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2019/05/12

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  • どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

    徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実...どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

  • 「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

    「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「政治」を行うようになっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。律令制国家は、天智天武...「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

  • 架空小説「豊臣秀吉の遺言」

    架空の世界の、架空のお話。慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わ...架空小説「豊臣秀吉の遺言」

  • 今こそ「戦争責任論」が必要だ。

    国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」も...今こそ「戦争責任論」が必要だ。

  • 黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

    関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。中世において日本の支配階級は、公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。これだけです。これ以外のことはあまり考える必要はない。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。天皇制がある限り、歴...黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

  • 「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

    家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」...「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

  • 織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

    そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。でもここは織田信長のお話。織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は...織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

  • 「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

    「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。「どうする家康」に描かれた、信長・家康・信玄の関係は史実ではありません。では史実はどうであったのでしょう。1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」...「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

  • 「どうする家康」の歴史学

    「どうする家康」は一見すると史実無視の「いい加減なことを並べ立てているように」見えますが、実はある「歴史の見方」に基づいて作られています。それを私の言葉で言うなら「国衆史観」(くにしゅうしかん、くにしゅしかん)と言います。私の言葉です。一見すると「国は戦国大名のもの」みたいに見えますが、国衆と戦国大名の「連合体」、または「同盟組織」と考えるのです。国とは今でいう県です。で、この国衆というのは独立性が強かったと考えます。国衆とは小領主で、その一つ一つも「国」と考えます。その「小領主の国」の中にまた「国みたいなもの」があって「村」です。なんで国なのかというと、独立性が強いからです。国衆が「独立」しているなら、何も戦国大名の傘下に入らなくてもいいし、入ったらもう「国じゃないのでは」とも思えます。でもどうやらこう...「どうする家康」の歴史学

  • 本郷和人論・リスペクトを込めて

    1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは...本郷和人論・リスペクトを込めて

  • 即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

    ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。「また、、、まただ、、、また殺してしまった」帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」信長の涙顔が怒りに変わった。「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。浅井が裏切った。朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。そしておれは、長政...即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

  • どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想

    冒頭の「なんやかやで」金ケ崎の戦いは終わって、というナレーションにびっくりしました。「描かない」という選択肢があることに驚いたのです。私は、あまり人の意見に左右されない人間なのですが、ちょっと調べてみるとこうあります。他人様の意見「もう解釈とか脚色というレベルの話でなく、単に若者受けを狙ったつもりだけの史実を大きく逸脱して歪曲したパロディドラマ。フィクションとしてのおもしろさもないどころか、不快の連続。プロデューサーと脚本家に歴史への愛情と敬意ないと、こんな酷いものが出来上がるという事例。」引用終わりここまで辛辣な感想は私は持ちませんでした。ただ参考にはなります。1,大河は全てフィクションで史実ではないのに、なぜこの作品だけが「史実の歪曲感」を強く感じさせるのだろう。2,上記と本質的に同じ問題であるが、「...どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想

  • 天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。

    きちんとした文を書く前のウォーミングアップとしての「書き散らし文」なので、文章の質の悪さはご容赦ください。1,天皇の位置さえ考えなければ、権門体制論は単純明快権門体制論(けんもんたいせいろん)は、天皇を度外視すれば、極めて単純である。鎌倉幕府の発生以降、ある時代(荘園消失)まで日本を支配したのは3つの階層である。それは公家、武家・寺家。公家のトップは天皇ではなく治天の君。天皇が治天なら天皇。この3つは荘園を基盤としている点において同じようなものである。だから上級国民として互いに助け合って政治を行った。つまりは「同じ穴のむじな」である。天皇は、、、、「中心にいて彼らをゆるやかに結びつけた」とか「この体制の頂点にいた」とか曖昧な感じで色々言われる。論者によって言い方が違うだけでなく、提唱者の黒田俊雄でさえ、論...天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。

  • 織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。

    織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。3、「ひいき」してるよな。4、宝物をどっかに移すなよ。5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?13...織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。

  • 即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)

    浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。「勝てぬ戦でもありますまい」信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。なんだ、織田家という家は、、、。家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退...即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)

  • 「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話

    高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代...「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話

  • どうする家康・金ケ崎の戦い・信長はどうして朝倉を攻めたのか。

    本日は「どうする家康」は選挙でお休みで、来週あたり「金ケ崎の戦い」になると思います。織田信長・徳川家康連合軍が福井県あたりの朝倉義景を攻めて、浅井長政の「裏切りに」にあって負けた戦いです。ただ「負け方が見事」ということで、どっちかというと「勝利の可能性はあったのに、真っ先に戦線を離脱した信長の采配の見事さ」「しんがり、となった秀吉や徳川の見事さ」が強調されることが多いのです。今回はどうなるのかは知りません。そもそも徳川家康が「しんがり」にいたという記録もやや後世のもので、金ケ崎を超えて朝倉を攻めていたのは間違いないのですが、「しんがりとして残った」のかは「やや怪しい」のです。それから「秀吉の大活躍」ですが、たぶんしんがりの大将は池田勝正という人です。でも秀吉の武勇伝として後世に伝わります。ただ秀吉が「しん...どうする家康・金ケ崎の戦い・信長はどうして朝倉を攻めたのか。

  • 織田信長の上洛について、天下一統の異常性

    織田信長はなんで足利義昭を担いで上洛したのでしょう。信長の上洛というのは一種の異常行動で、思いついても実際にやろうとした人間は信長以外いません。朝倉義景は足利義昭を保護しており、何度も上洛の手伝いをしてくれ、と懇願されていましたが、全然そんな気はなく、「京都のことは朝倉とは関係ない」というのが本音であったようです。上杉謙信は13代の足利義輝と仲良しで、「助けてくれ」と言われ、「助けますとも」と応じますが、実際には行動はしませんし、できない状況でもありました。国内に内紛を抱えていたし、武田の存在もありました。また武田信玄などはちょっと持ち上げられ過ぎている武将ですが、冷静に考えてみれば、地方のちょっと強い親分に過ぎないことは明白な人物です。「天下統一」というのは絵にかいた餅であり、信長秀吉家康段階以前は、「...織田信長の上洛について、天下一統の異常性

  • 「どうする家康」・13回・「家康、都へ行く」は多少面白かった。

    特に書くこともなかった「どうする家康」なのですが、やっと時代が私の趣味領域に入ってきました。「家康、都へ行く」。あの足利義昭は「よく考えると」、面白いと思います。よく「義昭を傀儡として大河は描いてきた」といいますが、全くそんなことはなく、「国盗り物語」ではしたたかな策謀家、「黄金の日々」では貴公子然としたイケメン。最近の大河でも「麒麟がくる」などは、おそらく実像以上に「もちあげて」、描いてきました。「朝廷の権威」とかで物事を説明しようとする日本史家には困ったものですが、それに加えて最近は「室町将軍の権威」を過大に評価する歴史家が多い。「どうする家康」の時代考証家でも柴さんとか、平山さんは明確にそういう傾向を持っているように感じます。そういう時代考証家の意見を取り入れながら、おそらく大河史上最も「愚物的な義...「どうする家康」・13回・「家康、都へ行く」は多少面白かった。

  • 「どうする家康」の歴史学・国衆史観の相対化

    純粋に歴史学の話である。ドラマの話はほぼない。「どうする家康」の脚本家についてはほぼ何も知らない。しかし時代考証陣を見るかぎり「国衆史観」をとる学者が多いように見える。時代考証陣の著作は数冊しか読んだことがない。従ってこれは時代考証陣への批判などではない。純粋に「国衆史観は成立するか」というだけの話である。国衆とは戦国期にあって、「ある程度の領域を一円的に治めた」存在とされる。「支配」という言葉を使わず「治めた」というべき存在とされる。「国人領主」との違いは、「領域支配」が成立していることである。「国衆」は自立的存在とされる。国衆が治めた領域は「国」とされる。それは基本的には戦国大名と違わない。領域が大きいと大名となるだけである。また大名はいくつかの国衆と連合してその「盟主」というべき立場にあった。国衆史...「どうする家康」の歴史学・国衆史観の相対化

  • どうする家康・第2回「兎と狼」感想・とても面白い。

    一回目を見た時は多少「どうなるかな」と思いましたが、2回目は凄く面白かったと思います。大河はフィクションですから、「ほぼ史実」であればいいのです。「鎌倉殿」は史実や学説と格闘して、大変面白いものとなりましたが、それでもやっぱり「ほぼ史実」です。1,徳川家康像私は「新説」や「最新研究」に対しては、一応疑ってかかります。でも「新説」に照らす限りにおいて、この「徳川家康像」は「ほぼ史実通り」とも言えます。すなわち、今読んでいる黒田基樹さん「国衆」(2022年)によれば1,徳川家康は今川に準一門衆として保護されていたのであり、人質ではない。人質が今川の重臣の娘を嫁にもらえるわけもない。2、一門衆扱いだった理由は。松平家が今川の国衆だったからである。3,「今川にいじめられた伝説」は、後に今川と敵対した事実を合理化す...どうする家康・第2回「兎と狼」感想・とても面白い。

