第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
にほんブログ村に帰ってきました。以前は、Yahoo!のブログで投稿していましたが、2019年12月15日でブログのサービスを終了。そこで、Livedoor Blogに移転しました。今後も「いにしえララバイのブログ」をよろしくお願いします。
「いにしえララバイのブログ」の内容 http://historyman.blog.jp/archives/cat_325686.html タイアップしている任意団体 「隠された古代史を探索する会」 http://www.kodaihistory.org/
第2章 大海上の国 第2節 伊那部は、武斬弥に連れられて物部美世太彦の居館に入った。 「兄上が若者を送ると言っていたが、君か」 「イナべです」 「ムキヤと一緒に行ってもらいたいところがあって」 「どこですか」 「上海上の国へ」 「そこはどのようなところですか
第2章 大海上の国 第1節 伊那部は、香澄の里で佐古米と別れ、叔父の摩鰖部の丸木舟で内海の香取の海を渡って、沿岸の榎浦の里に着いた。 「イナべ、元気でなぁ」 「おじさん、ありがとう」 東北地方来た縄文人はこの香取の海の北側で留まり、東海地方から来た縄文人は香
第1章 関東の春 第4節 伊那部と佐古米は香澄の里に着いて、早速釣り上げたカツオを持って、大王の居館に向かった。弥生時代後期になると大集落が出現し、そこにリーダーとしての大王が誕生し、大集落とは別に居館を持つようになった。居館には、大王の家族と奴婢と言われる
第1章 関東の春 第3節 伊那部と佐古米は、カツオ漁をするため千賀ノ浦を出港して、香澄の里へ向かった。海の流れは親潮が流れ、その潮の流れにより、スムーズに進んだ。それでも、沖に流されないように慎重に佐古米は櫂を漕いで前に進ませ、伊那部は櫓で進路を定めた。 「
第1章 関東の春 第2節 香澄の里は、縄文時代早期から縄文人が住み着いた土地で、狭間貝塚が有名です。新石器時代に北海道の大陸からやって来た人達が、縄文時代早期に本州に渡り、縄文人として生活し始める。そして、青森県から南下して、9000年前から7000年前にこの香澄の
古事記は、天武天皇の命により稗田阿礼が『帝紀』と『旧辞』などを誦習し、大和朝廷の重臣、太安万侶が書留、元明天皇の命により712年に編纂された日本で最初の歴史書です。日本神話から始まり、神武東征から始まる天皇家の歴史書。天皇が大和朝廷政権の中心であることを国
第1章 関東の春 第1節 この物語は、宮城県塩竈市一森山1番1号に鎮座している鹽竈神社・志波彦神社を舞台として始めたい。この鹽竈神社は、縄文時代晩期には松島湾の千賀ノ浦(現在の塩釜港)より深く入り込んだ入り江の岬にあった。境内には、春になると天然記念物31本の鹽
第二章 有明海 第一章 吉野ヶ里 第四節 「ひろりんさん、おはよう」 唐兄は、朝早くから泰凛を起こしに来た。泰凛は目を擦りながら起き上がり、枕元に置いていた青銅器の塊を持った。 「おはようございます いちすろさんのところに、連れて行ってくれるのですか」 伊知須
第二章 有明海 第一章 吉野ヶ里 第三節 泰凛と楓杏は、紀元前2000年頃に渤海が見える山東半島で生まれたけれど、紀元前200年頃の有明海で生活することになった。この地には、同じ故郷を持つ人達がいて、人柄も良くお付き合いできそうになった。でも、泰凛が育った生活環境よ
第二章 有明海 第一章 吉野ヶ里 第二節 泰凛と楓杏は唐兄に連れられて、海辺から少し山手に入ったところ、現在の佐賀県神埼郡吉野ヶ里町の吉野ヶ里遺跡辺りに唐兄の集落があった。周りには稲穂が頭を下げ、収穫期を迎えていた。 「あんた、どこに行っていたの この忙しい頃
第二章 有明海 第一章 吉野ヶ里 第一節 泰凛と楓杏は、青銅器の塊から出る緑の煙を吸って、意識を失っていたが、誰かの大声で気がついた。 「ひろりん、だいじょうぶ」 「プー子も」 「あれ、ずいぶん景色が違うけれど ここどこなの」 「それより、青銅器の塊は」 「こ
第一部 渤海 第六章 鏡 第五節 泰凛と楓杏は、良高の住居でタイユェン(太原)に出発する良高達の話を聞いていた。話が一段落した時、泰凛は青銅器の塊を持って韓鮫に話しかけた。 「かんさめさん、この青銅器の塊を鏡にできますか」 「どうかなぁ」 その時、絈帋が口を
