2024.4.14 散り出し🌸人気ブログランキング...
安戸城@Google東秩父村の村指定史跡となっている山城。築城時期や築城主など確かなことは不明だが、大河原氏による築城とも、その後の室町時代に松山城に移る前の上田氏が一時居住していたとも伝わる。また永禄6年(1563年)、松山城争奪合戦の折には松山城主上田朝直の退路となったともいわれる。麓に大霊神社があり、山頂部が城跡で堀跡などの遺構が残っている。安戸城 縄張り図(現地説明板より)入り口・・・・...
大河原氏館@Google松山城主上田氏の菩提寺です。鎌倉時代末、大河原神冶太郎光興の創建と伝えられています。寺伝によれば、大河原神冶太郎光興が屋敷内に道場を開くため、日蓮の弟子の日朗を招いたといわれています。大河原神冶太郎光興は、比企能員の子で鎌倉妙本寺を開いた比企能本と親交があったと伝わっています。2023.4.16 登城人気ブログランキング...
野ららの入り口、直ぐ左手が受付の管理棟望月キャンプサイト 野らら 案内図本日のキャンプサイトはフォレストサイト・・・すべてがフリ-サイト野ららの枝垂れ桜・・・薪は使い放題です!!ロガ4とタープの組み合わせ新アイテムの鉄瓶でコーヒ-タイム夕方のグラスサイトと管理棟方面ブッシュクラフトサイト・・・・直火OK氷点下6度の朝、霜柱も・・・・・・・朝日を浴びる!!早朝の桜さよなら・・・・野らら2023.4.9~10人気ブ...
2023.4.10 訪問ほぼ満開人気ブログランキング...
望月城砦群@Google望月氏のの南、旧仲山道の生瓜坂の峠ぁら南に続く山嶺上に砦が連続する。この尾根は、望月の街の東側の鹿曲川の谷の東側に防塁のごとき連なる砦群となる。生瓜皆砦を起点に、生瓜南砦、松明山砦、胡桃沢嶺砦と山道が有り1時間も有れば十分に堪能でき松明山砦と胡桃沢嶺砦の鞍部に総合グランドに降りていける道が有る。総合グランドから、望月城及び城砦群を見る旧中山道瓜生坂の碑旧中山道瓜生坂から脇へ瓜生嶺...
望月氏城光院館・・・・城光院山門望月氏の居館となる。文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。城光院の本堂居館から望月城を見上げる2023.4.9 初登城人気ブログランキング...
望月城・望月氏城光院館(居館)@Google㊟望月城イメ-ジ図になります。城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。城址へ...
2023.3.27人気ブログランキング...
2023.3.27人気ブログランキング...
2023.3.27 ㊟シーズン中は曜日関係なく、混みます!!...
城ヶ谷堤(桜土手)石戸蒲桜2023.3.27訪問人気ブログランキング...
2023.3.26 雨人気ブログランキング...
松田城@Google別名、中郡城。『保元物語』にみえる中郡庄の地頭中郡三郎の居城ともいわれる。中郡氏は後に足利尊氏の友旗に組し、官軍の総師北畠親房の部下春日顕国により討伐され、一時春日顕国の居城になったが、関東に於ける官軍も足利勢のため攻められ没落したという・・・・・・・・・・しかし、この城ついての詳細については不明である・・・・・・・・・・・・・立派な土塁と堀がが有るのは事実である!!北側から見た松田...
加納城@Google㊟イメ-ジ図になります!!加納城は、赤堀川の低湿地を防御に利用した中世の平城です。発掘調査の結果から、戦国期を下限とする室町時代(13〜16世紀頃)に存続した城と考えられています。平面形は出丸をもつ方形の内郭と、それを取り囲む外郭で構成されています。内郭の面積は11,400㎡で、外郭を含めると43,000㎡に及びます。この城の来歴や城主は不明ですが、岩槻太田氏の支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪...
三ツ木城@Google三ツ木城の詳細は不明ですが、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられていますが、いずれも定かではありません。近年の調査研究によれば14世紀代に築城されたものとされています。現在城山公園とされているが・・・・・・遺構の在る部分は、藪化しているが良好な堀と土塁が残る。㊟イメ-ジ図になります!!説明板(東側)東側の堀郭内は藪・・...
大宮館@Google舌状の大宮台地の最高所に位置し、西に荒川を望み、鎌倉街道の枝道が南の石戸郷から北上してくる交通の要衝であった場所に中世の館跡とみられる遺構が発掘された、歴史的詳細不明である。堀の位置から中心部は、もっと北側の阿弥陀堂を含む一帯とされ堀の中から中国製の陶磁器が発見され鎌倉時代前半には既に館は存在していたと思われる事から同時期の石戸宿の堀ノ内館が有る事から推測すると、鎌倉幕府御家人石戸氏...
上手館@Google地元の郷土史家などの手により明らかにされたもので、「武蔵志」の足立郡の巻によれば、「古市場古塁 古市場村にあり、地形西北深田、東南平地なり、城主不詳」と記されていており上手館と思われる。歴史的詳細は不明。又縄文時代には大集落が広がり、発掘調査も行われている。上手館 ガス会社の貯蔵タンクがある場所である!!北西側に土塁は残らない。水路が堀跡?南西側の土塁、道路は堀跡?南西側東側にも土塁...
阿弥陀堂のエドヒガンサクラ(埼玉県桶川市)普門寺の枝垂れ桜(埼玉県桶川市)*去年より、1週間は見頃が早いと思われる!!人気ブログランキング...
2023.3.20 見頃人気ブログランキング...
谷中城@Google㊟イメ-ジ図になります。築城時期は定かでないが、地元の土豪谷中氏の居城であったといわれる。天正十一年(1583年)益子氏と笠間氏の間で起こった冨谷合戦で谷中玄蕃は笠間氏に属し、橋本城の城将を任された。最終的に富谷城が落城した。加波山神社右側から背後に登り、ピンクのマーカーを辿って行くと空堀に出る。空堀は北から東、南へ伸びており、その上段に主郭がある。又麓にも東西に延びる土塁、堀が残る...
冨谷城@Google㊟イメ-ジ図になります(ou(工)u)ノここは益子領であり、益子氏の家臣加藤氏が居城していた。天正十一年(1583年)、百姓同士の境界争いから、益子氏と笠間氏の争い(冨谷合戦)が起きた。冨谷城の加藤大隈守の軍と、橋本城の谷中玄蕃の軍が戦い、合戦は始め益子氏方が有利であったが、笠間氏方が盛り返し、冨谷城も落城したと云われている。南側からの城址遠景西側の堀・・・・・・分かりずらいが、堀!!北側...
富岡城@Google㊟イメ-ジ図になります!!岩瀬町史は坂戸城主小宅氏家臣稲川土佐を城主に挙げている。天正13年(1985)結城氏と笠間氏間で戦いとなり、結城方の重臣片見郎党月山坊が富岡城に入り、笠間勢と戦ったという記録(播龍記)がある。この地は戦国の末期に宇都宮領となるが、宇都宮氏の改易でこの城も廃城になったと思われる。城址遠景南側から入って最初に見える郭麓の標柱、この背後から入ります主郭 南側の堀東側の堀...
