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----------------------------李弘節/宏説----------------------------父辱は橫野將軍司州從事。武德元年硤州刺史録事参軍[刺史許紹]二年九月蕭銑征討に従い功績があり、淸平縣公.千戸。貞觀初杭州刺史貞觀慶州刺史五年頃原州刺史七年大理卿?/少卿七/八月巡撫嶺南工部侍郎検校工部尚書貞觀二年十月金紫光禄大夫并州都督府長史八年頃雍州別駕十二年~十三年桂州都督貞觀十四年交州都督.生蠻を招慰し瀼州・籠州・環州を置いた。貞觀十五年頃卒贈桂州都督.上柱国.淸平縣公唐初功臣傳72-2李弘節
-----------------------劉贍-----------------------義寧1.6~武德二年大将軍府咨議参軍として領西河通守/浩州(汾州)刺史となった。武德2.9劉武周軍が西河を攻め、浩州剌史.武陵郡公劉贍は李仲文と固守した。武德四年~五年上柱国.大府卿五年襄州道行臺兵部尚書仍持節山南道巡撫大使七年本官兼検校襄州刺史/都督武德五年/六年?司農卿八年安州大都督府長史[都督趙王]權検校大都督府長史十二月~貞觀二年検校襄州都督貞觀二年~五年検校荊州都督五年在官卒唐初功臣傳72劉贍
----------------------------虞世南字伯施----------------------------隋內史侍郎世基の弟。父荔は陳太子中庶子で共に有名だった。叔父陳中書侍郎寄の養子となった。性格は沈靜で寡欲であり勉学に励み博学を謳われた。丁父後建安王法曹參軍となった。至德初西陽王友。陳滅世基とともに隋に仕えて有名であった。煬帝に気に入られ、大業初,秘書郎から起居舎人となった。世基は寵臣となり富貴を極めていたが、世南は同居してはいるが勤儉で質素で昇進しなかった。宇文化及が煬帝を弒逆した時、世基は殺されたが、世南には害は及ばなかった。化及に従い聊城に至り、竇建德に捕らえられて黃門侍郎になった。竇建德が亡ぶと、世民[太宗]は秦府參軍とし、記室弘文館學士に転じ房玄齡と共に文翰を分掌した。世民...唐初功臣傳71虞世南
----------------------------劉德威----------------------------父子將は隋毗陵郡通守。容貌は魁偉で有名だった。大業末左光祿大夫裴仁基に従い淮左に賊を討った。また仁基とともに李密に帰し、懷州鎮守となった。武德元年李密が王世充に敗れて唐に入朝すると所部を率いて従った。授左武候將軍,封滕縣公。劉武周の南下を防いだ。判并州總管府司馬。裴寂が敗走し、齊王元吉が并州を棄てて逃げると、德威は總知留府事となり留守を守った。武周が太原を陥し、德威は捕まったが、その後逃亡し帰朝した。賊中の虛實と晉絳諸部の状況を報告し、改封彭城縣公。未幾檢校大理少卿。竇建徳・王世充の平定で有功。轉刑部侍郎,散騎常侍を加えられ、平壽縣主を妻とした。貞觀初大理卿太僕卿で加金紫光祿大夫。貞觀七年...唐初功臣傳70劉德威
----------------------------韋挺----------------------------父沖は隋民部尚書。挺は建成[皇太子]と親しく、李淵[高祖]が長安を陥した後、隴西公府祭酒となった。太子左衛驃騎檢校左衛率と建成の側近であった。武德七年慶州刺史楊文幹が反し、建成が疑われ、側近の挺や杜淹・王珪が流罪となった。太宗により召し還され主爵郎中。貞觀初王珪の推薦で尚書右丞。吏部侍郎黃門侍郎御史大夫封扶陽/扶風縣男。隋末以来緩んだ官僚達の風紀を引き締めることを提言した。房玄齡、王珪、魏徵、戴冑と政事を議した。八年正月使于四方,觀省風俗。女が齊王祐妃となった。復銀靑光禄大夫行黃門侍郎兼魏王泰府事。十二年正月高士廉・令狐德葇・岑文本等と「氏族志」を選した。中書侍郎杜正倫が太子承乾の廃立の件を...唐初功臣傳69韋挺
----------------------------張士貴/忽峍----------------------------父國は県主簿.参軍。強力で騎射に優れていた。大業末に盗賊となり、各地を荒らし、「忽峍賊」と号した。義寧二年/武德元年四月李淵[高祖]が招くと弘農賊より帰附して右光祿大夫。通州刺史馬軍総管として薛仁杲征討に従い封新野縣公。二年世民[太宗]麾下で劉武周と戦った。三年~四年王世充・竇建徳征討に従い、虢州刺史。秦王府将軍。四年十二月右武衛/武侯将軍として劉黒闥に相州で敗れ奔る。九年六月玄武門の変[太子建成殺害]に参加した。進封虢國公、右屯衛大將軍。貞觀七年五月雅州道行軍總管として反した獠を討った。太宗はその勇敢さを讃えた。八月侵攻してきた東酉洞獠を龔州道行軍總管として討った。八年正月東酉洞獠...唐初功臣傳68張士貴
