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それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風
途中で「小説風」になります。あと史実のネタバレがありますが、「ごく少ししか史実のネタバレさせない。誰でも知っていること。」なので、多分読んでも大丈夫だとは思います。ガイドブックとか見ていないので、どんな情報にも基づいていません。「草燃える」でも八重さん相当の娘(大庭の娘、松坂慶子さん)は金剛を生んでのち、壇ノ浦で死に、「そっくりさん」(一人二役)として復活するのです。でも新垣さんはもう「クランクアップした」という情報もあります。しかしながら、復活するのは最終回前の2話ぐらい、というのが私の予想なので「もう撮っている」かも知れません。史実という視点から北条義時の死の詳細は書きませんが、それなりに急なことでした。義時には他に「正妻の子」とかいまして、金剛ちゃん(北条頼時のちに泰時)が北条を「継げる」という保証はなか...それでも八重は復活する・鎌倉殿の13人スピンオフ小説あらすじ風
1,なりたくなかった男後白「舞え、舞え、かたつむり♪、やりだせ、つのだせー」鳥羽「後半歌詞違わないか。雅仁、相談あるんだけど」後白「あっ父さん。大丈夫すか」鳥羽「いつまでも死んだ近衛のことで、泣いていてもしょうがない」後白「まあ、そうすね。世は無常ですからね。諸行無常の響ありってね」鳥羽「それ平家物語だろ。時代考証的におかしくないか。まあとにかく、それでさ、美福が育てているお前の子、守仁を帝にしようと思ってな」後白「ああ、そうすか」鳥羽「リアクション薄っ!もっと驚けよ」後白「政治興味ないんすよ。面倒くさそうだし。武士とか怖いし」鳥羽「じゃあそれでいくから、ヨロシク。あっ、電話だ。ああ忠通っちゃん。えっ。何。親より先はおかしいから、とりあえず雅仁を中継ぎで帝にする!」後白「ちょ、ちょ、ちょ、待ってよ。ぴえん超えて...「#後白河院のスマホ」・保元の乱まで3話
上総介広常は「草燃える」では、小松方正さんが演じて、とにかくガラの悪いおっさんでした。「おい武衛ふざけんじゃねえぞ。佐竹が先だろ」とか言ってました。「おい武衛、パン買ってこい」とか言いそうな勢いだったのを覚えています。私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何な...上総介広常の「大疑問」・一つの仮説・鎌倉殿の13人関連
貴族から武士の世へという構図は間違っている、という本が多くあります。ふと「そうかな」と思いかけたのですが、色々考えて「貴族から武士へ」は間違っていないと思うようになっています。大河ドラマのOPでも「武士が貴族に挑んでいる兵馬俑」みたいのが描かれます。「日本史への間違ったイメージを増長する」という方もいるでしょうが、いや「合っている」と思うのです。個人的には。どうして「貴族から武士の世へ」が「成立しない」可能性があるのか。もっとも重要なのは「荘園という同じシステムに乗っかった収奪者である」という点です。荘園には公家寺社本家とか下司とか武士地頭とか、複数の人が利権を持っていて年貢(コメとか労役とか)を「ぶったくって」います。だから「武士が新時代のヒーローなんて図式は成立しない。同じ穴のむじなだ。」というわけです。「...「貴族から武士へ」と「公武政権?」の問題
小説「九郎義経のハッピーエンド」鎌倉殿の13人「史実のネタバレ」を含みます。九郎義経と足利義氏のこと、鎌倉殿禅譲のこと、以外は「少しだけ史実に近い感じ」で書いていますが、完全なフィクションです。「承久の乱の大筋」を知らない方は、史実ネタバレするので読まないことをお勧めします。健保6年、1219年、頼朝の挙兵から既に39年がたっていた。多くの人々が鬼籍に入った。名前を挙げればきりがないだろう。そして源頼朝も、もうこの世にない。頼家、実朝と「鎌倉殿」は移り変わった。その実朝が甥の鎌倉八幡宮別当(長官)公暁によって殺された。公暁は頼家の忘れ形見である。ほんの二年前、京から鎌倉に舞い戻り、北条政子のはからいで別当職についた。政子にとっては公暁は孫であり、実朝は次男である。その日、実朝の右大臣昇進を祝う鶴岡八幡宮拝賀の日...短編小説「九郎義経のハッピーエンド」・フィクションです
鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。
変な題名ですが、「ジンギスカンは義経にあらず」という大正13年に出た本の題名のパクリです。大正13年に義経ジンギスカン説がブームとなり、それを「いさめる」ために書かれた本です。まあ新田義貞の作戦に似ているし、「新田義貞のもの」でもいいのです。ただし難癖をつければ「新田義貞は船を持っていなかった」はずです。刀を持って海に祈ったら、海の水が奇跡的に引き、海岸を馬で渡って鎌倉に乱入した、、とまあこれも「伝説のたぐい」ですが、そうなっていたと思います。陸上に敵を引き付けて、船を使って長距離移動し、敵拠点を攻める。「これをやられていたら、とても勝てない。」「鎌倉は間違いなく滅びていたことだろう」。それで私が思いつくのは幕末の幕府対官軍の戦いです。「花神」という作品でおなじみです。「花神」は三谷さんが好きな大河の筆頭として...鎌倉殿の13人・源義経の鎌倉攻略計画は新田義貞のものに非ず。
「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。
義経勢力に対して頼朝追討の宣旨が出されたのは1185年です。1185年勅許。文治勅許といいますが、それでは歴史の流れが掴みにくい。頼朝の挙兵は1180年です。たった5年。この「たった5年」という感覚が「文治勅許」では理解しにくいのです。元号に反対とか賛成とかいうことでなく「日本史の用語はわかりやすく」するべきだと思います。だから1185年勅許。1185年勅許によって守護地頭の設置が認められた、、、となりますが、そもそも現物はありません。「玉葉」の記事をもとに復元すると1,五畿内、山陰、山陽、南海、西海諸国の北条時政以下の頼朝家人への分与2,荘園公領を論ぜず、段別五升の兵糧米の徴収3,田地知行の権限となるようです。正直意味がつかみにくい。ただこれとは別の史料で「守護地頭の設置を申し入れて許可された」というのもある...「鎌倉殿の13人」から「日本史」を考える。1185年勅許。文治勅許。
昭和40年代を「革命が起こりそうだった時代」と思っている方がいますが、それは幻想です。私が子供だった1970年代、日本にそんな雰囲気はありませんでした。自民党はロッキード事件等で、議席を減らしましたが、それでもずっと政権与党でした。その後もほぼずっと与党です。高度成長に浮かれていた時代です。むしろ資本主義バンザイという時代だったのです。ただ60年代は分かりません。その頃の運動家である吉本隆明氏の文章などを読むと「明日にでも革命を起こそう」というノリで書かれいます。実際は「戦後」と「貧富の差が究極の拡大を見せた昭和初期」の方が、ずっと社会主義革命の可能性は高かったようにも思いますが、実際の「雰囲気」は、生まれていないので分かりません。社会主義革命とは別に、「昭和維新」とかいう右翼の方々もいました。これはちょっと怖...昭和革命幻想とリアル革命「承久の乱」
北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編切通しと海に守られた鎌倉小町亭に住んでいる武家の世開いた北条義時御家人守護職守るため3つのしもべに命令だ!ヤア泰時時房、東海を行け朝時武田は別ルート政子変身!名演説だー後鳥羽よ、アンタは怖くないたたりも追討も恐れない勇敢な老人北条義時武士の世、地固め行うぞ3つのしもべに命令だ!ヤア3人の上皇は、配所へ行け泰時時房、六波羅だオイラも変身!得宗だー元ネタ(元歌の一番)砂の嵐に守られたバベルの塔に住んでいる超能力少年バビル二世地球の平和を守るため3つのしもべに命令だ!ヤア怪鳥ロプロス空を飛べポセイドンは海を行けロデム変身!地をかけろ北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編