第一部 渤海 第六章 鏡 第四節 泰凛と楓杏は、朝市での見学を終えて良高の住居に戻った。 「プー子、明日の早朝にタイユェンに出発するから、用意をしないと」 「塩は、少し使ったけれど、まだまだあるよ」 「もし、タイユェンで青銅器の原石を見つけたら、高価な品物な
あらすじ 時代背景は、邪馬台国が誕生した頃からヤマト王権が誕生する頃まで。主人公は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の付近で生まれた双子の男子。生まれてまもなく、乳飲み子の状態で弟が海洋系の種族にさらわれ、兄弟が別々の人生を送ることになる。兄は成長して、物部氏族の
新縄文人 1884年に東京の弥生町遺跡で土器が発掘されて、今までの縄文土器とは形態が違っていたので、地名を採用して弥生土器と命名した。後に、今までの縄文時代と区別するため、弥生時代と命名。その時代の人を弥生人とした。そこで、明治時代の研究者は縄文人と弥生人を
自然信仰 狩猟採取で生活をしてきた縄文人が恐れていたのは、何であったのだろうか。たとえば、山で生活している縄文人だとすると小動物を狩りして、ドングリやクリを栽培して食生活をしていたと思われる。そのような縄文人が恐れたのが、地震や火山の噴火により、地形の
はじめに 弥生時代後期から古墳時代前期に、その当時の日本人はどのような生活をし、経済的にも自立した政権が誕生したか。勿論、文献資料じたいも文字自体もない時代。現れるのは土器に描かれたその当時の写実画だけ。話ことばはあったとしても、文字を書く習慣が無く、漢
第一部 渤海 第六章 鏡 第三節 泰凛と楓杏は、野宿をしながら夕方になってウェイファン(濰坊)に着いた。 「ひろりん、これからどうするの」 「りょうこうさんところに、お邪魔する」 泰凜は、良高が塩をたくさん積んで来れば、一緒に塩を売りに行きましょうと約束してく
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第2章 橘の香り 第3節 縄文時代晩期に浅間山が噴火して、それまで住んでいた縄文人に打撃を与え、今までの縄文人の集落が全滅した。その後、弥生時代前期には利根川に沿って東北の縄文人が移動。赤城山の麓から利根川を渡って、日高の郷に住み着いたが、その頃は東京方面で
第2章 橘の香り 第2節 豊城入彦命一行が浅間山の麓から碓氷峠(群馬県安中市松井田町坂本と長野県北佐久郡軽井沢町の境界にある峠)を超えて、碓氷川沿いに進むと烏川に出た。烏川を渡ると目の前が広がり、豊城入彦命はそこで足を止めた。そこは、豊城入彦命達がこれから開
第2章 橘の香り 第1節 豊城入彦命が東国に行くに当たって、紀の国の叔父、美智支真止乃命に挨拶に行った。すると、従兄弟の毛野荒刀を連れていくように言われた。毛野荒刀が言うには、東国は橘の香りがする土地だと。橘と言えば、紀の国でよく咲いている柑橘類で、桜の咲く
第1章 桃源郷 第9節 崇神天皇の集団が纒向の郷に来てから、5年が経った。その頃に、疫病が流行り、民は次々と感染した。その当時、崇神天皇の居館では、纒向の郷に来て以来、この地方の神、大倭国魂神を祀り、崇神天皇が導いて来た天照大御神を共に祀っていた。疫病が流行し
第1章 桃源郷 第8節 唐古の郷に東海地方から、桃源郷を求めて弥生時代中期に移住してきた人達によって、湿地帯で稲作が行われていた。その当時は、三輪山の裏に広がる奈良県東北部の高原地帯から流れる初瀬川(大和川)の土石流によって、デルタ地帯ができ、そこに集落を形
第1章 桃源郷 第7節 田尻と玉津は、磯木の社殿の前まで来た。そこには、曽我の郷(奈良県橿原市曽我町)の若者、佐実と葛木の郷(奈良県葛城市笛吹)から来た尾米が志願のために来ていた。 「お~い、これから、ミカドが会われるそうだ 4人いるな」 社殿から出てきた夷守
第1章 桃源郷 第6節 小成は、多井耳の所から戻った。帰ってみると玉津と真木はすっかり仲良くなっていた。真木は、明日にも玉津を磯木の郷に連れて行く約束をしていた。 「玉津さん、ミカドを見たことがあるのですか」 「立野の郷でちらっと見ました」 「私は、どんな人
