ってくれたことは嬉しい限りです。悪漢ヒーローも良いけれど、この時代、あまり非道なのは「ただ嫌われるだけ」ですから「歴史的存在としての義時」にかわいそうです。今回の頼家の死については「幕府のみんなで決めたこと」なのに、結局義時ひとりで刺客を放った感じになっていて、そこはまた悪人を引き受けることになって、かわいそうでしたが、泰時を「頼家救出に向かわせ、かつ冷酷な政治の力学を体験させる」ためには、必要な「設定」だったのでしょう。泰時はどこまでも善を引き受けるようです。頼家に関しては善...「鎌倉殿の13人」・第33回「修善寺」・感想と考察
私が上記のような「奇説」を書くのは「歴史は自分の頭で考えないと分からない」と考えているからです。つまり「人の書いたものを理解するだけではいけない」と思っているから。まあ本当は、そういう「真面目な動機」と、「自分で考えないとつまらない」という「自分勝手な動機」が混在しています。「奇説」ですが、一応いろんな学者さんの本を参考に書いています。源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。それどころか、奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。...源頼朝「すでに朝の大将軍たるなり」が鎌倉幕府を滅亡させた説
鎌倉幕府が朝廷や公家と「基本的に協調していたのか」または「基本的に対立していたのか」。今は「基本的に協調していた」が学会の「常識」となっているとされている。というか、学者さんもつらい立場で「協調史観」か「対立史観」かの「踏み絵」を踏まされているようなのである。もちろん数は多くないが「対立か協調か自体がくだらない話だ」と言い切る学者さんもいる。そもそも石井進さんや佐藤進一さんが「公武対立史観の立場をとった」とされ、それが教科書的歴史観になったと「された」ことから、こういう面倒な問題が始まる。教科書は「単純化」されているから、なるほど「単純な対立的把握」をしている部分も存在する。その方が「教えやすい」からでもあろう。ただ石井さんや佐藤さんの「原著」を読めば、単純に「対立構造だ」と言っていないことは明らかである...鎌倉幕府の性格・公武協調か公武対立か。
歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のも...鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説
北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。開発領主奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開...「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。
読書報告 黒田俊雄氏「権門体制論」・永原慶二氏「荘園」・呉座勇一氏「戦国武将、虚像と実像」
今どんな本を読んでいるかをぐだぐだ書くだけです。書評とかじゃないし、本の紹介でもないので、期待はしないでください。黒田俊雄氏は権門体制論を主張した方ですが、「権門体制論」という本は、ありません。昔々、、、「中世の国家と天皇」で、初めてまとまった形で「権門体制」を主張しました。公家、武家、寺社を「中世における支配層」と考え、「荘園に基盤を置く点において同質性を持っている」としました。上皇は「公家」に含まれます。何度読んでもやや難解です。ただし短い論文です。「公的存在としての天皇」はこの3つの勢力に「公のお墨付き」を与えるとしました。錦の御旗みたいなもんです。中世を支配していたのはあくまで公家、武家、寺社。それらはかなり私的な勢力なのですが、「あたかも公的」に見えるのは天皇の「お墨付き」のおかげというわけです...読書報告黒田俊雄氏「権門体制論」・永原慶二氏「荘園」・呉座勇一氏「戦国武将、虚像と実像」
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てすとてすと
テストテスト
徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実...どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「政治」を行うようになっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。律令制国家は、天智天武...「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。
架空の世界の、架空のお話。慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わ...架空小説「豊臣秀吉の遺言」
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」も...今こそ「戦争責任論」が必要だ。
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。中世において日本の支配階級は、公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。これだけです。これ以外のことはあまり考える必要はない。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。天皇制がある限り、歴...黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」...「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想
そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。でもここは織田信長のお話。織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は...織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。「どうする家康」に描かれた、信長・家康・信玄の関係は史実ではありません。では史実はどうであったのでしょう。1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」...「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係
「どうする家康」は一見すると史実無視の「いい加減なことを並べ立てているように」見えますが、実はある「歴史の見方」に基づいて作られています。それを私の言葉で言うなら「国衆史観」(くにしゅうしかん、くにしゅしかん)と言います。私の言葉です。一見すると「国は戦国大名のもの」みたいに見えますが、国衆と戦国大名の「連合体」、または「同盟組織」と考えるのです。国とは今でいう県です。で、この国衆というのは独立性が強かったと考えます。国衆とは小領主で、その一つ一つも「国」と考えます。その「小領主の国」の中にまた「国みたいなもの」があって「村」です。なんで国なのかというと、独立性が強いからです。国衆が「独立」しているなら、何も戦国大名の傘下に入らなくてもいいし、入ったらもう「国じゃないのでは」とも思えます。でもどうやらこう...「どうする家康」の歴史学
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは...本郷和人論・リスペクトを込めて
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。「また、、、まただ、、、また殺してしまった」帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」信長の涙顔が怒りに変わった。「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。浅井が裏切った。朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。そしておれは、長政...即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに
冒頭の「なんやかやで」金ケ崎の戦いは終わって、というナレーションにびっくりしました。「描かない」という選択肢があることに驚いたのです。私は、あまり人の意見に左右されない人間なのですが、ちょっと調べてみるとこうあります。他人様の意見「もう解釈とか脚色というレベルの話でなく、単に若者受けを狙ったつもりだけの史実を大きく逸脱して歪曲したパロディドラマ。フィクションとしてのおもしろさもないどころか、不快の連続。プロデューサーと脚本家に歴史への愛情と敬意ないと、こんな酷いものが出来上がるという事例。」引用終わりここまで辛辣な感想は私は持ちませんでした。ただ参考にはなります。1,大河は全てフィクションで史実ではないのに、なぜこの作品だけが「史実の歪曲感」を強く感じさせるのだろう。2,上記と本質的に同じ問題であるが、「...どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想
きちんとした文を書く前のウォーミングアップとしての「書き散らし文」なので、文章の質の悪さはご容赦ください。1,天皇の位置さえ考えなければ、権門体制論は単純明快権門体制論(けんもんたいせいろん)は、天皇を度外視すれば、極めて単純である。鎌倉幕府の発生以降、ある時代(荘園消失)まで日本を支配したのは3つの階層である。それは公家、武家・寺家。公家のトップは天皇ではなく治天の君。天皇が治天なら天皇。この3つは荘園を基盤としている点において同じようなものである。だから上級国民として互いに助け合って政治を行った。つまりは「同じ穴のむじな」である。天皇は、、、、「中心にいて彼らをゆるやかに結びつけた」とか「この体制の頂点にいた」とか曖昧な感じで色々言われる。論者によって言い方が違うだけでなく、提唱者の黒田俊雄でさえ、論...天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。
織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。3、「ひいき」してるよな。4、宝物をどっかに移すなよ。5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?13...織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。
浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。「勝てぬ戦でもありますまい」信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。なんだ、織田家という家は、、、。家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退...即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)
高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代...「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話
本日は「どうする家康」は選挙でお休みで、来週あたり「金ケ崎の戦い」になると思います。織田信長・徳川家康連合軍が福井県あたりの朝倉義景を攻めて、浅井長政の「裏切りに」にあって負けた戦いです。ただ「負け方が見事」ということで、どっちかというと「勝利の可能性はあったのに、真っ先に戦線を離脱した信長の采配の見事さ」「しんがり、となった秀吉や徳川の見事さ」が強調されることが多いのです。今回はどうなるのかは知りません。そもそも徳川家康が「しんがり」にいたという記録もやや後世のもので、金ケ崎を超えて朝倉を攻めていたのは間違いないのですが、「しんがりとして残った」のかは「やや怪しい」のです。それから「秀吉の大活躍」ですが、たぶんしんがりの大将は池田勝正という人です。でも秀吉の武勇伝として後世に伝わります。ただ秀吉が「しん...どうする家康・金ケ崎の戦い・信長はどうして朝倉を攻めたのか。