題名を含めて「ふざけて」います。「ふざけて」いますが、内容は「そこそこ真面目」です。前回の最後、なぜか逃げているはずの義経が、北条親子の前に現れる。会話を交わす。時政は全く捕まえる気がない。で、最後にこういいます。「まるで平家を倒すためだけに生まれてきた」ような人間だと。で、思ったわけです。三谷さんは大河「花神」が好きです。好きな大河を4つぐらい挙げていて、その筆頭が「花神」でした。1977年ですから、40年以上前の作品です。司馬遼太郎さんの原作。原作の方は「村田蔵六、つまり大村益次郎」が単独で主人公ですが、大河の方は3人主役で吉田松陰→高杉晋作→村田蔵六と移り変わっていきます。よい作品ですが、視聴率は悪かった。たった19パーセントです。1977年だと私はまだ子供です。が「最高の作品だ」ということは分かりました...鎌倉殿の13人・「義経花神説」の構想
日本史の学者さんは、単純化すれば2種類に分かれます。「京都や京都文化、朝廷、天皇に重きを置く学者」と、「さほど重きを置かない学者」です。大雑把に言えば前者は西に多く、後者は東に多い。しかし例外もいくらでもあります。そしてどうも「西」の方が「学閥の力」が強いようにも感じます。東の学者はどっちかというと「個人主義」ですが、西は「数の力にモノを言わせる」ことも多いように思います。集団でものを言いがち。まあ偏見かも知れません。私自身は学者ではないので、本を読んでの感想です。「京都中心思考の学者」は「権門体制論を支持」、「非京都中心の学者」は「東国国家論を支持」とされることもあります。しかしこれも例外は多い。そもそも「今風の権門体制論」も「東国国家論」も少しも「体系化」されていませんから、こういう区別は意味ないとも思えま...「鎌倉殿の13人」から「源義経・鎌倉幕府」を考える。
大河「平清盛」、視聴率は低かったですが、一部熱狂的なファンを持つ作品です。特に「歴史好き」に評判がいいと言われます。10年経って、初めてきちんと見てみたのですが、なるほど良い作品です。特にオープニングの白拍子の舞などは実に美しい。もっとも歴史認識は正直古典的です。「平家物語」に改編を加えたという感じ。今は「脱平家史観」とかが流行です。重盛の評価(いい評価)などは見直されて、清盛がやった「いわゆる悪事」の半分以上は「重盛のやったこと」じゃないかと言われます。そこから見れば「古い」感じはしますが、私自身は特に「脱平家物語」をしたいとは思っていないので、さほど気になりません。都のカオスや「王家」のカオスが良く描かれています。この20年の大河では、もっとも見ごたえがあるかも知れないとも思っています。さて、この作品では「...大河「平清盛」・「王家の犬」を再考する。
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徳川家康を描く場合、系統は「山岡荘八系」と「司馬遼太郎系」に分かれます。山岡系だと「聖人君子」「神君」「いい人」となり、司馬遼太郎系だと「たぬき親父」「空虚な凡人」「ちょいわる親父」「大坂の陣では、ほぼ犯罪者」となります。山岡という人は、いわゆる日本凄いぞ系の人で、強いイデオロギーを持っていました。嘘に嘘を重ねて家康を聖人君子として描いたわけです。ただそれが1960年代に大ヒットし、1980年代には大河「徳川家康」が製作されています。かなり古い大河ですが「春の坂道」などでも「神君家康」は登場しました。日本は武士の国で、その武士の国を作ったのが徳川家康であるとするなら、「徳川家康は立派な聖人君子、神の子、神君じゃないといけない」と思っていました。そうした「思想」のもと、山岡は神君家康像を作りあげ、それが史実...どうする家康・徳川家康を「いい人」にするための「嘘のつき方」について
「鎌倉幕府」は日本全土を統治していたわけではありません。朝廷・寺社という古くからの勢力と、荘園の「権利」(職)を分け合うことで鎌倉幕府は成立しました。朝廷を重く見る場合は、鎌倉幕府は国家の機能のうちの治安を担当しただけであり、「朝廷の侍大将に過ぎない」という言い方を好む方も、西の研究者にはいるようです。ただちょっと考えただけでも「治安のみ担当したわけでない」ことは明確です。明らかに「政治」というものを行っているからです。御成敗式目という新しい法も導入しました。鎌倉幕府は「律令制の衰退がもたらした地方の混乱」に一定の秩序をもたらすために誕生しました。そしてそのことが朝廷・寺社の意識を改革し、朝廷もまた「政治」を行うようになっていきます。「鎌倉殿誕生の歴史的意義」はそこにあると思います。律令制国家は、天智天武...「鎌倉殿誕生」の歴史的意義について・天下草創とは何か。