-----------------------------鄭善果-----------------------------父誠は周大將軍開封縣公として戦死した。善果は九歲で襲開封縣公となった。隋開皇初進封武德郡公。14才で沂州刺史。魯郡太守で有能清廉だった。大業十二年頃大理卿突厥が煬帝を雁門に囲んだ時、解囲の功績で右光祿大夫。江都に従い宇文化及の弑逆後、民部尚書武徳二年聊城に従い竇建徳に捕まり責められ冷遇された。逃亡して相州に入り淮安王神通に帰した。高祖は厚遇して太子左庶子検校内史侍郎更封滎陽郡公。皇太子に誠実に仕えた。二年冬未幾,太子左庶子兼檢校大理卿兼民部尚書。三年坐事免。四年五月山東が平定され、持節為招撫大使。人事登用に失策があり除名。武德末禮部尚書刑部尚書貞觀元年岐州刺史→坐事免三年江州刺史卒61唐初功臣傳67鄭善果
----------------------------竇璡字之推----------------------------抗の季弟。穏やかな性格であった。大業末隋穎川・南・扶風太守を歴任していた。義寧元年十二月李淵[高祖]の反乱に扶風郡をもって歸附した。隋[代王]工部尚書.燕国公.上柱国.左元帥府掾[元帥は建成]隋[代王]禮部尚書武德元年六月唐の民部尚書世民[太宗]に従って薛仁杲を平定。ついで益州行臺僕射として平定にあたるが、皇甫無逸と対立した。京師帰還を求めたが留任させられると使者に贈賄し弾劾され免官される。五年頃秘書監封鄧國公、修陳史。貞觀初太子詹事五年九月將作大匠として洛陽宮を建設したが、あまりに豪華にしすぎて太宗の怒りをかい免官。娘を酆王の妃にしたため復位。右光禄大夫。卒贈禮部尚書.諡曰安。璡は音...唐初功臣傳66竇璡
----------------------------楊簒字續卿----------------------------弘禮族父。隋安溫二州刺史安平公文偉の子。大業進士に合格し朔方郡司法書佐。楊玄感の乱に親族として坐し免官。李淵[高祖]の反乱にくわわる。侍御史として進言。考功郎中貞觀初長安令.封長安縣男妖女の取り調べを誤り免官。五年~八年吏部侍郎.文雅を排除し能吏を登用した。八年正月河南巡察副使.宰相蕭瑀と対立した。八年~九年尚書左/右?丞九年/十年~十五年吏部侍郎十六年~十八年太常少卿貞觀十八年~十九年兼雍州別駕十九年~二十年銀靑光禄大夫尚書左丞、巡察四方二十年春/夏~二十三年大僕卿兼検校雍州別駕二十三年~永徽元年度支尚書柱國.長平縣公.永徽元年卒贈幽州都督.諡曰敬?/恭.唐初功臣傳65楊簒
----------------------------丘/丘敦和----------------------------本姓丘敦氏、鮮卑人。父壽は魏の鎮東將軍。若くして弓馬に長じ、任俠を重んじていたが、成長すると穏やかになった。北周の開府儀同三司。隋の右武衛將軍封平城郡公。資州刺史。梁州刺史。寬恵で著名であった。隋漢王諒の反乱時に蒲州刺史であったが敗走し除名。権力者宇文述に媚びて近づき、代州刺史。煬帝北巡時に盛んに迎合獻食し、述の推薦もあり博陵太守となり、また帝に迎合した。しかるに郡民もよく撫して人気があり、遷天水郡守。左禦衛将軍。大業末嶺南地方が乱れ、裴矩に推されて交趾太守となり、諸豪傑を撫して蠻夷の支持を得た。義寧二年/武德元年煬帝が宇文化及に殺されると、寧長真・蕭銑・馮盎・林士弘が自立し帰属を勧誘...唐初功臣傳64丘和
----------------------------趙弘智字處仁----------------------------元魏車騎大將軍肅の孫。父玄軌は隋陝州刺史。三禮・史記・漢書に通じ孝で知られて隋司隸に從事した。武德初郎楚之の推薦で太子詹事府主簿。吏部員外郎、国子博士、檢校吏部郎中から越王府長史兼檢校吏部侍郎を経た。貞觀中藝文類聚を選し文書や勤怠管理に努めて太子舍人から黃門侍郎兼弘文館學士に進んだ。病気により萊州刺史にでるが、また太子右庶子。俸祿は父や兄弟に分け与えていた。太子承乾が廢さけたことに連座して除名された。貞觀十八年~永徽元年しかしすぐ光州刺史となった。貞觀二十一年二月兼摂国子司業永徽初陳王の師に任用され、広く孝道を講經した。四年進國子祭酒仍崇賢館學士。卒82歳諡曰宣。唐初功臣傳63趙弘智
