網代城@GoogleCS立体図 網代城・・・・・この図は少し粗い・・・・15世紀中頃、農山村の地侍たちは地域の指導者として村単位の自営権力を持ち、南一揆と呼ぶ武装集団を成立させていた。 この山城はそうした者たちによって利用されていたと考えられる。このような小規模な山城は村人らの逃散(領主の重税から逃れる)の場としても利用されていた。 16世紀中頃、滝山城に入城した北条氏照により南一揆は解体され、網代城は滝...
網代城@GoogleCS立体図 網代城・・・・・この図は少し粗い・・・・15世紀中頃、農山村の地侍たちは地域の指導者として村単位の自営権力を持ち、南一揆と呼ぶ武装集団を成立させていた。 この山城はそうした者たちによって利用されていたと考えられる。このような小規模な山城は村人らの逃散(領主の重税から逃れる)の場としても利用されていた。 16世紀中頃、滝山城に入城した北条氏照により南一揆は解体され、網代城は滝...
根小屋城@Google根小屋城CS立体図北方に秋川が流れる加住(かすみ)北丘陵の断崖上に位置する根小屋城ですが、主郭部周辺は変形が進んでいるため、縄張の詳細が把握しにくく謎が多い山城です。 直線距離にして180メートル程度の小さい平山城ではありますが、残存する堀や土塁の跡からは、自然の要害を最大限に利用していたことがうかがえ、少人数でも効果的に守れるよう工夫された山城であったといえます。根小屋城入口竹林の南郭...
今回は久しぶりのNo1サイト・・・・今の時期は新緑で、展望が悪かった・・・・今回は炎幕・・・今日は気温が高いので、オープンで⛺湿度も高い!気温も高く、地雷を設置💣イヤ蚊取り線香を 早朝のコーヒ-旧管理棟からの風景焚火と新緑2025.5.18~19人気ブログランキング...
乙城(自性院の裏山)@Google自性院裏山が城址となり、周辺にも多くの城が存在する!!歴史的詳細は不明又栃木県のCS立体図から外れている。城址遠景 駐車場から東側内側の堀・・・こちらは造りがあまい乙城主郭 南側の立木が伐採されている!!主郭 北側雑木林内東側 外側の腰郭又は堀跡か?北側 腰郭上段西側 内堀・・・東側と違い造りが良い!!西側 外堀西側から見た主郭主郭内の古墳群2025.5.11 初登城...
所野城(小倉山森林公園)@CS立体図近年新たに発見された城、日光東照宮に程近い!小倉山森林公園が城址となり公園化されていた!歴的詳細は不明北の堀切・・・低い竹が邪魔して見ずらい!!虎口か?郭2主郭への虎口 土橋・堀切所野城の主郭東側の腰郭、西側にも有り主郭からの男体山・・・・昨日辺りで雪が降ったか?2025.5.11 初登城人気ブログランキング...
岩槻城図室町時代末期・戦国時代初頭に築城され、明治時代初期に廃城となった岩槻城。およそ400年にわたる存続期間に、岩槻城は大きく移り変わりました。激しい戦乱の中で築かれた当時の軍事的機能、大きな勢力配置が固まった中で、領主(国衆・くにしゅう)の本拠や関東統治の要として加わった拠点城郭としての性格、「泰平の世」における幕府の全国統治における幕閣の城としての性格・・・。時代の推移とともに、岩槻城の性格や...
久野又城ルート@国土地理院(林道の分岐に注意!!)近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明。城への農道・・・・・・山へ進む・・・・・林道の分岐・・・・・この分岐点は、間違えてはいけない(私は、間違えて直進してしまった( ;∀;))爽やかな林道・・・林道はほぼ平坦林道突き当り右手へ作業道を進が・・・・・🏔尾根を直登!!目的の峰に出て、最初の遺構・・・・南の堀切主郭 南側の腰郭久野又城の主郭・・・・眺望は無...
