大船フラワーセンターでは芍薬が見ごろを迎えている。春の花見シーズンが終わって一息ついているころボタンや芍薬が咲くのだけどついつい見逃してしまって、気が付くと牡丹園、芍薬園は葉っぱばかりになっていることが多い今回もボタンはもう花期を終えていたようだった。「
今日は一日米沢の町巡りなので少し寄り道をしてみる。松岬神社から県道2号線を北に突き当たるまで進むと二宮戎神社があって、その近くに「粡町の由来碑」というのが建っていた。碑文によればこのあたりはもともと粡町(あらまち)と呼ばれていて、伊達家統治の時代に米穀市場
上杉神社への参道の手前に松岬神社がある。当初上杉神社には謙信と鷹山が合祀されていたが、明治の終わりころに鷹山を分祀して新たに別の神社が作られた。それが松岬(まつがさき)神社である。
お堀の外へ出ると南側に古い建物が並んでいる。明治時代に二の丸跡に建てられた上杉伯爵邸である。今は上杉記念館として見学できるのだがこの日は休館日だった。その東側に近代的な建物が建っている。「伝国の杜」と呼ばれる複合施設で博物館とホールが併設されている。米沢
小野川温泉からバスで米沢駅まで戻り、米沢駅の観光案内所でレンタサイクルを借りた。今日は一日米沢の町めぐりである。クロスバイク型電動アシストサイクルという立派な自転車を貸してくれた。奥羽線の米沢駅は最上川の東側にあり、米沢の中心地は川の西側に広がっているの
翌朝、米沢方面へ向かうバスまで時間があったので付近を探索してみた。宿のすぐ近くに、甲子大黒天のお堂があった。「湯殿山系山伏と上杉家祈願所の法流を相承し今に伝える真言宗醍醐派の修験道寺院」だそうだ。大黒天にお参りして旅の安全を祈願した後、川を渡って温泉の中
本八戸から八戸線で八戸まで戻り、八戸から新幹線で仙台乗り換えで福島まで行き、福島でさらに山形新幹線に乗り換えて米沢まで行った。2日目の宿は米沢からバスで30分ほどのところにある小野川温泉である。小野川温泉は、約1200年前、小野小町が旅する途中、温泉で病を癒した
1627年に南部氏が領地替えになって根城が廃城になった後、八戸藩のお城としてつくられたのが「八戸城」で、その跡地が八戸線の本八戸の駅前に城山公園として残されている。本八戸駅を降りると目の前にこんもりとした丘があり、公園になっている。本丸には明治に廃城になるま
主殿の中には当時の正月の儀式の様子を伝える人形などが展示されていた。主殿に続いて、上馬屋、中馬屋、下馬屋と厩が続いていて、馬の人形が顔をのぞかせていた。馬屋と反対側の広場には、工房、板倉、納屋などが復元展示されている。工房の中では武器や鎧などをつくって
2日目は、盛岡からはやぶさ1号に乗って八戸を目指した。「大人の休日倶楽部パス」のせいで,はやぶさ1号は盛岡より北でも満席で指定席がとれなかった。「自転車日本縦断の旅」で北海道を目指した時は朝早いはやぶさ号に乗ってもたいてい仙台や盛岡で降りる人がいて青森近く
中の橋を渡ると左側に城跡公園が見えてくる。入り口の所に地図が出ていた。今回訪れる東北のお城は、城郭風建築物がないところばかりで雰囲気がつかみにくい。盛岡城は南部氏のお城で日本百名城にもリストアップされているように、かつては立派なお城が建っていたらしいが、
多賀城駅から仙台に戻り、東北新幹線で盛岡に向かう。次の目標は盛岡城である。盛岡駅の観光案内所で地図をもらって、駅前からバスに乗り、盛岡バスセンターで降りる。目の前に大きな赤レンガの洋館作りの建物がある。1911年に落成した旧岩手銀行本店の建物で、2012年に銀行
多賀城廃寺跡を後にして広い道路を南東に向かって下り、小さな川に向かって下って、「おもわくの橋」についた。このあたりの川が歌枕として名高い「野田の玉川」である。今はコンクリートで護岸された細い水路で、かつて六玉川と言われた面影はない。橋の欄干に説明文が掲示
多賀城跡から少し南に戻ると東北線国府多賀城駅に着く。2001年にできた、東北線としては新駅で、多賀城跡に隣接する所につくられた請願駅である。駅の北側はまだ整備工事中であった。手元にある奥の細道に関する少し古い書物には多賀城跡の最寄り駅は陸前山王駅になっていた
政庁跡からさらに北東方向に向かって坂を登ってゆくと、やがて多賀城外郭北東隅の標識のところまでやってきた。多賀城外郭は東西に約860m、東側で南北に1000mあったと言われる。その北東の隅までやってきたわけである。そこからさらに東に進んで多賀城外郭を出たところに陸
