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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
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藤沢市
出身
藤沢市
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2018/05/31

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  • 台峰の砦 12

    鎌倉時代の戦は騎馬による攻撃主力ですが、台村の曲輪の、馬の出入りは、自由でないと戦力を発揮できない!「台峰の砦6」の明治迅速地図には、8ヵ所ほどの道が在りますが、オリジナルは、大手道の水堰橋側、北鎌倉女学園側、の大手道が2ヵ所と、戦闘時に騎馬の出入りに使った北鎌倉駅から光照寺脇の坂を上る切通と江の島へ向かう坂で、この坂の2ヵ所を使い騎馬の出入りをしたと考えられる。新田義貞が洲崎の戦いに勝ち、山崎に入った目的は、この台村曲輪を陥落し、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間に在る封鎖を突破し化粧坂を攻めるのが目的です。梅松論では、山内(台村曲輪下)で鬨の声が挙がったと書かれている。化粧坂の直近を攻撃すれば、南は梶原から入り葛原ヶ岡の攻撃となり、梅松論に記されています。更に、山崎は倉久保谷戸の有る場所で、台峰の大手道を側面...台峰の砦12

  • 台峰の砦 11

    大手道を水堰橋の土塁で塞がれた騎馬の出入り口の話です。大手道封鎖(北鎌倉女学園とグランドの間)場所の下ですが、台村曲輪との間を横切る道が在った!その道の詳細は、北鎌倉光照寺と言うのが有ります。(北鎌倉光照寺HPより)〉「光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで??〉光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあった〉そうです。鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうと〉した一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る〉武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街〉道筋に一夜の野宿をし、翌日江ノ島に至り、そこ〉で踊念仏を修したと伝えられています。その際に〉野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、〉一遍上人法難霊場となっております。」下図のオレンジ色ラインが江の島街道で卍印は...台峰の砦11

  • 台峰の砦 10

    広い鎌倉城は、均等に守らせたら兵力が足りない。一ヵ所を集中して攻められたら困ります。ワザと弱そうな場所を作り其処に集中させて攻めさせれば効率良く守れる。何故なら関東武士が総出で作った城です。鎌倉城の構造を熟知していたと考えるのです。太平記に書かれた事は、新田軍は、十万余騎、極楽寺の切通十万余騎、巨福呂坂五十万七千余騎、粧坂その様な兵力の割り振りで、大半の兵力は化粧坂を目指し台峰曲輪を攻めた!梅松論や太平記を読み地形に語らせれば、、こんな結果に成りました。鎌倉終焉では、人数に誇張が有っても、攻め手の新田軍の五十万七千余騎、粧坂を目指して攻め込む。守り手の鎌倉幕府軍は三万余騎、粧坂を堅めた。鎌倉軍は約20倍の新田軍をこの砦で迎撃したが、新田軍は攻略できず、稲村ケ崎に転戦し詳細は太平記に記されている。鎌倉軍は、予備軍...台峰の砦10

  • 台峰の砦 9

    台村の曲輪ですが、「登ったら宅地造成された団地でした!」そんな感じの魅力の無い住宅地です。見方を変えれば鎌倉時代からこの平地が有る不思議を!地名として有るのは、地名が名付けられた時から平地で有った訳です。台村馬繋場の曲輪は、南北220m東西500mの平地です。江戸城の本丸は、南北570m東西に200mで似た広です。台村の曲輪を化粧坂に向け少し登ると、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間が、傾斜が強く雛壇状でこの場所が街道封鎖の場所と考えられます。封鎖の外に台村曲輪の馬出構造が在る訳です。鎌倉城以降でも大手口の前に馬出曲輪を造る時が在る。「馬出曲輪」の名前からして台村の馬繋場と使い方は同じで、馬は無くとも鎌倉の城造りが基と考えられます。太田道灌が造った江戸城=江戸城本丸と同じ大きさの台村曲輪ですが、、、外部から観察し...台峰の砦9

  • 台峰の砦 88

    前回の台峰の砦7に書いたことは、〉水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。〉この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。〉この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。〉この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、〉水堰橋から登る道だけの様です。〉それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。っと言う事が、、全くの間違いで在りました。それは、大きな切岸の下に「防塁」を設けて在ったのです。残念ながら、総ては宅地となっており、その確認は困難ですが、国土地理院の傾斜量図を見ると、建築物に誤魔化されない防塁が検出できます。、台峰の砦88

  • 台峰の砦 7

    緑のラインは鎌倉の大手道で、中道として鶴ヶ峰に向かう鎌倉街道です。水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、水堰橋から登る道だけの様です。それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。水堰橋(せいしくばし)の伝承ですが、鎌倉城に出入りする際、この場所で隊列を整えた!と言う話です。この話が緑のラインの道が大手道であろうと考える根拠です。更に、何故この場所で出入りの際隊列を整えたのか?その必然性に迫る伝承は無い。結論から言えば、明治の初期には平地で在った地形は、鎌倉時代からの平地と考えられる。更に、北鎌倉女子学園の校舎とグラ...台峰の砦7

  • 台峰の砦 6

    明治の迅速図(明治16年程)で、未だ横須賀線は敷設されない時代。同じ地図のモノトーンです。問題は紫色に囲った部分で、台村(旧字体)に注目!同様に右上の紫は、、長窪の砦です。共通するのは、異常に広い平坦地です。現状は、魅力に欠ける造成された様な平坦な住宅地を如何に面白く見せるか!明治15年の地図ですから、江戸時代からの平坦地と考えられる。この場所は、鎌倉街道が通過する場所です。そして、台村に上がる手前には「水堰橋」と言う曰くある場所と成ります。吾妻鏡(奥州攻め)には「二品者大手自中路」とあり、この緑ラインの道が鎌倉城の大手道と考えられます。次回は、この状況を踏まえた台村と言われた平坦地の話です。台峰の砦6

  • 台峰の砦 5

    緑のラインは水堰橋より台峰を通り、葛原ヶ岡から化粧坂に向かう鎌倉城の大手道です。この大手道はどの様に守られて居たのか?「新田軍は化粧坂に4戦う砦跡」にこの台峰の曲輪を示してあります。(国土地理院の地図を再掲載)黄色で示したのが、平場(曲輪)の有る場所です。総ての曲輪は、峰通しの兵員輸送の道で繋がっている訳です。これが、鎌倉の山は自然の要害の地ではなく、人工的に切岸を作り、曲輪を作り、有機的に峰の道を使って兵員を補強できる機構が出来て居た訳です。基本は、垂直に近い切岸ですが、切岸の間にこの場所を攻めて下さいと言う曲輪が在ります。更に谷の奥にはやはり曲輪が在ります。在る時は枡形の虎口の様な曲輪であり、雛壇の様に切岸を攻めるより数段攻め込みやすい構造で在ったり!攻め手を誘惑して入り込ませる構造です。どの様な関連性を持...台峰の砦5

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