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我が家の長男たかおと次男てつおは、三歳離れの二人兄弟である。次男が赤ん坊の頃のこと。次男のてつおが母親に抱っこされていると、長男のたかおは私に「たかおも」と言って、自分も抱っこしてもらっていた。母親が次男に蜜柑の皮をむいてやっていると、長男は「たかおも」と言って、自分の分もむいてもらうこともあった。私が次男にボールを転がして遊んでやっていると、長男は「たかおも」と言って、自分もボール遊びに加わることもあった。「たかおも」という言葉は、言語の「メタ的な性格」により、様々な場面において通用した。無論、次男より長男の方を先に相手にしてやる場面も多くあったが、赤ん坊の次男の方は何も言わないか、「あーあー」と言うばかりであった。そんな次男も少しずつ言葉を覚えていった。あるとき、長男たかおを抱っこしていると、次男てつおが「...タカオモ――言語生成論序説?
結語「精神は真理のための手段であってはならない」(『我が思索の跡』)絶対的真理の探究という甘美な罠を、アランは警戒した。今、現に、ここにある自分――完全さを備えておらず、常に誤る可能性を持った自分――と無関係に、彼岸にある真理など、求めようがないからであり、遥か彼方に在る究極的なものを求めるあまり、不完全な己をどうするかという常に目の前に提示され続ける問題に、目をつぶることになってしまうからである。精神は何ものにも、たとえ真理にであっても、隷属してはならない。もし仮にそうなってしまえば、精神は、何ものも思考せずにただメカニズムに従って動く計算機のようなものとなって、もはや精神は精神ではなくなり、真理ももはや真理でなくなってしまうからである。真理は決して外的な秩序として、受動的に与えられるものではない。それ故、真...アラン――思想としての文体(五)結語
アラン――思想としての文体(四)「文体と死者崇拝――祖述の思想」
アランの『デカルト』という書の中に、次のようなくだりがある。「かかる崇高な心の動きに代わりうるものを与える要約などというものは決してあり得ない。それよりもむしろ我々は、あたかも師匠の身振りや声音を模倣し、かくして無意識のうちに、己の最初の思想に身体的自然的な支えを与えるあの弟子達のなすように、この思想に耽るデカルトの風貌を心に描きつつ、いかなる状況をも無視することなしに、我々自身もまたこの点に瞑想を試みよう」(『デカルト』)思想を論ずるに当たって、「師匠の身振りや声音を模倣」する「弟子達のように」、「デカルトの風貌を心に描きつつ」などという批評態度は、現代の研究者や評論家達の中には、何と主観的で非科学的な研究態度だと、一笑に付する者もいることだろう。事実、知的領域における時代の趨勢は、アランの取った批評態度とは...アラン――思想としての文体(四)「文体と死者崇拝――祖述の思想」
アラン――思想としての文体(三) 「文体と言語意識――日常語の思想」
三文体と言語意識――日常語の思想」先にも述べたように、アランの文章には、専門用語は殆ど見当たらない。彼の通俗性などと言われるものは、こうした点から来ているのであろうが、そのようなレッテルは、彼を理解する上では役立たない。現代において、難しい理論を、平易な日常語で解説するといった類の書物は数多くあるが、アランのしたことは、それとは全く異なることである。それらの書物は、専門語という第一の言語で書かれたものを、日常語という第二の言語に、分かりやすいように、言わば「翻訳」したものと言える。そこでは、専門語と日常語の関係は、原文と翻訳の関係と同じように、前者こそ本来的なものであって、後者は、あくまでも公衆の理解に資するための便宜上のものでしかない。日常語でかかれたものは、専門語で書かれた思想のイミテーションという位置づけ...アラン――思想としての文体(三)「文体と言語意識――日常語の思想」
アランーー思想としての文体(二) 「文体と行動ーー行動としての『プロポ』」
二文体と行動――行動としての「プロポ」「毎日書くこと、天才であろうとなかろうと」――このスタンダールの言葉を、アランは気に入っていた。彼の教えていた生徒達にそれを奨励し、また彼自身、何千という「プロポ」を書いてそれを実践した。「紙の空白は、自由な天地である。しかし自分をよく訓練することが必要であるから、私は自分の『プロポ』の定量として、便箋二枚で満足した。私は十四行詩(ソネット)を書く詩人のように、終わるべきところを見定めて、これに従った。発展を引き延ばす必要は極めて稀であった。しばしば発展を圧縮せねばならず、しかも時間が足りないから、後で削ることは望めなかった。こういう物質的諸条件が頗る重要であると、私は思う。・・・・・(中略)・・・・・/私はさらに今一つの条件を指摘しなければならぬ。というのは、短い作品がす...アランーー思想としての文体(二)「文体と行動ーー行動としての『プロポ』」
アランーー思想としての文体(一)「文体と思想――思想表現の『姿』」
「アラン----思想としての文体」序アランは、哲学史の書物の中に登場することの少ない哲学者である。彼に対するアカデミズムの評価は、一般的に決して高いものとは言えない。----アランの思想は独創的なものではなかった。----哲学を文学的な装飾によって解説した通俗的な哲学者である。----フランスの旧き良き時代、つまり、人間性というものに希望が持てた時代の、時代遅れの思想家である。こうした批判がしばしばなされる。彼の著作の翻訳者達でさえ、「アランは饒舌な哲人である。繰り言の大家である」、「アランは独創的な哲人ではなく、祖述的な実践派の導師である」とか、「彼は哲学者として一流かどうか分からない」などと評している。確かに、彼は、過去の哲学者達の思想の再発見に努めて、新しい学説を唱えなかったという点からすると、独創的な理...アランーー思想としての文体(一)「文体と思想――思想表現の『姿』」
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