多賀城跡の地図をのせておく。今まで行ったのが①の南門(復元中)、②の城前地区そして③の多賀城碑である。多賀城碑の所から復元南門の裏側を撮ったのが次の写真である。門の両側に付属した築地塀が伸びていってこのあたりを取り囲むのかも知れない。それができあがると「多
城前地区を見てから南側に戻り、南門の建っている丘に登る。復元南門の工事地域は柵で覆われていて近づくことはできない。小山を登る途中に、石碑を格子壁で囲んだ小屋がある。多賀城碑(壺の碑)である。格子の隙間から中の石碑を読むことができる。すぐ後に南門の工事の
末の松山から北北西方向にある多賀城跡へ向かう。川を渡り仙石線の下をくぐって広い道をはじめ西に向かい次に北へ向かって3kmほどで東北本線の踏切の向こうに朱塗りの門らしいものが見えてきた。昨年復元工事をした南門でこれに続く築地塀の工事中らしくまわりが柵で囲まれて
秋の「大人の休日倶楽部パス」の期間にまだ行っていない東北城めぐりを企画した。百名城の中では、多賀城、盛岡城、根城、それに米沢城を加えて2泊3日で計画をたてた。土日を外して、9月30日月曜日に出発した。朝早い東北新幹線で北へ向かう。天気予報を見てから計画を決
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大船フラワーセンターでは芍薬が見ごろを迎えている。春の花見シーズンが終わって一息ついているころボタンや芍薬が咲くのだけどついつい見逃してしまって、気が付くと牡丹園、芍薬園は葉っぱばかりになっていることが多い今回もボタンはもう花期を終えていたようだった。「
昭和記念公園原っぱ西花畑ではネモフィラが見ごろを迎えていた。御本家?ひたち海浜公園のスケールには及ばないけど結構広い範囲にネモフィラが植えられていて人がたくさん出ていた。
久しぶりに昭和記念公園に行った。こもれびの丘はポピーとカスミソウがいっぱいの季節である。カスミソウの小さな白い花と、ポピーの赤い大きな花の対照が美しい。
平和観音像から見下ろすと一面にツツジが植えられている。ツツジの間の小道に沿って斜面を降りてゆく。ピンクから薄紫の色の花が咲きそろっているが赤い系統のものがまだなのでちょっと派手さが足りない気がする。下りきって見上げるとこんな感じである。もう一週間くらいた
「大人の塗り絵」の本の日本の美しい風景の中に出てくる「塩船観音寺のツツジ」を見に行ってきた。お寺の背後の斜面にツツジの丸いかたまりが点々と並んで夢のような景色に思えて一度行ってみたかった。青梅線の河辺駅で降りると駅前のバス停に人が並んでいた。すぐに来たバ
観光案内所でもらった地図を見て大洲市内を自転車で回ってみた。まず、お城の裏手の肱川沿いに出て川の方からお城を見てみる。肱川ではカヌーの練習をしている人たちがいた。次に川沿いの道を走って大洲赤煉瓦館にやってきた。明治34年に建てられた旧大洲商業銀行の建物で今
松山から次は宇和島を目指すが途中、大洲に寄ることにした。松山を13:30発の宇和海15号に乗って大洲駅で降りる。駅の観光案内所で地図をもらい自転車を借りた。駅から2kmほどで、肱川を渡るとすぐに大洲城の下の広場に着いた。ここでも桜が満開で結構人が出ている。坂道を登
松山駅は新駅を作っていて一応昨年の9月に新しいホームでの営業を開始したのだが、まだ旧駅の遺構が残っていて工事中であった。市電などが通っている東側には旧駅の駅標が残っている。しかし、この建物はもう使われておらず、中に入ると仮の通路が続いていて旧ホームの撤去
一の門、二の門、三の門と通ってやっと天守入口に着いた。姫路城に登るときにも感じたが、国宝の歴史的建造物にこんなに無造作にあがっていいものだろうかと思う。今回2つめの現存天守登城である。小天守越しに松山の町が見える。松山は人口51万6千人で四国第一の都会である
石垣の間をくねくねと登る。各所に説明看板があって、みんな見ているとなかなか先に進まずそれだけで疲れてしまう。まだ、本丸は見えない。立派な現存天守の顔を見ないうちにぜいぜい言っている。 それでも隠門をくぐってさらに上ると最後の門である太鼓門が見えてくる。