  • 「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について

    ドラマの内容というより歴史学の話です。ドラマ批判はしません。それから松潤批判もしません。1,遊んでいる松潤には学説的裏付けがある?誰でも気が付くように、語りは「従来説(安定説)」で「人質で苦労」と言いながら、松潤自体は「新説」に基づいて楽しそうに遊んで恋愛までしています。これは時代考証のおひとりである柴裕之氏の「新説=仮説」を「デフォルメした」ものと考えていいと思います。柴氏には「徳川家康・境界の領主から天下人へ(中世から近世へ)」「織田信長・戦国時代の正義を貫く」「青年家康松平元康の実像(角川選書662)」などの著作があり、一応私は全部読んでいます。・今川時代の徳川家康は「人質」ではない。なぜなら今川にとって大切な国衆だから。国衆こそ戦国を動かした勢力。という説です。加えて「徳川史観の克服」を主張されて...「どうする家康」第1回の歴史学的考察・国衆史観について

  • 大河「どうする家康」・第1回「どうする桶狭間」の感想・神君史観・武士道史観の克服

    感想については、実はあんまりなくて「ああこういう感じか」というところです。家康の家臣に「知らない人物」も結構いて、そこは学習意欲を掻き立てられました。出だしですから、こんなもんでしょう。もうちょっと見てみないと、ドラマの評価はできません。「鎌倉殿」は「おそらく大河最高の作品」なので、なかなか大変でしょうが、「見ないという選択肢はない」ので頑張ってほしいものです。ということで「歴史的考察」の方に移ります。家康を「神君史観」から切り離すという狙いはあるようですが、さほど歴代大河を意識しているとは、つまり三谷さん並みに歴代大河を見ているとは思えないので、「最後は結局神君になっちゃった」という展開も考えられます。第1回を見た限りでは、「定説や新説を知り尽くしていて、それを全部ドラマの材料として相対化する」という三...大河「どうする家康」・第1回「どうする桶狭間」の感想・神君史観・武士道史観の克服

  • BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

    NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。というのが素直な...BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

  • 儒教とジェンダー平等について考えてみた

    私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に...儒教とジェンダー平等について考えてみた

  • 権門体制ではなく、権門顕密体制である。

    日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。私の日本史の構造・構想1,身分社会の変化を考える。身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りまし...権門体制ではなく、権門顕密体制である。

  • 「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

    全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。まず全体にどんなことを書くかというと、・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていたとまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。全体としては後鳥羽の描き方は良か...「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

  • 日本一短い「権門体制論」の解説

    中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今...日本一短い「権門体制論」の解説

  • Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

    2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。ということで「近代史」のお話1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだ...Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

  • 1972年の吉田拓郎・イメージの歌

    拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。1,イメージの歌これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの歌」☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実...1972年の吉田拓郎・イメージの歌

  • 「鎌倉殿の13人」は何故「民衆」を登場させなかったのか。

    鎌倉殿の13人には、ほぼ民は登場しませんが、それでも実に面白い、おそらく大河の中でもトップクラスの芸術的作品であることは揺らぎません。その上で、、、。北条小四郎義時は、若い頃は少しですが「民のため」を口にします。飢饉の心配もしていたようです。しかし後半になると、作品自体にほぼ「民」は登場しなくなります。・太郎泰時が「民の税」を減免して、民にコメを与えた。・政子が最後にちょこっと民衆と交わった。これぐらいでしょうか。全部で5分ぐらいです。徹底して民がいないドラマなのです。理由としては「そもそも小四郎は民であるという扱い」が考えられますが、彼は領主の子であって民でないことは、作品を見れば誰でも分かります。ではなぜか?1,上皇が「民の敵になってしまう」ことを避けた。小四郎が「民の味方」なら、後鳥羽上皇は「民の敵...「鎌倉殿の13人」は何故「民衆」を登場させなかったのか。

  • 後醍醐天皇の「理想と現実」・リラックス文体で書く。

    重くならないため、なるべくリラックス文体で書きます。たぶん重くなるけど。後醍醐天皇ぐらい「アゲられたり」「サゲられたり」、まー評価がコロコロ変わる人物はいません。同時代の評判はすこぶる悪いんです。お仲間の北畠親房も北畠顕家もぼろくそ批判してます。なぜって「新しいことをやったるぞ」と言ったから。朝廷は「超先例主義」ですから、「新しいこと」は生理的に無理なんです。「やったるぞ」はいいけど、「仕組みを作らない」から日本がカオス状態。武者にもその他市民にも、すこぶる評判が悪い。ところが昭和、戦前。今の皇室は北朝なのに、南朝を正統としてしまったから、後醍醐天皇を上げざる得なくなっちゃった。悪名高い皇国史観ね。好きな人もいるけど。皇国史観といえば、布教者は東大教授の平泉澄。ないことないこと書いて歴史を捻じ曲げたくせに...後醍醐天皇の「理想と現実」・リラックス文体で書く。

  • 即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

    悪人・北条義時に捧ぐ承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」「北条は怨霊に...即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

  • 鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

    最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。幕府という言葉を使用しな...鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

  • 鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

    吾妻鏡にこうあります。概略です。泰時は5千の兵を率いていた。そこへ後鳥羽上皇の敗戦の院宣がもたらされた。泰時は馬を降りて受け取った。そして「この中に誰か院宣を読めるものはいるか」と言った。武蔵の国の藤田三郎が読むことができたので、彼が読んだ。「この度のことは、全て院の意思ではなく、謀臣のしわざである」以上のことから分かるのは、泰時は院宣を読めなかったこと、5千人の中でも読める人間はほぼおらず「もしかしたら藤田一人だったこと」です。それにしても藤田はなぜ読めたのか。そっちがびっくりです。吾妻鏡が「とても信用できない、泰時顕彰のための曲筆ばかり」なら、ここは「読めたこと」にしてほしいものですが、ちゃんと「読めなかった」としています。この院宣は承久記前田本にあって、国会のデジタルコレクションで見ることができます...鎌倉殿の13人・北条泰時はなぜ後鳥羽上皇の「敗戦の院宣」が読めなかったのか。承久の乱。

  • 鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

    「承久の乱」を「どう評価」すべきでしょうか。社会の混乱という意味では、さほどの戦いではありません。後醍醐帝と足利尊氏が明確なビジョンもなく「鎌倉幕府を倒してしまって」から、60年の内乱の時代が訪れます。そういう意味では、この2人、とんでもない人たちです。フセインを倒したはいいが、さしたるビジョンもなかったため、イラクを今も混迷の中に沈めているアメリカ、と同じことをやっています。皇国史観においては「後醍醐帝に逆らった足利尊氏」は「日本最大の悪人」と呼ばれましたが、「皇国史観大嫌い」の私ですら「もっとちゃんとやれよ」とは思います。むろん後醍醐天皇も同罪です。この南北朝時代の戦い、いわゆる「観応の擾乱」(じょうらん、意味なく難しい言葉ので、この言葉は変えた方がいい)に比べれば、あっという間に決着がつきます。数か...鎌倉殿の13人関連・「承久の乱」をどう考えたらいいのか。

  • 天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

    織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。それでもこだわるとすると・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したの...天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

  • 鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

    後鳥羽上皇の願いを受けて、比奈は鎌倉に下向した。義時とは直接文を交わしたことはないものの、比企の乱から16年、義時は京の比奈に、定期的に莫大な金銭を送ってきてくれていた。途中からは泰時の名で送られてきたが、義時に意向であることは間違いない。比奈はまずその礼を述べた。「少しもお変わりになりませんね、小四郎殿」「そうか、人には別人になったと言われるが」「同じです。あなたはいつも鎌倉のことばかり考えて、そして疲れていらした」「そうか」「さて、京は上皇様のお言葉を伝えに参りました」京で比奈と後鳥羽上皇が懇意であることは、義時はよく知っている。「文を託すまでの仲とはな。比奈、つらくはないのか」比奈にとってはマツリゴトに関わることが苦痛であると義時は思っている。「比企の一族のことは、すべて昔のことです」と言って比奈は...鎌倉殿の13人・スピンオフ小説「比奈の乱」・「承久の乱前夜」

  • 映画「空海」と「Karaの復活」

    映画「空海」、は1984年、北大路欣也主演のドラマで、最澄は加藤剛さんが演じました。印象的な言葉が三つある。1,妙適淸淨句是菩薩位-男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地であるこれは密教の理趣経に書かれており、空海は東大寺の別当でもあったから、東大寺では理趣経は今も大事な経典らしい。むろん密教系にとって最高の経典の一つであることは言うまでもありません。性交は仏の境地、性欲は仏の境地無軌道な性欲の発動は社会の秩序を乱すから、この理趣経の考えは「小難しい哲学的解釈をもって改変」されてきました。道徳的になるように。しかし私は素直に読むべきだと思います。「男女の合意さえあれば、性欲の発動は生きる活力であり、つまりは元気の源である」ということです。「男女の合意」というのは「現代風の私の解釈」だが、空海においても...映画「空海」と「Karaの復活」