予約方法はオーナー様のインスタをフォローしてDMにて区画サイト駐車場 トイレ及び薪置き場(薪は無料で使用出来ます)本日の野営地・・・・本日は3人だけなので・・・・・視界に入らないように!!本日は、ソロティピ-1TCにて,雨も降らなくちょうど良い気温でした今朝は曇りで・・・朝日が・・・・(東側は開けていて、山並みが)人気ブログランキング...
鳩が森城(宇都野城)・栃木県那須塩原市@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ鳩ヶ森城は、寛治3年(1089)に山本上総介家隆(やまもとかずさのすけいえたか)によって築かれた。山本氏は白鳳時代に創建された嶽山箒根神社の別当職を代々務めた家系で、後三年(ごさんねん)の役(えき)の際、当時別当職にあった隆珍は、源義家(みなもとのよしいえ)に従い軍功をたて、山本上総介家隆と名を改め、箒川沿岸8か村、伊佐野郷15か村を...
小滝城・栃木県大田原市@Google小滝城は、建徳元年(1370)(北朝年号は応安3年)、那須資藤の五男五郎資信がこの地に居館を構えて小滝氏を称し、居住したといわれます。 現在は水田・宅地となっていますが、土塁と空堀の一部が確認されています。また今でも外城(とじょう)の地名が残っています。 小滝氏は資信・信保・信方・信般・信伴・増信・信定と伝え、小滝一円を領し、この地の豪族として繁栄しました。 増信は小滝五郎...
*2023.3.5現在の状況、見頃で満開はまじか!!🌸人気ブログランキング...
水口館・栃木県大田原市@Google㊟イメ-ジ図になります♪(/・ω・)/ ♪水口居館は明応年間(1492から1501)のはじめ、大田原(大俵)康清(やすきよ)が武蔵国から移り、居館を構えたところと伝えられます。 以降大田原氏はこの地を拠点にして近隣に勢力を張り、那須家に仕えました。資清(すけきよ)の代に、福原氏、大関氏などと事を構え戦に敗れ、資清は永正15年(1518)に出家して、越前国永平寺に逃れたため一時廃館となりました。...
花形輪館・鎌足城・栃木県大田原市@Google城の詳細は明らかではなく、一般的には隣接する藤形輪館の要害ではないかと考えられる。鎌足城南側からの遠景2023.2.26 初登城人気ブログランキング...
花形輪館・鎌足城・栃木県大田原市@Google応永年間(1394~1428)に那須資氏の三男、資茂がこの地を拝領し羽田氏を名乗り築城したと言われております。また、当城の南東部に鎌足城(同地区富士ヶ館)がありますが、鎌足城は当城の要害であった考えられます。資茂の後は豊前、貞明、貞和と続き、貞和の時に羽田城(同地区字柿木内)を築城し居城を移した為廃城となりました。なお貞明は大木須城主(那須烏山市大木須)であ...
平家瀬尾家館(中田原城)・栃木県大田原市@Google石碑には・・・・・古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる 平成二十一年十月吉日瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書徳川家康が五街道を定めるまでは東山道は奥州に向かう道であった。2023.2.26 初登城人気ブログランキング...
星の森キャンプ場入り口、この道を進みます!!Aフリ-・区画サイト(展望台から)Bフリ-サイト・・・砂利地B区画サイト・・・・ソロ⛺にはベストな広さ!!本日はB展望台側、VサイトTELにて予約初デビュ- ソロティピ-tcと前幕あまり焼肉はしないが!!タン塩朝焼け・・・・風の強い夜でした!!2023.2.26 初人気ブログランキング人気ブログランキング...
久保城・栃木県大田原市@Google久保館跡は乙連沢(おとれざわ)字北久保谷地にある丘陵突端の舌状地にあり、東側に断崖をもつ要害の地です。現在、土塁と堀跡と思われる遺構が残ります。 かつては、久保氏の居館跡と伝えられているだけで、城主や構築年代、城館の史実などは不明でしたが、昭和50年代に久保氏の子孫が判明し、久保館の構築から廃城に至る経緯が判明しました。 それによれば、初代城主は宇都宮資近(す...
伊佐野城・栃木県矢板市@Google伊佐野城は、塩谷氏が下野国塩谷郡を治めていた時代に家臣の山本氏の支配の城であったことが知られており、塩谷氏の本城である川崎城の北の守りを成す支城のひとつであった。土豪の館を山に築いた程度の小規模な城で、堀切により守られた主郭と階郭の曲輪により構成される。当地には持宝院という寺があり、現在は城の北側の麓に移転しているが、かつては、城ともに山にあったと伝わり、伊佐野城は半...
平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つとなった。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備された。古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとしても機能した。明治時代初期の廃城令に...
諏訪山城・栃木県鹿沼市@Google㊟イメ-ジ図になります(=゚ω゚)ノ諏訪山城は室町時代末期に、粟野城主であった平野大膳によって築かれたという。天正十六年(1588年)には佐竹氏の援助を受けた宇都宮国綱が皆川領に侵攻し、皆川広照自ら諏訪山城に拠ってこれを阻止せしようとしたが攻められて落城し、広照は布袋ヶ岡城に逃れたという。丸山・・・・・物見としてか?諏訪山城へ南側の竪堀堀切 橋台からの横堀横堀からの竪堀障壁...
加園城・栃木県鹿沼市@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ土豪渡辺氏の城で有り、周辺勢力の宇都宮氏、壬生氏、皆川氏、小山氏などの間を揺れ動きながら生き延びていた。1523年に行われた宇都宮忠綱と皆川宗成の一大決戦、河原田の戦いでは当初宇都宮方として参加していたが、皆川氏を支援する小山氏・結城氏の同族連合は、宇都宮勢の背後に回り込み、加園城・南摩城の奪取を目論んだ為、渡辺右衛門尉は小山氏に降ったと...
常楽寺は、室町中期寛正三年(西暦一四六二年)壬生初代城主壬生筑後守胤業公が、寺領二十六石を寄進して創建した曹洞宗の寺院です。開山和尚は、道元禅師から数えて十世の法孫一州正伊禅師であり、壬生氏一門の氏寺として栄えました。一五九〇年に壬生氏が絶えて後も、壬生氏の家臣や歴代の壬生城主に庇護され、一七一二年に壬生城主となった鳥居忠英公の帰依を受けて後は、鳥居家の菩提寺として篤く護持されてまいりました。壬生...
朝比奈の五輪塔は、上田朝比奈の小高い丘の上に建てられています。この五輪塔は上田の五輪塔とともに、鎌倉から室町時代にかけて造られたものであり、町内に残る五輪塔では最大のものです。本五輪塔には、朝比奈三郎の伝説が語り継がれています。壬生町文化財で壬生町最大の高さ約260cmある五輪塔で鎌倉時代~室町時代に建てられたものです。このお墓を建てたといわれる怪力として知られた朝比奈義秀の伝説があります。父である和...
永林寺館@栃木県鹿沼市Google永林寺境内北側には土塁・空堀が残されているが、歴史的詳細は不明。境内西側にも一部二重となる空堀・土塁が確認出来るが、こちらは江戸時代以降に整備された可能性が考えられている。永林寺の西側と北側の墓地の東側に遺構は残る遺構は有るのだが・・・・北西側に残る堀墓地奥の堀と土塁2023.2.5 再人気ブログランキング...
