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古城巡り 写真館 https://yamashiro2015.blog.fc2.com/

関東を中心に全国の、城館や史跡をデジタルアルバムのデジブックにて現在の城を紹介して行きます。

樋口山城守与六
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住所
羽生市
出身
羽生市
ブログ村参加

2015/08/12

  • 逆井城@茨城県つくば市

    2023.5.21 曇り早朝人気ブログランキング...

  • 岩瀬城 茨城県桜川市

    岩瀬城@Google桜川市の岩瀬地区元岩瀬に位置する、岩瀬城であるが詳細は不明であり、戦国時代に笠間氏か益子氏の支城であったとされている。現在は主郭と郭2、郭3、空堀、土塁が残っており、郭2は社会福祉法人県西せいかん荘、郭3は墓地として利用されている。同名の岩瀬城総合娯楽センターが存在するが位置が異なっており、名前以外の当跡との関係はない。南側からの遠景せいかん荘クリニックが郭2郭2と郭1間の堀郭3は墓地郭3北...

  • 石倉城 群馬県みなかみ町

    石倉城・石倉館@Google石倉城は、文明10年(1478年)に平井城(藤岡市)にあった関東管領上杉顕定が故郷の越後との中継地として清水街道沿いに築いたと云われています。石倉城は利根川に面し細長く突き出した台地にあり、両側を沢で区画された単郭式山城格の崖端城で150メートル×50メートルの本郭、堀切、土塁が残っている。永正4年(1507年)、上杉顕定の弟で越後守護の上杉房能と守護代 長尾為景との抗争で房能が敗死すると、永...

  • 石倉館 群馬県みなかみ町

    石倉城:石倉館@Googleみなかみ町教育委員会の石倉城説明板によると、『文明10年(1478)平井城にあった関東管領上杉顕定が、故郷の越後との中継地として清水街道沿いに築いたという。東南段丘下に石倉館へ通じる道があり、石倉館は後に石倉三河の居館でもあった』基本館跡は、激藪で・・・・・入る勇気は出ませんでした・・・・・・・・・・・。館遠景 この道路の突き当り奥の藪が館跡正面に見える土塁この石積は後世か?初...

  • 谷川温泉湯吹の湯オートキャンプ場

    オートサイトが21サイト、大きさの差が有るが全体的に広いサイト!!しかし、表面は土だが・・・・下には、石が隠れていて、ペグが・・・・・・・・・・今日はソロティピ-1TC・・・・本日は完ソロでした。サイト正面には、グランピングと左手には谷川岳の玄関口の土合駅が見えます。雨の朝今回は久しぶりの、湯テルメ 谷川2023.5.14~15...

  • 戸谷城 群馬県みなかみ町

    戸谷館@Googleみなかみ町上牧の利根川に向けて伸びた舌状台地上に築かれている、北側背後に堀が残り南側が館跡とされる。現在では藪、以前までは耕作地で有ったと思われ、東側の道路は堀跡で有ろうか?歴史的詳細は不明。館跡東側の堀跡か?南側から見た館跡館背後の、北側の空堀館跡からの展望初登城 2023.5.14人気ブログランキング...

  • 深沢布袋山城(布袋ヶ岡城) 栃木県栃木市

    深沢布袋山城@Google皆川成勝の家臣である柏倉兵部左衛門が城代をつとめた城で、皆川氏の支城の中でも最北の前線基地でしたが、1588年(天正16年)、佐竹義重の支援を受けた宇都宮国綱が侵攻してくると、皆川広照は敗れて真名子城からこの城に退却している。さらに布袋岡城も包囲されたため、広照は皆川城へ逃れました。廃城になった。現在城址には本丸周辺に土塁と竪堀を確認することができ、本丸東側には良好な遺構が残り本丸を...

  • 長光寺 埼玉県羽生市

    戦国時代この今泉には「外の内」と云う城が有り、主将は“斎藤民部盛秋”羽生城は永禄3年(1560)から上杉謙信に従属して以来、北條氏と幾多の戦いを繰り広げ善戦したが天正2年(1574)に城は自落し城兵らは謙信に引き取られ撤退 しかし、盛秋は羽生に残り、土着し名主として子孫が残っていきます・・・・この長光寺周辺が城址で、遺構は残っていません。長光寺は徳川家光をはじめとし、綱吉・吉宗・家重・家治・家慶・家定・家茂...

  • 2023 新田金山城@群馬県

    見附出丸から三ノ丸下大堀切迄月ノ池から実城迄金山城城址碑大手前堀切馬場下通路月ノ池実城への大手虎口実城の現存石垣2023.4.29 再々登城人気ブログランキング...

  • 菖蒲ヶ浜キャンプ村 2023

    数年ぶりの菖蒲ヶ浜⛺本格的な連休前に!!夜中のに奥日光や男体山に降雪が有り、山は若干雪が残ってましたが・・・・激混みでなく早いうちにチェックインが出来、湖畔確保⛺通常は場所取り争奪戦が繰り広げられる三角洲部分・・・・・・・・今回少なかった、4組かな。湖畔でソロティピ-1TC夕焼の男体山ヤマザクラ?まだ蕾で・・・・・これから!!夜明け前の中禅寺湖・・・・今の時期は、男体山と華厳の滝方面の低い位置から、太陽...

  • 2023 菅谷館@埼玉県嵐山町

    2023.4.17 再々登城人気ブログランキング...

  • 2023 鉢形城

    鉢形城 城址碑鉢形城主郭秩父郭復興門三ノ郭の堀三ノ郭の馬出外郭の堀鉢形城搦手対岸からの鉢形城2023.4.23 再々登城 iPhone13 Proにて撮影人気ブログランキング...