  • 「鎌倉殿の13人」スピンオフ小説・「比奈の乱」(仮)序章

    比奈・・義時の正妻であった「姫の前」のこと。本名は不明だが、ここでは「鎌倉殿の13人」にリスペクトを込めて「比奈」とする。太郎泰時は実子ではない。実子に北条朝時、後の幕府連署、北条重時がいる。「全く失礼な話だわ」と比奈は憤慨している。それにこの屋敷の様子はどうであろう。手はかけられているがどこか人間の生活感がない。「それでも左近衛権中将様が会ってくれるのですから」と侍女の「お駒」は比奈を慰めた。「あたり前です。勝手に人を死んだことにしたのですから、抗議しなくてはなりません」比奈の憤りは収まらない。やがて一人の公家がしずしずと現れ着座した。どこか貧弱で体の線が細い。男は黙って比奈を見ている。何も言わない。比奈も何も言わない。慌ててお駒が挨拶した。「こちらは鎌倉の北条義時殿の前室であるお比奈さまでございます、...「鎌倉殿の13人」スピンオフ小説・「比奈の乱」(仮)序章

  • 「鎌倉殿の13人」感想・第45回・「八幡宮の階段」

    ほとんどの大河ドラマを見てきましたが「鎌倉殿の13人」は「きわめて秀逸で画期性がある作品」です。しかも私の好きな北条義時を主人公にしています。さらに主人公の美化を行わず、泰時の美化は行っているものの「泰時はかなりポンコツ」として描かれています。畠山重忠だって死ぬ回以外は、かなりドライに悪行に手を染めていました。つまり美化される人物が存在しない。これは私の好きな路線の作品です。ということで「文句を書き」ます。私は本当にファンなので、まず文句から書きます。・公暁が実朝を殺しても「鎌倉殿になれない」という自明の問題は「私は名を残したかった」という公暁の弁で「一応クリアー」していた。公暁の行為は「全く意味不明で、奇々怪々、うっぷん以外の説明がありえない」とこのブログで書いてきた私としては、「あっ、名を残す」という...「鎌倉殿の13人」感想・第45回・「八幡宮の階段」

  • 「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

    権門体制論には黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」つまり「シン・権門体制論」と、そこから思想性とかいろんなものを抜いてしまった「現代風権門体制論」があります。多くの学者が、今依拠しているのは単純化された「現代風権門体制論」です。それは極めてシンプルな考えで、果たして「論」と呼ぶべきものなのかも分かりません。A,中世(平安末期から室町中期または安土桃山時代まで)において日本を支配していたのは、公家、武家、寺家の3大勢力である。終わり。基本的にはこれだけです。もうちょっとだけ複雑にするとB,中世において日本を支配していたのは公家、武家、寺家の3大勢力である。彼らは天皇を中心にしてゆるく結合しながら、相互補完を行っていた。これだけです。「現代権門体制論」は単純すぎて理論とは言い難い。図書検索をして「権門体制論」...「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

  • 「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

    黒田俊雄氏のオリジナル権門体制論はきわめてシンプルな考え方である。中世(平安末期から江戸幕府の成立前まで)において国家を支配したのは公家・武家・寺家の3大勢力である。以上。これで「終わり」である。つけ足すとすれば「天皇の位置」だが、「天皇の位置」まで言及するとなると「シンプル」にはいかなくなる。「天皇を中心としてゆるく結合」は実は間違っている。そんな粗雑な分析で「こと足れり」とはならない。黒田俊雄氏は1960年代、「天皇制の権力構造の解明」の為に「オリジナル権門体制論」を提唱した。そして天皇制の分析に多くの労力を費やした。それを「ゆるく統合」などという粗雑な言葉で表現することは不可能である。「ゆるく統合」は現代の「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」の産物である。もっとも、黒田氏の「思いなら」、「シンプ...「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

  • 鎌倉殿の13人、勝手にスピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

    石段に差し掛かると、源実朝は北条義時の目を見てこう言った・「叔父上、腰を痛めていると聞きました。この寒さはこたえましょう。ここで結構です。もうお帰りください」それを聞いていた源仲章は得意満面の笑みを浮かべた。「執権殿、ご老体にはこたえましょう。ささ、その太刀は私が持ちますゆえに」「おお仲章、気が利くな。叔父上に代わり、太刀持ちをお願いしよう」それにしてもこの太刀は、と仲章は思った。ずしりと重い。どうやら本身の刀である。「ここは武家の都、武家には武家の作法があります」と義時は笑った。実朝は何も言わない。仲章は黙って太刀を受け取った。義時と実朝は目で合図を送りあった。拝賀は終わった。しばし休息。実朝は雑色頭の重蔵を呼んだ。「仲章様の様子はしかと見ました。束帯の下に着込みをしておりまする」「これと同じか」と実朝...鎌倉殿の13人、勝手にスピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

  • 秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

    このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇...秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

  • 「それでも実朝の右大臣昇進は官打ちである」説

    身にそぐわない出世をした人間が、その為に不幸になる「状態」を「官打ち」という。と辞書にありました。「状態をいう」ということは「実朝が死んだという状態」が「官打ち」なわけです。後鳥羽院が「殺してやろう」と思っていなくても、実際死んでしまえば「官打ち」「位打ち」なのです。まずこれが「日本語の字義にこだわった場合」、そうなるということです。しかし「辞書の説明は絶対」なわけはないので、誰かが誰かを「陥れるために位を上げること」とするなら、話は変わってきます。承久記は「実朝の死は後鳥羽院による官打ち」であるとしています。後鳥羽院が実朝の不幸の為に、官打ちをしたのか。これを肯定する学者はほぼいません。なぜならオカルトめいた迷信だからです。しかしそれでもずっと「官打ちじゃないのかな、官打ちは合理的説明になるな」と日本人...「それでも実朝の右大臣昇進は官打ちである」説

  • 北条義時ファンの私は非暴力主義者

    「主義」とか「イデオロギー」というのは怖いものなので、なるべく持たないようにしていますが、非暴力だけはどうも「私の主義」のようです。そもそも子供のころから、暴力が嫌いでしたし、人に振るった記憶にありません。「ブス」とかは言いました。自分が不細工であることに気づきもせず、女子に言いました。そういう言葉の暴力は、あると思いますが、人を殴ったことは人生で一度もありません。兄貴は私より多少暴力的です。兄貴は私をよくいじめましたので、私の母は優しい人でしたが、小学校入学以前は「兄貴の頭をはたく」ぐらいはしたようです。つくづく教育に暴力は必要ないと思います。暴力で教育すると、だいたい子供も暴力的になってしまう。虐待と同じで、連鎖するのです。まあ兄の暴力も私が中学生になる頃にはだいぶ収まりました。殴りはしません。押さえ...北条義時ファンの私は非暴力主義者

  • あえて「#鎌倉殿の13人反省会」

    私は歴代大河の95%を見ていますが、「主人公を美化しない」という点において、基本的には「誰も美化しない」という点において、「鎌倉殿の13人」は画期的です。素晴らしい作品だと思います。だから「あえて反省会」をして、文句を書きます。「素晴らしい作品だから文句を書く」ということです。我ながら悪趣味です。実朝について考えます。愚人ですね。ちゃんと愚人として描いていると思います。・人はいい。でも為政者として時に冷酷になるという覚悟がない。・頼家の死因について知らない。知ろうと思えば、いつでも情報は入ったはず。・変な船をつくってみんなに迷惑をかけた。その反省がほぼない。・和田合戦を止められなかった自分の未熟さをあまり反省しない。・そして後鳥羽に頼るとか言い出す。要するに「おれは虎の威を借りるぞ」ということで、みっとも...あえて「#鎌倉殿の13人反省会」

  • 鎌倉殿の13人・公暁くんは何がしたかったのだろう。

    一応の区別として「公暁くん」「平六くん」「義時くん」は大河の物語の登場人物。「公暁」「平六」「義時」は歴史上の人物ということで書きます。途中で混交してしまったらすみません。「公暁くん」(ドラマの)、を見て改めて思ったのですが、「何がしたいのか」が分からない。それは歴上の公暁も同じである。「実朝を討って、御家人に北条の犯罪を明かし、実朝に正統性が存在しないことを説けば、御家人は納得する」と「公暁くん」は言う。「平六くん」も「いい考えだ」とか言う。そんなわけないじゃん。誰が自分たちの棟梁を殺されて「ははー」と従うのだろう。北条義時が同時に死んだとすると、それをきっかけに御家人の主導権争い、また源氏系の「鎌倉殿の地位争奪戦」が起きるだけである。「三浦」が私たちが今日思っている以上に御家人への統制力を持っていたと...鎌倉殿の13人・公暁くんは何がしたかったのだろう。