短草館@栃木県鹿沼市Google短草館遠景個人宅の北側の山林に、土塁や堀が残っているのが分かる・・・・・この館についての歴史的詳細は不明。2023.2.5 再人気ブログランキング...
上田藩陣屋・上田城@栃木県鹿壬生町Google西側から見た上田城、そして上田藩陣屋跡が隣接している・・・・・歴史的詳細は不明上田城 民家背後に遺構が残る民家背後の防風林の中に、土塁と堀が残る・・・・西側から東に延びる土塁上田の五輪塔 上田の五輪塔は朝比奈の五輪塔とともに、 鎌倉から室町時代にかけて造られたものです。本五輪塔は近年この地に移築されており、その際に五輪塔直下より蔵骨器として利用された古瀬戸瓶...
吉田城・茨城県水戸市@Google㊟イメージ図になります。半島状台地には三方(一つは旧千波湖)を沼囲み、森林が茂り、武士の居館として最適な要害であった。正確な年代はさだかではないが、平安時代後期に築城されたと推定される。大掾盛幹が初め館を建てて吉田氏を称してこの地を統治した。しかし応永23年(1416年)になると水戸は江戸氏の支配下になり、吉田城は江戸氏のものとなる。その際、土塁や堀を強化したと推定される。他...
大串原館・水戸市@Google㊟イメ-ジ図になります。住吉神社の南西300mほどの所である。この辺りには山林が残っているのだが、中を歩いてみると、規模こそは小さいがしっかりと堀と土塁を廻らせた館跡が残っている。周囲に土塁と堀が巡らされ、さらに堀の外側にも土塁があり、比高二重土塁の形状を成しているのだが、土塁の高さ、堀の深さは、いずれも現状では1m程度とかなり浅くなってしまっている。幅も3mほどしかないので...
平戸館・水戸市@Google鹿島臨海鉄道大洗駅の北にある涸沼橋の北方に「平戸館跡」である「吉田神社」があります。「平戸館」は平貞盛の居館があったされ、現在の吉田神社周辺にあったと思われます。「吉田神社」は、平貞盛の祈祷所だったと伝えられています。現在は耕地整理等でほとんど隠滅してしまったらしく、これといった遺構は見られない。低地に土塁と堀を巡らせた館の跡で、八幡神社のある1郭、吉田神社のある...
富士ノ上館・ひたちなか市@Google㊟イメ-ジ図になります。歴史的詳細は不明であるが、橿原神宮神宮拝殿を囲むように土塁が残るが堀は確認出来ない。この地は高台の突端となり、最適と言える。橿原神宮は奈良時代の和銅年中に創建したといわれ、鎮座地 は涸沼のほとり石崎村升原というところである。室町時代の仁寿年中(1511~13)になって湊村の宮 山町に奉遷した。延長5年(927)に桓武・崇道両天皇を合祀した。その 頃は、柏原大...
壬生城@栃木県壬生町Google壬生城@縄張り図1462年(寛正3年)に壬生氏の始祖壬生胤業が、この城より北西にある常楽寺の西側・柵の内と呼ばれる場所に館を建てる。俗に壬生古城という。文明年間(1469年-1486年)に壬生氏第2代当主壬生綱重によって築かれたとされる。1590年(天正18年)小田原征伐で壬生氏第5代当主壬生義雄が病没し、壬生氏が滅んだ後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。1600年(慶長5年)に結城秀...
茂呂城@栃木県鹿沼市Google鹿沼城の壬生氏に対して城を整備した。その1つが茂呂城であり、その他に、千渡城、深津城、石川城などがその役目を担っていた。茂呂城の初代城主は市田備中守である。宇都宮氏の滅亡により、茂呂城は廃城になった。磐裂神社東側一帯が城址。本丸は個人宅となり、遠望のみに留めたが、裏手に土塁・空堀が残されているようである。本丸に隣接して北の丸・西の丸・二の丸が在ったという磐裂神社から...
石川城・栃木県鹿沼市@Google1573~92年(天正年間)宇都宮城主宇都宮国綱が壬生氏の本拠である鹿沼城に対する備えとして、黒川以東の多気山城を中心に、府所城・深津城・茂呂城等を整備した時に築いた支城の一つといわれる。城主は石川内膳正の名がみえ、1591年(天正19)石川因幡守の時、石川館を離れ、「安良居地」に幽居するが、1602年(慶長7)その子である四郎右衛門の弟越前が石川館跡に戻り、堀之内と改めたとされる。石川城は...
上田藩陣屋・上田城@栃木県壬生町Google元禄5年(1692年)2月7日、徳川綱吉の小姓を務めていた安房東条藩主・西郷寿員(20歳)は、下野国都賀郡・河内郡・芳賀郡に所領を移された。寿員は上田を居所とし、これによって下野上田藩が立藩した。寿員の義父にあたる西郷延員はすでに隠居していたが、隠居の身でありながら不行状であるとして元禄5年(1692年)5月29日に綱吉の勘気を受けた。本来ならば他家に預けるべきところ、寿員が...
樋口城@栃木県鹿沼市Google下野の名門氏族である宇都宮氏の一族と伝わる樋口氏によって貞応元年(1222年)に築城される。築城者として樋口主計頭との名前が残っているが、樋口氏は代々主計頭を名乗っていたため、年代的に初代と目されるものの特定が出来ない。歴年の事績はほとんど伝わっていないが、戦国時代に入ると主城である宇都宮城を守る支城四十八館のひとつに数えられており、その防衛の最前線を担っていた。そして天正2...
平将門公史跡 茨城県常総市@Google「平将門公赦免菩提供養之碑」など建長5~7年(1253~1255年)銘の板碑は、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が民政安定のために当地の先霊を慰めるべく豊田四郎将基(伊勢平氏の祖・平貞盛の4世の孫。鎮守府副将軍となり、豊田郷を領した。)の供養碑を建てた。このとき、平将門公の祭祀がきちんと行われていないと知り、自ら執奏して勅免を得、下総国守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、将門...
古間木城@Google古間木城は嵯峨源氏の末裔を称する渡邉氏が築いている。1488年に起こった菅谷原(須賀谷原)の戦いでは古河公方足利成氏に従い、恩賞として平塚(八千代町)を賜っている。 ちなみに、菅谷原(須賀谷原)の戦いは、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った「長享の乱」での戦い。 向石毛城が天文年間(1532~55年)に多賀谷氏によって攻められると、向石毛城主館武蔵守の子播磨は母方の渡邊氏の元に逃れ...
秋葉館@Google秋庭治政は鎌倉幕府の地頭となり芦ヶ谷に来往し子孫は平将門の家臣の多治経明の館趾的な岡崎(尾崎)の一番屋敷に移った。屋敷は堀に囲まれてるので堀之内とも言われた。ここから秋葉三郎は結城合戦に参じ没した。その後、秋葉大膳は多賀氏と和してから入江の先の南方台地を御山としている。その南崖に製鉄趾がある。また氏神の秋葉神社を祀り、近世帰農してからは飯沼開発をして現在に至る。「現地説明板より」屋敷前...