第1章 桃源郷 第5節 崇神天皇の集団が纒向の郷を目出して進軍したのですが、まだ宮殿にするには整備されていなかった。そのため、磯城彦の社殿を仮の宮殿にした。『日本書紀』によると磯城瑞籬宮と記載されている。大正時代に建てられた石碑が存在し、その場所は志貴御県坐
第1章 桃源郷 第4節 玉津は、小成に連れられて集落に入った。驚いたのは竪穴式住居の数と人の多さだった。その当時、320m×320m位の広さに200個数の竪穴式住居が建てられていたことになる。6m四方に4個数があったことになる。小成の住居には、5人が住んでいて、玉津と年齢が
第1章 桃源郷 第3節 唐古の郷には桃の木が植えられ、春になるとピンク色の花を咲かせ、村人は田んぼを耕し、種籾を巻いていた。のどかで、穏やかな日だしが田んぼに差し込んでいた。その田んぼと田んぼの間のあぜ道を集落の方へ向かう若い青年がいた。それに気が付いた種ま
第1章 桃源郷 第2節 理想郷を求めた集団がいました。それは、古墳時代の幕開けとも言える集団で、大化の改新以後に編纂された『日本書紀』には、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇(注1))が磯城瑞籬宮で鎮座したとある。纒向の郷で、稲作を中心にし、祈祷で郷あるいは国の政
第1章 桃源郷 第1節 日本を象徴するのは桜ですが、咲いたと思ったら、すぐに散ってしまいます。その点では、桃は春には花を咲かせ、夏には果樹として実を付ける。長期に亘って楽しめる品種でした。この桃の原産地は中国からペルシアに至る、日本には元々生息していなかった
はじめに 常の世と書いて常世(とこよ)と読む。現代では、常にある世の中と解釈されそうだが、古代の人はそうではなかった。頭で描いた理想の世の中と解釈していたようです。その常世の国とは、不老不死の妙薬が存在し、海の彼方にある国。中国の秦の始皇帝と徐福の話に出
第8章 親子の再会 第3節 物部伊那部は、裏山から薪を担いで帰ってきた。そして、祭事場に薪を肩から降ろして、薪を組んだ。集落の人達を祭事場に集まるように声を掛けた。伊那部の住居に。 「おぉい、お祝いだ 祭事場に来い みんなが集まるぞ」 そう声掛けた時、日向馬の
第8章 親子の再会 第2節 物部日向馬は、息長遼瀬依を連れた布留の里に戻った。この里では、布留川から水路を造り田んぼに水が流れるようにしてあった。物部一族は、普段、この地で農作物を作り、稲の栽培をして、自給自足の生活を送り、いざ戦いになれば男子は戦場に行き、
第8章 親子の再会 第1節 開化天皇が大倭国に着いて、崇神天皇が新たな天皇に就任した宮殿の居間での集まりが終わり、それぞれに思いを噛みしめながら宮殿を出た。そこには、開化天皇に付いてきた1000人程の竪穴式住居も用意されていた。息長遼瀬依にも宮殿の側に住まいがあ
第7章 いざ大倭国へ 第6節 開化天皇は宮殿に入り、居間の正面に座った。そして、物部大綜麻杵命と物部伊香色雄命は対面で座り、左側に息長遼瀬依以下、今まで開化天皇に同行してきた面々が、右側には物部日向馬以下、物部大綜麻杵命の配下の者が座った。 「皆の者、これか
第7章 いざ大倭国へ 第5節 物部日向馬は、首長の日下部途美倭(くさかべとみや)に会うため、草香邑に向かった。 「ヒュウマさん、白肩の浦に得体の知れない船団が近づいて来て、大倭国に攻めるのではないかと それで孔舎衛坂から攻撃しました 激戦になったのですが、敵軍が
第7章 いざ大倭国へ 第4節 五所の里で鉄器の軍備品が完成し、吉備からの軍勢も高島宮に集まって来た。おおよそ、その吉備の軍勢を合わせて、1000人程が集まり、大倭国に行く船も息長一族、安曇一族、和邇一族合わせて100隻以上になった。その先頭には、安曇の船で海路を誘導
第7章 いざ大倭国へ 第3節 開化天皇の指示で、息長一族は五所の里で密かに鉄器の軍用品を作り、それも大詰めに差しかかった。その軍用品の運搬は安曇一族が担当していた。墨ノ江の里から群家の里経由で高島宮へ。その運搬船に曽根の里や四ツ池の里に派遣されていた大伴賀馳
第8章 明鏡止水 第9節 「流正くん、考古学をしていて、今日回ったところに古墳があるじゃない その遺跡調査があったら参加しますか」 「そら、機会があれば でも、古墳時代の発掘調査より、縄文時代や弥生時代の調査の方がいいなぁ」 「私、今日回ったところで、物部氏族