  • 「鎌倉殿の13人」と「公武協調または公武対立史観」

    「鎌倉殿の13人」のオープニング映像。最後は兵馬俑の像のような「武士」が「貴族に挑んでいる、刀を抜こうとしている」シーンで終わります。明らかに昔ながらの「公武対立史観」を採用しています。「昔ながら」に批判の意識はありません。私は基本的に公武対立史観を支持しているからです。源実朝は「上皇」と強く協力していこうとしますが、北条義時も三浦義村も「表面上は上皇を敬いながらも」、何度も「西のやつら」の「好きにされてたまるか」という言葉を口にしています。そもそも北条義時の兄である北条宗時の「遺志」が「源氏も平家のいらない。西のやつらに指示されたくない。俺たちの坂東を作る。そこで北条が頂上に立つ、というもので、その遺志を北条義時は「継いで」いるのです。もっとも三谷さんは「王家の犬になりたくない」とか登場人物に言わせませ...「鎌倉殿の13人」と「公武協調または公武対立史観」

  • 小説「北条泰時の野望・民のために」・下書き・唐船の巻

    舞台1216年、実朝の死(この小説では死なない)の2年前設定北条泰時・・実朝側近。聖人君子ではなく、自分の政治をしたいという野望に溢れた男、いとこの実朝を同志と思っており、人のいないところでは「金剛、千幡」と幼名で呼び合っている。33歳。源実朝・・生まれたからずっと坂東で育った野趣溢れる男。上皇を抑制するため、上皇の言うことを従順に聞く上皇懐柔政策をとっているが、それにもそろそろ限界を感じている。24歳。安達景盛・・頼朝最側近安達藤九郎の息子。実朝最側近。かつて頼家に女性をとられそうになった過去を持つ。後、宝治合戦を引き起こす武闘派だが、実朝や泰時とは気が合い「3人グループ」を形成している。史実上、娘を北条泰時の子に嫁がせている。執権北条経時、時頼兄弟の祖父である。北条執権の元で、御家人代表として安達氏は...小説「北条泰時の野望・民のために」・下書き・唐船の巻

  • 小説「北条泰時の野望」

    北条泰時と安達景盛が御所に実朝の前に伺候すると、実朝はいつものように人払いを行った。こうして宵の口になると三人で政の相談をする。それがもう何年も続いている。「京の様子はどうだ」と実朝が尋ねる。「伝わってくる話はいつも同じだ。上皇は相変わらず和歌を作り、武術を好み、そして大規模に国家鎮護の祈祷を行っているらしい。」と景盛。上皇とは後の後鳥羽院である。「鶴岡八幡宮のほうは」と実朝。「公暁殿も相変わらず、加持祈祷に熱心らしい。少し異常なほどな」と泰時。「何を祈っておるやら」と実朝は笑った。「あいつは俺を恨んでいるだろうな。やつは鎌倉殿になりたくて仕方ない。しかし母上と義時は先手を打って、さっさと京から皇子か藤原の息子を呼んできて、鎌倉殿に据えることを決めてしまった」「鎌倉殿はそれでいいのか」と景盛が尋ねる。「あ...小説「北条泰時の野望」

  • 「鎌倉殿の13人」・第33回「修善寺」・感想と考察

    義時が冷酷な悪人になったのは、実は先週と先々週だけで、それまでは「迷い」がありました。迷いなく殺したのは、比企一族と一幡だけで、それも史実から言えば時政がやったことです。私はやや義時びいきですので、今回、また義時が多少の「迷い」を持ってくれたことは嬉しい限りです。悪漢ヒーローも良いけれど、この時代、あまり非道なのは「ただ嫌われるだけ」ですから「歴史的存在としての義時」にかわいそうです。今回の頼家の死については「幕府のみんなで決めたこと」なのに、結局義時ひとりで刺客を放った感じになっていて、そこはまた悪人を引き受けることになって、かわいそうでしたが、泰時を「頼家救出に向かわせ、かつ冷酷な政治の力学を体験させる」ためには、必要な「設定」だったのでしょう。泰時はどこまでも善を引き受けるようです。頼家に関しては善...「鎌倉殿の13人」・第33回「修善寺」・感想と考察

  • 源頼朝「すでに朝の大将軍たるなり」が鎌倉幕府を滅亡させた説

    私が上記のような「奇説」を書くのは「歴史は自分の頭で考えないと分からない」と考えているからです。つまり「人の書いたものを理解するだけではいけない」と思っているから。まあ本当は、そういう「真面目な動機」と、「自分で考えないとつまらない」という「自分勝手な動機」が混在しています。「奇説」ですが、一応いろんな学者さんの本を参考に書いています。源頼朝は反乱軍として(平家が官軍)スタートし、朝廷とは関わりなく勝手に土地の「安堵」を行っていきます。ただそのうちにやや路線が変わって「朝廷ともうまくやっていこう」となります。挙兵には後白河法皇の院宣があったという方もいますが、その証拠は全くありません。それどころか、奥州藤原氏戦争は、後白河法皇の強い反対を押し切って強行されます。法皇は「追認」という形で、形式を整えました。...源頼朝「すでに朝の大将軍たるなり」が鎌倉幕府を滅亡させた説

  • 鎌倉幕府の性格・公武協調か公武対立か。

    鎌倉幕府が朝廷や公家と「基本的に協調していたのか」または「基本的に対立していたのか」。今は「基本的に協調していた」が学会の「常識」となっているとされている。というか、学者さんもつらい立場で「協調史観」か「対立史観」かの「踏み絵」を踏まされているようなのである。もちろん数は多くないが「対立か協調か自体がくだらない話だ」と言い切る学者さんもいる。そもそも石井進さんや佐藤進一さんが「公武対立史観の立場をとった」とされ、それが教科書的歴史観になったと「された」ことから、こういう面倒な問題が始まる。教科書は「単純化」されているから、なるほど「単純な対立的把握」をしている部分も存在する。その方が「教えやすい」からでもあろう。ただ石井さんや佐藤さんの「原著」を読めば、単純に「対立構造だ」と言っていないことは明らかである...鎌倉幕府の性格・公武協調か公武対立か。

  • 鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

    歴史学の巨人である佐藤進一さんが「日本の中世国家」で「王朝国家」と「鎌倉政権」を「二つの国家」と書いたのは1983年です。既に黒田俊雄さんの「権門体制論」の賛同者は増えていましたが、佐藤さんはそれに対して一つの見解を述べたわけです。今は文庫になっていますが、もう「感動的」というか「涙もの」です。知識が人間業じゃない上に、論理も明確すぎるぐらいです。この本が「正しいか否か」はとりえず置くとしても、「こんな美しい文章はめったにない」とまず私はそこに感動しました。「論理文に感動」というのはおかしいですが、時々そういう文章に出会います。佐藤さんは中世を基本的に「分裂の時代」とみています。「権力の分散」とも言います。それに対して権門体制論は「統合」を主張します。「ゆるい統合」ですね。王朝国家、または朝廷?、天皇のも...鎌倉幕府と承久の乱に関する一つの奇妙な仮説

  • 「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

    北条時政に関しては「開発領主である」「在庁官人であるらしい」ということがよく言われます。開発領主奈良時代の743年。聖武天皇が墾田永年私財法を出します。「私財」と言っても「完全な私財」ではなく、いろいろ制限条件が付きます。税金も取られます。で、地方では資金や権力を持つ「院宮王臣家」という貴族たちが中心となって、それに国司も加わって、とんでもなくエグい開発競争が始まります。バブルです。法律的には制限があるのですが、院宮王臣家は法律なんて「知ったこっちゃない」というわけで、とにかく際限なく欲望を開花させます。土地の領主(管理人)である武士が、ほぼ「院宮王臣家」(貴族)の子孫を名乗っているのはこのためです。北条時政が生きた時代は1138年以降ですが、この時には「富豪農民」や「郡司層」などが土地の開発を行って「開...「鎌倉殿の13人」・北条時政とは一体何者なのか。

  • 読書報告 黒田俊雄氏「権門体制論」・永原慶二氏「荘園」・呉座勇一氏「戦国武将、虚像と実像」

    今どんな本を読んでいるかをぐだぐだ書くだけです。書評とかじゃないし、本の紹介でもないので、期待はしないでください。黒田俊雄氏は権門体制論を主張した方ですが、「権門体制論」という本は、ありません。昔々、、、「中世の国家と天皇」で、初めてまとまった形で「権門体制」を主張しました。公家、武家、寺社を「中世における支配層」と考え、「荘園に基盤を置く点において同質性を持っている」としました。上皇は「公家」に含まれます。何度読んでもやや難解です。ただし短い論文です。「公的存在としての天皇」はこの3つの勢力に「公のお墨付き」を与えるとしました。錦の御旗みたいなもんです。中世を支配していたのはあくまで公家、武家、寺社。それらはかなり私的な勢力なのですが、「あたかも公的」に見えるのは天皇の「お墨付き」のおかげというわけです...読書報告黒田俊雄氏「権門体制論」・永原慶二氏「荘園」・呉座勇一氏「戦国武将、虚像と実像」