太田城@Google多くの遺構が、民家の間に残る城天正十九年(1591年)和歌城主であった多賀谷重経の長子三経(みつつね)によって築かれ、本拠を移し太田多賀谷氏となった。慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで下妻多賀谷氏は西軍につき佐竹氏の転封にともない出羽国久保田へ移った。また、太田多賀谷氏は結城氏と共に東軍につき、結城秀康の越前転封にともない北庄へ移った。 三経も秀康に従って越前国柿原(現福井県あわら市...
和歌城@Google南の対岸に、大田城が存在する築城年代は不明だが、和歌十郎により築かれたとされ、1469~86年(文明年間)下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西に及ぶと、その旗下に入った。1504~21年(永正年間)和歌十郎は後北条氏に通じた為、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に十郎討伐を命じ、以後和歌城は赤松氏が支配した。赤松氏は観応の擾乱に敗れ、下総国に逃れた播州赤松氏一族とみられる赤松祐弁の子孫で、八千代や周辺地域に...
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鷲宮砦@Google鷲宮砦城は、興国元年(1340)5月28日、北畠親房の三男北畠顕顛信の軍により八丁砦(八千代町大字八町)と共に攻略された。その前日5月27日相馬にて北畠顕時、相馬忠重らの努力で南朝軍の形勢が強大となり、そのため、駒城では守備を怠ったのに、これを牒知した高師冬は夜襲して攻略した。それを知った関、大宝、真壁などの南朝方は、北畠顕信の軍と協力して同月28日に八丁砦、関本、善光寺の諸砦と共に鷲宮砦城を奪...
八丁砦@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ八丁砦は、八町の四所神社や八町観音堂のある辺りにあったらしい。現在は周辺は水田だが当時は沼地の低湿地ではなかっただろうか?明確な遺構は見当たらない・・・・・らしい遺構は有るのだが不明。興国元年(1340)5月28日、北畠親房の三男北畠顕顛信の軍により八丁砦(八千代町大字八町)と共に攻略された。その前日5月27日相馬にて北畠顕時、相馬忠重らの努力で南朝軍の形勢...
飯沼弘経寺@Google室町時代には関東浄土宗の中心寺院として栄え、多くの学僧を世に送った有力寺院でありました。ところが天正5年(1577年)壇越常陸下妻城主多賀谷氏と小田原北條氏の合戦に巻き込まれ多賀谷氏が弘経寺に陣を張ったために、戦火で堂宇を焼かれましたが、第九世壇誉存把上人は下妻に逃れ、後に結城に秀康の帰依を得て結城に弘経寺を再建しました。そのため弘経寺は寺院活動の停止を余儀なくされましたが、第十世照...
登城記録2022年 月 日 新規 再 所在地 城館名 1月16日 1 福島県白河市 小峰城 1月16日 2 栃木県栃木市 皆川城 白山台 1月23日 1 山形県米沢市 米沢城 1月24日 7 福島県福島市 庭坂城 内城 猿内館 城之内館 隈ヶ城 名倉城 蟹田館 ...
羽鳥湖高原・・・・ここも去年と比べ雪は少ない(;゜0゜)!!温泉及び管理棟出勤中のジーナさん(2代目)今年は去年と比べ雪が少ない!!寒い事には変わりはないが・・・・すぐ側に温泉♨本日のサイトはドックランサイト、全体では10数組位か?一息 エチゴ🍺と柿ピ薪スト-ブの有る、冬キャンプ⛺この時期はビーフシチュ-エンゼルフォレストの氷結した湖今春オープンか?スノピ・・・・だが!キャンプ場がスノピ化してほしくない!...
細井城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ1555~58年(弘治年間)小山城主小山高朝の命を受けた支族である細井駿河守光明により築かれた。この時小山武士団も細井城周辺に移住し、それを家中(かちゅう)と呼んだとされ、家中の地名はこれに由来するといわれる。1560年(永禄3)壬生城主壬生義雄に攻められ落城し、廃城になったとされる。1573~92年(天正年間)光明の菩提を弔う為、光円寺がこの地に移され、光明寺と改称され...
神楽岡城@Google㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ築城者・年代は不明だが、平安時代、源義家がこの地に至り、遠見張りを置いた為、現在の「富張」の地名になったといい、また「神楽岡」の地名も神楽を奏した事に由来するという。戦国時代、皆川城主皆川氏の支城として宇都宮城主宇都宮氏に対する北の守りの役割を持ち、両者の間で何度か激戦が交えられている。1588年(天正16)3月、常陸国太田城主佐竹義重の援助を受けた宇都宮国綱...
木村氏館@Google鎌倉時代初期に木村五郎信綱が築いたとされる館である。信綱は、鎮守府将軍藤原秀郷の後裔、藤姓足利氏の一族足利七郎有綱の5男で、佐野氏の祖佐野太郎基綱の弟に当たる。信綱は不摩城の城主でもあったとされる。現在館跡は水田となり、北側に堀が残る。なお、木村氏館の西方75メートルの地には、鹿島神社が建っている。鹿嶋神社からの館遠景南側の台地を館と見た際の、北に残る堀とされる溜池のこれも、堀跡か...
要害館@Google石碑には細井城の出城跡として、來宮タ左衛門尉館跡・・・・そして弘治年間に築城し永禄3年に廃城すと記されている。石碑だけがこの地に館が在った事を示す2023.1.15 初登城人気ブログランキング...
吹上城@Google縄張り図(現地説明板より)吹上城は、戦国時代に皆川氏一族の膝附宗長によって築かれたと云われている。皆川城、栃木城の支城であったが、慶長14年に皆川広照が領地没収され、この時に廃城となったと考えられている。 江戸時代後期の天保13年、有馬氏郁が上総五井より吹上へ移封になり1万石を領し、吹上城本丸跡に陣屋を構えた。有馬氏は、氏郁-氏弘と2代続いて明治に至った。遺構の大半は、学校の建設によ...
板倉城&小比木氏館@Google㊟イメ-ジ図になります♪(/・ω・)/ ♪鎌倉時代の中ごろに足利泰氏の次男板倉(渋川氏の祖)次郎義顕(元の名を兼氏)が築城したと伝わるが、現存する城郭遺構は戦国期のものと推定される。城跡の山頂部は細長く狭隘で風当たりも強い、東側を除き眺望に優れていることから戦国期には物見砦として利用されたこと思われる。戦国期には小俣渋川家の一族である板倉修理の居城であったというが、居館がある...
仁田山城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ麓には登山道、城址への案内板が有ります。仁田山城は、里見氏が一時期城主であったとされる城である。元は南北朝期にこの地を領した山田氏が築いたが、1351年に筑後守則之がこの城で桐生城主桐生国綱に攻め滅ぼされたと伝えられている。室町中期には、二階堂氏が仁田山郷を与えられ、その家臣里見蔵人家連が城主となった。 桐生氏の最盛期を築いた桐生助綱は、仁田山城の里...
矢部城@Google矢部城は、日本通運とガソリンスタンドと間の市道を入って右手の水田一帯に築かれていた。現在では、水田の一角に土塁の一部が残る。また近年の開発により残る土塁の内側には住宅地となっている。この城についての、詳細は不明。土塁全景土塁上の石祠と石碑2023.1.8 初登城人気ブログランキング...