寺宿城ルート@国土地理院 近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明。城への作業道入口・・・入口付近に目印のテープが有るが、この斜面を進む事は推奨しない・・・斜面がきつ過ぎる!!東側から見上げる?遺構はこの上の稜線!!主郭への土橋、堀切 虎口寺宿城 主郭主郭 西側の崩壊した祠主郭北側の段郭北東の切通・・・この切通から城の祠へか?まだこの辺りには、菜の花が咲く2025.4.27 初登城人気ブログランキン...
sあ富池城@Google近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明(動画は暗いため、ブレていますm(__)m)城址遠景温泉神社 背後の森に遺構が!!(藪!藪!藪!)森に入り・・・少し進んだ場所に、最初の遺構!堀切、若干竪堀に北先端の堀切2025.4.27 初登城人気ブログランキング...
小幡城@Earth小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(一四ニ〇年頃)に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代(一ニニ〇年頃)に築いたという二説がある。 戦国時代の文明年間(一四八一年頃)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。 現在の城域約十二ヘクタールが整備されたのは、元亀~天正年間(一五七〇年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。 安土・桃山...
竹原城 出城@Earth竹原城は大掾氏の府中城(石岡市)の支城で、府中大掾平貞国の弟、竹原四郎義国が長禄2年(1559年)に竹原に築いた城である。天正18年(1590年)12月佐竹氏は水戸城主江戸氏に続いて、常陸の名門付中城の大掾清幹(貞国の子)をも攻略した。この時、義国も討死し城も廃されたと伝えられている。牙城の高さ約16メートル、1の郭、2の郭、3の郭ともに円形をなし、外部は水田に接している。昔の面影としては、館跡、...
鶴田城@Google園部川の支流である沢目川右岸に所在する標高 28mの台地上に占地しており、東側には沢目川が開析した小支谷がある。二重の土塁と堀が廻る長方形の居館であるとされ、その規模は、南北225m、東西115mの範囲に及んでいる。戦後までは山林であたが、昭和30 年代には部分的に開墾されて畑地となり、近年、本館の北側は残土置き場となっている。 周辺には、要害という地名を中心に弾正、古屋敷、陣場などがある。かつて...
堅倉砦@Google標高27mの台地上に所在する南北方向に構築された長塁である。北側は巴川、南側は園部川の支流、沢目川が開析した谷津の谷頭が所在していることから、この地が選地されたと想定される。現状で、高さ0.6~2mの土塁と深さ0.5mの堀が500mにわたって残存している。2か所に外側に張り出す「物見台」と思われる遺構が付設されている。 北に延びる防塁張り出し・・・・物見台?・・・・いずれは消滅か?最北端の堀・・・...
明神城@Google ㊟イメ-ジ図になりますm(__)m近年新たに発見された城で、歴史的詳細は不明!!熊野神社 ここは物見か?熊野神社手前の竪堀熊野神社から北へ 2本目竪堀3本目竪堀 堀切もあったか?中間の郭で先端に、2本の竪堀たぶん?堀切からの竪堀山頂部南の郭 土橋付堀切南の郭から下がった位置の堀切明神城 主郭主郭から北へ1本目堀切主郭から2本目堀切 虎口有2025.4.20初登城人気ブログランキング...
仮称小春城@Googleこの城の向かいには愛宕山城が存在する・・・近年新たに発見された城で、歴史的詳細は不明!!城への入口、橋を渡り右手の林道を進む東郭の城塁 ここ迄5分位郭2背後の堀切 林道が北側迄巡り、最初にこの堀切に取り付いた!!郭2 主郭と堀切を挟んで西側の郭主郭と郭2間の堀切小春城 主郭 最近か?立木の選定や幹に保護ネットを取り付けたか・・・南郭 主郭から見て南側に一段下がる位置の郭東郭 東側下段...