  • どうする家康?・大河の中の徳川家康

    大河ドラマにおいて徳川家康が「単独で主人公」になったのは1983年の「徳川家康」のみです。「葵徳川三代」も「主人公」と言ってもいいでしょう。しかし「秀忠」も同じぐらい重要な主人公でした。「家光」はたいして描かれてはいません。大河「徳川家康」は山岡荘八原作で「非の打ちどころがない家康」「聖人君子」です。これは無理な設定で、家康の「わが子殺し」や「妻殺し」を、「聖人君子と矛盾なく」描くのに苦労していました。「悩んで悩んで、逃がそうと思ったが、逃げてくれなくて、泣く泣く斬る」という感じです。その他矛盾だらけなのですが、その矛盾を楽しめば「偉人伝」としては、つまりウソを楽しむフィクションとしては成功していました。ちなみに山岡さん原作だと大河「春の坂道」にも山岡家康は登場します。この時は権力闘争の時代で、俳優も政治...どうする家康?・大河の中の徳川家康

  • 「鎌倉殿の13人」・6月から12月までの人々の運命・後半のネタばれ

    このブログは一応ツイッターと連動しているというか、たまにツイッターにアドレスを載せることがあります。ツイッターでは「今後のこと」について滅多なことは言えません。「ネタバレ」になるからです。もちろん、ネタバレさせても犯罪ではないのですが、「故意に人を不快にする必要はない」ので、私はネタバレに気をつけています。ということで、逆にこのブログでは「ネタバレ一切気にしませま」せん。もっとも、本当のストーリーはまだ公開されていないようです。ですからここでは「史実のネタバレ」となります。この大河は「史実と極端に離れたことはしない」ので、史実を知っていれば、ストーリーの大筋は分かります。ネタバレですので、ご注意ください。ということでまず、いつまでのことが描かれるのか物語は6月初旬で1992年です。頼朝が征夷大将軍になった...「鎌倉殿の13人」・6月から12月までの人々の運命・後半のネタばれ

  • それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風

    途中で「小説風」になります。あと史実のネタバレがありますが、「ごく少ししか史実のネタバレさせない。誰でも知っていること。」なので、多分読んでも大丈夫だとは思います。ガイドブックとか見ていないので、どんな情報にも基づいていません。「草燃える」でも八重さん相当の娘(大庭の娘、松坂慶子さん)は金剛を生んでのち、壇ノ浦で死に、「そっくりさん」(一人二役)として復活するのです。でも新垣さんはもう「クランクアップした」という情報もあります。しかしながら、復活するのは最終回前の2話ぐらい、というのが私の予想なので「もう撮っている」かも知れません。史実という視点から北条義時の死の詳細は書きませんが、それなりに急なことでした。義時には他に「正妻の子」とかいまして、金剛ちゃん(北条頼時のちに泰時)が北条を「継げる」という保証はなか...それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風

  • 「#後白河院のスマホ」・保元の乱まで3話

    1,なりたくなかった男後白「舞え、舞え、かたつむり♪、やりだせ、つのだせー」鳥羽「後半歌詞違わないか。雅仁、相談あるんだけど」後白「あっ父さん。大丈夫すか」鳥羽「いつまでも死んだ近衛のことで、泣いていてもしょうがない」後白「まあ、そうすね。世は無常ですからね。諸行無常の響ありってね」鳥羽「それ平家物語だろ。時代考証的におかしくないか。まあとにかく、それでさ、美福が育てているお前の子、守仁を帝にしようと思ってな」後白「ああ、そうすか」鳥羽「リアクション薄っ!もっと驚けよ」後白「政治興味ないんすよ。面倒くさそうだし。武士とか怖いし」鳥羽「じゃあそれでいくから、ヨロシク。あっ、電話だ。ああ忠通っちゃん。えっ。何。親より先はおかしいから、とりあえず雅仁を中継ぎで帝にする!」後白「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ。ぴえん超えて...「#後白河院のスマホ」・保元の乱まで3話

  • 上総介広常の「大疑問」・一つの仮説・鎌倉殿の13人関連

    上総介広常は「草燃える」では、小松方正さんが演じて、とにかくガラの悪いおっさんでした。「おい武衛ふざけんじゃねえぞ。佐竹が先だろ」とか言ってました。「おい武衛、パン買ってこい」とか言いそうな勢いだったのを覚えています。私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何な...上総介広常の「大疑問」・一つの仮説・鎌倉殿の13人関連

  • 「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題

    貴族から武士の世へという構図は間違っている、という本が多くあります。ふと「そうかな」と思いかけたのですが、色々考えて「貴族から武士へ」は間違っていないと思うようになっています。大河ドラマのOPでも「武士が貴族に挑んでいる兵馬俑」みたいのが描かれます。「日本史への間違ったイメージを増長する」という方もいるでしょうが、いや「合っている」と思うのです。個人的には。どうして「貴族から武士の世へ」が「成立しない」可能性があるのか。もっとも重要なのは「荘園という同じシステムに乗っかった収奪者である」という点です。荘園には公家寺社本家とか下司とか武士地頭とか、複数の人が利権を持っていて年貢(コメとか労役とか)を「ぶったくって」います。だから「武士が新時代のヒーローなんて図式は成立しない。同じ穴のむじなだ。」というわけです。「...「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題

  • 短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです

    小説「九郎義経のハッピーエンド」鎌倉殿の13人「史実のネタバレ」を含みます。九郎義経と足利義氏のこと、鎌倉殿禅譲のこと、以外は「少しだけ史実に近い感じ」で書いていますが、完全なフィクションです。「承久の乱の大筋」を知らない方は、史実ネタバレするので読まないことをお勧めします。健保6年、1219年、頼朝の挙兵から既に39年がたっていた。多くの人々が鬼籍に入った。名前を挙げればきりがないだろう。そして源頼朝も、もうこの世にない。頼家、実朝と「鎌倉殿」は移り変わった。その実朝が甥の鎌倉八幡宮別当(長官)公暁によって殺された。公暁は頼家の忘れ形見である。ほんの二年前、京から鎌倉に舞い戻り、北条政子のはからいで別当職についた。政子にとっては公暁は孫であり、実朝は次男である。その日、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日...短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです

  • 鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。

    変な題名ですが、「ジンギスカンは義経にあらず」という大正13年に出た本の題名のパクリです。大正13年に義経ジンギスカン説がブームとなり、それを「いさめる」ために書かれた本です。まあ新田義貞の作戦に似ているし、「新田義貞のもの」でもいいのです。ただし難癖をつければ「新田義貞は船を持っていなかった」はずです。刀を持って海に祈ったら、海の水が奇跡的に引き、海岸を馬で渡って鎌倉に乱入した、、とまあこれも「伝説のたぐい」ですが、そうなっていたと思います。陸上に敵を引き付けて、船を使って長距離移動し、敵拠点を攻める。「これをやられていたら、とても勝てない。」「鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」。それで私が思いつくのは幕末の幕府対官軍の戦いです。「花神」という作品でおなじみです。「花神」は三谷さんが好きな大河の筆頭として...鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。

  • 「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。

    義経勢力に対して頼朝追討の宣旨が出されたのは1185年です。1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。たった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収3,田地知行の権限となるようです。正直意味がつかみにくい。ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもある...「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。

  • 昭和革命幻想とリアル革命「承久の乱」

    昭和40年代を「革命が起こりそうだった時代」と思っている方がいますが、それは幻想です。私が子供だった1970年代、日本にそんな雰囲気はありませんでした。自民党はロッキード事件等で、議席を減らしましたが、それでもずっと政権与党でした。その後もほぼずっと与党です。高度成長に浮かれていた時代です。むしろ資本主義バンザイという時代だったのです。ただ60年代は分かりません。その頃の運動家である吉本隆明氏の文章などを読むと「明日にでも革命を起こそう」というノリで書かれいます。実際は「戦後」と「貧富の差が究極の拡大を見せた昭和初期」の方が、ずっと社会主義革命の可能性は高かったようにも思いますが、実際の「雰囲気」は、生まれていないので分かりません。社会主義革命とは別に、「昭和維新」とかいう右翼の方々もいました。これはちょっと怖...昭和革命幻想とリアル革命「承久の乱」

  • 北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編

    北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編切通しと海に守られた鎌倉小町亭に住んでいる武家の世開いた北条義時御家人守護職守るため3つのしもべに命令だ!ヤア泰時時房、東海を行け朝時武田は別ルート政子変身!名演説だー後鳥羽よ、アンタは怖くないたたりも追討も恐れない勇敢な老人北条義時武士の世、地固め行うぞ3つのしもべに命令だ!ヤア3人の上皇は、配所へ行け泰時時房、六波羅だオイラも変身!得宗だー元ネタ(元歌の一番)砂の嵐に守られたバベルの塔に住んでいる超能力少年バビル二世地球の平和を守るため3つのしもべに命令だ!ヤア怪鳥ロプロス空を飛べポセイドンは海を行けロデム変身!地をかけろ北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編