----------------------------竇誕----------------------------宰相抗の三男。隋仁寿中起家朝請郎。義寧初丞相府祭酒殿中監封安豐郡公尚襄陽公主駙馬都尉[高祖女]。世民[太宗]に従い薛舉を討った。元帥府司馬。武德二/三年刑部尚書。四年~貞觀元年太常卿.上柱国として高祖の子達の家事を視た。丁父憂→起復摂参旗将軍判刑部尚書事貞觀元年梁州都督。四年右領軍大將軍四年~八年大理卿、進莘國公九年修營太廟復殿中監→疾辭十八年宗正卿。老耄して失態し、光祿大夫致仕。二十二年二月卒68歳贈工部尚書、荊州刺史,諡曰安。唐初功臣傳62竇誕
----------------------------竇軌,字士則----------------------------父恭は周雍州牧酂國公。叔父は宰相威。剛胆で威望があった。大業中資陽郡東曹掾をやめて帰郷していた。李淵[高祖]が反し、軌は募兵して長春宮で参加した。義寧元年九月渭南を経略し、永豐倉を降して、長安を攻めた。封贊皇縣公.大丞相諮議參軍となった。十二月姜暮とともに散關を出て隴右を安撫したが薛擧に敗れた。武德元年四月稽胡賊五萬を黃欽山に破った。男女二萬を得、太子詹事に昇進した。羌族と薛舉叛將鐘俱仇が漢中に侵攻してきたが、秦州總管として破った。九月薛仁杲に敗北した。十一月世民[太宗]に従い薛仁杲を淺水原に破った。復襲酂國公となり益州道行台左僕射として蜀地を経略した。四年世民[太宗]に従い王世充を...唐初功臣傳61竇軌
------------------------------蔣善合/合字玄符------------------------------大業八年山東賊孟海公に参加し鄆州を占領した。武德四年二月孟海公が竇建德に敗れて、建徳麾下になり、東都王世充救援に動員された。五月竇建德、孟海公軍は唐に敗れ、殺された。六月鄆州を以って唐に降り、戴州禹城縣令に任ぜられた。七月孟海公從弟戴州刺史孟啖鬼が曹、戴二州で反したが、善合は同調せず啖鬼を討った。功により大將軍、鄆城縣開國公食邑一千戶。持節鄆州諸軍事鄆州刺史。六年扶州刺史に転じた。七年五月羌と吐谷渾が松州に侵攻。竇軌と共に芳州道より擊った。六月吐谷渾が扶州に侵攻したが撃退した。七月吐谷渾を松州赤磨鎮で破った。八年十月吐谷渾の疊州侵攻に救援した。貞觀三年檢校松州都督。八年病...唐初功臣傳60蔣善合
-----------------------武士獲/士彠字信明-----------------------則天皇帝の父。隋東都丞武華の子。材木商人上がりで交友を好んだ。李淵[高祖]は汾晉招慰大使として屯していた時、その家[鷹揚府隊正だった]に宿していた。淵が守太原留守となると、士彠を行軍司鎧參軍とした。士彠は淵に資金を提供し挙兵を勧めていた。無頼の劉弘基や長孫順德が募兵を始めると、目付役の王威や高君雅は疑惑を抱き逮捕しようとしたが、両者とも下仕手親しい士彠は「この連中は淵の客分だからもめ事になりますよ」と宥めた。反乱には参画できなかったが、大將軍府鎧曹參軍.壽陽縣公となり、長安侵攻に従って、庫部郎中.光祿大夫.義原郡公となった。禮部侍郎?.黄門侍郎?.武德元年高祖即位金紫光禄大夫.太原郡公检校井釴将軍...唐初功臣傳59武士彠
-----------------------柴紹字嗣昌-----------------------父慎は隋太子右內率封鉅鹿郡公。若くして勇力で任俠として關中で有名であった。隋元德太子[煬帝嫡子]千牛備身となった。李淵[高祖]女(後の平陽公主)を妻とした。義寧元年五月淵の反乱時、建成、元吉と長安から間道を抜けて太原に逃亡した。右領軍大都督府長史となった。兼領馬軍總管として霍邑で宋老生と先陣で戦い、臨汾,絳郡を降し、授右光祿大夫.封臨汾郡公隋將桑顯和を大破して長安を降した。妻平陽公主は長安付近で諸賊徒数万を集めて李淵軍を支援した。武德元年左翊衛大將軍。世民[太宗]に從い、薛舉,宋金剛,王世充、竇建德と戦った。封霍國公,賜實封千二百戶,右驍衛大將軍。四年七月吐谷渾・黨項が來寇したので撃退した、六年~八年岐州...唐初功臣傳58柴紹