和見砦@Google㊟和見砦イメ-ジ図になりますm(__)m唐御所横穴の背後が砦7世紀頃に造られたと考えられる。周辺には横穴墓がいくつもあり、こちらの横穴墓は凝灰岩の丘陵の南斜面に掘り込まれた精巧さでは全国屈指。また平将門の娘がこの地に逃れ、この横穴で娘を生んだという伝説が残されている。横道が有ったので!南側から取り付いた主郭手前の堀切 見和砦 主郭 唐御所横穴の背後郭2の堀切郭3 最北端堀切手前の郭最北端の堀...
健部城@Google㊟健部イメ-ジ図になりますm(__)m近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明城址への入口 民家の間の道を山へ・・・・・直登すると、腰郭 南側西へ 最初の堅堀最初の堀切 西側最西端の堀最西端の郭 馬出?健部城 主郭 西側から(三角点有)主郭東側の堀切 郭2? 半分は?・・・土砂取りか?最北端の堀切・・・チョイ藪北側の腰郭2024.4.16初登城人気ブログランキング...
Freedom~プライベート野営地 今回は道路の右手側にて初⛺久しぶりの、本日はソロテイピ-1TC西側サイト 全体に緩やかな斜面設営後に一杯🍺雨の焚き火翌朝8時には晴れ間が2025.4.13~14人気ブログランキング...
前玉神社の桜崎玉古墳 丸墓山🌸忍城の桜2025.4.8人気ブログランキング...
鰻山城@Google鰻山城跡は、通称鰻山山頂に所在する平山城です。堀と土塁が残り、城跡の東側には旗川が流れます。現在は主郭のところに石碑が建てられています。当城は、東西約31m、南北約56mの規模の主郭を設け、主郭の西側には2個の曲輪が確認できます。築城については、鎌倉時代に佐野氏の一族の奈良五郎宗綱が築いたといわれ、その後、宝治元年(1247)廃城となったといわれています。一族が築いた城として佐野氏と関係の深い城...
赤見城@Google治承2年(1178)足利俊綱が築城して養和元年(1181)いったん落城し、建久元年(1190)戸賀崎義宗が城主となり、城を再興しました。その後、永禄2年(1559)佐野氏の領有となってからは、足利方面への抑えとして義宗の子孫である赤見氏が居城しましたが、慶長6年(1601)廃城となりました。本城は方形の平城で、現在は本丸南部に赤見城保育園が建ち、西・北・東には、本丸を囲む土塁と水堀が良く残っています。Googl...
fうRe:nature field 最低限の設備のキャンプ場⛺奥の広場迄車で入れます!!今回は久しぶりにハンモック・・・春先なので、寒暖の差は有りますが問題無!!設営後の一杯梟も鳴く・・・・穏やかな🌌麓よりの井戸と先に、直火サイト2025.4.6/link/?id=1914461
阿弥陀堂(エドヒガン)と普門寺(枝垂れ桜) 2025.3.30
阿弥陀堂(エドヒガン)阿弥陀堂前お宅の🌸枝垂れ桜普門寺の枝垂れ桜2025.3.30 曇天人気ブログランキング...
天候は曇天 散り始め🌸...
長坂城@Google 歴史的詳細は不明登城口・・・・ここから谷を登ると遺構が・・・・堀切1・・・・埋没が・・・・二重堀切・・・草木で埋没が・・・・主郭手前 段郭が見える 主郭 崩壊した祠北東尾根の段郭長坂城の主郭🐻・・・・居るのかな?2025.3.23人気ブログランキング...
深堀城@Google 歴史的詳細は不明である。深堀城 入口・・・・なんか?渓流の解禁日かな?この植林の急登を登る最初の遺構・・・・広大な空間!!主郭手前の堀切1深堀城 主郭主郭からの堀切2堀切3堀切3から左手に城道?㊟堀切3先の堀の痕跡?は見逃しましたm(__)m2025.3.23人気ブログランキング...
尻内城郭群(東出城・本城・詰城)@Google天文年間(1532~55)、佐藤宗連が築城し慶長19年(1614)佐野氏取り潰しの際に廃城と伝わる。本城から尾根つたいに、詰城へ・・・・尾根つたいに進むと詰城が・・・・帰りの尾根を間違えないように、自分の位置は常に確認を!!北東堀切・・・・浅く小さいが主郭下段主郭上段北西堀切 1本目北西堀切2本目2025.3.20人気ブログランキング...