小此木氏館@Google小此木氏館跡は足利市大前町の民家敷地となり、畑などに利用され遺構は残っていない。民家敷地、畑などが館跡で、北側の稲荷神社横に案内板が建てられている。戦国時代末期、当地に勢力を振るった板倉城主・板倉渋川氏の家老小此木備中守正信の館跡とされる。又北東にある妙隆寺に小此木備中守の墓がある。小此木氏館の現在、遺構は確認できない小此木氏館説明板、この説明板がこの地に館が在った事を示す妙隆寺...
宗英寺 松平康元が慶長元年(1596)に創建しました。その康元の墓のほか、4代古河公方・足利晴氏(?~1560)の墓や、関宿落としなどの治水事業を行った、関宿藩士の治水家でもあった船橋隋庵(1795~1872)の墓があります。山門の葉彫りも数少ない貴重なもので、創建当時のままです足利晴氏供養塔 永正5年(1508)宇都宮で生まれ、元服の時室町幕府12代将軍足利義晴の『晴』を賜り晴氏を名乗ります。戦国時代...
フォレストパーク おいらの森 ライトフォレスト 2022.12.25~26
今年最後は・・・・・サイトNo1おいらの森を一気に、一巡り⛺サ‐カスTCにホンマの薪スト-ブin幕内レイアウトホンマさんは大きく暖かいし、大きな薪が入ります・・・・・・今回は約20kの薪を使用!!日が沈むと、気温が下がるおでんと檸檬サワ-真夜中の星空☆彡☆彡☆彡朝日・・・10時位です!今年もお世話になりました<m(__)m>人気ブログランキング...
松野南城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ畑の台館を居城としていた松野氏が、後に居城とした城。松野には畑の台館、松野北城、松野南城があり、どれも松野氏関連の城である。二荒山神社から作業道が有り、行けるが・・・・・・近年は手を入れていないのだろうか?倒木が多く荒れている!!谷を抜けて主要郭周辺は良好に遺構が残る!!二荒山神社参道・・・・・石階段が長い・・・・・・・・・下段郭の堀切当たりの悪...
鳴神山城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ歴史的詳細は不明、鳴神山城は、武茂城の北東2kmほどの所にある比高110mほどの愛宕山に築かれている。登城口 車でも可能だが・・・・ここまで車で可能だが・・・・・・・鋪装道から、藪道??目指すは主要遺構へ・・・・・高低差少なく楽である!!主郭手前の土橋と堀切か?主郭西側の堀切主郭・・・・明るい藪愛宕山の山頂が主郭主郭東側の堀切主郭北西側の堀切郭3・・・...
上郷隆崖城@Google㊟イメ-ジ図になります♪(o・ω・)ノ))上郷隆崖城は下郷要害城の支城であったと伝えられています。城主は大山田氏下郷要害城は大山田氏の居城である。大山田氏は武茂氏の一族で、永禄年間頃の築城であるという。築城者は武茂泰宗の子孫の泰景で、彼は大山田左京亮と名乗り、大山田氏の祖となった。・・・・・・・先人の示した、入り口から簡単に城址へと行く事が出来る、上の城址迄作業道がついています。登城口...
皆川城@Google当初、寛喜年間(1229年 - 1232年)に皆川宗員によって築かれたが、この皆川氏は元享3年(1323年)に断絶した。新たに勃興した長沼氏の血を引く皆川氏によって皆川城が築かれたが、その年代には諸説ある。かつては応永元年(1394年)に皆川秀光によって築かれたとされたが、これには時間的矛盾が生じる。「皆川正中録」では築城主を皆川氏秀としているが、その父の皆川秀宗が築いたとも言われ、皆川氏の菩提寺である...
小倉城@Google小倉城跡にかかわる同時代の確実な文書は発見されていないが、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』では、戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の重臣遠山氏を城主として伝えています。 また、『武蔵志』では遠山氏、或いは上田氏とも伝えています。 小倉城は、攻守一体で様々な工夫が凝らされた削平地をつらねた戦国時代の山城で、通称城山と呼ばれる山の山頂から中腹にかかえて所在している。本丸に相当する郭1...
勝山城@Google勝山城は、「甲斐国志」によると、1594年に、豊臣秀吉の臣下であった浅井長政の家老 浅井氏重によって築城されたとされていますが、近年の研究により、戦国時代の郡内領主であった小山田越中守信有が、中津森から谷村に館を移したときに、要害城として築城に着手したと考えられるようになりました。完成後、城の所有者は何度か変わり、最も長く所有していたのは、江戸時代の秋元氏(泰朝、富朝、喬知-喬朝の3代)...
古渡城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ南から北流してきた鹿留川はこの城山の山裾を西から北を深く削って流れている為に、北側や西側からは近よる事が出来ない。比高は50mばかりの小山が天然の要害である。又吉田と谷村を結ぶ古道の鹿留川の渡河点の地が古渡の地で交通の要衝にこの山がある。民家横に住吉神社登り口がある。南側に土塁の残る郭2の平坦地があり、北に住吉神社石段がある。石段の中間の鳥居先に、堀...
吉田城@Google㊟イメ-ジ図になります(○´・Д・`)ノ戦国時代の富士北麓地方の諸相を記録した文献として『妙法寺記』『勝山記』の名は広く知られている。その文亀元年(1501)及び永正13・14年(1516・17)の各年の条に吉田城山に関わる記述を見いだすことができる。前者は北条氏の、後者も今川氏の甲斐侵攻に関連するもので、双方ともに、甲駿国境に程近く、また甲駿を結ぶ鎌倉往還近傍に位置するという吉田城山の立地を色濃く物語るもの...
朝霧ジャンボリ-オートキャンプ場 2022.12.11~12
本日のフジヤマキャンプ場案内図広場サイト、ここからの富士山も最高!!しかし、チェクアウト時間の延長により・・・なかなかベストな位置が。゚(゚´Д`゚)゚。本日のテント サーカスTC・・・Nサイト本日の1本 富士山🍺昼飯・・・・吉田のうどん(´∀`*)プレミアルサイトからのフジヤマ・夕方から曇り、夜には雨と強風が((((;゚Д゚)))))))⛄⛄広場サイトからの朝日人気ブログランキング...
中津森館&用津院・桂林寺@Goole桂林寺と用津院の中間付近が館跡とされていますが、正確な位置や縄張り等については不明です。館の西から南にかけて沢が流れていて、また東側から用津院裏手にかけて、堀を兼ねていたと思われる沢谷戸があります。用津院背後の土塁?そして手前が館跡・・・用津院を含めた全体が館跡だろうか・・・・・・堀跡とされる水路用津院側から見た中津森館小山田氏菩提寺 桂林寺 3世紀から16世紀中頃に...
杉山城@Google杉山城図面「国指定史跡・杉山城跡公式HP」より外郭の横堀三ノ丸からの馬出三ノ丸連続する折れ二ノ丸から見た本丸城塁杉山城 本丸本丸 城址碑・・・・・ここが激藪だったのが、夢の様です!!しかし、綺麗した為に城塁の崩落も・・・・本丸からの竪堀本丸西面の横堀東郭遠景北ニノ郭虎口の横堀からの竪堀人気ブログランキング2022.12.4 再々登城...
柏木屋敷@Google㊟イメ-ジ図になります(´・Д・)」柏木屋敷は背後に川を控え、四方に土塁と水堀を巡らし、中世土豪の屋敷の形態を現在も保っています。虎口は西方に向かって設けられ、土塁は南方において高さ1.5m余りを有します。屋敷に代々居住した柏木氏は、茶畑に鎮座する浅問神社の神職を努め、天文20年(1551)あるいは同21年頃、葛山氏から神領を安堵され、また勧進を受け、国人領主の庇護下にあったことが、古文書によってう...