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再建[李愬の準備]--------------------------元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっ...再建[李愬の準備]
中国では皇嗣の即位例はない--------------------------どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます...中国では皇嗣の即位例はない
回紇和約その2[李泌の策]-------------------------德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」「それができるなら朕には異存がない」回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐...回紇和約その2[李泌の策]
回紇和約その1[陝州の恥]-------------------------吐蕃の背信により盟約がならなかった貞元三年のある朝。宰相李泌は德宗皇帝と対していました。德宗は「邊將から馬が乏しい、これでは吐蕃は防げない、なんとかしてくれという要求がくる。しかし必要はわかるが手に入らない上に非常に高価だ」と嘆いた。泌「私の策を採用してもらえれば、数年の内に馬の供給は増え、安くもなります」「どんな策だ」「陛下のお気にいらぬとは思いますが、国のために申し上げざるえません」「卿はなにをためらっているのか」「北に回紇と和し、南に雲南、西に大食・天竺と通じれば,吐蕃は脅威となりません」「雲南・大食・天竺との和はよいが、回紇はだめだ」「陛下がそうおっしゃるとわかっていますが、回紇との和こそが肝腎なのです。三國はその後でよい...回紇和約その1[陝州の恥]
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早期歸順[王承宗の選択]---------------------元和十三年年初「もうだめだ、勝ち目はなくなったな」成德節度使王承宗は追いつめられていた。淮西吳元濟、淄青李師道と組んで唐に反抗していた。征討軍を何度も撃退し領域を守っていたのだが、淮西元濟が李愬の奇襲により誅されてしまった。淄青師道は軍略がなく兵も弱いので頼みにならない。「淄青が残っている内に歸順しないと交渉にすら応じてもらえませんよ」と幕僚。「交渉は無理だろう、俺は皇帝に一番憎まれている。継承時に裏切っているし、宰相武元衡を殺したのも俺だと思われているし」「ですから誰かに仲介してもらわなければ」「幽州の劉總か魏博の田弘正しかいないが、どちらも敵対しているしな」「とにかく泣きつくしかありません。次に滅ぼされるのはうちか淄青です、早くしないと...早期歸順[王承宗の選択]
登用[憲宗の遺臣]--------------------------大中元年朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」「あれは誰だったのかな?」「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。「子はいるのか?」「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」「宰相になる素質はありそうか?」「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。早くも大中四...登用[憲宗の遺臣]
冷遇[源休の怒り]--------------------------「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」源休は荒れ狂っている。遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。「光禄卿?窓際族扱いじゃないか」対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。長時間、雪中に立たされ問責され続けた。それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。宰相に任じられてもおかしくないはずだ。せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。それなのになんの利益もない光禄卿だ。「盧杞の野郎、今にみておれ」休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのってい...冷遇[源休の怒り]
