正論は傷つけることがある 世間一般の正しさであれ、個々の正義感 であれ、何かを選ぶ際正しい道というものを 意識するだろう。 この選択は、正しいのか。 望まない妊娠であったとき、 産むかいなか 不慮の事故により植物状態に なった人を、生かすかいなか そこまで究極でないにしろ、 いつも選択するときに頭を掠める。 正しさとはなにか、正しさより 大切なことはあるか、誰に対する 正しさか。 とても難しいけれど、本当に大切に したいこと、良いこととは限らないそれを あぶり出すために 正論をぶつけるのは有効だと考えている。 傷つけるのは、その本当を隠している 見栄やエゴや臆病や怠慢であって、 本質ではないか…
言葉未然のことばを どのように耕し育て、言葉として 収穫するか。それを考えている。 私において、どこでならより豊かに ことばを見いだすことができるのか。 これは自分探しの親戚みたいなもの かもしれない。幸福でいたいなら 腹六分目で納得させて、現実に没頭する 方が賢明だ。 わかっていても、やめられるもの でもないのだけれど。 言葉にこだわっているのは、 単に道具としてだろうか。それとも ことばの場所が言語的な意味での 言葉にまつわるからなのか。 夢中や好きをヒントに考えると、 手を動かして作ったり直したり することはどうだろう。 没頭して時間を忘れるのは容易い。 ただそれは作業としての性格という…
生きることに納得できていない、 ということをわずかに認められるように なった。納得させようと自分を型に はめこまなくていい。納得できないことを 認めよう、向き合うためにも。 美味しいものを食べることができる、 安心して眠ることができる、 ほどよく働くことができる、 感じ考え想像することができる、 認められることの豊かさを 慈しむことができる。 だからといって、生きることに納得 できるわけじゃない。内からほかほかした 気持ちになることもあれば、 うまくいかないことや不安で押し 潰されそうな夜もある。そうやって、 慰めたり緩めたりして過ごす日々。 けれどそういうサイクルを生きる と呼ぶことにうんざ…
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