こちらはデリー市内を走るロタックロードです。デリーの西側にあるハリヤナ州ロータクとデリー市内を結ぶ幹線道路です。片側三車線の大きな道路。一応歩道が用意されていますがこの先歩道はなくなります。 そもそも
こちらはデリー市内を走るロタックロードです。デリーの西側にあるハリヤナ州ロータクとデリー市内を結ぶ幹線道路です。片側三車線の大きな道路。一応歩道が用意されていますがこの先歩道はなくなります。 そもそも
本日は名古屋に来ております。 こちらは名古屋市営地下鉄の丸の内駅前です。 丸の内線は鶴舞線と桜通線が乗り入れる乗換駅。 乗降者数も多い駅で通退勤時間帯はスーツを着た人たちをよく見かけます。 先日アニメ
本日は名古屋に来ております。 こちらは栄駅そばにある久屋大通公園です。先に見えるのは中部電力ミライタワー、一般的には名古屋テレビ塔と呼ばれてるのでしょうか。 テレビ塔ができたのは1954年。 日本で最
こちらはデリーメトロのシャディプール駅です。 ブルーラインとグリーンラインの乗換駅である同駅は利用者も多くいるのでしょう。でもメトロはバスと比べると値段が高く、市民の足は専らバスのようです。そのためメ
本日は名古屋に来ております。 こちらは金山駅の一つ隣駅「日比野駅」です。 日比野駅は名古屋市営地下鉄名港線の駅で名古屋駅からそこまで離れていません。この辺りは車でしか来ていませんでしたが本日は電車で来
本日は名古屋駅に来ております。 東京の次に大きな都市は大阪ですが意外に大阪って行く機会が少ないです。逆に名古屋は頻繁に立ち寄る地域。 名古屋は大阪と東京の中間にある都市。実際は大阪寄りなのですが大都市
本日は愛知県の一宮市に来ております。 こちらはJR尾張一宮駅です。 人口37万人が住む一宮市、その中心が尾張一宮のあたりでしょうか。ウールの世界三大地と呼ばれる地域で尾張一宮は繊維街だったそうです。
こちらはチャイです。 10ルピーのチャイ。チャイはお店で味がかなり変わりますがここのはかなり甘め。基本的にインドのチャイは甘いです。甘い理由は色々あるようですがイギリスの植民地時代だったころに茶葉生産
本日は名古屋の熱田区にいます。 こちらは熱田区にある宮の渡し公園です。 日本橋から京の三条大橋をつなぐ東海道五十三次。約500kmの街道で53の宿場町があります。今では新幹線で2時間程度で行ける距離で
名古屋に来ております。 現在名古屋駅の西の飲み屋街の外れにいます。 こちらは竹橋町にあるスエヒロ増子神社です。 創建時期は不明で誰が建てたのかも不明だしそもそも何がまつれているかも不明。神社って神の社
本日は名古屋市の南区に来ております。 こちらは名鉄常滑線の柴田駅です 同駅南側にある天白川を渡った先は東海市なので名古屋市の最南端に位置する駅なのでしょうか。駅利用者は一日4000人ほど、名古屋にして
インドではウーバーが利用できます。日本のアカウントのままで利用できるためなんの設定も必要なくすぐに使えます。支払いもクレジット決済。 目的地を入力すれば事前に料金がわかるため料金交渉は一切不要。目的地
本日は船橋市に来ております。 こちらは船橋漁港です。東京湾に面した船橋漁港は新鮮な江戸前の魚が獲れる漁港です。船橋で有名な魚はアジ、サバ、イワシでしょうか。あとスズキの漁獲量は全国一位なんだとか。 こ
本日はニューデリー駅の東側に来ております。 このあたりはオールドデリーと呼ばれる地域。ムガル帝国時代の1648年に首都をアグラからデリーへ遷都。その際にデリーの街が形成されました。 ムガル帝国時代の建
本日は船橋に来ております。 船橋駅はJRと京成本線、東武野田線がありJRと東武は近いですが京成本線は離れています。離れているといっても100mほど。その区域にお店がありここがJRの南側ですが京成線の北
本日は千葉県の船橋市に来ております。 こちらは船橋市内を東西に走る本町通りです。現在は本町通りの南側に千葉街道がありますが江戸時代はこちらが千葉街道でメイン通りでした。ここには宿場町があったのです。
インド旅行って言ったら何をイメージしますか? デリーの旧市街を巡り、アグラに行きタージマハル観光。バラナシでガンジス河を観光し、おいしいインド料理を食べ歩く。これが無難な観光ルートでしょうか。インド象
こちらは麦焼酎の水割りです。 ビール、ホッピー、レモンサワー、ハイボール、様々なお酒はあれど挙げた酒は全て炭酸です。シュワシュワ感を味わいたい時もありますが炭酸ってお腹いっぱいになるんですよね。酒を飲
本日はデリーの南東部に来ております。こちらはカリンディークンジ駅です。 駅が開設されたのは8年前の2017年の割にはだいぶ朽ちています。 インドって空気が汚れてるので建物が汚くなりやすいのでしょう。清
本日は千葉県の船橋市に来ております。 こちらは船橋市内にある大型ショッピングモール「ららぽーとTOKYO BAY」です。 週末になると多くの人が往来するららぽーと。1981年に開業した同施設は国内最大