  • 鎌倉殿の13人・「義経花神説」の構想

    題名を含めて「ふざけて」います。「ふざけて」いますが、内容は「そこそこ真面目」です。前回の最後、なぜか逃げているはずの義経が、北条親子の前に現れる。会話を交わす。時政は全く捕まえる気がない。で、最後にこういいます。「まるで平家を倒すためだけに生まれてきた」ような人間だと。で、思ったわけです。三谷さんは大河「花神」が好きです。好きな大河を4つぐらい挙げていて、その筆頭が「花神」でした。1977年ですから、40年以上前の作品です。司馬遼太郎さんの原作。原作の方は「村田蔵六、つまり大村益次郎」が単独で主人公ですが、大河の方は3人主役で吉田松陰→高杉晋作→村田蔵六と移り変わっていきます。よい作品ですが、視聴率は悪かった。たった19パーセントです。1977年だと私はまだ子供です。が「最高の作品だ」ということは分かりました...鎌倉殿の13人・「義経花神説」の構想

  • 「鎌倉殿の13人」から「源義経・鎌倉幕府」を考える。

    日本史の学者さんは、単純化すれば2種類に分かれます。「京都や京都文化、朝廷、天皇に重きを置く学者」と、「さほど重きを置かない学者」です。大雑把に言えば前者は西に多く、後者は東に多い。しかし例外もいくらでもあります。そしてどうも「西」の方が「学閥の力」が強いようにも感じます。東の学者はどっちかというと「個人主義」ですが、西は「数の力にモノを言わせる」ことも多いように思います。集団でものを言いがち。まあ偏見かも知れません。私自身は学者ではないので、本を読んでの感想です。「京都中心思考の学者」は「権門体制論を支持」、「非京都中心の学者」は「東国国家論を支持」とされることもあります。しかしこれも例外は多い。そもそも「今風の権門体制論」も「東国国家論」も少しも「体系化」されていませんから、こういう区別は意味ないとも思えま...「鎌倉殿の13人」から「源義経・鎌倉幕府」を考える。

  • 大河「平清盛」・「王家の犬」を再考する。

    大河「平清盛」、視聴率は低かったですが、一部熱狂的なファンを持つ作品です。特に「歴史好き」に評判がいいと言われます。10年経って、初めてきちんと見てみたのですが、なるほど良い作品です。特にオープニングの白拍子の舞などは実に美しい。もっとも歴史認識は正直古典的です。「平家物語」に改編を加えたという感じ。今は「脱平家史観」とかが流行です。重盛の評価(いい評価)などは見直されて、清盛がやった「いわゆる悪事」の半分以上は「重盛のやったこと」じゃないかと言われます。そこから見れば「古い」感じはしますが、私自身は特に「脱平家物語」をしたいとは思っていないので、さほど気になりません。都のカオスや「王家」のカオスが良く描かれています。この20年の大河では、もっとも見ごたえがあるかも知れないとも思っています。さて、この作品では「...大河「平清盛」・「王家の犬」を再考する。

  • 「鎌倉殿の13人」・第4回「矢のゆくへ」・感想

    ・面白かった。・当時の兵数がいかに「少ない」かをよく表現していた。史書に出てくる数字は10倍ほど嘘をついているらしい。2万とあれば2千。・女性が歴史を動かす。女性主人公大河はどうやら終了のようだが、女性は大活躍である。素晴らしい。・法皇が「俺だよ」と言っていた。・山木は実は流人である。平氏であるが、親父に流された。目代というのは結構な権力者。流人がそういう位置についている。不思議な時代である。もと検非違使らしい。・八重さんと同じことをする女性は、「草燃える」では松坂慶子さんで、大庭の娘設定だった。むろん義時の思い人である。まあ完全に同じ設定である。リスペクト。ここからは「難しい、まあ、さして難しくはないが」という話になります。「武士とは何か」とかそういう話です。興味のない方はここで読むのをやめてください。(でき...「鎌倉殿の13人」・第4回「矢のゆくへ」・感想

  • 書評・呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

    呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」数年前に呉座氏の本は4冊ほど読んだ。逆に言えば4年ほど前に4冊読んだだけで、読み返しはしていない。「陰謀否定論」は二回読んだかも知れない。最新刊「頼朝と義時ー武家政権の誕生」は二度ほど読んだが、まだ熟読というほどは読みこなせていない。しかしこの先読み返すか分からないので、記憶のあるうちに書評を書いてみる。なお私は呉座氏のことはほとんど知らない。「騒動」は知っているが、触れる気もない。今回読んでみたのは「13人」関連であるし、「どんな歴史家か」確かめてみたいという気持ちもあったためである。1,思考のベースには「権門体制論仮説」の「武家」「公家」「寺家」の相互補完仮説があるように読める。公武対立史観は明確に否定している。ただ原理主義的思考はとらない。したがって権門体制論のキー...書評・呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

  • 「権門体制論」「東国国家論」を学ぶ①・「王家」と「天皇」

    「武家と公家は対立せず相互補完」していた。現代の学者さんがよくいうセリフですが、これは昭和38年に黒田敏雄氏によって提唱された「権門体制論」を基にしています。「相互補完」は権門体制論のキーワードです。私は「権門体制論」も「東国国家論」も学ぶべき偉大な概念だと思います。どっちを支持するという問題ではないと考えています。権門体制論はさまざまに解釈されていますが、ここでは黒田氏の「オリジナル権門体制論」のみを「権門体制論」と呼びます。今回は「王家」と「天皇」の「オリジナル権門体制論」における位置づけを考えます。資料は黒田茂雄氏の「中世の国家と天皇」1963年、「中世天皇制の基本的性格」です。黒田氏によれば1,権門とは権門体制期(院政から応仁の乱までの時期)における支配層であり、「私的領地である荘園に権力の源をもつ私的...「権門体制論」「東国国家論」を学ぶ①・「王家」と「天皇」

  • 日本10番目にわかりやすい「権門体制論」の説明

    権門体制論の提唱者は黒田俊雄さんで京都大学出身、大阪大学教授です。提唱した年は1963年。昭和38年です。40歳ぐらいでした。終戦時に22歳だった方です。戦前に教育を受けました。黒田氏の思想を知るために重要なので以下だけは、ウィキペディアからコピーします。黒田氏は、戦後の良心的歴史学者の天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶の説明であったとし、しかしそれだけでは彼等(天皇)の詐術を断ち切ることはできないと主張。そして「歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。」とし、この三つの諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきたことが、天皇制を操作してきた権力の真実であり、現代でも詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて...日本10番目にわかりやすい「権門体制論」の説明

  • 大河ドラマ「どうする織田信長!」が製作される可能性・「天下静謐」とは何か。

    「鎌倉殿の13人」、どうやらすでに「どうする義時」じゃないかという声が出ています。義時はやがて「天下をとったような」感じになりますが、それは最初から狙っていたわけでなく、自分と自分の家族や仲間、誇りを守ろうと、その時々で判断していたら、「いつのまにか天下をとったような感じ」になってしまった。こうなる可能性が大です。そして次の大河は「どうする家康」です。家康は信長が生きている時代、三河、遠江を支配する「信長配下の大名」でした。すでに対等ではなかったのです。武田滅亡後、駿河をもらいますが、それでも信長の支配領土とは格段の差があります。「天下を狙っている」とはどうしても思えない。本能寺の後、秀吉と対立します。この段階の家康の意識は分かりません。やったことは旧武田領土の奪い合いです。しかし結局は秀吉に臣従します。北条が...大河ドラマ「どうする織田信長!」が製作される可能性・「天下静謐」とは何か。

  • 「鎌倉殿の13人」・第二回「佐殿の腹」感想・頼朝のいう「正しい世」って何だろう。

    「史実のネタバレ」がありますからご注意ください。さて第二回「佐殿の腹」の「感想」です。頼朝の言う「正しい世」って何だろう。興味は実はこの一点に尽きます。「清盛の首をとり、後白河院をお支えして、正しい世を作る」と最後に頼朝が言います。「お前だけに話す」と言われた義時は感動しています。頼朝の「お前だけに」は既に当時において頼朝の「癖」として意識されていたようで、「みんなにお前だけにと言った」と「吾妻鑑」に書かれています。学者さんによっては「頼朝をおとしめるため北条がそう書いた」という人がいますが、考えすぎでしょう。「佐殿って、みんなにお前だけにって言ったんだぜ。すぐばれるのに。お茶目で面白い人だった」と御家人たちは愛情をもって伝承したんじゃないでしょうか。佐殿が目指す正しい世は「法皇を支え、武家として朝廷を守り、世...「鎌倉殿の13人」・第二回「佐殿の腹」感想・頼朝のいう「正しい世」って何だろう。

  • 「承久の乱」をゆっくりと考えてみる。北条政子の演説と大江広元の野望。「鎌倉殿の13人関連」

    承久の乱における幕府の勝利、1221年をもって「鎌倉幕府の真の成立」とする。なかなかに魅力的な考えです。まあ「鎌倉幕府の成立」は、「こう考えるとこの年になる」というだけで、「正解を求める必要はない」命題でしょう。ただし、これは歴史学者さんが「説」を出すのは無駄だということではありません。むしろ「何年と考えるか」によって、その人の史観や歴史の見方がはっきりするので、喧嘩しない程度に「行儀よく論争して」ほしいなと思います。今は1185年と教科書にあります。これは「諸国に守護、地頭を設置することを朝廷が認めた年」ですが、さっそく「そんなこと認めていない」「いや守護そのものがこの年にはいなかった」等の意見が出てきています。「行儀よく論争」するなら、どんどんやってほしいものです。承久の乱では有名な政子の演説が存在します。...「承久の乱」をゆっくりと考えてみる。北条政子の演説と大江広元の野望。「鎌倉殿の13人関連」