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは...本郷和人論・リスペクトを込めて
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。「また、、、まただ、、、また殺してしまった」帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」信長の涙顔が怒りに変わった。「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。浅井が裏切った。朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。そしておれは、長政...即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに
冒頭の「なんやかやで」金ケ崎の戦いは終わって、というナレーションにびっくりしました。「描かない」という選択肢があることに驚いたのです。私は、あまり人の意見に左右されない人間なのですが、ちょっと調べてみるとこうあります。他人様の意見「もう解釈とか脚色というレベルの話でなく、単に若者受けを狙ったつもりだけの史実を大きく逸脱して歪曲したパロディドラマ。フィクションとしてのおもしろさもないどころか、不快の連続。プロデューサーと脚本家に歴史への愛情と敬意ないと、こんな酷いものが出来上がるという事例。」引用終わりここまで辛辣な感想は私は持ちませんでした。ただ参考にはなります。1,大河は全てフィクションで史実ではないのに、なぜこの作品だけが「史実の歪曲感」を強く感じさせるのだろう。2,上記と本質的に同じ問題であるが、「...どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想
きちんとした文を書く前のウォーミングアップとしての「書き散らし文」なので、文章の質の悪さはご容赦ください。1,天皇の位置さえ考えなければ、権門体制論は単純明快権門体制論(けんもんたいせいろん)は、天皇を度外視すれば、極めて単純である。鎌倉幕府の発生以降、ある時代(荘園消失)まで日本を支配したのは3つの階層である。それは公家、武家・寺家。公家のトップは天皇ではなく治天の君。天皇が治天なら天皇。この3つは荘園を基盤としている点において同じようなものである。だから上級国民として互いに助け合って政治を行った。つまりは「同じ穴のむじな」である。天皇は、、、、「中心にいて彼らをゆるやかに結びつけた」とか「この体制の頂点にいた」とか曖昧な感じで色々言われる。論者によって言い方が違うだけでなく、提唱者の黒田俊雄でさえ、論...天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。
織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。3、「ひいき」してるよな。4、宝物をどっかに移すなよ。5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?13...織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。
浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。「勝てぬ戦でもありますまい」信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。なんだ、織田家という家は、、、。家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退...即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)
高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代...「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話
本日は「どうする家康」は選挙でお休みで、来週あたり「金ケ崎の戦い」になると思います。織田信長・徳川家康連合軍が福井県あたりの朝倉義景を攻めて、浅井長政の「裏切りに」にあって負けた戦いです。ただ「負け方が見事」ということで、どっちかというと「勝利の可能性はあったのに、真っ先に戦線を離脱した信長の采配の見事さ」「しんがり、となった秀吉や徳川の見事さ」が強調されることが多いのです。今回はどうなるのかは知りません。そもそも徳川家康が「しんがり」にいたという記録もやや後世のもので、金ケ崎を超えて朝倉を攻めていたのは間違いないのですが、「しんがりとして残った」のかは「やや怪しい」のです。それから「秀吉の大活躍」ですが、たぶんしんがりの大将は池田勝正という人です。でも秀吉の武勇伝として後世に伝わります。ただ秀吉が「しん...どうする家康・金ケ崎の戦い・信長はどうして朝倉を攻めたのか。
織田信長はなんで足利義昭を担いで上洛したのでしょう。信長の上洛というのは一種の異常行動で、思いついても実際にやろうとした人間は信長以外いません。朝倉義景は足利義昭を保護しており、何度も上洛の手伝いをしてくれ、と懇願されていましたが、全然そんな気はなく、「京都のことは朝倉とは関係ない」というのが本音であったようです。上杉謙信は13代の足利義輝と仲良しで、「助けてくれ」と言われ、「助けますとも」と応じますが、実際には行動はしませんし、できない状況でもありました。国内に内紛を抱えていたし、武田の存在もありました。また武田信玄などはちょっと持ち上げられ過ぎている武将ですが、冷静に考えてみれば、地方のちょっと強い親分に過ぎないことは明白な人物です。「天下統一」というのは絵にかいた餅であり、信長秀吉家康段階以前は、「...織田信長の上洛について、天下一統の異常性
