自称「古代史勉強家」。趣味は実地踏査と称して各地の遺跡、神社、歴史博物館を訪ねること。学芸員資格保有。
但馬・丹後ツアーの3日目。与謝野町立古墳公園をあとにして、いよいよ最後の目的地、福知山市の広峯古墳記念公園に向かいます。途中、道の駅「シルクのまち かや」でランチをとりました。この道の駅、車中泊をしようと来たことがあるのですが、車が1台もいなくて、真っ暗であまりに寂しかったのでパスをしたところです。 福知山市内まで30分ほど。広峯古墳群は1986年の区画整理事業に伴って調査が実施されましたが、なかでも15号墳は全長40m、4世紀後半の前方後円墳で、広峯古墳群の盟主墳とされています。 現在は広峯古墳記念公園内に3/4の大きさで復元されています。この公園に来るのは2回目です。 後円部の半分が消失し…
但馬・丹後ツアーの3日目。日吉ヶ丘遺跡の次はお隣の与謝野町立古墳公園です。前回は車中泊の途中に寄ったのですが、ワンちゃんと一緒に入れなかったので断念した公園。公園内には蛭子山1号墳・2号墳、作山1号~5号墳が整備、保存されるだけでなく、与謝野町内で出土した遺物を展示する「はにわ資料館」が併設されています。 まず、蛭子山1号墳に登ります。4世紀中葉の築造で全長145mの三段築成、各段に埴輪列が巡り、川原石の葺石が見られます。3基の埋葬施設があり、中央の第1主体に直葬されていた舟形石棺から内行花文鏡や三葉環頭大刀が、棺外からも直刀、鉄鏃、鉄斧などの鉄製品が見つかっています。 後円部の墳頂には発掘さ…
但馬・丹後ツアーの3日目。次の目的地、日吉ヶ丘遺跡に向けて籠神社を出発。左手には阿蘇海が広がり、天橋立が見えています。せっかく天橋立に来たのだから絶景を楽しんでもらおうと急きょ成相山に行くことにしました。 天橋立に来た多くの人は籠神社の隣りにあるケーブルカーに乗って傘松公園へ行き、股覗きを楽しむのでしょうが、成相山からの眺望はそれを凌駕します。 冠島と沓島まで望めます。 ひとり500円の入山料がかかりますが、おススメのスポットです。私たちは五重塔がそびえる成相寺には目もくれず、絶景だけのために入山したのでした。 さて、丹後半島とはこれにてお別れして、日吉ヶ丘遺跡に向かいます。弥生時代中期中頃か…
但馬・丹後ツアーの3日目。大宮賣神社の次は、前日に走った阿蘇海沿いの国道を戻って籠神社、眞名井神社を目指します。8年前に来た時は籠神社に車を停めて眞名井神社まで歩いたのですが、今回は眞名井神社に駐車場があると聞いたので、先にそちらに向かいました。ちなみに8年前は社殿の解体修理中だったので何も見ることができませんでした。 眞名井神社は籠神社の奥宮で境外摂社とされています。本宮が「下宮」で奥宮は「上宮」に位置づけられるそうです。祭神は、磐座主座が豊受大神、相殿神が罔象女命・彦火火出見尊・神代五代神、磐座西座が天照大神・伊射奈岐大神・伊射奈美大神とされます。 籠神社の宮司である海部家の祖先である彦火…
但馬・丹後ツアーの3日目。最終日はホテルから近い途中ケ丘遺跡からスタートです。途中ケ丘遺跡は竹野川支流の鱒留川の右岸、北向きの河岸段丘上に立地する弥生時代前期中頃から後期にいたる環濠集落遺跡です。 遺跡があったところには峰山途中ケ丘公園が広がっています。 集落の人口増加に伴って環濠が外側に広がっていき、合計で8本の濠が確認されています。出土物はガラス製管玉、陶塤・紡錘車などの土製品、鉄斧・鉄鏃などの鉄製品など多種多様。 それにしても丹後の弥生遺跡ではいたるところで製鉄に関連する遺物が出土しています。弥生時代前期から中期にかけて、すでにたたらによる製鉄が行われていた可能性が指摘されています。さて…