  • 「鎌倉殿の13人」・第一回「大いなる小競り合い」感想

    「言葉のテンポがいい時代劇もいいな」と感じました。もちろん「間」も嫌いじゃありません。大河「天地人」、「光秀謀反!」から信長が「是非に及ばず」と言うまで30秒の沈黙があります。「国盗り物語」でも10秒ぐらいあって、その間に高橋英樹さんの表情が「怒り」から「悟り」に変わっていく。でもあまり重々しく「間」をとられても疲れてしまいます。「言葉のかけあい」がやっぱり三谷脚本の神髄なんだなと思いました。個人的には「草燃える」のリメイクだと思っています。雰囲気も似ています。「言葉が現代調の元祖」こそ「草燃える」です。時政の雰囲気もなんか似ています。「ちょっとポンコツ」なんです。宗時は「草燃える」では切れ者でしたが、13人ではポンコツです。でも彼の壮大なドン・キホーテ的野心が歴史を動かすわけですから、素敵なポンコツでしょう。...「鎌倉殿の13人」・第一回「大いなる小競り合い」感想

  • 「鎌倉殿の13人」・新垣結衣さん演じる「八重姫」の運命

    ネタばれの「可能性」があります。NHKが発行する「あらすじ紹介ブック」は読んでいませんが、時代考証を担当する坂井孝一さんの「鎌倉殿と執権北条氏、義時はいかに朝廷を乗り越えたか」を読んで書いているからです。ネタバレする可能性が高いということになります。さて、新垣結衣さん演じる「伊東八重」は伊東祐親(すけちか)という平氏側の有力武士の「娘」です。八重さんは源頼朝の「最初の妻」で、子供も産みます。しかしそれを知って怒った伊東祐親は、生まれた子供を殺し、源頼朝とも敵対関係に入ります。八重さんは北条義時と似た名前をもつ「江間小次郎」または「江間小四郎」のもとに嫁にいかされます。「悲劇の人」らしいのですが、どうもそうでもないらしいのですね。なぜなら「北条義時の初恋の人」とも書いてあるからです。ちょっと歴史に興味があって、ネ...「鎌倉殿の13人」・新垣結衣さん演じる「八重姫」の運命

  • 「鎌倉殿の13人」・北条義時の「復権」はありえるか。

    北条義時、「鎌倉殿の13人」の主人公。鎌倉幕府の二代目執権で「北条執権」制を主導した人です。北条政子は姉です。源頼朝の「側近筆頭」で、どうやら「江間」という姓だったようです。承久の乱では「後鳥羽上皇」と戦い勝利します。そして上皇を3人も島流しにしています。上皇が3人もいたのです。「やってることは織田信長より凄い」のですが、「知名度は低く」、人気もありません。江戸期から不人気でした。「源氏の将軍を断絶させた悪いやつ」(徳川は最初は藤原氏だったが、最終的には源氏)、源氏将軍を圧迫したということで評判が悪かった。当然「物語」も作られないし、登場しても悪役です。明治期以後も「天皇家を圧迫した」ということで「悪人扱い」です。後醍醐天皇を圧迫した足利尊氏は「極悪人扱い」でしたが、「極悪人」だと知名度だけは高くなります。北条...「鎌倉殿の13人」・北条義時の「復権」はありえるか。

  • 「鎌倉殿の13人」・北条義時は過去に一度だけ主人公並みになっている。

    1979年(43年前)の大河「草燃える」の主人公は、源頼朝と北条政子です。頼朝は途中で亡くなるので、後半は政子が主人公なのですが、この政子、さほど政治的ではありません。色々な歴史的事件(頼家殺害、実朝暗殺)については「政子は知らなかった」とされます。となると政子の名で幕府を動かしていた北条義時が「実質上の主人公」になっていきます。松平健さんが演じました。1979年、私はまだ子供で、見てはいましたし、非常に強い関心を持ったのも覚えているのですが、内容をはっきりと理解したわけではなかったと思います。その後総集編がDVDになって、「なるほどこういう作品だったのか」と気が付きました。一言でいうと、単純ですが「素晴らしい作品」です。大河の中でも筆頭格の作品だと個人的には思います。言葉遣いがとても平易です。現代語に近い。当...「鎌倉殿の13人」・北条義時は過去に一度だけ主人公並みになっている。

  • 「青天を衝け」と「司馬遼太郎さん」のこと

    「青天を衝け」はオリジナル作品ですが、多くの「優れた作品がそうである」ように、先行する諸作品の良いところをよく吸収して描いています。その先行作品として真っ先に挙げたいのは、司馬さんの「最後の将軍」「明治という国家」です。そもそも徳川慶喜を同情的に描いた名作は「最後の将軍」ぐらいしかないような気がします。司馬さんは彼を「怜悧な人、政治家」として描きましたが、大森さんは「情の篤い人」として描きました。「青天を衝け」はそもそも渋沢栄一を描くことが主眼で、「歴史」はさほど詳しく描かれませんが、歴史認識については「明治という国家」を大いに参照したようです。私は近代史をあまり知りませんが、それでも旧幕臣である小栗、栗本、川路といった人々は知っていました。たしか「明治という国家」に登場すると思います。「司馬遼太郎は明治維新を...「青天を衝け」と「司馬遼太郎さん」のこと

  • わびしく燦爛な神としてのトッケビ、そして、永遠の君主とキムゴウン

    「トッケビ」の韓国原題を日本語訳すると「わびしく燦爛な神、トッケビ」となるそうです。「トッケビ」は「鬼」です。主人公のコンユは鬼でも蛇でもなく、見かけは普通の人です。素敵なおじさん、です。高麗時代から生きています。呪いというか運命というか。そして神力を持っている。自然も人の命も操ろうとすれば操れますし、瞬間移動もできます。この「永遠の呪い」を解くためには、「トッケビの花嫁」に胸に刺さった見えない剣を抜いてもらうしかありません。トッケビの花嫁には剣が見えます。そのトッケビの花嫁が、18歳(役)のキムゴウンで、彼女は18歳で登場して、29歳までを演じます。実年齢は26歳ぐらいであったと思います。わびしく燦爛(さんらん)な神、、、鬼。絢爛(けんらん)だと思っていました。燦爛なんて言葉、知りません。光り輝く様、だそうで...わびしく燦爛な神としてのトッケビ、そして、永遠の君主とキムゴウン

  • 土方のスマホ外伝・時をかける土方・「燃えよ剣」公開記念

    あくまでジョークです。土方ファンの方は怒らないでください。土方にインタビューどうも土方です。そうですね。2017年です。現代にやってきたのは。蝦夷で戦ってましてね。馬に乗っていたら銃弾が飛んできて、「あーやられた」と思ったら現代ですよ。北海道総合病院で銃弾も取り出してもらって、、、ええ、今はとっても元気です。最初の一年は無口だった?そりゃそうですよ。現代日本語分かりませんから。周囲が何言っているか理解できない。「時間」「文学」なんて言葉も明治以後ですからね。全然分からない。でも猛勉強しましたよ。今はジェンダー平等の意味だって分かりますよ。ええ、賛成ですよ。そもそも私、女性には優しいですから。DV、セクハラ、出世の遅れ、江戸時代じゃないんだから。映画「燃えよ剣」ですか。いいんじゃないですか。でも近藤さんは怒るなー...土方のスマホ外伝・時をかける土方・燃えよ剣公開記念

  • 松原みき「真夜中のドア~stay with me」までの若者向け音楽

    松原みきさんの「真夜中のドア~staywithme」は40年前の曲です。2年ほど前からからユーチューブで「世界から注目」されています。シティポップだそうです。私は40年間、この歌を聴き続けてきたので、嬉しい限りです。日本の「若者向け音楽」は吉田拓郎さんあたりから本格化するのだと思います。その前にもフォークはあったけれど、メジャーではなかった。井上陽水さん、吉田拓郎さんで、一気にメジャーになったと思います。もっとも井上陽水さんは「フォーク」というにはあまりにシュールでした。でも一応フォーク。実は彼らのデビューは1970年ぐらいで、よく知りません。泉谷しげるさんもフォークの英雄でした。「窓の外にはリンゴ売り、きっと誰かがふざけてリンゴ売りの真似をしているだけなんだろう」、陽水さんの「氷の世界」です。どうすればこんな...松原みき「真夜中のドア~staywithme」までの若者向け音楽

  • 鎌倉殿の13人関連・鎌倉幕府の成立と北条氏のことを少々

    東大の教授で鎌倉時代が専門の本郷和人さんが、鎌倉幕府というのは「武士の武士による武士のための政治」が行われた時代なんだよと書いています。本郷氏はおそらく子供の頃、大河「草燃える」を見てこの認識に触れたのではないかと思います。「草燃える」では、晩年の北条義時・松平健さんがこういうのです。「おれは、今になって、おれの兄貴がやろうとしたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。おれたち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまでも源氏は借り物」「草燃える」は1979年ですから、私もまだ子供でしたが、よく覚えています。「なるほどな」と思ったのです。源氏が三代で滅んだのに、鎌倉幕府は続いていく。子供心に「おかしいな」と思っていたのですが、主体がそもそも北条氏など関東武士で、源氏は「みこし」に過ぎないとすれ...鎌倉殿の13人関連・鎌倉幕府の成立と北条氏のことを少々