架空の世界の、架空のお話。慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わ...架空小説「豊臣秀吉の遺言」
国家間の戦争というものに「個人の責任」が存在するのか。私は「存在するとすべきだ」と考えます。無責任に戦争を起こされてはたまりません。個人の責任が問われるという前提で政治家には軍事行為を決めてもらいたいからです。つまり論理的に「存在するか否か」を議論したいわけでなく「戦争抑止のために、個人責任が問われる」というルールが必要だと思っているのです。例えばイラク戦争・アフガン戦争、イラク国民もアフガン国民も今なお苦しんでいます。この責任は「ブッシュにある」と「すべきだ」と考えているということです。イラク占領の失敗の責任は特に大きい。「日本占領と同じことをやる」とブッシュは言いました。「歴史」に対する理解が全くない。イラクと日本がいかに違う国か。日本占領の奇跡的成功が他の国でなせるわけがない。そういう「無知無能」も...今こそ「戦争責任論」が必要だ。
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。中世において日本の支配階級は、公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。これだけです。これ以外のことはあまり考える必要はない。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。天皇制がある限り、歴...黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。
家康が結局のところ信長を深くリスペクトしていた、というのは、話としては感動的です。瀬名のなにやら「おとぎ話」のような関東自立論に乗っかり、「武田勝頼と戦争しているふり」をして信長を騙そうとし、でも結局は武田勝頼に裏切られ、なんやかやで瀬名と嫡男信康が死ぬ。それをなぜか「自己のバカさ加減」を考えることなく、「信長のせい」と思い込み、韓国ドラマさながらに「復讐の鬼」と化す。そして3年、服従をしたふりをして信長を騙しぬき、本能寺で信長を殺そうとする。その前には「富士山観光」で信長をもてなし、「殺す機会など無数にあった」にもかかわらず殺さず、なぜか「それなりに要塞であったはずの本能寺」で殺そうとする。話自体は「史実でない」とか言う以前に、「ストーリーとして不自然すぎて」、破綻しまくっているのですが、「本能寺の変」...「どうする家康」・第28回「本能寺の変」・感想
そういえば「どうする家康」には上杉謙信が登場しません。上杉謙信と徳川家康は対信玄で「同盟」して起請文まで交わしていたのに。でもここは織田信長のお話。織田信長と上杉謙信は直接会ったことも「直接戦ったことも」ありません(戦ったのは柴田勝家)が、共通の友人(足利義輝)を持ち、桶狭間の戦いの4年後にはすでに「交友関係」を持っています。交友関係どころか、実現はしないものの、信長の息子の一人を謙信の養子にするという話すらありました。信長上洛の4年も前の話です。そして謙信の死のたった2年前まで、信長と謙信は「大の仲良し」だったのです。謙信は「義の人」であり、「不義の人」である信長を嫌っていた。大河「天地人」などではそう描かれましたが、史実は違います。謙信は信長を親しいメル友(手紙友)と思っていたはずです。そもそも信長は...織田信長と上杉謙信の蜜月とすれ違い、愛と哀しみのボレロ。