但馬・丹後ツアーの2日目。新井崎神社をあとにしてホテルに向かう途中、まだ少し時間があったので3日目に予定にしていた大風呂南墳墓群に行くことにしました。ここも2回目です。阿蘇海に面した丘陵上に築かれた墳墓群です。 弥生時代後期後半の1号墓は丹後を代表する王墓とされます。27m×18mの長方形墳の中心の墓坑には長さ4.3mの大きな舟底木棺が納められ、内部に朱が敷き詰められていました。ガラス釧1個、銅釧13個、ガラス勾玉6個、鉄剣14本など、総数412点もの副葬品が見つかっています。とくにガラス釧は全国で4例目、完形では初めてとなります。また、弥生時代の墳墓からこれだけ大量の鉄剣が出たのも初めてです…
但馬・丹後ツアーの2日目。浦嶋神社と新井崎神社を目指して、雄大な景色を横目に見ながら丹後半島をぐるっと周ります。まずは浦嶋神社です。2回目の参拝となります。 祭神は浦嶋子、つまり浦嶋太郎です。この神社は宇良神社とも呼ばれる式内社です。 浦嶋子(浦嶋太郎)の話は『日本書紀』の雄略天皇紀に次のように記されます。 丹波国餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。 丹波国余社郡の管川の人、瑞江の浦嶋子が船に乗って釣りをしているときに大きな亀を捕まえた。その亀はたちまち女性になった。浦嶋子は感激してその女性を妻とし、女性に従って海に入った…
但馬・丹後ツアーの2日目。遠所遺跡をあとにして黒部銚子山古墳に向かいます。この古墳は初めてとなります。全長105m、二段築成の前方後円墳で、築造時期は5世紀前半とされます。墳丘表面から埴輪片が検出されたことから円筒埴輪列の存在が想定されますが、発掘調査は実施されていません。 後円部を下から見上げると勾配がきつく見えましたが、一気に登りました。上から見るとこんな感じです。かなり急斜面です。 二段築成がいまひとつわからなかった。後円部墳頂はほぼ平坦でした。 後円部から前方部を。 前方部から後円部を。 おそらく葺石ですね。 くびれ部から下りました。後円部側から見たくびれ部です。 後円部斜面にも葺石と…
但馬・丹後ツアーの2日目。コンビニでランチを済ませて次のニゴレ古墳に急ぎます。丘陵を切り出した全長20mほどの不整形墳ということですが、不整形墳というのは耳慣れない墳形です。地山を切り出したまま、形を整えなかったのか、それとも調査で墳形が確定できなかったのでしょうか。 簡単に登れそうに見えますが、見た目以上に傾斜がきつく、足を滑らせると下まで転がり落ちます。3~4mとされている高さは7~8mあるように感じます。 築造時期は5世紀中葉とされます。段築や葺石はなく、丘陵から切り離した溝の部分に円筒埴輪列が検出されています。墳頂部は10m×6mの平坦面で、中央部から舟形木棺(あるいは割竹形木棺)が検…
但馬・丹後ツアーの2日目。大田南古墳群の次は奈具岡遺跡です。ここも2回目。国営農地開発事業に先立つ調査で弥生時代中期の玉作り工房跡が見つかり、水晶の原石、玉製品生産の各工程における未製品が多数が出土しました。 現地に遺跡の痕跡はなく、ただ説明板があるのみで、国営農場のハウスが立ち並んでいます。 水晶や玉作り工房のほか、大量の鉄製工具や鍛冶炉も見つかり、弥生中期に鉄の加工技術があったと考えられます。 周囲にはこの遺跡のほかに奈具遺跡、奈具谷遺跡が隣接し、さらに奈具岡古墳群などの古墳群が広がっています。 丹後古代の里資料館に展示されている水晶の原石などの出土品。 道路の向こうには奈具岡南古墳群が広…