  • 桜沢砦 埼玉県寄居町

    桜沢砦@Google最終的には後北条氏の時代の砦として利用されたものと思われ、又市街地の北側に所在する上武山地の東側の端に当たる標高200mほどの小山で、その八幡山の山頂部分からは上野方面の街道と荒川沿いの秩父往還の双方を同時に見渡すことができる位置と言える・・・・・・・・・・桜沢駅から歩いて来た、桜沢砦遠景(八幡山)桜沢八幡神社 この先のハイキングコースを登るハイキングコ-ス、最初に現れる平場は?遺構...

  • 腰越城 埼玉県小川町

    腰越城イメ-ジ図になります松山城主上田氏の家老として仕えた、山田伊賀守直定の居城と伝えられています。標高216mを測る本郭を中心に、大小17の郭が残されています。竪堀が多く用いられ、巧みに組み合わされた小口のつくりなどが特徴的で、戦国時代の典型的な山城です。城址入り口・・・・木戸口は!!崩壊していました。二重堀切・・・主要遺構前のニノ郭腰越城の主郭主郭の城址碑西側の虎口西郭・・・・縦長の郭西郭の堀切囮...

  • ニュ-サンピア越生 ソロキャンプエリア

    ニュ-サンピア越生 この階段の先がソロサイトソロサイトエリア フリ-サイトです!!最近の定番⛺行方不明だった、コールマンのタンプラ-新し焚火台と自慢のケルト初夏の模様2023.4.16~17人気ブログランキング...

  • 安戸城 埼玉県東秩父村

      安戸城@Google東秩父村の村指定史跡となっている山城。築城時期や築城主など確かなことは不明だが、大河原氏による築城とも、その後の室町時代に松山城に移る前の上田氏が一時居住していたとも伝わる。また永禄6年(1563年)、松山城争奪合戦の折には松山城主上田朝直の退路となったともいわれる。麓に大霊神社があり、山頂部が城跡で堀跡などの遺構が残っている。安戸城 縄張り図(現地説明板より)入り口・・・・...

  • 大河原氏館 埼玉県東秩父村

    大河原氏館@Google松山城主上田氏の菩提寺です。鎌倉時代末、大河原神冶太郎光興の創建と伝えられています。寺伝によれば、大河原神冶太郎光興が屋敷内に道場を開くため、日蓮の弟子の日朗を招いたといわれています。大河原神冶太郎光興は、比企能員の子で鎌倉妙本寺を開いた比企能本と親交があったと伝わっています。2023.4.16 登城人気ブログランキング...

  • 望月キャンプサイト 野らら 長野県佐久市

    野ららの入り口、直ぐ左手が受付の管理棟望月キャンプサイト 野らら 案内図本日のキャンプサイトはフォレストサイト・・・すべてがフリ-サイト野ららの枝垂れ桜・・・薪は使い放題です!!ロガ4とタープの組み合わせ新アイテムの鉄瓶でコーヒ-タイム夕方のグラスサイトと管理棟方面ブッシュクラフトサイト・・・・直火OK氷点下6度の朝、霜柱も・・・・・・・朝日を浴びる!!早朝の桜さよなら・・・・野らら2023.4.9~10人気ブ...

  • 桜咲く🌸龍岡城2023 長野県佐久市

    2023.4.10 訪問ほぼ満開人気ブログランキング...

  • 望月城砦群 長野県佐久市

    望月城砦群@Google望月氏のの南、旧仲山道の生瓜坂の峠ぁら南に続く山嶺上に砦が連続する。この尾根は、望月の街の東側の鹿曲川の谷の東側に防塁のごとき連なる砦群となる。生瓜皆砦を起点に、生瓜南砦、松明山砦、胡桃沢嶺砦と山道が有り1時間も有れば十分に堪能でき松明山砦と胡桃沢嶺砦の鞍部に総合グランドに降りていける道が有る。総合グランドから、望月城及び城砦群を見る旧中山道瓜生坂の碑旧中山道瓜生坂から脇へ瓜生嶺...

  • 望月氏城光院館(居館) 長野県佐久市

     望月氏城光院館・・・・城光院山門望月氏の居館となる。文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。城光院の本堂居館から望月城を見上げる2023.4.9 初登城人気ブログランキング...

  • 望月城 長野県佐久市

    望月城・望月氏城光院館(居館)@Google㊟望月城イメ-ジ図になります。城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。城址へ...

  • 忍城の桜🌸2023

    2023.3.27人気ブログランキング...

  • 2023 埼玉の桜 丸墓山古墳

    2023.3.27人気ブログランキング...

  • 2023 埼玉の桜 権現堂 幸手市

    2023.3.27 ㊟シーズン中は曜日関係なく、混みます!!...

  • 2023 埼玉の桜 城ヶ谷堤 石戸蒲桜 埼玉県北本市

    城ヶ谷堤(桜土手)石戸蒲桜2023.3.27訪問人気ブログランキング...

  • 雨の丸墓山古墳🌸 2023

    2023.3.26 雨人気ブログランキング...

  • 松田城 茨城県桜川市

    松田城@Google別名、中郡城。『保元物語』にみえる中郡庄の地頭中郡三郎の居城ともいわれる。中郡氏は後に足利尊氏の友旗に組し、官軍の総師北畠親房の部下春日顕国により討伐され、一時春日顕国の居城になったが、関東に於ける官軍も足利勢のため攻められ没落したという・・・・・・・・・・しかし、この城ついての詳細については不明である・・・・・・・・・・・・・立派な土塁と堀がが有るのは事実である!!北側から見た松田...

  • 加納城 埼玉県桶川市

    加納城@Google㊟イメ-ジ図になります!!加納城は、赤堀川の低湿地を防御に利用した中世の平城です。発掘調査の結果から、戦国期を下限とする室町時代(13〜16世紀頃)に存続した城と考えられています。平面形は出丸をもつ方形の内郭と、それを取り囲む外郭で構成されています。内郭の面積は11,400㎡で、外郭を含めると43,000㎡に及びます。この城の来歴や城主は不明ですが、岩槻太田氏の支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪...