尻内城郭群(東出城・本城・詰城)@Google天文年間(1532~55)、佐藤宗連が築城し慶長19年(1614)佐野氏取り潰しの際に廃城と伝わる。星宮神社からの遠景・・・この背後から本城へ 星宮神社背後から進み伐採された藪・・・東側の堀切か?堀?東側の腰郭・・・・東側に集中している主郭から西へ1本目堀切堀切 2本目堀切3本目詰城へ・・・・・・2025.3.20人気ブログランキング...
尻内城郭群・東出城・本城・詰城@Google天文年間(1532~55)、佐藤宗連が築城し慶長19年(1614)佐野氏取り潰しの際に廃城と伝わる。愛宕神社ここも城内か?ここから南へと進む!!10分位で城域へ・・・・最北東側の郭 祠(稲荷大明神)が有る東側郭2堀切から竪堀へ主郭手前の堀切 東出城は堀切は1本西側の段郭主郭西側 腰郭の虎口主郭西側腰郭 西側に数段の郭が!!敵は西から?東出城 南端の郭主郭南坂虎口東出城の主郭202...
2025.3.17散り始め人気ブログランキング...
今回は炎幕この冬、今回ラストの薪スト設営後の一杯森の間からの北斗七星星降る夜夜明け ⛺ さわやかな朝2025.3.9~10...
泉城@Google(鐘転山が泉城)泉城の城主は、中世この辺りを領していた宍戸持里であったと言われている。南北朝時代には難台山城との関係があったであろうなどと言われている・・・・・・・・山頂遺構へは麓からと、あたご天狗公園側からと行くことが出来る。乗越峠駐車場から、見晴らしの丘経由で鐘転山の遺構へ20分位で行ける!!ハイキングコースへ・・・・・・見晴らしの丘分岐最初の遺構 郭4の城塁郭4 西側の土塁堀...
泉城@Google泉城の城主は、中世この辺りを領していた宍戸持里であったと言われている。南北朝時代には難台山城との関係があったであろうなどと言われている・・・・・・・・山麓遺構として隠沢観音の参道右手側の山林に折れの有る堀と無線中継所背後に広大な削平地が広がる!!隠沢観音慈眼院の創建は奈良時代の養老4年(720)、高僧として知られる行基菩薩一刀三拝の作と伝えられる十一面観世音菩薩を祀ったのが始まりと伝え...
BUSH CRAFT BASE手前の東古屋湖 ちらほら雪が舞うサーカスに薪ストとインナ-テント・・・・寒さ対策!しかし、さほど寒くありませんでしたサイト前 NINOKIサイト・・・・東屋が無い!焚き火ピットも無! 新しい焚き火台 サイトからの夜空 森の隙間から、マイブーム星撮影駐車場からの星空朝日 凍結する東古屋湖2025.2.23~24...
関ヶ原の戦いで西軍が敗れた結果、会津地方を支配していた上杉景勝は徳川家康に降伏し、減封のうえ北隣の米沢へ移された(「上杉景勝#会津征伐」)。以後、江戸時代から明治の廃藩置県までは米沢藩上杉氏の城下町となった。堂森善光寺 高い場所が月見平・・・・雪のない時期でしたら・・・・前田慶次供養塔 近年新たに、背後の山に埋葬地が確認され供養塔も建設られた!!上杉神社 米沢城上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日...
今年初のおいらの森2025薪ストキャンプ ホンマスト-ブ最高!!おやつのぜんざい・・・・スト-ブで餅を焼く穏やかだが雲が多い夜のサイト月夜の星空 おいらからの夜明け こりゃ旨かった!!お世話になりましたm(__)mたかねざわ元気に向かいます♨2025.2/9~10人気ブログランキング...
