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2019/05/12

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  • どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

    徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実...どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について

  • 「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

    「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「政治」を行うようになっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。律令制国家は、天智天武...「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。

  • 架空小説「豊臣秀吉の遺言」

    架空の世界の、架空のお話。慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わ...架空小説「豊臣秀吉の遺言」

  • 今こそ「戦争責任論」が必要だ。

    国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」も...今こそ「戦争責任論」が必要だ。

  • 黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

    関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。中世において日本の支配階級は、公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。これだけです。これ以外のことはあまり考える必要はない。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。天皇制がある限り、歴...黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

  • 「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

    家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」...「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想

  • 織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

    そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。でもここは織田信長のお話。織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は...織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。

  • 「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

    「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。「どうする家康」に描かれた、信長・家康・信玄の関係は史実ではありません。では史実はどうであったのでしょう。1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」...「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係

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