  • 三ツ木城 埼玉県桶川市

    三ツ木城@Google三ツ木城の詳細は不明ですが、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられていますが、いずれも定かではありません。近年の調査研究によれば14世紀代に築城されたものとされています。現在城山公園とされているが・・・・・・遺構の在る部分は、藪化しているが良好な堀と土塁が残る。㊟イメ-ジ図になります!!説明板(東側)東側の堀郭内は藪・・...

  • 大宮館 埼玉県北本市

    大宮館@Google舌状の大宮台地の最高所に位置し、西に荒川を望み、鎌倉街道の枝道が南の石戸郷から北上してくる交通の要衝であった場所に中世の館跡とみられる遺構が発掘された、歴史的詳細不明である。堀の位置から中心部は、もっと北側の阿弥陀堂を含む一帯とされ堀の中から中国製の陶磁器が発見され鎌倉時代前半には既に館は存在していたと思われる事から同時期の石戸宿の堀ノ内館が有る事から推測すると、鎌倉幕府御家人石戸氏...

  • 上手館 埼玉県北本市

    上手館@Google地元の郷土史家などの手により明らかにされたもので、「武蔵志」の足立郡の巻によれば、「古市場古塁 古市場村にあり、地形西北深田、東南平地なり、城主不詳」と記されていており上手館と思われる。歴史的詳細は不明。又縄文時代には大集落が広がり、発掘調査も行われている。上手館 ガス会社の貯蔵タンクがある場所である!!北西側に土塁は残らない。水路が堀跡?南西側の土塁、道路は堀跡?南西側東側にも土塁...

  • 阿弥陀堂(エドヒガン)と普門寺(枝垂れ桜)

    阿弥陀堂のエドヒガンサクラ(埼玉県桶川市)普門寺の枝垂れ桜(埼玉県桶川市)*去年より、1週間は見頃が早いと思われる!!人気ブログランキング...

  • 鉢形城の氏邦桜(エドヒガンサクラ) 2023.3.20

    2023.3.20 見頃人気ブログランキング...

  • 谷中城 茨城県桜川市

    谷中城@Google㊟イメ-ジ図になります。築城時期は定かでないが、地元の土豪谷中氏の居城であったといわれる。天正十一年(1583年)益子氏と笠間氏の間で起こった冨谷合戦で谷中玄蕃は笠間氏に属し、橋本城の城将を任された。最終的に富谷城が落城した。加波山神社右側から背後に登り、ピンクのマーカーを辿って行くと空堀に出る。空堀は北から東、南へ伸びており、その上段に主郭がある。又麓にも東西に延びる土塁、堀が残る...

  • 冨谷城 茨城県桜川市

    冨谷城@Google㊟イメ-ジ図になります(ou(工)u)ノここは益子領であり、益子氏の家臣加藤氏が居城していた。天正十一年(1583年)、百姓同士の境界争いから、益子氏と笠間氏の争い(冨谷合戦)が起きた。冨谷城の加藤大隈守の軍と、橋本城の谷中玄蕃の軍が戦い、合戦は始め益子氏方が有利であったが、笠間氏方が盛り返し、冨谷城も落城したと云われている。南側からの城址遠景西側の堀・・・・・・分かりずらいが、堀!!北側...

  • 富岡城 茨城県桜川市

    富岡城@Google㊟イメ-ジ図になります!!岩瀬町史は坂戸城主小宅氏家臣稲川土佐を城主に挙げている。天正13年(1985)結城氏と笠間氏間で戦いとなり、結城方の重臣片見郎党月山坊が富岡城に入り、笠間勢と戦ったという記録(播龍記)がある。この地は戦国の末期に宇都宮領となるが、宇都宮氏の改易でこの城も廃城になったと思われる。城址遠景南側から入って最初に見える郭麓の標柱、この背後から入ります主郭 南側の堀東側の堀...

  • Freedom プライべ-ト野営地 茨城県石岡市

    予約方法はオーナー様のインスタをフォローしてDMにて区画サイト駐車場 トイレ及び薪置き場(薪は無料で使用出来ます)本日の野営地・・・・本日は3人だけなので・・・・・視界に入らないように!!本日は、ソロティピ-1TCにて,雨も降らなくちょうど良い気温でした今朝は曇りで・・・朝日が・・・・(東側は開けていて、山並みが)人気ブログランキング...

  • 鳩が森城(宇都野城) 栃木県那須塩原市

    鳩が森城(宇都野城)・栃木県那須塩原市@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ鳩ヶ森城は、寛治3年(1089)に山本上総介家隆(やまもとかずさのすけいえたか)によって築かれた。山本氏は白鳳時代に創建された嶽山箒根神社の別当職を代々務めた家系で、後三年(ごさんねん)の役(えき)の際、当時別当職にあった隆珍は、源義家(みなもとのよしいえ)に従い軍功をたて、山本上総介家隆と名を改め、箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を...

  • 小滝城 栃木県大田原市

    小滝城・栃木県大田原市@Google小滝城は、建徳元年(1370)(北朝年号は応安3年)、那須資藤の五男五郎資信がこの地に居館を構えて小滝氏を称し、居住したといわれます。 現在は水田・宅地となっていますが、土塁と空堀の一部が確認されています。また今でも外城(とじょう)の地名が残っています。 小滝氏は資信・信保・信方・信般・信伴・増信・信定と伝え、小滝一円を領し、この地の豪族として繁栄しました。 増信は小滝五郎...

  • 鷲宮河津桜🌸2023

    *2023.3.5現在の状況、見頃で満開はまじか!!🌸人気ブログランキング...