第8章 明鏡止水 第8節 「この辺りが、息長郷なの」 「この橋を渡れば、山津照神社があるけれど 今では天野川と言っているけれど、昔は息長川と言っていた それで息長小学校があったり、息長郵便局があったりする ここには息長町も存在していて、息長郷と言っていいと思う」
第8章 明鏡止水 第7節 明子と流正は、安土城考古博物館を後にして、米原の方へ向かった。 「流正くん、息長氏族は海人系だったのでしょ 昔」 「息長氏で最初に浮かぶのが、神功皇后かなぁ 息長帯比売命」 「神功皇后のこと、以前調べたことあって 神功皇后の父は、息長宿
第8章 明鏡止水 第6節 「安土城と言えば、織田信長が天下を取るために築いた城で、東を固めるために長浜に秀吉を、京都の将軍との交渉に坂本に明智光秀を置いて、体制を固めた そうでしょ」 「そうですね でも今日は、安土城跡ではなく、大中の湖南遺跡がメインです」 「
第8章 明鏡止水 第5節 「勝部神社は、隣町 車に乗ってすぐだから」 流正は、明子を助手席に乗せた。 「このあたりが、物部郷なのですね」 「物部郷には、伊勢遺跡、下ノ郷遺跡、下長遺跡も入っています」 「物部郷は、全国にもあったようですけれど、滋賀県ではここだけ
第8章 明鏡止水 第4節 明子と流正は、伊勢遺跡史跡公園の駐車場に車を置き、公園の展示施設に向かった。 「まぁ、立派な建物」 「まだ、新しいからね 明子さん入ろう」 「ゆったりしていて広いね」 「このホールは、弥生時代後期に独立棟持柱付大型建物があったところで
第8章 明鏡止水 第3節 流正は明子との連絡通りに、朝早く自宅の京田辺を車で出た。以前、明子を車に乗せて、家まで送ったことがあった。その時に降ろした場所に、喫茶店があって、そこで明子が待っているとLINEが来ていた。 「明子さん、おはよう」 「朝早くから呼び出し
第8章 明鏡止水 第2節 たつやの部屋を出た明子は、琵琶湖周辺にいた縄文人(物部氏や息長氏や安曇氏の祖先)のことを調べるために、図書館によった。そこには、坂本市や米原市や長浜市の縄文時代の遺跡資料があった。これらの資料をコピーして、明子の部屋に戻った。 明子は
第8章 明鏡止水 第1節 大阪から帰ってきたたつやは、講演に必要であった資料の整理をしていた。すると、その資料の中に『琵琶湖の縄文時代について』というメモ書きが紛れ込んでいた。大阪の講演で、琵琶湖のことも話そうと思って、資料の中に入れておいたようです。 その
第7章 温故知新 第6節 流正とたつやは、大阪市内をタクシーで森ノ宮のピロティホールまで走った。 「たつや先生、講演会場に着きました」 ピロティホールの玄関には、講演を依頼した畑山が出迎えに来ていた。 「たつや先生、よろしくお願いします」 「ここは、大阪城の
最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日本列島に上陸した。縄文人の祖先。日本人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究とし
現在でも日本育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています
邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日本書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武
古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日本列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日本列島に多くの集落は存在していたが、
最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日本海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外
昔から日本列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によ