南一色城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ長泉南一色の、北東から張り出した舌状の丘陵性台地の先端部、標高100mの通称城山に位置し、脚部よりの比高15mある。城域は長さ350m、幅およそ130mあり、東側に梅ノ木沢(天神川)が迂曲して流れる。主郭のⅠノ曲輪の北側に空堀切を画して北ノ曲輪、南東側にⅡ・Ⅲノ曲輪が連続している。Ⅰノ曲輪は方55×30m、Ⅱノ曲輪は方40×30m、Ⅲノ曲輪はそれより一段下になって方40×25mあり、...
大畑城@Google㊟イメ-ジ図になります(´・Д・)」築城年代は不明だが戦国時代、葛山城の支城として葛山氏により築かれたと云われる。葛山氏の一族或は家臣が居城したと考えられている。本城は大畑集落の北側を遮る愛鷹山東末端の、標高170mの狭長な尾根頂部、小字古城跡に位置し、南裾部からの比高30mほどある。本城の北側は絶壁となって佐野川(谷津川ともいう)に落ち込み、東側は黄瀬川に囲まれる。城域の長さは350mほどあり、本...
長久保城@Google築城時期や築城者は確定されていないが、鎌倉時代初期に竹之下孫八左衛門頼忠が築いた砦が始まりとされる。大友親頼の三男親政が、1439年(永享11年)の足利持氏滅亡(永享の乱)により今川氏に仕え、駿河国駿東郡長久保を領していたため一説には長久保氏の築城とも言われる。愛鷹山の尾根の末端を利用した平山城で、南に黄瀬川、西にその支流の桃沢川、東に同じく支流の梅ノ木沢川と、三方を川に囲まれた自然地形...
千福城@Google㊟イメ-ジ図になります(・Д・)ノ(標識の有る場所えお主に)葛山備中守が千福城主と伝わり大坂の陣で豊臣方として戦った御宿勘兵衛政友が居城としたと伝わる。政友は武田信玄に仕えたのを皮切りに北条氏政、徳川家康、蒲生氏郷といった名将に仕えている。上杉景勝のもとを去った後は結城秀康に高禄で迎えられたが跡継ぎの松平忠直と合わず豊臣秀頼の招きに応じて大坂城へ入った。徳川の大軍相手に勇ましく戦った政...
葛山館@Google ㊟イメ-ジ図になります(´・Д・)」葛山氏館跡は、中世豪族屋敷の典型的な遺構として重要な価値を持つものである。 その期限は鎌倉時代までさかのぼるとされている単濠単郭式の方形館である。 館は東西100メートル、南北100メートルで10,000平方メートルの規模を持ち、井戸が2基あった。 土塁は基底7メートルで、馬踏3メートル、高さ4メートル、水濠幅7メートルで、東西南北の地形によって多少異なるが上幅は2メ...
葛山城@Google㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ葛山氏は、鎌倉期から室町期に、駿河東部の名族として御家人・将軍家奉公衆として活躍し、室町後期から戦国期には守護の今川家の傘下となりながら、葛山城を築城し、国衆として独自の領国運営と領土防衛をしていた。駿河東部に位置する葛山氏の領地は、今川氏・後北条氏・武田氏と接するため、生き残りのため、今川氏・後北条氏両者と関係を結んでいたが、大名間の力関係により...
北條氏史跡・周辺地図@Google浄土真宗大谷派の成福寺は、北条正宗入道によって正応2年(1289)に建立されました。北条正宗は、鎌倉幕府8代執権北条時宗の三男(幼名 満市丸)とされています。正宗は北条氏一族の菩提を弔うため、曾祖父・北条時政の持仏堂を基にこの地に一宇を開創し、正宗の長子・宗仁がこれを修造して成福寺としました。本堂北側には北条氏一族の供養塔があります。又この地も北條氏館内とされ広大な館だ...
山木判官兼隆館&香山寺@Google山木兼隆は桓武平氏で伊豆国山木郷に流罪となっていたが、治承三年の政変の後に平時忠によって伊豆国目代に任ぜられた。治承4年(1180年)源頼朝が挙兵すると、その手始めとして山木館が襲撃され兼隆は討たれた。現在遺構を見る事は出来ませんが、草木が少ない時期なら館の石碑を見る事が出来ます(個人宅内)山木判官兼隆館碑この奥が館跡される当寺を創建したのは、平安時代末期に伊豆国の目代で...
平治の乱で源頼朝の父・義朝が知多半島で暗殺され、頼朝本人の死罪も確実視されていました。こうした世情の中、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより、頼朝は奇跡的に助命されたものの、伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されることなります。1160年(永暦元年)2月に14歳で配流となり、34歳で旗揚げするまでの20年間をここで過ごしていたのです。頼朝の配流された蛭ヶ小島とされる地は、現在、蛭ヶ島公園となっています。・...
八重姫御堂・入水の地 鎌倉殿の13人を巡る 静岡県伊豆の国市
真珠院境内には、源頼朝との悲恋に死んだ伊東祐親の娘八重姫の供養塔がある。 伊豆に流されていた頼朝は、八重姫との間に一子千鶴丸をもうけるが、祐親の怒りにあい、千鶴丸は川に捨てられ、頼朝も襲撃を受けそうになった。 頼朝は北条時政のもとに逃れたが、頼朝のことを忘れられない八重姫は、伊東館を抜け出し、頼朝のいる北条館を訪ねる・・・ しかし、頼朝は、時政の娘政子と結ばれていたのだという。 伊東館に帰ることも...
範頼は鎌倉初期の武将、義朝の第6子で蒲冠者と呼ばれた。日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている温泉場の西北側の山腹にある。1180年に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り功によって三河守に命じられた。1193年の曽我兄弟仇討ちの時、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝えられ、悲しむ政子を慰めて「範頼ある限りご安心ください」といったことから、幕府横領の疑い...
安達藤九郎盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画したが、翌年66歳で死去。妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。墓は以前は、修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り口に移されました。20...
北條義時館@Google北条義時は、伊豆国北条郷の豪族北条時政の次男。江間四郎あるいは江間小四郎と呼ばれた義時は、分家の江間家の初代だったと考えられている。菩提寺の北條寺の近くにある江間公園は、義時邸があった所と伝えられる地。現在の屋敷跡鎌倉幕府二代執権である北条義時が創建した寺で、義時の嫡子である安千代丸が大蛇に襲われ命を失った時、北條寺を墓所として七堂伽藍を建立し、仏殿の本尊を慶派の仏師に命じて作ら...
長浜城@Google㊟イメ-ジ図、説明板を参考にしました。戦国時代関東一円を治めた北条氏の水軍根拠地、重須湊を守るための城と考えられている。 北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、興国寺城から堀越公方足利茶々丸の館を急襲し、韮山に城を構え戦国大名としての第一歩を踏み出した。その後小田原を手中におさめ、二代氏綱・三代氏康の頃には領地を武蔵から下総まで広げ、里見氏と激しく対立した。北条氏は三崎や浦賀を根...