  • 青天を衝け・伊藤博文のことを少々

    伊藤博文は日本最初の総理大臣という名誉と、日韓併合の象徴という悪名を背負っています。ただし彼が日韓併合をしたわけではなく、むしろ彼は反対派でした。その彼が韓国で暗殺されてしまう。それが1909年です。その暗殺が直接の契機となって、日本は1910年に大韓帝国を併合します。併合に積極的だったのは、山縣有朋などでした。伊藤はむしろ山縣を抑えていた。その伊藤を殺してしまったので、日韓併合は一気に進みました。韓国の「歴史館」に視察旅行で行った時、通訳の人に「山縣有朋って知ってますか」と聞いたことがあります。通訳の人は知りませんでした。「伊藤より山縣を恨んだ方がいい」と私は言いました。通訳の人はなんと応じたか。それは覚えていません。20年ほど前です。私は「視察旅行の観光客様」でしたから、そりゃ歓待を受けました。牛肉が美味し...青天を衝け・伊藤博文のことを少々

  • 韓国ドラマ・ライフオンマーズの感想

    韓国ドラマ、ライフオンマーズ、アマゾンプライムで見られる。面白い。現代の有能らしき刑事が、過去にタイムスリップして働くうちに、過去を生きる自分の方が、本当の自分でないかと思う物語。過去とは1988年。韓国にはまだ軍事的避難訓練があったりする。日本だと1988年は2020年と「似たような社会」だが、韓国は急速に成長したからまさにマーズ、火星である。日本の場合、1972年ぐらいに戻ると火星のような気がする。ただし1988には日本にも韓国にもPCもケータイもネットもない。PCの普及は1995年以降。コアソンという女優さんが可愛い。容姿はさほどでもない。でも演技、動き、発声、表情が優美である。キムゴウンのように、作中だと光り輝く。役名は「ユン」、通称ミスユン。非常に優秀な警官だが、女性ゆえにお茶くみ、洗濯要員とされてい...韓国ドラマ・ライフオンマーズの感想

  • 青天を衝け・ダラダラとした感想

    面白いのだ。面白いのにブログを更新しなかった。特に理由はない。あっ、足の筋肉が痛い。ずっと。座ってPCだと足が痛い。尊王攘夷は昔から嫌いだ。「お国のため」という考えが、全く賛美されない時代と環境で育った。栄一があまりに「お国のため」と言うから、そこは少しも面白くない。でも前向きな主人公はいい。これから明治になって「一人が豊かになってもしょうがない。みんなが豊かにならないと」という方向で生きることも分かっている。だから安心して見ていられる。面白いのだ。青天を衝け・ダラダラとした感想

  • 「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。

    「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。史実に「少しぐらいは」基づいています。1176年頃、源氏挙兵の4年前、伊豆に「スケ殿」と呼ばれる流人がいました。源頼朝(大泉洋)です。最後の官職が右兵衛権佐だったので「佐殿=スケ殿」と呼ばれていたのです。伊豆に流されてもう16年が経っていました。すでに29歳です。16年前の平治の乱で父の義朝が討たれ、死刑になるところを平清盛の義母に助けれられ、伊豆に流されたのです。監視役は伊東祐親(辻萬長)という地元の有力武士です。しかし16年も経っていますから、監視といっても緩いものでした。お経を読むことが課されていたのですが、比較的自由に弓の稽古などもしていました。「巻狩り」などにも参加して、地元の若い武士と交流も持っていました。憎めない愛されキャラで女好き、地元では...「鎌倉殿の13人」・最初の方のあらすじ・完全に空想です。

  • 「黄金の日日」「羅針盤」感想・「史実の宝石箱や」「信長とは何か」

    次回以降のネタバレはありません。今回は助左衛門が念願の水夫となりました。信長は京を離れてしまい、そのすきをついて三好三人衆(テロップで名前入り)の逆襲が始まります。「本圀寺の戦い」です。三好方は敗退します。堺は三好に協力した(史実です)ために、2万貫の戦費を徴収され、代官として松井有閑がやってきます。この頃は堺政所という名だったようですが、これも史実でしょう。さらに驚くべきは、尼崎焼き討ちが描かれたことです。全く知りませんでしたが、これも史実です。今井の美緒さんが公家の娘で、奴隷船で売られるところだったことも明らかにされます。灯台守のお仙ちゃんが出てきます。織田信長とは何かが語られます。「合戦を経済戦争に転換させ、鉄砲を中心とした集団戦術を用いた男」です。調べてみたいなということが山ほどあります。まさに「史実の...「黄金の日日」「羅針盤」感想・「史実の宝石箱や」「信長とは何か」

  • 加藤隆「新約聖書の誕生」とヱヴァンゲリヲン

    アニメの話ではありません。そして宗教の話でもありません。聖書学の話です。ヱヴァンゲリヲンは「福音」です。「福音」とは「良い知らせ」です。良い知らせというのは「神が動いた」ということです。具体的には「イエスを地上に遣わした」ということになります。ちなみに私はキリスト教徒ではありません。「聖書学」というのは「文献学」で、聖書にあるどの文書が、どの時代に、どんな人によって書かれたかを追求します。いたって「科学的」な作業です。私は加藤隆さんの「新約聖書の誕生」を読むまで、こういう学問の存在すら知らなかったと思います。大学時代、課題で「新約聖書と日本文学」という文章を書かされました。で、まあ初めて新約聖書をちゃんと読んでみたわけです。四つの福音書だけですが。まあ「なんだかよく分かりません」でした。四つの文章が矛盾している...加藤隆「新約聖書の誕生」とヱヴァンゲリヲン

  • 雑談・武士はいかにして発生したか。開発領主・職能・ハイブリッド。

    武士がどうやって発生したかについての「定説」はありません。有力な説として「開発領主説」「京都職能説」「ハイブリッド説」があります。武士の発生は10世紀です。そのころ律令制が崩れて、というより、地方では最初から崩れていて、公地公民は有名無実となり、「私領を持つ領主」が存在しました。律令制度においても「墾田永年私財法」以降、公認で私領を持つことができました。このような「開発領主」が武装して武士になったというのは「古い説」ですが、古いから否定されたわけではなく、十分有効性を持った説明のようです。ただ問題は「開発領主」とはどんな人たちなのかということです。主に「古くからの地方の豪族」「富豪百姓」という風に山川の教科書には書かれています。正確には「豪族と有力農民」と書かれています。「有力農民」の出自が気になりますが、それ...雑談・武士はいかにして発生したか。開発領主・職能・ハイブリッド。

  • 「鎌倉殿の13人」・ガッキー演じる八重姫は意外と活躍するのではないか?

    鎌倉殿の13人の「史実のネタバレ」を含みます。ただ八重姫ってほぼ伝承的人物で、どこまで史実が確定してるかは分かりません。たぶん伊東祐親の娘なんですよね。でもそうすると「おかしく」なるわけです。発表されているのは源頼朝の最初の妻で、北条義時の「初恋の人」。うん?となります。なぜなら「北条義時の母は伊東祐親の娘」のはずだからです。すると八重姫は「おばさん」になります。もう一つおかしいことがあります。新垣結衣さんは「主役級女優」です。源頼朝の妻が「北条政子」であることはみんな知っています。ドラマの早々に妻となるでしょう。するとガッキーはドラマの「早々」で「退場」ということになります。そんなもったいない使い方をするだろうか?石原さとみ、上戸彩、長澤まさみ、さんなどは、大河に出た場合は、ほぼ最後までずっと出演して、重要人...「鎌倉殿の13人」・ガッキー演じる八重姫は意外と活躍するのではないか?

  • 安政の大獄・桂小五郎と村田蔵六・花神の話

    大河「花神」は1977年です。しかし残っているのは「総集編のみ」です。全5回です。主人公は村田蔵六ですが、吉田松陰も高杉晋作も同列で主人公です。桂小五郎は松下村塾の塾生ではなかったけれど、吉田松陰とは兄弟のような関係でした。ドラマ内では「先生」と松陰のことを呼んでいます。松陰が安政の大獄で死刑となった後、伊藤博文らとともに遺体を引き取りにいき、回向院に埋葬されます。これは史実です。ここからはドラマの話です。「花神」においては、そこで桂小五郎は村田蔵六(大村益次郎)に出会います。小塚原処刑場で村田が何をしていたかというと「人体解剖」です。村田が人体解剖をしたのは史実と思われますが、「ここで」村田と桂が会った(初対面ではないが)ことが史実かどうかは、調べていないので分かりません。ドラマでは、その時の桂小五郎はとても...安政の大獄・桂小五郎と村田蔵六・花神の話

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