  • 水口館 栃木県大田原市

    水口館・栃木県大田原市@Google㊟イメ-ジ図になります♪(/・ω・)/ ♪水口居館は明応年間(1492から1501)のはじめ、大田原(大俵)康清(やすきよ)が武蔵国から移り、居館を構えたところと伝えられます。 以降大田原氏はこの地を拠点にして近隣に勢力を張り、那須家に仕えました。資清(すけきよ)の代に、福原氏、大関氏などと事を構え戦に敗れ、資清は永正15年(1518)に出家して、越前国永平寺に逃れたため一時廃館となりました。...

  • 鎌足城 栃木県大田原市

    花形輪館・鎌足城・栃木県大田原市@Google城の詳細は明らかではなく、一般的には隣接する藤形輪館の要害ではないかと考えられる。鎌足城南側からの遠景2023.2.26 初登城人気ブログランキング...

  • 藤形輪館 栃木県大田原市

    花形輪館・鎌足城・栃木県大田原市@Google応永年間(1394~1428)に那須資氏の三男、資茂がこの地を拝領し羽田氏を名乗り築城したと言われております。また、当城の南東部に鎌足城(同地区富士ヶ館)がありますが、鎌足城は当城の要害であった考えられます。資茂の後は豊前、貞明、貞和と続き、貞和の時に羽田城(同地区字柿木内)を築城し居城を移した為廃城となりました。なお貞明は大木須城主(那須烏山市大木須)であ...

  • 平家瀬尾家館(中田原城) 栃木県大田原市

    平家瀬尾家館(中田原城)・栃木県大田原市@Google石碑には・・・・・古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる 平成二十一年十月吉日瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書徳川家康が五街道を定めるまでは東山道は奥州に向かう道であった。2023.2.26 初登城人気ブログランキング...

  • たかはら星の森キャンプ場

    星の森キャンプ場入り口、この道を進みます!!Aフリ-・区画サイト(展望台から)Bフリ-サイト・・・砂利地B区画サイト・・・・ソロ⛺にはベストな広さ!!本日はB展望台側、VサイトTELにて予約初デビュ- ソロティピ-tcと前幕あまり焼肉はしないが!!タン塩朝焼け・・・・風の強い夜でした!!2023.2.26 初人気ブログランキング人気ブログランキング...

  • 久保城(久保館) 栃木県大田原市

      久保城・栃木県大田原市@Google久保館跡は乙連沢(おとれざわ)字北久保谷地にある丘陵突端の舌状地にあり、東側に断崖をもつ要害の地です。現在、土塁と堀跡と思われる遺構が残ります。 かつては、久保氏の居館跡と伝えられているだけで、城主や構築年代、城館の史実などは不明でしたが、昭和50年代に久保氏の子孫が判明し、久保館の構築から廃城に至る経緯が判明しました。 それによれば、初代城主は宇都宮資近(す...

  • 伊佐野城 栃木県矢板市

    伊佐野城・栃木県矢板市@Google伊佐野城は、塩谷氏が下野国塩谷郡を治めていた時代に家臣の山本氏の支配の城であったことが知られており、塩谷氏の本城である川崎城の北の守りを成す支城のひとつであった。土豪の館を山に築いた程度の小規模な城で、堀切により守られた主郭と階郭の曲輪により構成される。当地には持宝院という寺があり、現在は城の北側の麓に移転しているが、かつては、城ともに山にあったと伝わり、伊佐野城は半...

  • 古河城 茨城県古河市

    平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備された。古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとしても機能した。明治時代初期の廃城令に...

  • 諏訪山城 栃木県鹿沼市

    諏訪山城・栃木県鹿沼市@Google㊟イメ-ジ図になります(=゚ω゚)ノ諏訪山城は室町時代末期に、粟野城主であった平野大膳によって築かれたという。天正十六年(1588年)には佐竹氏の援助を受けた宇都宮国綱が皆川領に侵攻し、皆川広照自ら諏訪山城に拠ってこれを阻止せしようとしたが攻められて落城し、広照は布袋ヶ岡城に逃れたという。丸山・・・・・物見としてか?諏訪山城へ南側の竪堀堀切 橋台からの横堀横堀からの竪堀障壁...

  • 加園城 栃木県加園城

    加園城・栃木県鹿沼市@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ土豪渡辺氏の城で有り、周辺勢力の宇都宮氏、壬生氏、皆川氏、小山氏などの間を揺れ動きながら生き延びていた。1523年に行われた宇都宮忠綱と皆川宗成の一大決戦、河原田の戦いでは当初宇都宮方として参加していたが、皆川氏を支援する小山氏・結城氏の同族連合は、宇都宮勢の背後に回り込み、加園城・南摩城の奪取を目論んだ為、渡辺右衛門尉は小山氏に降ったと...

  • 向陽山 常楽寺 栃木県下都賀郡壬生町

    常楽寺は、室町中期寛正三年(西暦一四六二年)壬生初代城主壬生筑後守胤業公が、寺領二十六石を寄進して創建した曹洞宗の寺院です。開山和尚は、道元禅師から数えて十世の法孫一州正伊禅師であり、壬生氏一門の氏寺として栄えました。一五九〇年に壬生氏が絶えて後も、壬生氏の家臣や歴代の壬生城主に庇護され、一七一二年に壬生城主となった鳥居忠英公の帰依を受けて後は、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてまいりました。壬生...

  • 朝比奈の五輪塔 栃木県下都賀郡壬生町

    朝比奈の五輪塔は、上田朝比奈の小高い丘の上に建てられています。この五輪塔は上田の五輪塔とともに、鎌倉から室町時代にかけて造られたものであり、町内に残る五輪塔では最大のものです。本五輪塔には、朝比奈三郎の伝説が語り継がれています。壬生町文化財で壬生町最大の高さ約260cmある五輪塔で鎌倉時代~室町時代に建てられたものです。このお墓を建てたといわれる怪力として知られた朝比奈義秀の伝説があります。父である和...