小白井城@Google城址遠景・・・・尾根中央の植林から雑木林の境から遺構が!!城址入口となる日枝神社、背後の尾根に取り付く・・・歴史的詳細は不明!堀切1本目小白井城主郭・・・・歴史的詳細は不明主郭南側の土塁主郭南側の堀切・・・・ここから先は笹薮!!最南端 堀切からの横堀・・・・笹薮(つД`)ノ...
山際城@Google南西からの城址遠景・・・近年新たに確認された城!!二重堀切南側1本目二重堀切 2本目南東犬走・・・・・東側堅堀迄続く!!北東 竪堀北側 堀切上段最北端 堀切北西 堀切南西竪堀北側の郭・・・・笹薮山際城 主郭南側の郭二重堀切を見下ろす2025.2.9 初登城人気ブログランキング...
1日1日 埼玉県加須市 花崎城1月7日 栃木県那珂川町 武茂西城 武茂本城 武茂東城 片平城1月14日 山梨県笛吹市 瑞連寺 古屋氏屋敷 塩屋屋敷 三蔵屋敷 蜂城1月15日 山梨県甲府市 要害山城 熊城1月22日 栃木県佐野市 作原城 栃木県鹿沼市 妙見寺城1月28日 栃木県栃木市 不摩城(秋葉城)南東長塁遺構 藤沢城2月5日 福島県白河市 小峰城2月11日 埼玉県加須市 私市城(騎西城)2月12日 埼玉県...
松田湯ノ沢城@Google当城は松田家の城で、小規模なので山上の見張跡であったとされる。戦国時代は長尾家の家臣となり、飛駒方面の峠道などを守っていたのだろう。しかし、それより以前は佐野家の城とされており、付近の温泉に佐野家当主が入りに来た伝承がある。山頂部の主郭は広く削平されおり、周囲の北尾根、南尾根に小さい段郭が連なるが・・・・風化による崩壊が進んでいる!!又2本の堀切が残るが、やはり埋没...
駒戸山城@Googleこの城についての歴史的詳細は不明である、名草イワナパ-ク先の林道から城址へと行ける!1時間弱の道のりとなるが明確くな山道は無いが踏み跡は有るので、何とか行けた・・・・・・・足利百名山の駒戸山が城址。厳島神社鳥居 この前に駐車場有るのでそこを利用。林道に入り左手の尾根に取り付く ピンクリボン有・・・取り付いた尾根には獣除けの柵が付いている、又旧山道だろうか?尾根沿いに随所に伺える痕跡...
羽鳥湖高原・・・・ここでも去年よりは雪が多い!!期待できるか?今年も凍結する、湖。本日のサイトA3電源区画サイト・・・(冬季料金です)サ-カスTC+ポリコットで幕内を最大に。電源サイトでしたので・・・・初のこたつ導入!最高!ホンマの薪スト-ブは最強です、幕内ではTシャツです!!サイト前景・・・・去年より雪は有りますね!!2025.1.19~20人気ブログランキング...
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奈胡十郎義行の墓@Google奈胡氏館の所在地は不明である。奈胡十郎義行の墓と伝えられる場所に案内板があり、館はこの近くにあったものと考えられている。甲斐源氏清光の十男として生まれ、奈胡庄を領したので奈胡十郎義行と言った。また義行は八条院蔵人であったので奈胡蔵人とも言う。平家追討に際し源氏の将として功績を挙げる。建仁3年(1203年)6月に没しており東南湖のこの地に義行の墓所、あるいは義行の神木があったと伝えら...
富田城@Google現在は城が在ったとは思えない・・・・・・一帯は釜無・滝沢川の氾濫原で、甲斐・信濃から駿河を結ぶ駿信往還が駿州往還(河内路)が南北に通過する。平安時代後期には大井荘が成立する。近在の宮沢には鎌倉期の集落遺跡である宮沢中村遺跡が所在し、鮎沢には大井氏ゆかりの寺院である古長禅寺がある。近世には戸田村が成立する。大井氏は甲斐守護武田氏の一族で、室町・戦国期に大井荘へ進出し、戦国期には甲斐の有...