特に書くこともなかった「どうする家康」なのですが、やっと時代が私の趣味領域に入ってきました。「家康、都へ行く」。あの足利義昭は「よく考えると」、面白いと思います。よく「義昭を傀儡として大河は描いてきた」といいますが、全くそんなことはなく、「国盗り物語」ではしたたかな策謀家、「黄金の日々」では貴公子然としたイケメン。最近の大河でも「麒麟がくる」などは、おそらく実像以上に「もちあげて」、描いてきました。「朝廷の権威」とかで物事を説明しようとする日本史家には困ったものですが、それに加えて最近は「室町将軍の権威」を過大に評価する歴史家が多い。「どうする家康」の時代考証家でも柴さんとか、平山さんは明確にそういう傾向を持っているように感じます。そういう時代考証家の意見を取り入れながら、おそらく大河史上最も「愚物的な義...「どうする家康」・13回・「家康、都へ行く」は多少面白かった。
純粋に歴史学の話である。ドラマの話はほぼない。「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。国衆史...「どうする家康」の歴史学・国衆史観の相対化
一回目を見た時は多少「どうなるかな」と思いましたが、2回目は凄く面白かったと思います。大河はフィクションですから、「ほぼ史実」であればいいのです。「鎌倉殿」は史実や学説と格闘して、大変面白いものとなりましたが、それでもやっぱり「ほぼ史実」です。1,徳川家康像私は「新説」や「最新研究」に対しては、一応疑ってかかります。でも「新説」に照らす限りにおいて、この「徳川家康像」は「ほぼ史実通り」とも言えます。すなわち、今読んでいる黒田基樹さん「国衆」(2022年)によれば1,徳川家康は今川に準一門衆として保護されていたのであり、人質ではない。人質が今川の重臣の娘を嫁にもらえるわけもない。2、一門衆扱いだった理由は。松平家が今川の国衆だったからである。3,「今川にいじめられた伝説」は、後に今川と敵対した事実を合理化す...どうする家康・第2回「兎と狼」感想・とても面白い。
ドラマの内容というより歴史学の話です。ドラマ批判はしません。それから松潤批判もしません。1,遊んでいる松潤には学説的裏付けがある?誰でも気が付くように、語りは「従来説(安定説)」で「人質で苦労」と言いながら、松潤自体は「新説」に基づいて楽しそうに遊んで恋愛までしています。これは時代考証のおひとりである柴裕之氏の「新説=仮説」を「デフォルメした」ものと考えていいと思います。柴氏には「徳川家康・境界の領主から天下人へ(中世から近世へ)」「織田信長・戦国時代の正義を貫く」「青年家康松平元康の実像(角川選書662)」などの著作があり、一応私は全部読んでいます。・今川時代の徳川家康は「人質」ではない。なぜなら今川にとって大切な国衆だから。国衆こそ戦国を動かした勢力。という説です。加えて「徳川史観の克服」を主張されて...「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について
感想については、実はあんまりなくて「ああこういう感じか」というところです。家康の家臣に「知らない人物」も結構いて、そこは学習意欲を掻き立てられました。出だしですから、こんなもんでしょう。もうちょっと見てみないと、ドラマの評価はできません。「鎌倉殿」は「おそらく大河最高の作品」なので、なかなか大変でしょうが、「見ないという選択肢はない」ので頑張ってほしいものです。ということで「歴史的考察」の方に移ります。家康を「神君史観」から切り離すという狙いはあるようですが、さほど歴代大河を意識しているとは、つまり三谷さん並みに歴代大河を見ているとは思えないので、「最後は結局神君になっちゃった」という展開も考えられます。第1回を見た限りでは、「定説や新説を知り尽くしていて、それを全部ドラマの材料として相対化する」という三...大河「どうする家康」・第1回「どうする桶狭間」の感想・神君史観・武士道史観の克服
NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。というのが素直な...BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想
私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に...儒教とジェンダー平等について考えてみた
日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。私の日本史の構造・構想1,身分社会の変化を考える。身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りまし...権門体制ではなく、権門顕密体制である。
全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。まず全体にどんなことを書くかというと、・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていたとまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。全体としては後鳥羽の描き方は良か...「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと
中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今...日本一短い「権門体制論」の解説
2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。ということで「近代史」のお話1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだ...Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