  • 永林寺館 栃木県鹿沼市

     永林寺館@栃木県鹿沼市Google永林寺境内北側には土塁・空堀が残されているが、歴史的詳細は不明。境内西側にも一部二重となる空堀・土塁が確認出来るが、こちらは江戸時代以降に整備された可能性が考えられている。永林寺の西側と北側の墓地の東側に遺構は残る遺構は有るのだが・・・・北西側に残る堀墓地奥の堀と土塁2023.2.5 再人気ブログランキング...

  • 短草館 栃木県鹿沼市

    短草館@栃木県鹿沼市Google短草館遠景個人宅の北側の山林に、土塁や堀が残っているのが分かる・・・・・この館についての歴史的詳細は不明。2023.2.5 再人気ブログランキング...

  • 上田城 栃木県下都賀郡壬生町

    上田藩陣屋・上田城@栃木県鹿壬生町Google西側から見た上田城、そして上田藩陣屋跡が隣接している・・・・・歴史的詳細は不明上田城 民家背後に遺構が残る民家背後の防風林の中に、土塁と堀が残る・・・・西側から東に延びる土塁上田の五輪塔 上田の五輪塔は朝比奈の五輪塔とともに、 鎌倉から室町時代にかけて造られたものです。本五輪塔は近年この地に移築されており、その際に五輪塔直下より蔵骨器として利用された古瀬戸瓶...

  • 行田希望の光 忍城 2023.24

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  • 吉田城 茨城県水戸市

    吉田城・茨城県水戸市@Google㊟イメージ図になります。半島状台地には三方(一つは旧千波湖)を沼囲み、森林が茂り、武士の居館として最適な要害であった。正確な年代はさだかではないが、平安時代後期に築城されたと推定される。大掾盛幹が初め館を建てて吉田氏を称してこの地を統治した。しかし応永23年(1416年)になると水戸は江戸氏の支配下になり、吉田城は江戸氏のものとなる。その際、土塁や堀を強化したと推定される。他...

  • 大串原館 茨城県

    大串原館・水戸市@Google㊟イメ-ジ図になります。住吉神社の南西300mほどの所である。この辺りには山林が残っているのだが、中を歩いてみると、規模こそは小さいがしっかりと堀と土塁を廻らせた館跡が残っている。周囲に土塁と堀が巡らされ、さらに堀の外側にも土塁があり、比高二重土塁の形状を成しているのだが、土塁の高さ、堀の深さは、いずれも現状では1m程度とかなり浅くなってしまっている。幅も3mほどしかないので...

  • 平戸館(平貞盛居館) 茨城県水戸市

      平戸館・水戸市@Google鹿島臨海鉄道大洗駅の北にある涸沼橋の北方に「平戸館跡」である「吉田神社」があります。「平戸館」は平貞盛の居館があったされ、現在の吉田神社周辺にあったと思われます。「吉田神社」は、平貞盛の祈祷所だったと伝えられています。現在は耕地整理等でほとんど隠滅してしまったらしく、これといった遺構は見られない。低地に土塁と堀を巡らせた館の跡で、八幡神社のある1郭、吉田神社のある...

  • 富士ノ上館 茨城県ひたちなか市

    富士ノ上館・ひたちなか市@Google㊟イメ-ジ図になります。歴史的詳細は不明であるが、橿原神宮神宮拝殿を囲むように土塁が残るが堀は確認出来ない。この地は高台の突端となり、最適と言える。橿原神宮は奈良時代の和銅年中に創建したといわれ、鎮座地 は涸沼のほとり石崎村升原というところである。室町時代の仁寿年中(1511~13)になって湊村の宮 山町に奉遷した。延長5年(927)に桓武・崇道両天皇を合祀した。その 頃は、柏原大...

  • 壬生城 栃木県壬生町

    壬生城@栃木県壬生町Google壬生城@縄張り図1462年(寛正3年)に壬生氏の始祖壬生胤業が、この城より北西にある常楽寺の西側・柵の内と呼ばれる場所に館を建てる。俗に壬生古城という。文明年間(1469年-1486年)に壬生氏第2代当主壬生綱重によって築かれたとされる。1590年(天正18年)小田原征伐で壬生氏第5代当主壬生義雄が病没し、壬生氏が滅んだ後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。1600年(慶長5年)に結城秀...

  • 茂呂城 栃木県鹿沼市

     茂呂城@栃木県鹿沼市Google鹿沼城の壬生氏に対して城を整備した。その1つが茂呂城であり、その他に、千渡城、深津城、石川城などがその役目を担っていた。茂呂城の初代城主は市田備中守である。宇都宮氏の滅亡により、茂呂城は廃城になった。磐裂神社東側一帯が城址。本丸は個人宅となり、遠望のみに留めたが、裏手に土塁・空堀が残されているようである。本丸に隣接して北の丸・西の丸・二の丸が在ったという磐裂神社から...

  • 石川城 栃木県鹿沼市

    石川城・栃木県鹿沼市@Google1573~92年(天正年間)宇都宮城主宇都宮国綱が壬生氏の本拠である鹿沼城に対する備えとして、黒川以東の多気山城を中心に、府所城・深津城・茂呂城等を整備した時に築いた支城の一つといわれる。城主は石川内膳正の名がみえ、1591年(天正19)石川因幡守の時、石川館を離れ、「安良居地」に幽居するが、1602年(慶長7)その子である四郎右衛門の弟越前が石川館跡に戻り、堀之内と改めたとされる。石川城は...