「どうする家康」はドラマであって史実ではありません。しかしこの番組を通じて「本当の歴史を学ぶ」ことは可能です。つまり「では史実はどうだったのか」ということです。「どうする家康」に描かれた、信長・家康・信玄の関係は史実ではありません。では史実はどうであったのでしょう。1.織田信長と武田信玄は強い「同盟関係」にあった。「どうする家康」では、初めから信長と信玄が敵対関係にあるように描かれています。信玄は偉大な人物として描かれます。さらに信長は「京都に巣くう魔物」だと信玄は言います。これは信玄が信長の「手切れ」段階でのセリフですので、この段階1572年には信玄が「巣くう魔物」と考えていた可能性はなるほどあります。しかし問題なのは「裏切ったのは信玄のほう」だと言うことです。信長の「上洛」1568年は、信玄の「了解」...「どうする家康」の歴史学・史料からみる織田信長・徳川家康と武田信玄の本当の関係
「どうする家康」は一見すると史実無視の「いい加減なことを並べ立てているように」見えますが、実はある「歴史の見方」に基づいて作られています。それを私の言葉で言うなら「国衆史観」(くにしゅうしかん、くにしゅしかん)と言います。私の言葉です。一見すると「国は戦国大名のもの」みたいに見えますが、国衆と戦国大名の「連合体」、または「同盟組織」と考えるのです。国とは今でいう県です。で、この国衆というのは独立性が強かったと考えます。国衆とは小領主で、その一つ一つも「国」と考えます。その「小領主の国」の中にまた「国みたいなもの」があって「村」です。なんで国なのかというと、独立性が強いからです。国衆が「独立」しているなら、何も戦国大名の傘下に入らなくてもいいし、入ったらもう「国じゃないのでは」とも思えます。でもどうやらこう...「どうする家康」の歴史学
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは...本郷和人論・リスペクトを込めて
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。「また、、、まただ、、、また殺してしまった」帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」信長の涙顔が怒りに変わった。「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。浅井が裏切った。朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。そしておれは、長政...即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに
冒頭の「なんやかやで」金ケ崎の戦いは終わって、というナレーションにびっくりしました。「描かない」という選択肢があることに驚いたのです。私は、あまり人の意見に左右されない人間なのですが、ちょっと調べてみるとこうあります。他人様の意見「もう解釈とか脚色というレベルの話でなく、単に若者受けを狙ったつもりだけの史実を大きく逸脱して歪曲したパロディドラマ。フィクションとしてのおもしろさもないどころか、不快の連続。プロデューサーと脚本家に歴史への愛情と敬意ないと、こんな酷いものが出来上がるという事例。」引用終わりここまで辛辣な感想は私は持ちませんでした。ただ参考にはなります。1,大河は全てフィクションで史実ではないのに、なぜこの作品だけが「史実の歪曲感」を強く感じさせるのだろう。2,上記と本質的に同じ問題であるが、「...どうする家康・第15回・姉川でどうする・感想
きちんとした文を書く前のウォーミングアップとしての「書き散らし文」なので、文章の質の悪さはご容赦ください。1,天皇の位置さえ考えなければ、権門体制論は単純明快権門体制論(けんもんたいせいろん)は、天皇を度外視すれば、極めて単純である。鎌倉幕府の発生以降、ある時代(荘園消失)まで日本を支配したのは3つの階層である。それは公家、武家・寺家。公家のトップは天皇ではなく治天の君。天皇が治天なら天皇。この3つは荘園を基盤としている点において同じようなものである。だから上級国民として互いに助け合って政治を行った。つまりは「同じ穴のむじな」である。天皇は、、、、「中心にいて彼らをゆるやかに結びつけた」とか「この体制の頂点にいた」とか曖昧な感じで色々言われる。論者によって言い方が違うだけでなく、提唱者の黒田俊雄でさえ、論...天皇と「権門体制論」と「東国国家論」、何を考えればいいのか。