空虚[迪簡の忍耐]--------------------------「倉庫はからっぽです。前使がみんな持っていきました」「朝廷から送られてくる賜物はいつくるかわかりません」義武軍行軍司馬の任迪簡にとっては頭の痛いことばかりであった。前節度使の張茂昭は、易定二州を朝廷に返納して河中へ栄転していた。長い間の河北の自立の一角が崩れたわけである。しかし周囲の藩鎭はすべて敵であり、軍士達は不穏な状態が続いている。現に二回の反乱がおこり、そのたびに迪簡は監禁されていた。牙軍上層部は官爵を授けられ朝廷に従うつもりであるが、利益を感じられない中堅以下は不満であった。「こんな貧乏節度使だから、茂昭は投げ出していったんだ」「なけなしの財産もみんな持って行ったし」迪簡が軍士に与える賞賜はろくになかったし、宴会すら開くことがで...空虚[迪簡の忍耐]
背信[太宗と李勣]------------------------貞觀二十三年五月「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。し...背信[太宗と李勣]
僞勅[監軍王定遠の横暴]--------------------------貞元十一年七月の河東節度使府である。「ついては節度使李說を解任し、行軍司馬李景略を留後という勅命がくだった」監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。說は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。定遠は說を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。なぜかそのことは諸将にも知れ渡ってしまっていた。說にそのことを責められ逆恨みし、朝廷に報告されないうちにと、勝手に解任しようとしていたのだ。諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」そして...僞勅[監軍王定遠の横暴]
受忍[婁師德の生きる知恵]----------------------------------長壽二年正月寛厚で清廉で知られた宰相婁師德は、才智あふれる敏腕の同僚李昭德とともに入朝していた。広大な宮庭を肥満体の師德はのろのろと歩んでいく、若く元気な昭德は進んでは待ち、また進むの繰り返しであった。いらいらした昭德は思わず「田舎者めが」と吐き捨てた。師德は笑って「私が田舎者じゃなかったら、誰が田舎者なんでしょう」と言った。さすがの昭德もことばが出なかった。また師德の弟が代州刺史に昇進した。兄弟揃っての栄進に師德は弟を呼び出して戒めた。「私が宰相、お前が刺史となれば、人の妬む所だ。いかなる誣告があるやもしれない、どうすれば逃れられるかお前の心構えはどうかな」弟「たとえ顔に唾を吐きかけられても拭うだけでがまんしま...受忍[婁師德の生きる知恵]
厚遇[河北三鎭の分裂]--------------------------「魏博で軍乱がおきたようだの」と憲宗「幼少のものでは牙軍は抑えられませんからな」と李吉甫そこへ宰相李絳がやってきて言った。「新たに推された田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」「まさか、そんなことはあるはずがない」「いや本当です。官吏の任免も求めてきました」「興は田家の傍流です。そのため朝廷の早期の承認が必要なのです」「魏博が味方になれば、成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」「田興を留後として認めてやろうか」河北三鎭等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという方式をとってきたのだ。李絳が言った。「留後では牙軍のおかげで昇進したということになりま...厚遇 [河北三鎭の分裂]