  • 上田陣屋(かみた) 栃木県壬生町

    上田藩陣屋・上田城@栃木県壬生町Google元禄5年(1692年)2月7日、徳川綱吉の小姓を務めていた安房東条藩主・西郷寿員(20歳)は、下野国都賀郡・河内郡・芳賀郡に所領を移された。寿員は上田を居所とし、これによって下野上田藩が立藩した。寿員の義父にあたる西郷延員はすでに隠居していたが、隠居の身でありながら不行状であるとして元禄5年(1692年)5月29日に綱吉の勘気を受けた。本来ならば他家に預けるべきところ、寿員が...

  • 樋口城 栃木県宇都宮市

    樋口城@栃木県鹿沼市Google下野の名門氏族である宇都宮氏の一族と伝わる樋口氏によって貞応元年(1222年)に築城される。築城者として樋口主計頭との名前が残っているが、樋口氏は代々主計頭を名乗っていたため、年代的に初代と目されるものの特定が出来ない。歴年の事績はほとんど伝わっていないが、戦国時代に入ると主城である宇都宮城を守る支城四十八館のひとつに数えられており、その防衛の最前線を担っていた。そして天正2...

  • 平将門公史跡 茨城県常総市蔵持

    平将門公史跡 茨城県常総市@Google「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5~7年(1253~1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門...

  • 古間木城 茨城県常総市

     古間木城@Google古間木城は嵯峨源氏の末裔を称する渡邉氏が築いている。1488年に起こった菅谷原(須賀谷原)の戦いでは古河公方足利成氏に従い、恩賞として平塚(八千代町)を賜っている。 ちなみに、菅谷原(須賀谷原)の戦いは、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った「長享の乱」での戦い。 向石毛城が天文年間(1532~55年)に多賀谷氏によって攻められると、向石毛城主館武蔵守の子播磨は母方の渡邊氏の元に逃れ...

  • 秋葉館(尾崎館) 茨城県結城郡八千代町

    秋葉館@Google秋庭治政は鎌倉幕府の地頭となり芦ヶ谷に来往し子孫は平将門の家臣の多治経明の館趾的な岡崎(尾崎)の一番屋敷に移った。屋敷は堀に囲まれてるので堀之内とも言われた。ここから秋葉三郎は結城合戦に参じ没した。その後、秋葉大膳は多賀氏と和してから入江の先の南方台地を御山としている。その南崖に製鉄趾がある。また氏神の秋葉神社を祀り、近世帰農してからは飯沼開発をして現在に至る。「現地説明板より」屋敷前...

  • 太田城 茨城県結城郡八千代町

    太田城@Google多くの遺構が、民家の間に残る城天正十九年(1591年)和歌城主であった多賀谷重経の長子三経(みつつね)によって築かれ、本拠を移し太田多賀谷氏となった。慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで下妻多賀谷氏は西軍につき佐竹氏の転封にともない出羽国久保田へ移った。また、太田多賀谷氏は結城氏と共に東軍につき、結城秀康の越前転封にともない北庄へ移った。 三経も秀康に従って越前国柿原(現福井県あわら市...

  • 和歌城 茨城県結城郡八千代町

    和歌城@Google南の対岸に、大田城が存在する築城年代は不明だが、和歌十郎により築かれたとされ、1469~86年(文明年間)下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西に及ぶと、その旗下に入った。1504~21年(永正年間)和歌十郎は後北条氏に通じた為、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に十郎討伐を命じ、以後和歌城は赤松氏が支配した。赤松氏は観応の擾乱に敗れ、下総国に逃れた播州赤松氏一族とみられる赤松祐弁の子孫で、八千代や周辺地域に...

  • 行田花手水 2023.1.30

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  • 鷲宮砦 茨城県結城郡八千代町

    鷲宮砦@Google鷲宮砦城は、興国元年(1340)5月28日、北畠親房の三男北畠顕顛信の軍により八丁砦(八千代町大字八町)と共に攻略された。その前日5月27日相馬にて北畠顕時、相馬忠重らの努力で南朝軍の形勢が強大となり、そのため、駒城では守備を怠ったのに、これを牒知した高師冬は夜襲して攻略した。それを知った関、大宝、真壁などの南朝方は、北畠顕信の軍と協力して同月28日に八丁砦、関本、善光寺の諸砦と共に鷲宮砦城を奪...

  • 八丁砦 茨城県結城郡八千代町

    八丁砦@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ八丁砦は、八町の四所神社や八町観音堂のある辺りにあったらしい。現在は周辺は水田だが当時は沼地の低湿地ではなかっただろうか?明確な遺構は見当たらない・・・・・らしい遺構は有るのだが不明。興国元年(1340)5月28日、北畠親房の三男北畠顕顛信の軍により八丁砦(八千代町大字八町)と共に攻略された。その前日5月27日相馬にて北畠顕時、相馬忠重らの努力で南朝軍の形勢...

  • 飯沼弘経寺 千姫菩提寺

    飯沼弘経寺@Google室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でありました。ところが天正5年(1577年)壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれましたが、第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました。そのため弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、第十世照...

  • 登城記録2022年

    登城記録2022年 月 日 新規 再 所在地 城館名 1月16日 1 福島県白河市 小峰城 1月16日 2 栃木県栃木市 皆川城 白山台 1月23日 1 山形県米沢市 米沢城 1月24日 7 福島県福島市 庭坂城 内城 猿内館 城之内館 隈ヶ城 名倉城 蟹田館 ...

  • エンゼルフォレスト 冬 2023.1.22~23

    羽鳥湖高原・・・・ここも去年と比べ雪は少ない(;゜0゜)!!温泉及び管理棟出勤中のジーナさん(2代目)今年は去年と比べ雪が少ない!!寒い事には変わりはないが・・・・すぐ側に温泉♨本日のサイトはドックランサイト、全体では10数組位か?一息 エチゴ🍺と柿ピ薪スト-ブの有る、冬キャンプ⛺この時期はビーフシチュ-エンゼルフォレストの氷結した湖今春オープンか?スノピ・・・・だが!キャンプ場がスノピ化してほしくない!...