こちらは油麻地にある寺院「天后廟」です。同寺院は媽祖をまつっています。媽祖は中国の湾岸部、広東などの地域だけでなくベトナムや台湾、日本でも沖縄の方で信仰される海運の神様。香港でも同じように信仰されてい
日本は性に対し大らかな国。日本人はヘンタイ大国。諸外国からはこのように思われているのでしょう。 実際に日本国内には性風俗店が多くあります。売春は人類最古の職業と言われていますが世界的に見て良しとされて
以前よりも登録してくれるようになったおかげでユーチューブの登録者が4000人を超えました。 年内中に登録者5000人を目標にしてますがこのペースであれば達成できそうです。理想は年末までに7000人。か
こちらはブラジルのビール「SKOL」です。 スコールとはスウェーデン語で「あなたの健康のために」を意味する乾杯の掛け声なんだとか。 薄味でかなり軽めです。少し雑味がありますがクセがないため飲みやすいで
肉と言ったら何を思い浮かべますか? 牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉。最近ではジビエなんかもあります。このように色々な肉がありますがスタンダードな肉と言えば豚肉でしょう。 カレーの肉と言えば豚肉、肉じゃがも豚肉
本日は八王子に来ております。 こちらは八王子駅北口側にある商業施設「桑都テラス」です。 かつての八王子は市街地から外れると桑畑が広がっていたそうです。市街地から少し西に行けば山間となる八王子。あまり農
八王子ってどんなイメージがあるでしょうか? 暴走族のメッカ。 ヤンキーが多い街。 治安が総じて悪い。 このように治安が悪い印象が強く、実際に東京都市部では治安の悪い地域です。 治安が悪い理由は単純に人
本日は八王子にいます。 こちらは京王線北野駅近くにある神社「打越八幡社」です。御祭神は誉田別命、素盞嗚命、天児屋根命。ご利益は出世開運ってことなのでこのあとパチンコ行ってきます。 このあたりの住所は打
八王子は意外にも大学が多く文教地区になっています。有名どころでいえば工学院大学、拓殖大学、帝京大学、中央大学、多摩美術大学でしょうか。これらの大学は23区内にもキャンパスがあります。 大学が多く集まる
本日は八王子に来ております。 東京の西の外れ。八王子は一応東京(都下だけど)で都内の自治体の中(都下だけど)でも人口の多いところです(都下だけど)。 八王子はかつては宿場町でした。 小田原城の落城以降
こちらは小田原市内にある早川漁港です。 相模湾に面した小田原は古くから様々な魚が水揚げされる漁師町でした。名物のかまぼこも漁師町ならでは。冷蔵技術の無かったころは鮮魚のままでは箱根の宿場まで魚を運べな
こちらは小田原駅です。小田急線とJR、伊豆箱根鉄道が乗り入れる主要駅で利用者の比較的多い駅です。もともと小田原は東海道の宿場町であり城下町でした。江戸から京都に行くためには箱根を越えなければならず、箱
本日は小田原に来ております。 こちらは小田原市内にある観光施設「小田原宿なりわい交流館」です。小田原は江戸から数えて9番目の宿場町で小田原城の城下町。この辺りは海のそばでかつては魚市場があったんだそう
youtubeのチャンネル登録者数が4000人に達しました。 当初は収益化の1000人を満たすのさえ大変な状態でしたが登録してくれる人がいるおかげでどうにか続けられています。 動画制作は独学。作ってい
本日は小田原に来ております。 戦国時代の小田原城は市街地も城郭に取り込んだ城郭都市で、難攻不落の名城でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐によって落城し、徳川家康が統治した際に規模を縮小させたそうです。 こち
四ツ木駅に来ています。四ツ木は首都高速を利用する際に頻繁に通っています。首都高6号向島線から四ツ木ジャンクションを通って常磐道へ。柏とか水戸方面に行く際はこのルートを良く通っていました。四ツ木ジャンク
京成押上線の八広駅に来ています。荒川の手前。墨田区の端っこですが東京23区にある駅です。 駅前ってもう少し栄えていそうですが、八広駅前には何もありません。近くの押上や曳舟は再開発により高層マンションが
本日は御徒町に来ております。 御徒町の地名は徒士(かち)と呼ばれる下級武士が住んでいたことに由来し、江戸の頃は下町の住宅地だったそうです。明治以降は商業地に発展するも東京大空襲により周辺は焦土と化し一
本日は文京区に来ております。 こちらは東京大学の赤門です。頭の良い人たちがあつまる東京大学。東大は明治維新後、1877年に設立されました。赤門は1827年に作られた加賀藩主の屋敷のものでこちらに移設し
こちらは静岡市内を流れる安倍川です。安倍川は暴れ川だったようですが徳川家康が流路の大改修を行い氾濫し辛い川となったようです。しかし江戸時代の頃は都市防衛の関係で橋が架けられず渡るには渡し舟か川越人夫を