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人が、ものが、 すべて球体だったらいいのに。 それならシンプルでわかりやすい。 我々が考えるべきは、かたちの些細な 違いではない。悩むべきは かたちの色や大きさではない。 これは慰めではない。 その事をはっきりさせないと、 いつまでもかたち上のしょうもない 悩みに翻弄され、仕事に とりかかれないからだ。 労働ではない。仕事だ。 かたちであること自体について 考える、それこそ仕事だろう(しんどいが)。 そもそも考えるとは、かたちと意味と それらを引き受けて生きる方を 選択するために頭を使うことじゃないか? かたちはどこまでいってもかたちだ。 かたちa→かたちa′で解決される問題なんて もともと解…
家庭を持ち、子を産み育てる それが生きることの肯定だと決めて、 もうなにも考えずにさっさと 取り組もうと思った。 仕事、子育て、それに付随する コミュニティ内の役割。 忙殺されてしまえば、あっという間に 時間が過ぎて、忘れられるんじゃ ないかという期待もあった。 どうせ生きるなら、 生きることを続けなくちゃいけないのなら 考えないでいたい。 考える上に続けるなんて拷問だ。 砂を盛って、盛ったら崩して、 また別の場所に盛るのとおんなじだ。 意義を見いだせないと生きられない。 意味なんて要らないのに、 生きなきゃいけない。 かたちに埋没すればいい、そう思った。 誰かの悪口をいってみたり、 社会問題…
物事を考えるに辺り、 正しく問うことがなにより重要だ。 根本的な前提として、生きることの 善悪は我々には判断できない領域にある ことを知らねばならない。 こういう状態なら善、こうなら悪と 決めることは出来ない。 唯一できるとすれば、主観的な意見を持つ ことだけである。そしてそれは、 人類全般に共通するものでもないし 多数決で決まるものでもない。 単なる好みである。 生きることの善悪については、正解を 知るよしもないが問うことはできる。 むしろ問うことだけが、生を意義 あるものにする。 (なお、意味はかたち伴って存在する) ただ残念なことに、生を問うことが できている人は本当に少ない。 主観的な…
かたちの虚しさは、 誤魔化せるものじゃない。 気分転換に息抜きとか 周りの人に相談とか、 そんなことでやり過ごせると 本気で思っているのだろうか。 かたちである限り、逃れられない。 影のように、どこに行ってもなにに なっても、ついて回るんだよ。 いま必要なのは、誤魔化すことじゃない。 向き合うことだ。この虚しさと 対峙することだ。 対峙するには、歪めずに見なきゃいけない。 認める、とは本来そういうことだ。 いいように解釈しない、勝手に 意味付けしない。 ただ、じいっとみる。 かたちの本質。 輪郭と体積をもち、 いずれ朽ちて消える、有限のもの。 この私も。 特定の意味などないが、 すべてのかたち…
これが案外難しいよね。 人様に迷惑かけず、とか お世話になった人に恩を返す、とか 働いて税金納める、とか 老後のお金をこつこつためる、とか まぁ、気づけば色々考えてしまっている。 そして荷物が増えていく。 たまにそれらを点検するといい。 いつのまにか増えた荷物を 見直してみる。 持たなくていいな、と思ったら 捨ててしまおう。 捨てられないものには、居場所をあげよう。 空いたスペースに思わぬものが 入り込んできたりするから。 深呼吸して、想像してみる。 今の状況や環境を脇において、 胸にある景色を思い浮かべる。 小さながらんどうの部屋の、 壁にかかった絵画。 灰色の空と灰色の海を切り取ったような…
たぶんOSが違うんでしょうね。 WindowsかMACかくらい、 最初から違うようだ。 WindowsをMACに似た仕様に カスタマイズして使うことはできる けれど、いちいち手直しがいるし 工夫や技術も必要だろう。 iTunesも″あいちゅうんず″みたいになって なんか無理あるなぁ感は否めない(笑) そして世間は、およそMAC向けの作りに なっていて、新しい課題に出会うたび アプリ作りから始めなければならない。 MACがOSの人がぽちっとアップデート している横で、盗み見ながら真似っこ しつつやり過ごしてきた。 生きることに関して、価値観の違い という次元では片付けられない程 大きい隔たりを感…