但馬・丹後ツアーの2日目。網野銚子山古墳の次は赤坂今井墳丘墓です。ここも2回目となります。弥生時代終末期前後(2世紀末~3世紀初め)の巨大な方形墳丘墓。丘陵の先端部の東西45m、南北51mの方形域を墓域としてその上に東西36m、南北39mの墳丘が築かれています。この時代の墳墓としては列島最大規模で、王墓であることは間違いないでしょう。 これは丹後古代の里資料館に展示されるジオラマです。 墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上の埋葬施設があり、墳頂部の第1主体は14m×10.5mの大きな墓坑で、庄内式古段階の土器が破砕された状態で出土しました。さらにその第1主体部を切り込んで作られた第4主体部も…
但馬・丹後ツアーの2日目。芦高神社をあとにして網野銚子山古墳に向かいます。4世紀末から5世紀初頭の築造とされる全長201mの前方後円墳。神明山古墳(190m)、蛭子山1号墳(145m)とともに日本海三大古墳とされます。 ここは2017年3月に来たのですが、そのときは前方部の裾を発掘調査をしていました。たしか裾部分を確定させるための調査だったと記憶しています。 それから8年が経過して史跡公園に生まれ変わろうとしていました。 8年前は上の写真の階段の左下あたりを掘っていました。今から思えば史跡公園化の一環の調査だったのかもわかりません。 遠くに日本海が見渡せますが、古代には目の前に潟湖が広がってい…
但馬・丹後ツアーの2日目。気比銅鐸出土地のあと、山越えで丹後に入って湯舟坂2号墳を目指します。途中、衆良神社や川上麻須屋敷跡にも寄っていく予定でしたが、いずれも車を停める場所がなく、写真を撮るだけになりました。 衆良神社の祭神である河上摩須(川上摩須)はこのあたり(丹波国熊野郡川上郷)の支配者で、『古事記』に「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須郎女生子比婆須比賣命(美知能宇志王が河上の摩須の娘を娶って生んだ子が比婆須比賣命である)」と記されます。 美知能宇志王は丹波道主命で、第9代開化天皇の孫にあたり、第10代崇神天皇のときに四道将軍のひとりとして丹波に派遣されました。衆良神社のすぐ近くに川上摩須…
但馬・丹後ツアー、2日目に入ります。豊岡市内のホテルを8時に出発して最初に向かったのが気比銅鐸出土地。途中、城崎温泉を通過するので雰囲気だけでもと思って温泉街をぐるっと回ってから円山川を渡りました。円山川沿いの道は何度も走っていますが、下流あたりはいつも川の水が溢れんばかり。20年ほど前の台風被害は記憶に残っています。そんな円山川も古代には日本海から内陸部の出石盆地へ通じる航路として栄えたことと思います。天日槍もこの川をさかのぼったことでしょう。 そんな円山川のすぐ隣を流れる気比川右岸の石切場から4つの銅鐸が見つかりました。1912年ことです。 4つの銅鐸はいずれも外縁付鈕式で、流水紋に加えて…
但馬・丹後ツアーの1日目。最後の行き先は森尾古墳。古墳時代前期、約9m×6mの長方形墳または楕円形墳で、この地の大地主、平野家の別荘建築の際に見つかったそうです。 事前にネットを検索しまくってようやく見つけた百合ヶ丘公園への登り口。事前に調べていなければこの金網の扉を開けて入る勇気は出なかったでしょう。斜面に沿って歩くので滑りやすく、石ころや木の根っこに足元がとられたりするので思っていた以上に危険。(このブログを見て行ってみようと思った方、この金網の入口は上の説明板の左に建つお宅の右手を少し入ったところにあります。ご参考まで。) 丘陵の上は意外にも平坦で広いけど、古墳の形跡はまったくありません…