弘法大師空海が大同2年(807年)に開基したと伝わる古刹。源頼家が幽閉され非業の死を遂げ、岡本綺堂の戯曲「修善寺物語」で有名になった頼家ゆかりの古面や、北条政子が寄進した放光般若波羅密教などが宝物館に納められています。鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭溪道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ているところから当時は肖廬山と号した。 南北朝時代の康安元年(136...
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2024.4.14 散り出し🌸人気ブログランキング...
忍城 花手水雨の忍城と桜雨の丸墓山古墳と桜石田堤と桜2024.4.9 雨天人気ブログランキング...
No1からのサイト風景本日のサイトとパスファインダ-⛺newLEDランタンお気に入りの焚き火台焚き火から見えるサイト🔥沈む夕日🌇真夜中の・・・北斗七星☆彡おいら⛺から見える山桜🌸飛行機雲・・・・・・・人気ブログランキング...
高尾阿弥陀堂の墓地にある桜で、樹高13メートル、根回り2.9メートルである。樹齢はおよそ200年。3月下旬に淡いピンク色の花をつける。市の天然記念物に指定されている。阿弥陀堂エドヒガン普門寺枝垂れ桜・・・・・チョイ早い!!2024.3.31現在人気ブログランキング...
笠鉾(かさほこ)状の枝一杯に花が咲き誇り、下から見上げると淡紅色の花と青い空とのコントラストが美しい古木です。隣あう2本の桜の木がいったん伐採され、その株跡から12本の芽が伸びて、美しい樹形になりました。樹高18m、枝張りは東西23.5m、南北21.8m、根回り6.5mです。人気ブログランキング...
大宮城(栃木県塩谷郡塩谷町)@Google㊟イメ-ジ図になりますm(__)m㊟主要遺構を、流して撮影しています。大宮城遠景・・・・南側から愛宕神社背後の堀説明板の三の丸三の丸北西の堀(説明板での三の丸)本丸の標柱・・・説明板ではここが本丸としている。本丸背後の乾堀・・・・堀の向かいに古墳が有ります。2024.3.17 再々登城人気ブログランキング...
BUSH CRAFT BASE(君嶋林業キャンプ場)入口このキャンプ場最大のサイトzouki saito⛺プレミアムサイト 太郎ヶ淵・・・目の前は沢を挟み樹林帯ユニフレ-ムの薪グリルにて!愛用のケルトが黒く光る!東小屋橋からの朝日🌄埜瑩堂さん考案のアーメッ-ト 快適な広さです⛺2024.3.17~18人気ブログランキング...
朝霧高原の夜 広場サイトより⛺真夜中のフジヤマ北に見えるは・・・・北斗七星☆彡早朝のフジヤマ🏔早朝広場サイト 本日は2組の貸し切り⛺2024.3.10人気ブログランキング...
本栖城 信玄築石@Google旧上九一色中学校正門前に中道往還が通り、その道沿いに石塁が残る!!まるで虎口の様な石塁!!円形状の石塁本栖城南側麓の石塁は・虎口!!裏側から見た石塁樹海の中を、直線的防塁の様に積まれた石塁信玄築石1550年ごろに武田信玄が敵の攻撃に備えて、青木ケ原樹海内に溶岩で築いた防壁です。この石塁は高さ約2メートルで約2キロメートルにわたって続いています。信玄築石は、中世の中央往還が通る場所...
本栖城 信玄築石@Google旧上九一色中学校正門前を、中道往還が通りその道沿いに石塁が残る!!円形状に、石塁が残る!!直線的に積まれた石塁1550年ごろ武田信玄が敵の攻撃に備えるため、青木ケ原樹海内に溶岩で築いた防壁です。この石塁は高さ約2メートルで約2キロメートルにわたって続いています。信玄築石は、中世の中道往還が通る場所に位置しており、街道防衛の目的で構築されたと考えられています。溶岩を積み上げる工法は...
鷲宮神社近くを流れる青毛堀川沿いに美しい河津桜が咲き誇り、街全体を華やかに彩っています。3/3(日)現在はチョイ早かったかな?2024.3.3人気ブログランキング...
2024.3.3人気ブログランキング...
大平城 ・おしろ山@Google ㊟大平城イメ-ジ図になりますm(__)m二渡神社拝殿の左側から行くのだが!!以前は案内板等や目印が有ったらしいが・・・・・・2024.2現在では曖昧になっています。歴史的詳細については不明。城址遠景・・・・この奥の山が城、二渡神社から登ります。神社から来た山道の城への分岐点・・・・左に曲がり山を登ります!!城址手前の平場??踏み跡を進む!!城址へ登り、緑のロープの先に!!...
下郷の城@Google㊟イメ-ジ図になりますm(__)m下郷要害城から深い谷を挟んだ南の山稜上に築かれています。また、直接武茂川に臨む尾根上には出城が配されており、古城自体はそれより一つ東に奥まった尾根に築かれている。近年の樹木伐採により、城址は禿山となっている為に遺構は迄は行きやすい(作業道が有るため)下から来た作業道、出城と古城の分岐虎口 1本目堀切跡の土塁で堀切は、埋められている堀切2本目・・・・埋められ...
下郷の城@Google㊟総ての遺構は見ていませんm(__)m下郷要害古城出城は、下郷要害古城の西の尾根に築かれた城である。下郷要害古城の西の尾根にある。城の南半分は木が皆伐されているので、南麓から伸びる作業道を古城に向かって登っていくと、途中で西にある尾根にその遺構が見える。この出城は細尾根城郭で、山頂部の主郭には中央で曲輪を南北に分断する堀切が造られている。この奥が古城?ここを通り過ぎて出城へ南...
下郷の城@Google㊟イメ-ジ図になりますm(__)m武茂氏の庶流である大山田氏によって築かれたと伝えられています。初代泰宗の子孫である泰景(大山田左京亮)が、永禄年間(1558~1570年)に築城したとされています。大山田氏は那須氏に属しており、1570年に佐竹氏によって攻め滅ぼされた大山田城が、この城のことと推測されています。この橋を渡り道なりに山へ谷筋の突き当り・・・・Google先生を、お供に!!右手側の虎口虎口から...
伊奈氏屋敷@Google伊奈氏屋敷(現地説明板より) 関東郡代伊奈氏の祖、伊奈熊蔵忠次の陣屋跡です。伊奈氏は信州伊那(長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に徳川氏に仕え、三河国小島(愛知県西尾市)の城主となりました。三河一向一揆に加担したため、徳川家を一時離れますが、本能寺の変を機に忠次は家康に仕え、近習(きんじゅう)として農政・民政に力を発揮し、五ヵ国総検地などを通して代官としての頭角を現しました。 ...
私市城@Google私市城復元図(現地説明板より)築城時期は不明だが、上杉氏配下となっていた太田氏によって築城されたという説がある。城の名前は皇后の領地を管理する「私部」やこの土地一帯が「埼西郡」と呼ばれたことに由来し、以前は「私市」と表記していた。また、「根古屋城」、「山根城」とも呼ばれていた遺構は、東西約400メートル、南北約400メートルの規模を持つ。西端に「本丸」、「ニの丸」を南北に置く。その東に「天...
二之丸から北東の矢之門跡搦手門東の石垣本丸 北側の石垣桜之門側の石垣前門前門と三重櫓2024.2.5 曇り人気ブログランキング...