続けると決めたら、 すぅっと心が軽くなった。 どうすれば続けないでいられるか 思い煩っていたときは 重くて苦しくて薄暗かったのに。 本心では生きたかったから、 なんていうつもりはない。 今でも茶番だと思っている。 それが喜劇であり、演者になりきると 腹をくくっただけ。 覚悟なんて大それたもんじゃない。 それに、かたちの痛みがなくなるワケ じゃない。身もだえる冬は近い。 また、若い命が喪われた。 SNSの誹謗中傷が要因ではあるだろうが、 本人の心が不安定であったことには 違いなかろう。 そんなの気にするな、強くなれ などとぬかすつもりはない。 ただね、くだらねぇなとは思う。 そんなの、死ぬことを…
明確な要因がわからない自死は、 人を困惑させる。身体の芯の部分が 低温やけどをしたかのように 熱を持ち、落ち着かない。 その時、かたちでは解決できない 存在の壁の前で立ち尽くしている ことに、はっと気がつく。 握った手のひらから漏れる空虚 地響きの耳鳴り 暗く荒れた海と曇天 生きることはいいことだと 自分に言い聞かせたのかもしれないな。 それだけでなく、生きることに悩む 人々へエールさえ送ろうとした。 過大に役割を意識しすぎたきらいがある。 きっと真面目で、優しかったのだろう。 そして、自信がなかったのかもしれない。 独特のらしさや尖ったところがないこと、 いい子の殻を破れないでいることが ど…
死にたがり度合いにおいては シオランに負けず劣らずだと思う。 別に誇ることではないのはわかっている。 しかしながら褒めてあげてもよかろう と思うのが、それでもなお生きることを 選択しているという点だろう。 いまだに生きたいという感覚は わからないし、死にたい気持ちも なくならない。息を吸うように、 自然にいつも死にたい。 全然健康、万事順調。むろん、死にたい。 OSが死にたいになっているとしか 思えないレベルだ。 私はもう、死にたい理由を自分に 問わないし裁かない。 皆に認めてもらおうとも思わない。 自分が認めればオッケーだ。 むしろ問うべきなのは、なぜ それでも続けるかということの方だろう。…
生きたいと思う事に 理由は問われないのに、 なぜ死にたいと思う事は 理由を問われるのだろう? 生きる理由は問われないのに、 死ぬ理由は問われるのだろう? 身近な人や大事なペットが死ねば、 共に過ごした時間を思いだし もう二度と共有できないことを知り とても悲しい気持ちになる。 でも、死ぬこと自体を悪いことだと 思ったことがない。 もちろん死んだ人をかわいそうだとも 思わない。 同時に、死にたいと思うことを 不自然だとも思わない。 かたちを持つことは本来苦しいことだ。 生きたいと思う事は、その苦しみを 少しでも和らげようとする何らかの 計らいなのかな。わからん。 私の人生の目的は、 生きることを…
鈍感は、生活する上で一番の武器だなと あらためて思う。 半径二メートルの世界で起こること以外 なにも見えていないような人や、 感受性や身体が敏感であるからと 厳しいことは他人任せでのんびり 茶を啜れる人や、 ろくに働いたこともないのに労働を 嘆き生活に足をとられる人。 捕鯨反対といいながらパンや肉を 美味しそうに食べる人や、いじめの報道に 「ありえない!」「かわいそうに…」 といいつつ身近な人の悪口や愚痴に 花を咲かせる人。 矛盾やほころびが生じる部分を どういうわけだか見ないでいられる。 たとえ見てしまっても、すぐに蓋を してしまえる。そこに罪悪感はなく、 都合のいい解釈があるだけ。 振る舞…
ことばがほしい 本当のことばがほしい 血でかかれたことばがほしい 虚しい場所でひとり 立ち尽くすことを強要する ことばがほしい 誰も救われない真理のために 私自身を差し出して 熱湯のように浴びせかけられる ことばがほしい 言語のような滑らかなものでなく 熟れたザクロの 爛れた手ざわりの ことばがほしい 混沌を煮詰め絞り出すような たった一滴のことばがほしい