  • 細井城 栃木県栃木市

    細井城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ1555~58年(弘治年間)小山城主小山高朝の命を受けた支族である細井駿河守光明により築かれた。この時小山武士団も細井城周辺に移住し、それを家中(かちゅう)と呼んだとされ、家中の地名はこれに由来するといわれる。1560年(永禄3)壬生城主壬生義雄に攻められ落城し、廃城になったとされる。1573~92年(天正年間)光明の菩提を弔う為、光円寺がこの地に移され、光明寺と改称され...

  • 神楽岡城 栃木県栃木市

    神楽岡城@Google㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ築城者・年代は不明だが、平安時代、源義家がこの地に至り、遠見張りを置いた為、現在の「富張」の地名になったといい、また「神楽岡」の地名も神楽を奏した事に由来するという。戦国時代、皆川城主皆川氏の支城として宇都宮城主宇都宮氏に対する北の守りの役割を持ち、両者の間で何度か激戦が交えられている。1588年(天正16)3月、常陸国太田城主佐竹義重の援助を受けた宇都宮国綱...

  • 木村氏館 栃木県栃木市

    木村氏館@Google鎌倉時代初期に木村五郎信綱が築いたとされる館である。信綱は、鎮守府将軍藤原秀郷の後裔、藤姓足利氏の一族足利七郎有綱の5男で、佐野氏の祖佐野太郎基綱の弟に当たる。信綱は不摩城の城主でもあったとされる。現在館跡は水田となり、北側に堀が残る。なお、木村氏館の西方75メートルの地には、鹿島神社が建っている。鹿嶋神社からの館遠景南側の台地を館と見た際の、北に残る堀とされる溜池のこれも、堀跡か...

  • 要害館 栃木県栃木市

    要害館@Google石碑には細井城の出城跡として、來宮タ左衛門尉館跡・・・・そして弘治年間に築城し永禄3年に廃城すと記されている。石碑だけがこの地に館が在った事を示す2023.1.15 初登城人気ブログランキング...

  • 吹上城 栃木県栃木市

    吹上城@Google縄張り図(現地説明板より)吹上城は、戦国時代に皆川氏一族の膝附宗長によって築かれたと云われている。皆川城、栃木城の支城であったが、慶長14年に皆川広照が領地没収され、この時に廃城となったと考えられている。 江戸時代後期の天保13年、有馬氏郁が上総五井より吹上へ移封になり1万石を領し、吹上城本丸跡に陣屋を構えた。有馬氏は、氏郁-氏弘と2代続いて明治に至った。遺構の大半は、学校の建設によ...

  • 板倉城 栃木県足利市

    板倉城&小比木氏館@Google㊟イメ-ジ図になります♪(/・ω・)/ ♪鎌倉時代の中ごろに足利泰氏の次男板倉(渋川氏の祖)次郎義顕(元の名を兼氏)が築城したと伝わるが、現存する城郭遺構は戦国期のものと推定される。城跡の山頂部は細長く狭隘で風当たりも強い、東側を除き眺望に優れていることから戦国期には物見砦として利用されたこと思われる。戦国期には小俣渋川家の一族である板倉修理の居城であったというが、居館がある...

  • 仁田山城 群馬県桐生市

    仁田山城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ麓には登山道、城址への案内板が有ります。仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里...

  • 矢部城 群馬県太田市

     矢部城@Google矢部城は、日本通運とガソリンスタンドと間の市道を入って右手の水田一帯に築かれていた。現在では、水田の一角に土塁の一部が残る。また近年の開発により残る土塁の内側には住宅地となっている。この城についての、詳細は不明。土塁全景土塁上の石祠と石碑2023.1.8 初登城人気ブログランキング...

  • 小此木氏館 栃木県足利市

    小此木氏館@Google小此木氏館跡は足利市大前町の民家敷地となり、畑などに利用され遺構は残っていない。民家敷地、畑などが館跡で、北側の稲荷神社横に案内板が建てられている。戦国時代末期、当地に勢力を振るった板倉城主・板倉渋川氏の家老小此木備中守正信の館跡とされる。又北東にある妙隆寺に小此木備中守の墓がある。小此木氏館の現在、遺構は確認できない小此木氏館説明板、この説明板がこの地に館が在った事を示す妙隆寺...

  • 宗英寺 松平康元墓所(徳川家康異父兄弟) 千葉県野田市

    宗英寺 松平康元が慶長元年(1596)に創建しました。その康元の墓のほか、4代古河公方・足利晴氏(?~1560)の墓や、関宿落としなどの治水事業を行った、関宿藩士の治水家でもあった船橋隋庵(1795~1872)の墓があります。山門の葉彫りも数少ない貴重なもので、創建当時のままです足利晴氏供養塔 永正5年(1508)宇都宮で生まれ、元服の時室町幕府12代将軍足利義晴の『晴』を賜り晴氏を名乗ります。戦国時代...

  • フォレストパーク おいらの森 ライトフォレスト 2022.12.25~26

    今年最後は・・・・・サイトNo1おいらの森を一気に、一巡り⛺サ‐カスTCにホンマの薪スト-ブin幕内レイアウトホンマさんは大きく暖かいし、大きな薪が入ります・・・・・・今回は約20kの薪を使用!!日が沈むと、気温が下がるおでんと檸檬サワ-真夜中の星空☆彡☆彡☆彡朝日・・・10時位です!今年もお世話になりました<m(__)m>人気ブログランキング...

  • 松野南城 栃木県那珂川町

    松野南城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ畑の台館を居城としていた松野氏が、後に居城とした城。松野には畑の台館、松野北城、松野南城があり、どれも松野氏関連の城である。二荒山神社から作業道が有り、行けるが・・・・・・近年は手を入れていないのだろうか?倒木が多く荒れている!!谷を抜けて主要郭周辺は良好に遺構が残る!!二荒山神社参道・・・・・石階段が長い・・・・・・・・・下段郭の堀切当たりの悪...