擁立される[田興の悩み]--------------------------元和七年魏博節度使田季安が32才で卒した。河北三鎭の一つ魏博節度も承嗣.悅.緒.季安と4代続いていた。承嗣・悅は反唐姿勢が明白だったが、唐より嘉誠公主を降嫁してもらった緒の代よりあいまいになった。公主を義母とした季安は若くして継承し、反唐の成德王承宗を陰で支援したりしたが、成德・淄青・淮西の反唐同盟には属さず、両端を持していた。そして乱行と深酒のため若死にしたのである。継承すべき子の懐諫はまだ11才である。当然藩鎭圧迫策を行う憲宗皇帝はなかなか継承を承認しない。驕兵である牙軍もさすがに動揺している。季安の卒後まもなく、いちおう懷諫を擁立はしたが、実務は家奴の蔣士則が取っていた。「士則のやつ、奴隷のくせにえらそうに俺達に指示しおって...擁立される[田興の悩み]
出家[幽州節度使劉總の苦悩]--------------------------今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。夜が来るのが恐ろしい。読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。「朝廷にお願いした件はどうなった」「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻する...出家[幽州節度使劉總の苦悩]
起死回生[李義府の挑戦]-----------------------「ああもうだめだ。俺の今までの努力はなんだったんだろう」中書舎人李義府は門下省からきた人事案をみて落胆していた。そこには義府を山西の壁州司馬に左遷すると書かれていた。義府はそんな左遷されるほどの失態を犯したわけではない。ささいなミスだ。しかし義府のような進士あがりの成り上がりを嫌悪する門閥派にとっては理由になるのだ。義府は太尉長孫無忌の己への冷たい視線を感じていた。ど田舎よりひたすら学問に打ち込んで、少しずつ昇進してきたのに、これですべて元の木阿弥である。再チャレンジなどはありえない。「どうした、そんな青い顔をして、どこか悪いのか?」と同僚の王德儉が心配して聞いてきた。「俺はもう終わりだ。明日僻地へ左遷になるんだ」「うーん、これはひどい...起死回生[李義府の挑戦]
-----------------------王長諧-----------------------瓜州刺史直の子。隋鷹揚郎將義寧元年六月李淵[高祖]反乱時、統軍八月劉弘基・陳演壽・史大柰と黄河辺で隋將屈突通と対峙した。九月屈突通將桑顯和と戦う。劉文靜麾下で永豐倉に屯し、潼關を守る。屈突通將軍劉綱を潼關に破り斬り、潼関城を守り抜いた。光禄大夫武德九年~貞觀元年會州都督として収賄し弾劾されたが、太宗は赦した。左武衛大將軍貞觀初秦州都督.封平原郡公陪葬獻陵。唐初功臣傳41王長諧
-----------------------張儉字師約-----------------------父植は隋車騎將軍.連城縣公。儉は李淵[高祖]の從甥。右衛郎將となった。貞觀元年~四年軍功をもって朔州刺史にいたった。時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。四年檢校勝州都督となり母憂で職を去った。突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。四年檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。十四年~永徽四年營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。十五年十...唐初功臣傳40張儉
----------------------------李孟嘗/孟常字待賓----------------------------貧民の出身であり盗となり24歳で王君廓麾下となった。武德元年君廓に従い唐に帰属し開府儀同三司となった。八月世民[太宗]に従い薛擧・仁果征討に従軍した。三年劉武周征討に従い、軍功があり上柱国となった。四年五月王世充・竇建徳征討に従った。六年五月李勣に従い徐圓朗を討った。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加、右監門副率となった。七月右監門中郎将、封武水縣公に進んだ。十月食實封四百戸貞觀三年~四年李勣に従い突厥征討に功績があり、漢東郡公に進んだ。貞觀十四年右驍衛将軍貞觀十八年右屯衛将軍貞觀二十年/永徽元年黔州刺史/都督良政あり永徽元年十二月反した琰州獠を謝萬歳等と討った。永徽六年右監...唐初功臣傳39李孟嘗/孟常