Twitterで話題のパロディ …我ながらくだらない( ̄ー ̄) 100日後に死ぬかもしれない。 もしかしたら、明日かもしれないし 明後日かもしれない。 だから、生きている日々を当たり前と 思わずに大切に過ごそう。真剣に生きよう。 そういうメッセージを込めたらしい。 確かに何気なく生活していると、 明日も明後日も来年も10年後も 波風はあれど来るものだと疑わないだろう。 でもそれは、生きることに真剣じゃない からではないんだと思う。 (どのような軌跡を描いたとしても、) 生成し発達しやがて消滅するという かたちの法則にしたがっている我々は、 存在そのもののの意図は解けない。 かたちにはじまり、か…
思えば、たくさん回り道をしたものだ。 母から認められたい、愛されたいという 思いが根底にあったわけだが、 その思いを認めるのにも時間がかかった。 記憶を捏造したり取り繕ったり しないでも立っていられるようになるまで そこからさらに時間がかかった。 最初から、ストレートに受け取り 認め、渡せたなら今の私とは かなり違った自分になっていただろう。 けれど私はこの私しかいないし、 なんだかんだ人間臭い自分が好きなのだ。 感情の豊かさを感じられるのは、 翻弄されたことがあるからだし 失っていた2年間包まれていた あの透明な膜を知っているから。 豊かさ=幸せではないと 豊かさ=善ではないと、 自分だった…
これまで、特にこの4年間は ことばのために費やしてきた。 たくさんのことばに触れ、 自我を幾度もとり崩しては その破片を積み重ねてきた。 今回ばかりはもうだめだと 毎度思ったが、じっと亀のように 待っているうちにいつの間にか 春を迎えていた。 少しずつ栄養を与え、豊かになった ことばの海から引き揚げてきた言葉を 私は私のためだけに使いたくない。 正直に言えば、 得るまでの道のりやそのために 選ばなかったことを思うと、 ぽんと差し出すことに対して 惜しい気持ちがあった。 あるいは同じだけの血を流し 得てきた言葉を差し出せと、 腹のなかで思っていた。 かけてきた時間や労力に対する自負、 そのために…
考えても答えがでない、 そういう問いが好きだ。 たとえ悶え苦しんでも、ぽっかりあいた 虚無の洞窟を前することになっても。 考えても答えがでないことを 考えるのは社会的に有用ではないが、 考えて答えが出ることなど 面白くない。 自分の地位や有能さに 鼻高々になる人は多い。(逆もしかり) 確かに社会に認められる努力を したという事実は評価に値する。 ただ思うのは、その評価は いかほど大切なのだろう?ということ。 人は見た目が9割、 なるほどそうかもしれない。 ただその9割はなんのための9割か。 他人に好かれる、評価されることは 社会生活を営む上で重要なのは わかるが、その中心が語られていない。 た…
今夜は月が見えない。 あの重く厚い雲の奥に きっといるのだろうが、 月のない空はどこか不穏だ。 外灯の心許ない明かりが 寒空にぽつりぽつりと滲んでいる。 こんな夜は、後ろめたい関係の カップルにとって都合が良いだろう。 お互いのギラギラした光だけが 絡み合って、夜が濃くなっていく。 不倫。たびたびワイドショーでも 話題になるが、明確な嫌悪感を 抱くことが出来ないでいる。 頭や心を超えたところに、 まるで雪崩のように押し寄せてきて 圧倒される可能性は誰しもある。 やめろ、という理性の声を一瞬聞いた ような気もするが、もはや身動きできない。 それが結婚後に起こった場合、どういう 態度をとることが誠…
続けることの中に、肯定を見つけた。 善悪の善だけでなく、悪を含む 肯定。好き嫌いの好きだけでなく、 嫌いを含む肯定。生産性の有無を 問わない肯定。 綺麗事ではない。むしろ、清濁あわせ のみ泣きながら頷くような肯定。 私に、できるだろうか。 大きなものを畏れ、尊重し 祈るように生きることが。 自信はないけれど、ひとまず 落ち着けそうな方向性を見出だした。 続ける理由として納得はできる。 となると、生活へ目線はいく訳だが こちらも一筋縄ではいかない。 不安をあおるような要素が一杯だ。 それでも、生きることの模索とは 比べ物にならない。 暖かろうが冷たかろうが、風が こそばゆくて。 ただ、彩ることに…