  • 鳴神山城 栃木県那珂川町

    鳴神山城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ歴史的詳細は不明、鳴神山城は、武茂城の北東2kmほどの所にある比高110mほどの愛宕山に築かれている。登城口 車でも可能だが・・・・ここまで車で可能だが・・・・・・・鋪装道から、藪道??目指すは主要遺構へ・・・・・高低差少なく楽である!!主郭手前の土橋と堀切か?主郭西側の堀切主郭・・・・明るい藪愛宕山の山頂が主郭主郭東側の堀切主郭北西側の堀切郭3・・・...

  • 上郷隆崖城 栃木県那珂川町

    上郷隆崖城@Google㊟イメ-ジ図になります♪(o・ω・)ノ))上郷隆崖城は下郷要害城の支城であったと伝えられています。城主は大山田氏下郷要害城は大山田氏の居城である。大山田氏は武茂氏の一族で、永禄年間頃の築城であるという。築城者は武茂泰宗の子孫の泰景で、彼は大山田左京亮と名乗り、大山田氏の祖となった。・・・・・・・先人の示した、入り口から簡単に城址へと行く事が出来る、上の城址迄作業道がついています。登城口...

  • 皆川城 栃木県栃木市

    皆川城@Google当初、寛喜年間(1229年 - 1232年)に皆川宗員によって築かれたが、この皆川氏は元享3年(1323年)に断絶した。新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である...

  • 小倉城 埼玉県比企郡ときがわ町

    小倉城@Google小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えています。 また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えています。 小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。本丸に相当する郭1...

  • 勝山城 山梨県都留市

    勝山城@Google勝山城は、「甲斐国志」によると、1594年に、豊臣秀吉の臣下であった浅井長政の家老 浅井氏重によって築城されたとされていますが、近年の研究により、戦国時代の郡内領主であった小山田越中守信有が、中津森から谷村に館を移したときに、要害城として築城に着手したと考えられるようになりました。完成後、城の所有者は何度か変わり、最も長く所有していたのは、江戸時代の秋元氏(泰朝、富朝、喬知-喬朝の3代)...

  • 古渡城 山梨県都留市

    古渡城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ南から北流してきた鹿留川はこの城山の山裾を西から北を深く削って流れている為に、北側や西側からは近よる事が出来ない。比高は50mばかりの小山が天然の要害である。又吉田と谷村を結ぶ古道の鹿留川の渡河点の地が古渡の地で交通の要衝にこの山がある。民家横に住吉神社登り口がある。南側に土塁の残る郭2の平坦地があり、北に住吉神社石段がある。石段の中間の鳥居先に、堀...

  • 吉田城 山梨県富士吉田市

    吉田城@Google㊟イメ-ジ図になります(○´・Д・`)ノ戦国時代の富士北麓地方の諸相を記録した文献として『妙法寺記』『勝山記』の名は広く知られている。その文亀元年(1501)及び永正13・14年(1516・17)の各年の条に吉田城山に関わる記述を見いだすことができる。前者は北条氏の、後者も今川氏の甲斐侵攻に関連するもので、双方ともに、甲駿国境に程近く、また甲駿を結ぶ鎌倉往還近傍に位置するという吉田城山の立地を色濃く物語るもの...

  • 朝霧ジャンボリ-オートキャンプ場 2022.12.11~12

    本日のフジヤマキャンプ場案内図広場サイト、ここからの富士山も最高!!しかし、チェクアウト時間の延長により・・・なかなかベストな位置が。゚(゚´Д`゚)゚。本日のテント サーカスTC・・・Nサイト本日の1本 富士山🍺昼飯・・・・吉田のうどん(´∀`*)プレミアルサイトからのフジヤマ・夕方から曇り、夜には雨と強風が((((;゚Д゚)))))))⛄⛄広場サイトからの朝日人気ブログランキング...

  • 中津森館&amp;用津院・桂林寺 山梨県都留市

    中津森館&用津院・桂林寺@Goole桂林寺と用津院の中間付近が館跡とされていますが、正確な位置や縄張り等については不明です。館の西から南にかけて沢が流れていて、また東側から用津院裏手にかけて、堀を兼ねていたと思われる沢谷戸があります。用津院背後の土塁?そして手前が館跡・・・用津院を含めた全体が館跡だろうか・・・・・・堀跡とされる水路用津院側から見た中津森館小山田氏菩提寺 桂林寺 3世紀から16世紀中頃に...

  • 晩秋の杉山城 埼玉県比企郡嵐山町

    杉山城@Google杉山城図面「国指定史跡・杉山城跡公式HP」より外郭の横堀三ノ丸からの馬出三ノ丸連続する折れ二ノ丸から見た本丸城塁杉山城 本丸本丸 城址碑・・・・・ここが激藪だったのが、夢の様です!!しかし、綺麗した為に城塁の崩落も・・・・本丸からの竪堀本丸西面の横堀東郭遠景北ニノ郭虎口の横堀からの竪堀人気ブログランキング2022.12.4 再々登城...

  • 柏木屋敷 静岡県裾野市茶畑

    柏木屋敷@Google㊟イメ-ジ図になります(´・Д・)」柏木屋敷は背後に川を控え、四方に土塁と水堀を巡らし、中世土豪の屋敷の形態を現在も保っています。虎口は西方に向かって設けられ、土塁は南方において高さ1.5m余りを有します。屋敷に代々居住した柏木氏は、茶畑に鎮座する浅問神社の神職を努め、天文20年(1551)あるいは同21年頃、葛山氏から神領を安堵され、また勧進を受け、国人領主の庇護下にあったことが、古文書によってう...

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