ここは羽鳥湖高原・・・・・少ない雪いざ!!スノピ白河高原へ受付へ(エンゼルフォレストン内)凍結する湖本日はフリ-サイト・・・・・キャンパ-は少な目!!予想より雪が少ない。本日の幕はサーカスTCに薪スト-ブ⛺地面は凍結!!Soomloom 薪ストーブ・・・・このテンマクには小さいか?サイトから見た湖夜景と☆彡・・・・・・・標高が高く、風もあるため!!星が多い2024.2.4 エンゼルフォレスト白河高原内人気ブログランキ...
安戸城@Google東秩父村の村指定史跡となっている山城。築城時期や築城主など確かなことは不明だが、大河原氏による築城とも、その後の室町時代に松山城に移る前の上田氏が一時居住していたとも伝わる。また永禄6年(1563年)、松山城争奪合戦の折には松山城主上田朝直の退路となったともいわれる。麓に大霊神社があり、山頂部が城跡で堀跡などの遺構が残っている。安戸城 縄張り図(現地説明板より)入り口・・・・...
大河原氏館@Google松山城主上田氏の菩提寺です。鎌倉時代末、大河原神冶太郎光興の創建と伝えられています。寺伝によれば、大河原神冶太郎光興が屋敷内に道場を開くため、日蓮の弟子の日朗を招いたといわれています。大河原神冶太郎光興は、比企能員の子で鎌倉妙本寺を開いた比企能本と親交があったと伝わっています。2023.4.16 登城人気ブログランキング...
野ららの入り口、直ぐ左手が受付の管理棟望月キャンプサイト 野らら 案内図本日のキャンプサイトはフォレストサイト・・・すべてがフリ-サイト野ららの枝垂れ桜・・・薪は使い放題です!!ロガ4とタープの組み合わせ新アイテムの鉄瓶でコーヒ-タイム夕方のグラスサイトと管理棟方面ブッシュクラフトサイト・・・・直火OK氷点下6度の朝、霜柱も・・・・・・・朝日を浴びる!!早朝の桜さよなら・・・・野らら2023.4.9~10人気ブ...
2023.4.10 訪問ほぼ満開人気ブログランキング...
望月城砦群@Google望月氏のの南、旧仲山道の生瓜坂の峠ぁら南に続く山嶺上に砦が連続する。この尾根は、望月の街の東側の鹿曲川の谷の東側に防塁のごとき連なる砦群となる。生瓜皆砦を起点に、生瓜南砦、松明山砦、胡桃沢嶺砦と山道が有り1時間も有れば十分に堪能でき松明山砦と胡桃沢嶺砦の鞍部に総合グランドに降りていける道が有る。総合グランドから、望月城及び城砦群を見る旧中山道瓜生坂の碑旧中山道瓜生坂から脇へ瓜生嶺...
望月氏城光院館・・・・城光院山門望月氏の居館となる。文明7年(1475年)、望月城主望月遠江守光恒の開基で、望月氏代々の菩提寺。本堂は享和期(江戸後期)の建築であるが、本尊阿弥陀如来坐像は室町初期の作。望月氏の祖と称せられる善淵王像は、江戸中期安永の造像。本堂裏に室町末期永正年間の宝筐印塔2基がある。城光院の本堂居館から望月城を見上げる2023.4.9 初登城人気ブログランキング...
望月城・望月氏城光院館(居館)@Google㊟望月城イメ-ジ図になります。城主郭部の標高は780m、市街地の標高が670m程度であるため、比高は110mほど。主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。城主郭部(山頂)から南西2kmほどの広さに、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までは確認できている。雄大にして堅固な山城で、腰曲輪や帯曲輪、空堀など整然と構築され、比較的保存状態も良い。城址へ...
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2023.3.27 ㊟シーズン中は曜日関係なく、混みます!!...
城ヶ谷堤(桜土手)石戸蒲桜2023.3.27訪問人気ブログランキング...
2023.3.26 雨人気ブログランキング...
松田城@Google別名、中郡城。『保元物語』にみえる中郡庄の地頭中郡三郎の居城ともいわれる。中郡氏は後に足利尊氏の友旗に組し、官軍の総師北畠親房の部下春日顕国により討伐され、一時春日顕国の居城になったが、関東に於ける官軍も足利勢のため攻められ没落したという・・・・・・・・・・しかし、この城ついての詳細については不明である・・・・・・・・・・・・・立派な土塁と堀がが有るのは事実である!!北側から見た松田...
加納城@Google㊟イメ-ジ図になります!!加納城は、赤堀川の低湿地を防御に利用した中世の平城です。発掘調査の結果から、戦国期を下限とする室町時代(13〜16世紀頃)に存続した城と考えられています。平面形は出丸をもつ方形の内郭と、それを取り囲む外郭で構成されています。内郭の面積は11,400㎡で、外郭を含めると43,000㎡に及びます。この城の来歴や城主は不明ですが、岩槻太田氏の支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪...
三ツ木城@Google三ツ木城の詳細は不明ですが、鎌倉時代に源頼朝に仕えた足立右馬允遠元、あるいは室町時代に岩槻城主・太田氏に仕えた石井丹後守が考えられていますが、いずれも定かではありません。近年の調査研究によれば14世紀代に築城されたものとされています。現在城山公園とされているが・・・・・・遺構の在る部分は、藪化しているが良好な堀と土塁が残る。㊟イメ-ジ図になります!!説明板(東側)東側の堀郭内は藪・・...
大宮館@Google舌状の大宮台地の最高所に位置し、西に荒川を望み、鎌倉街道の枝道が南の石戸郷から北上してくる交通の要衝であった場所に中世の館跡とみられる遺構が発掘された、歴史的詳細不明である。堀の位置から中心部は、もっと北側の阿弥陀堂を含む一帯とされ堀の中から中国製の陶磁器が発見され鎌倉時代前半には既に館は存在していたと思われる事から同時期の石戸宿の堀ノ内館が有る事から推測すると、鎌倉幕府御家人石戸氏...
上手館@Google地元の郷土史家などの手により明らかにされたもので、「武蔵志」の足立郡の巻によれば、「古市場古塁 古市場村にあり、地形西北深田、東南平地なり、城主不詳」と記されていており上手館と思われる。歴史的詳細は不明。又縄文時代には大集落が広がり、発掘調査も行われている。上手館 ガス会社の貯蔵タンクがある場所である!!北西側に土塁は残らない。水路が堀跡?南西側の土塁、道路は堀跡?南西側東側にも土塁...
阿弥陀堂のエドヒガンサクラ(埼玉県桶川市)普門寺の枝垂れ桜(埼玉県桶川市)*去年より、1週間は見頃が早いと思われる!!人気ブログランキング...
2023.3.20 見頃人気ブログランキング...
谷中城@Google㊟イメ-ジ図になります。築城時期は定かでないが、地元の土豪谷中氏の居城であったといわれる。天正十一年(1583年)益子氏と笠間氏の間で起こった冨谷合戦で谷中玄蕃は笠間氏に属し、橋本城の城将を任された。最終的に富谷城が落城した。加波山神社右側から背後に登り、ピンクのマーカーを辿って行くと空堀に出る。空堀は北から東、南へ伸びており、その上段に主郭がある。又麓にも東西に延びる土塁、堀が残る...