生きることはいいことじゃない ということと、 (生きるのを)続けていくこと が私のなかでうまく繋げられず、 前提が間違っているのか はたまた続けていくことが 間違いなのかと問い続けてきた。 でも、どちらも間違いではないとすれば 私が探すべきなのは「接続詞」 なのかもしれない。 そう考えてふっと力を抜いたとき、 出てきたことばが ″さぁ、″ だった。 青年は考える。 生きることはいいことじゃない だから、続けない あるいはこう考える。 生きることはいいこと(のはず)だ だから、続けよう 大人はどう考える? 生きることはいいことじゃない それでも、続けるものだ あるいはこう? 生きていればいいこと…
年の瀬の、忙しない雰囲気が 割りと好きだ。 非日常なのに毎年型通りというか。 落ち着かないのに懐かしい感じ。 いつも年の瀬だったらいいのに。 (同じ型通りでも年始は好きじゃない) 帰省ラッシュの映像を見て、 皆帰る場所があるんだなと しみじみ思う。 そんな中、一人あてどもなく 電車に乗る。遠いところ、できれば 雪深いところか灰色の空と海を 眺められるところでぼんやりするために。 ぼんやりしながら、生きることを考える。 日常でも非日常でも考えることは同じだ。 そして、目覚めなければいいのにと いつも同じ結論にいきつく。 でも、目覚めてしまうのなら 来年がやって来てしまうのなら どう生きるか考えた…
生きることは、良いことではない。 かたちは不条理であり、無常だ。 それでも生きることを好む人たちは たくさんいるし、続いていくことを 願っている。 かたちの存続を維持するよう努め、 妨げない態度をとることは 道徳的に正しいことなのだろう。 それは私が存続を望まなくても 或はその意味を理解できなくとも、 続けていくための一切を肯定する 根拠となる。 存続を望む人がマジョリティだから という理由では脆い。 そもそも高齢化に伴う病苦、重い税負担、 老老介護、長時間労働、過度な情報化… そういう情勢にあって 口にせずともかたちの存続を望まない 人は少なくないと感じる。 高度経済成長期のように、頑張れば…
たまに、何もかも捨てたくなる。 仕事も趣味も人との付き合いも家も物も。 捨てたところで、どうなろう。 そうは思うが、長く持ち続けると 澱のようなものが少しずつ溜まっていく 息苦しさがある。 別に嫌いになった訳じゃない。 でもそういうときはあるし、 誰かの顔に同じような色が しゅっと浮かぶのをみることもある。 淋しい共感は少し温かい。 だからだろうか。時折、電車に乗る。 一応の行き先はあるが、目的は乗って 移動することだ。なんのつながりもない ところへ無性に行きたくなる。 街行く人を眺めて、二度と会わない んだろうな、などと思う。 それでいて、自分が景色になったような 軽さを感じる。考える主体で…
かたちのあるこことかたちのないそこ。 全体が一なる運動であると仮定すると、 どちらにもその起源はないのだろうか。 否、他方が他方の起源といえるのか。 ここゆえにそこがあり、そこゆえに ここがある? となれば、かたちのないそこでも 終わりが来るということになるだろう。 またかたちの方へ生まれでてくるのなら、 そこではある種の終わりがある。 であるならば、そこへ入ることは 一時的にかたちから解放されるだけで 永遠に無形であれるわけではない ということになる。 つまり、かたちがないこと=永遠 とはいえなくなる。 むしろ、かたちの創造と解体を 繰り返すこの運動そのものが 永遠性をはらんでいるというのだ…
死にたいと思うことは解放への希求で あって、特定のかたちへの絶望ではない。 かたちでしかあれないことに虚しさを 感じているわけで、別のかたちを あてがわれても消えるものじゃない。 ○○であれば生きていたい、 というのは立派な生存願望だ。 どのような状態であっても 生きていたくない、 というのは歪められた願望なのか? 正常であれば、生きていたいと 思うものなのか? かたちからの解放を望むことに いかなる問題があるのか。純粋に知りたい。 社会が成り立たなくなる? そもそも成り立たせなくてはならない理由が わからないのだ。 真面目な顔で生活しながら その意味するところがわからない。 精神的に奇形なの…