但馬・丹後ツアーの1日目。豊岡市立歴史博物館をあとにして入佐山3号墳へ急ぎます。出石城の近くにある入佐山は公園になっていて、西側の登り口から丘陵に登っていきます。 丘陵上に広がる入佐山墳墓群に3基の古墳があり、1号墳が前方後円墳、2号墳が円墳、そして丘陵のもっとも高いところに位置するのが長方形墳の3号墳。 階段や急坂をどんどん登っていくと最初に登場するのが1号墳。東屋の横に表示板があります。 前方後円墳というものの、この見方であってるのかな。大きさなどの解説がないのでまったくの想像です。手前が後円部で東屋のあたりが前方部先端。何となく前方後円形に見える。 東屋からの出石盆地の眺めがなかなかの絶…
但馬・丹後ツアーの1日目。内場山墳丘墓の次は日本一低い中央分水嶺(分水界)、石生の水分れ公園へ。行程に組み入れていた朝来市埋蔵文化財センターや茶すり山古墳へ行く途中にあることを思い出したので、関東方面の皆さんを是非お連れしたいと思って急きょ立ち寄ることにしました。 日本一低い中央分水嶺は石生の交差点付近で標高が約95mです。ここから1キロほど小さな川をさかのぼったところにあるのが水分れ公園で、この川沿いの小径が分水嶺になっています。 右に流れた水が由良川を経て日本海へ、左に流れた水が加古川から瀬戸内海へ。まさに水分れです。 この由良川と加古川の水系は昔から人・物・文化が行き来する交通路であった…
但馬・丹後ツアーの1日目。千歳車塚古墳の次の目的地は京都府南丹市の園部黒田古墳です。古墳時代出現期あるいは弥生時代終末期の3世紀前半に築造された全長52mの前方後円墳です。 盗掘抗から古い壺形土器(加飾壺)が出ており、発掘調査に参加した高野陽子氏は「京都府埋蔵文化財論集 第5集」において、庄内式新段階、おおよそ庄内3式に帰属すると述べています。さらに、二基の埋葬施設のうちの第1主体部から後漢中期の双頭龍文鏡も見つかっています。 また、墳形は後円部が楕円形を呈していますが、高野氏によると築造時は正円形の規格であったとのこと。また、前方部は先端が大きく開いていて、この発達した前方部が他の出現期古墳…
但馬・丹後ツアーの1日目。最初の行き先は京都府亀岡市に鎮座する出雲大神宮。主祭神は大国主神と三穂津姫尊。式内社で丹波国一之宮。旧称は出雲神社、元出雲や千年宮とも呼ばれています。 社伝によれば『丹波国風土記(逸文)』に「元明天皇和銅年中、大国主神御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」と記されることから、古来、元出雲の信仰がある、とのことですが、その逸文そのものが不詳で一般的にはこちらの祭神が杵築大社から勧請されたと考えられています。そういえば熊野大社も同じように出雲と紀国で本家争い(?)があったはず。 この日はたまたま「鎮花祭」が執り行われていて、境内は多くの人で賑わっていました。鎮花祭とは、和銅年…
2025年4月18日~20日、古代史仲間6人で但馬・丹後への旅に出かけました。行程は下記のとおりです。 【1日目】 出雲大神宮 千歳車塚古墳 園部黒田古墳 内場山墳丘墓 水分れ公園(石生) 豊岡市立歴史博物館 入佐山3号墳 森尾古墳 (豊岡市内宿泊) 【2日目】 気比銅鐸出土地 川上麻須屋敷跡 湯舟坂2号墳 芦高神社 網野銚子山古墳 赤坂今井墳丘墓 大田南古墳群 奈具岡遺跡 奈具神社 ニゴレ古墳 遠所遺跡 黒部銚子山古墳 京丹後市立古代の里資料館(竹野神社) 浦嶋神社 新井崎神社 大風呂南墳墓群 三坂神社墳墓群 扇谷遺跡 (京丹後市内宿泊) 【3日目】 途中カ丘遺跡 大宮賣神社 眞名井神社 元…
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