ロープウェイを降りると早速石垣が見えてくる。少しのぼると待合番所跡というところにつく。看板の説明文によれば、ここは登ってきた東雲口からの登城道と大手門方面からの登城道との接点で番所があったという。ここから石垣の間の狭い道を上って本丸方面を目指す。この突き
松山城という名のお城はいくつかある。これから行く伊予松山城が一番有名だが、「天空の城」として知られる「備中松山城」をはじめとして全国に10くらいあるらしい。 道後公園前から市電に乗り、警察署前で降りる。地図で見るとここがロープウェイ乗り場に最も近い。ビル
道後温泉から歩いてすぐのところに道後公園がある。道後公園は湯築城跡につくられた公園で、堀や土塁などの遺構が残っている。松山城に行く前に湯築城跡を見ることにした。湯築城は中世伊予の国の守護であった河野氏のお城で、1585年の秀吉の四国攻めによって小早川隆景に
バスで今治駅まで戻り今治駅からしおかぜ17号に乗って松山まで行った。せっかく松山まで来たのだから道後温泉に泊まってみようと思って道後温泉に宿をとった。松山駅から市電に乗って道後温泉駅までいく。宿に荷物をおいて温泉街を歩いてみた。宿にも大きなお風呂があるの
早速、天守に登城した。コンクリート製なので立派な階段があるが、エレベーターはついていなかった。6階建てで各階が資料館になっており、2階には自然科学展示まである。上に登ると瀬戸内海の眺望が開ける。自転車で2度渡ったしまなみ海道の来島海峡大橋も見える。天守を
初日から二つの城に登城し、万歩計もとっくに一万歩を超えて、体力も限界に近かったが、松山に着く前にもうひとつ今治城による予定だった。丸亀駅からしおかぜ13号に乗り、一時間半ほどかけて今治駅に着いた。2009年に来たときは今治駅からバスで糸山公園まで行き、サンライ
現存天守は基本的にバリアフリーなどということは考えらえていないので、階数分の急な木の階段をのぼらないと天守の上につかない。丸亀城は3層だから大したことないけど姫路城や松江城などもう降りてこられないんじゃないかと思うこともあった。 でも天守はその地域の最
呼吸を整えていよいよ登山である。最初からものすごい急坂でめげる。昔の武士は強健であったのだつくづく思う。年をとると上り坂は急激に消耗するのでゆっくりのぼる。すぐに高い石垣が見えてくる。10分ほどで三の丸の広場についた。一休みである。三の丸広場からはきれいな
高松駅から予讃線に乗って一日目は松山まで行く。今回の主な目的地は松山城と宇和島城であるが、その前に丸亀城にも寄りたい。高松駅から特急いしづちに乗って丸亀駅まで行く。大した距離ではないので特急料金がもったいないが、地方の幹線鉄道は特急は一時間に一本あるが各
披雲閣のお庭を通って北側にいくと月見櫓が見えてくる。こちらが現在のお城の北東側にあたる。かつてはこの北側はすぐ海になっていたらしい。月見櫓の南側に水手御門という門があって、ここから直接海に漕ぎ出すことができたという。今は広い道が通っていて海は50mくらい向
興雲閣から天守方面に向かうとすぐ松江神社がある。初代および中興の藩主を祀っている。神社の前を通り、天守方面へ向かう道の両側にはワイルドな石垣が続く。やがて一の門跡についた。ここから「有料区域」である。門を入って天守のある広場に出る。国宝天守が出迎えてくれ
堀川めぐりから戻って再び松江城大手門の所にやってきた。松江城にはかなり昔(1987年)に来たことがあるがほとんど記憶に残っていない。天守は現存12天守のうちのひとつで、戦前は国宝だったが、戦後法律の改正により重要文化財となっていた。その後慶長16年(1611)年と書かれ
月山富田城から無事下山して、安来駅を経由して松江まで行き、松江に泊まった。松江は前回出雲に来た時に寄ったのだが時間がなくて観光できなかったのでリベンジである。 3日目の6月28日は朝から雨だった。九州から東北まで梅雨入りしていて南から全線が北上して来てところ
本丸跡で十分に休んでから下山する。10分ほどで七曲がりを降りきり山中御殿のところまでもどってきた。ここは城主の居館があったとみられる場所で、山の中腹に石垣にかまれた広大な敷地が広がっている。山中御殿から尾根沿いに歩いてゆくと花の壇と呼ばれるところに着いた。
二の丸から一度堀切を下って本丸へ登ってゆく。戦国時代には尼子氏の居城として難攻不落を誇ったという。江戸時代の絵図には瓦葺きの櫓などが描かれていて、かつては本丸に天守が聳えていたのかもしれないというが、1611年に城主が松江城に移って廃城になってから久しいので