ここ数年、かたちや存在そのものへの 考察を深めようと努めてきた。 生きることを学び考えてきた。 その弊害として、生活への興味が 一層薄れ、生活感覚がごっそり失われて しまったようだ。 なにか生活について喜んだり悩んだり しようとしても、 「結局、かたちではないか」 という思いがもたげてきてしまう。 かたちとかたちじゃないものの差に 関心があるのであって、AとBの差には 正直あまり興味がない。 私のなかでは、かたちをもつという意味で 同じくくりなのだ。 けれども、生活に関心を持たなければ 生きることもままならない。 私自身も一つのかたちとして、 かたち界のルールを覚えなくてはならない。 運転が好…
ああ、まだまだ甘いなぁ自分。 無意識にわりきろうとしてしまう。 安楽死を尊厳死といいかえ、 死を生の終末とし選択権を与える べきだと語る。もっともらしい回答だ。 でもこんなにきれいにわりきっては、 その谷間に語られぬことばを こぼれ落としてしまうのでは? 私のベクトルはかたちからの解放、 すなわち死へ向かうから 死を肯定的にとらえる文脈を 熟慮なく採用してしまいがちだ。 でも、論拠としてあげた例は かたちへの執着の帰結であった。 生が苦しいなら死を選ぶ、 という消極的な選択はもっとも 避けたいというのに。 生きることは苦しいのになぜ続けるか 死ぬのは怖いのに何故死なねばならないか このかたちと…
パラでメダルをとった女性が 安楽死で亡くなったという。 享年40歳。 耐えがたい痛みを抱え、 晩年は夜も眠れなかったそうだ。 世界最高齢でギネス認定された 女性が後悔していることを聞かれ、 「長く生きすぎたこと」と語った。 知人や子供たちを見送り、 生き続けることに虚しさを感じたそうだ。 あげればキリがないが、そろそろ 本気で考えた方が良くないか? 存在価値を生産性で測る社会だから、 導入に慎重なのだろうけど。 迷惑がかかるから生きたいけど死ぬ、 という事態を防ぐ方法は検討すべき だと思う。だからといって、 尊厳死そのものを導入しない というのは話が違う。 尊厳死は死ぬ権利じゃなく、生ききる …
村上春樹さん風のタイトル! 生を続けることに執着がなく、 無論かたちにもこだわりがない。 だから、こうなりたいとか あれを手にいれたいという思いも ほとんどない。 よく言えば無欲、悪く言えば無気力。 どちらにせよ、残された時間を どう過ごすのか考えたいところ。 すべきことがない人生は、 時間をもて余すからね。 平均寿命が87歳前後だから、 下手したらあと60~70年近くある。 生きることはリスクだなと改めて思う。 どんだけのびりゃあ気がすむんだろ。 去年5年更新したばかりだから、 ひとまず縮める選択肢は外しておく。 お金は生活する上で必要だ。今のところ。 でも、手段であって目的じゃない。 七つ…
噂話や悪口をいわないのは、 優しさとか心がけという側面も 多少あるけれど、そもそもあまり 興味がないんだと思う(笑) 分析するのは楽しいけれど、 その人への興味(好意)ではなく人間の行動や 心理や選択について考えるのが好き なだけなんだな、と。 だから、博愛主義的に みんなに同じように接するし 家族や友人であっても一定の距離を 保つ。ずっと同じ空間にいると しんどくなって、ぷらっとでていく。 親密になるのがあまり得意じゃない。 困ってはいないけど 興味があるふりをするのはちと疲れるね。 人の名前とか情報を覚えるのも苦手。 なんでみんな人に興味があるのかな、 よくわからない。 生活に興味がないか…
生活をおいて 生きるを考える なんて、できんよなぁ(笑) 動くことも動かないこともリスク 結婚するもしないもリスク 子供生むも生まぬもリスク なんだろうね、これは。 だんだん閉塞感で苦しくなってきた。 40才独身でなくなったかたの 迷いと哀しみとやりきれなさを思う。 生きること自体へのむなしさが 耐えがたく肩にのしかかってくる。 このまま、目覚めたくないなと いつものように点検する。 弱くて醜いよ、 恐くて不安だよ。 そしてそれは、生きる方を向いている からなんだと気づく。 愛よ、なぜかたちを望んだ 愛よ、このすべてのかたちたちが 報われると言ってくれ 報われると言ってくれ 泣くのはいやだ、笑…
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