-----------------------許世緒/緒字玄嗣-----------------------洛仁の兄。益州司馬から大業末,隋鷹揚府司馬であり、李淵[唐高祖]と親しくしばしば「今は蜂起するべき時期だ。そうしないと他の出し抜かれますよ」と唆した。反乱が起きると右一府司馬左/右武侯/驍衛長史左散騎常侍大府卿/少卿司農卿武德中封真定郡公鄂州刺史武德七年/八年瓜州刺史/都督銀靑光禄大夫豫州刺史貞觀中在任卒63歳贈靈州都督唐初功臣傳38許世緒/緒
---------------------------李思行----------------------------仇を避けて太原に逃げていた。李淵[高祖]反乱後、長安に偵察に派遣され動靜を窺った。左三統軍となる。隋將宋老生を破った。長安陥落後.驃騎将軍齊王元吉護軍となった。玄武門の変後、磁州で捕らえられるが魏徴がとりなして赦される。貞觀~永徽嘉州刺史.封樂安郡公。永徽初卒,贈洪州都督,謚曰襄。唐初功臣傳37李思行
----------------------------張崇字平高----------------------------隋末鷹揚府校尉として太原に屯し李淵[高祖]と知り合い反乱を議した。反乱後軍頭となった。長安陥落後、驃騎將軍となった。左領軍將軍封蕭國公にいたった。武德九年十月食實封三百戸貞觀初丹州刺史坐事免職され、右光祿大夫として致仕卒後改封羅國公。永徽中,追贈潭州都督。唐初功臣傳36張崇/平高
----------------------------趙文恪----------------------------隋末に鷹揚府司馬として太原李淵の麾下であった。大業十三年反乱に参加し右三統軍。武德二年都水監.封新興郡公。并州で突厥からの軍馬購入に努力した。武徳二年三月劉武周將宋金剛が太原に来寇し、浩州を守る李仲文を救援に赴いた。しかし太原も齊王元吉が逃げて陥落し、文恪も城を棄てて敗走したため獄死した。齊王元吉はなにも罪に問われなかった。唐初功臣傳35趙文恪
----------------------------樊興/樊世興字積慶----------------------------武陵の蠻族出身。父の罪で李淵[高祖]家の奴隷となっていた。反乱後軍に従い、通議大夫から金紫光禄大夫。長安平定後に左光禄大夫となった。また世民[太宗]に従い薛舉を攻める。武德四年父方の謀反の罪で連座削官された。王世充、竇建德と戦い戦功を積み封營國公。七年劉黒闥征討の功績で右監門將軍となった。八年天節将軍となった。九年十月食實封四百戸。坐事削爵。貞觀六年陵州獠の反を討ち、左驍衛將軍。李靖に従い赤水道行軍總管として吐谷渾を討つが、逗留し期限に遅れて敗北し免官。久しくして左監門大將軍封襄城郡公。太宗の遼東遠征時、忠勤をかわれて京師留守房玄齡の副となる。檢校右武候將軍。永徽元年卒,63歳...唐初功臣傳34樊興/世興
----------------------------公孫武達----------------------------腕力に優れ豪俠と称していた。隋驍果軍士卒となっていた。武德初李淵[高祖]に長春宮で謁し麾下となった。二年十一月世民[太宗]麾下となり、劉武周征討に従い軍功をたてた。また王世充、竇建德征討に従い秦王府右三軍驃騎.封清水縣公となった。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加した。十月食實封四百戸を与えられた。貞觀初檢校右監門將軍貞觀三年肅州刺史十一月甘州刺史成仁重と突厥の来寇を大破し、左監門將軍。鹽州の突厥が反乱し、武達は靈州へ赴き突厥軍を破った。進封東萊郡公。永徽中右武衛大將軍卒,贈荊州都督,陪葬昭陵,謚曰壯。唐初功臣傳33公孫武達
----------------------------------------夏侯端-----------------------------------------梁左僕射詳の孫。隋大理司直となり李淵[高祖]と親交があった。大業中李淵が河東の討賊をしたときには、端が副であった。そして煬帝の乱政を批判し淵に決起を勧めた。反乱が起こったとき端は河東郡にいて,淵との関係を疑われて捕らえられ長安の獄に囚された。淵が長安を陥すと、秘書監に任ぜられた。武德二年四月大將軍を加えられ持節河南道招慰使として關東の地を招諭に派遣された。十月黎陽から澶水黄河を渡り海に至まで二十余州を招撫送款させた。しかし亳州刺史丁叔則や汴州刺史王要漢が王世充についたため、中間を遮断された。端は衆心を得ており所從が二千人もいたが、孤立したた...唐初功臣傳32夏侯端
