全部自分以外のものに捧げてしまいたい という欲求に駆られることがある。 清貧で自己犠牲をともなう生き方は、 一般に推奨される良い生き方の一例で あろう。 かたちのあり方、生ききる 状態がわからない(確定の仕様がない) から、この現象界に媚びることで 認められ且つ自分の罪悪感もすり減らせる ところへ自分自身を投げ込もうとしている。 わからない不安定な状態から、 社会の要請を受けとる形である種の金型に 自分を溶かして流し込もうとしている。 どこまで傲慢で卑怯な人格なのだろう。 なにかに捧げることが目的になっては いけない。あくまで私がかたちを 出しきる、つまり生ききる過程において 付随する現象でな…
通りをいく人を眺めるのは楽しい。 どこから来たのか、何を考え 誰を想い、どこへ向かうのか。 中でも気になるのが、小さい子を つれた女性。母になる、ということを ぼんやり考える。 そして、これから生きていく子を見て 不思議な気持ちになる。 一個の生命体としてまだかたちに なりきらない彼らは、いまここを 生きている。後先ない今を生きている。 それをたしなめたり見つめたりする 母もまた、今を生きている。 子を持つということは、今を生きること でもあるようだ。 そして、子が成長するほどに 自分の死んだあとを考えるものなのかも しれない。取り巻く環境が温かいもので ありますように、幸せでありますように …
道具の手で黙々耕す農夫 言葉もなく微笑みあう子と兎 茹でた腸詰めのような赤子を抱く母 暮れかかる西日の麦色に包まれて まるで発光する美しさ 瞬間にひそむ永遠 眺める者には影しか見せぬのに 在る者にはこんなにも惜しみない それでもこの手を止めることはできまい その耳を塞ぐこともできまい いま、ここ、すべてを捉えたい 野心、否、傲慢か 振り絞り、超えんとする魂は かたちのふりした虚しさや ことばのふりした卑しさを 両手刀で斬りつける 返り血をぬらぬらと光らせながら あてどなくあるく 亡霊
反出生主義。 おおよそ、生まれることで得られる幸福より 引き受ける苦痛の方が多いから、 生むべきではないという文脈で 語られる。 ほとんど反論のしようがない ように思えるのは、「存在者側の価値観」 を根拠にしているからだ。 幸福の方が多ければ生んでもいい、 と考えるならそれはほんとうの意味での 反出生主義ではない。 この地点において、かたちであること自体の 不完全性、あるいは虚無に対するあり方が 問われている。 なぜかたちなのか。 これは解明できないからこそ、 かたちであれるという自己矛盾を 内包している。 せいぜいある解釈を述べることしか できない。 では、どのようにあるべきか。 個々のかた…
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