山中御殿の下から右側にあがってゆくと大土塁の跡が見られる。そこを越えてゆくといよいよ山上への登り坂「七曲がり」に到達する。その前に親子観音があって説明の看板が建っている。七曲がりの登り坂はよく整備された階段になっていて、昨日の鳥取城登山道に比べるととても
月山富田城は,安来駅からバスで30分ほど内陸部に入ったところにある。初めの予定では米子から安来まで山陰線で行きバスに乗る予定だったが、このバスは米子駅が始発なので米子からバスに乗ることにした。オレンジバスという地域バスで米子駅で乗ったのは私を含めて2人だった
倉吉から米子まで山陰線に乗り、米子の駅の近くに泊まった。翌朝宿から歩いて米子城跡に向かった。米子城は米子駅の西側にある標高90mの湊山の上に建てられたお城で、1600年頃には山頂に五重の天守閣が建てられていたという。明治期まで残っていたが取り壊され、現在は石垣
鳥取駅まで戻り、特急「まつかぜ」に乗って倉吉まで行った。今日は米子に泊まるのだが倉吉で途中下車して古い街並みを見ようと思う。まつかぜには鳥取駅から高校生が何組か乗ってきた。下校時間にあまり適当な各駅停車が走っていないのだろうか。特急で通学はなかなか豪勢で
標高263mの久松山の山頂付近にはかつて三の丸まであり、本丸には三重の天守が建っていた。元禄年間に雷によって焼失した後は再建されなかったという。現在は天守台の石組みが残り、登れるように鉄製の階段がついている。登って見ると日本海側の絶景が広がっている.中央部に貯
山下の丸二の丸の奥に稲荷社がある。鳥居の奥に階段があり、山上の丸への登山路になっている。山登りの注意という看板が立っていて,ご丁寧にクマ出没注意まで書かれている。最初はなだらかな階段だったがすぐに急な山道になり、しばらく登ったところに1合目の看板が現れた。
門を入ると、整備された石段が続く。鳥取城は山麓にある山下の丸と山上にある山上の丸から成り立っている。山下の丸には立派な石垣が続いているが、1943年の鳥取地震でかなり崩落したらしい。今はきれいに積み直され歩きやすく整備されている。しばらく石段を登ると二の丸跡
鳥取駅の観光案内所で地図をもらい、荷物を置いてバスに乗った。博物館前で下車すると向こうにこんもりとした森が見える。頂上に城跡の残る久松山である。標高263mだそうである。これからあそこまで登るのである。「鳥取城跡久松公園」の碑が立っている。通路に沿って進んで
梅雨の晴れ間を探して鳥取城、月山富田城、松江城に行ってきた。6月26日に新幹線で姫路まで行き、山陽線に乗り換えて上郡まで行く。ほとんど誰もいない上郡駅で待っていると岡山方面から特急いなば3号が入線してきた。どうやら上郡駅から(つまり山陽線の姫路方向から)
今回は歩いてでも行ける地元の名所に行ってみた。我が家の前を通る環状4号線(原宿六浦線)で六浦方面に行き、「八軒谷戸」というどこの田舎かと思わせる名前のバス停で降りると、西に向かって急な登り坂が続いている。その坂道を10分くらい登ると鎌倉カントリークラブのゴル
花菖蒲園は今が見頃で,たくさんの人で賑わっています。
4年前の11月に松戸にある本土寺に紅葉を見に行った。その時に結構広い菖蒲園があったので、また菖蒲の季節に行ってみたいと思っていた。本土寺のホームページには「六月上旬にはは花菖蒲が五千本、下旬に向けて十種類以上の紫陽花が境内中に咲き渡り、その数は五万本以上
清澄庭園にも花菖蒲園がある。大泉水を回り込んだ向こうに涼亭という建物があり、その向こう側に花菖蒲田が広がっている。そんなに規模は大きくないが、ちょうど見頃を迎えている。同じ都立の公園である小石川後楽園と「園結び」というわけである。
芭蕉稲荷から地下鉄の駅の方にもどり清澄庭園を目指した。清澄庭園は、大名の下屋敷だった一帯を三菱の創始者・岩崎彌太郎が買い取り、1891(明治24)年に社員の慰安や貴賓を招待するための庭園として開園した。回遊式庭園で、中央の池である「大泉水」の周りには、全国から
小石川後楽園でもらったパンフレットに「花菖蒲がむすぶ園結び」として清澄庭園が紹介されていたので帰りに寄ってみることにした。後楽園の西門を出て5分くらいで飯田橋の駅につく。長い通路を通って地下鉄大江戸線のホームに行き清澄白河まで行った。 清澄庭園は地下鉄の駅