----------------------------羅士信----------------------------大業十年長白山賊王簿、左才相、孟讓が齊郡に来寇した。通守張須陀が迎撃、士信は14歳で参加を申し出て勇戦し、須陀の激賞を得た。そして須陀の副となり奮戦し、煬帝も認めるほどになった。義寧元年四月須陀が李密との戦いで戦死すると、士信は裴仁基に従い密に仕えて總管となった。李密に従い王世充と奮戦するが敗れて捕らえられた。世充はその驍勇を知っていたので厚遇した。武徳二年七月その後世充は李密の叛将邴元真等を起用したため、士信は同列となるを恥じ、所部千余人とともに谷州に奔り唐に帰した十月高祖は士信を陝州道行軍總管とし世充を攻撃させた。士信は青城堡を陥した。三年四月慈澗を囲み、世充太子玄應を破った。十月千金...唐初功臣傳31羅士信
---------------------李安遠---------------------隋上柱国雲州刺史徹の子。家が富んでいたため無頼で博徒と通じていた。しかし成長すると讀書を好み友を選んだ。父の爵を継ぎ城陽公となった。王珪と親しく、大業初に珪が処罰され配流になった時に庇った。正平縣令となり、絳郡通守陳叔達とともに李淵の反乱軍に抗したが落城して捕まった。むしかし淵と旧交があったため赦されて右翊衛統軍封正平縣公となった。武德元年屈突通を破り上柱國右武衛大將軍に進んだ。世民[太宗]に従い軍功があって廣德郡公に進んだ。また吐谷渾に使いして,渾主伏允を慰撫して互市を開始した。太子建成が安遠を誘ったが同ぜず、世民の党派にいた。貞觀初京師を巡察して治安を守った。潞州都督五年~七年懷州刺史いずれも有能であったが厳格す...唐初功臣傳30李安遠
-----------------------丘行恭-----------------------騎射に優れ勇敢絕倫であり、大業末に兄の師利とともに岐、雍間で群盗となっていた。故郿城を本拠とし自立できていた。義寧元年九月原州奴賊數萬人を従え唐軍に参加し、光祿大夫となる。長安平定後、薛舉、劉武周、王世充、竇建德と戦い戦功があって、左一府驃騎となった。武德四年世充との戦いでは落馬した秦王を助け奮戦した。太子建成の殺害に参加し、左衛將軍となった。武德末冀州刺史貞觀陝州刺史。貞觀中嫡兄と生母葬儀で争い、弾劾され除名。しかしすぐ復官。侯君集の高昌遠征に従い,封天水郡公,右武候將軍となった。高宗嗣位右武侯大將軍.譚國公.老齢により致仕,拜光祿大夫。性嚴酷で同僚から敬遠されていた。麟德二年卒、八十歳。贈荊州都督/刺史,...唐初功臣傳29丘行恭
-----------------------龐玉/寵玉-----------------------隋儀同大将軍徽の子。義寧元年五月煬帝は監門將軍涇陽寵玉と霍世舉に關內兵を率いさせ東都に派遣した。東都越王麾下として李密軍を大破した。九月寵玉等は偃師兵を率いて、世充と合同し李密を洛口に撃った。王世充が東都で簒奪したとき、皇甫無逸とともに萬騎をひきつれて唐に帰順した。高祖は隋旧臣の来降を喜び領軍・武衛大将軍に任じた。武德元年九月唐将軍として淺水原て゜薛仁果と戦った。十月右武候大將軍として西討に向かった。十二月河東堯君素を攻めた。二年十月左武候大將軍から梁州總管となり、巴集州獠を平定した。四年越州都督として能政だつた。韓國公太宗即位左監門大将軍掌東宮軍務。貞觀十一年卒贈工部尚書.豳州都督。唐初功臣傳28龐玉/寵玉
----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕
----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝
----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸
-----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄
-----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會
-----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