市川陣屋@Google市川陣屋は江戸時代中期の明和2年(1765)、紺屋町陣屋(静岡県静岡市)の主張所として築かれました。当初の代官小田切新五郎は3万石を支配し、寛政7年(1795)に榊原小兵衛の代に正式な本陣屋となりました。江戸時代後期の文化年間(1804~1817年)の支配は74876石、預かり地4822石に上り、周辺地域の政治的、行政的な中心をなしていました。大正11年(1922)に正門(切妻、桟...
秋山光朝館@Google現在の熊野神社の境内一帯が館跡とされ、周囲から見ると数メートル程の高台となっているが、遺構となるものは確認出来ない又館古図には堀もあったとされるが住宅や畑となりこちらも判断出来ない・・・・・・・・・。三方を崖に囲まれたこの丘は後背の山地には中野城、雨鳴城といった山城の遺構が山沿いに連なります。熊野神社は、江戸時代にその境内から建久8年(1197)の銘をもつ経筒が発見されたことでも有名...
一条忠頼館@Google現在の宝林寺が舘跡なるが遺構は見当たらない、又少し離れた場所に一条忠頼の墓が山里にひっそりと建つ。武田信義の子で甲斐源氏の嫡流。治承4(1180)年,父や安田義定ら一族と共に反平家の兵を挙げ,信濃国に出陣して平家余党を制圧した。その後,駿河国に赴き源頼朝軍に合流する。元暦1(1184)年1月の源義仲追討戦などで活躍するが,忠頼の勢威の強大さや甲斐源氏の勢力拡大は頼朝の恐れるところとなり,同年6月,幕府...
伝源義清館@Google寛治元(1087)年八幡太郎義家の弟新羅三郎源義光が官を辞し軍兵を従えて奥州に下り兄の陣(後三年の役)に加わり武功をたてた。その功績により甲斐守に任ぜられたのが義光の三男(刑部三郎源義清)である。その義清が12世紀のはじめ天永年間(1110~1113)甲斐の国へ下向し、峡南市河(市川)庄青嶋の庄司として平塩へ館を築き、甲斐源氏勃興の基を開いた。平塩の丘よりはるかに望む八ヶ岳の山麓は広大な逸見庄...
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一条氏塁(上野城 一条氏館)@Google一条信竜のこと、一条信竜は武田信虎の八男、信玄とは異母兄弟で「甲陽軍鑑」に、甲斐源氏の一門の名族一条氏の名跡を継ぎ、旧一条の庄(甲府市東南部)を支配、信玄の代騎馬百騎を預る侍大将として活躍、永禄10年(1567)以降甲軍の副将格で信玄を補佐、天正10年(1582)年3月武田滅亡の直前、上野城にたてこもり、駿河路から侵入する徳川家康と戦ったが、子の信就とともに戦死したも...
最勝寺砦@Google最勝寺砦は、歴史不詳である!!「甲斐国志」古墳部に「城山(最明寺村)」としてある。「古時西郡路は是より小室へ入る亭候(ものみ)置き跡と見えたり 里人比類にて城と唱えり」とある。 城址への鉄階段、この時期は落ち葉が大敵となるある程度進めば、九十九折れが見えて来ます、北側で中央新幹線のトンネル工事が行われていました。開けた場所に見える石積?畑跡か?最初の削平地郭3 東西に細長い郭3北側の...
*場内案内図(㊟受付棟は以前の場所と変わってました)今回第二キャンプ場夜景サイトのNo14でした!!サイトからの展望No14 横長ですが、タ-プも立てられる広さです⛺本日は煙幕TCDXに薪スト-ブ甲府盆地の夜景薪スト-ブイン・・・最大28度まで上がりました、明け方の最低気温が-3度位だったか?しかし、前幕の隙間風は冷たい・・・サイト後方の星空・・・・・北斗七星は見間違えか?早朝の甲府盆地朝ラーは坂内食堂2024.12.22...
中野城 鳥観図中野城@Google城は城山山頂一帯の南北に伸びる細長い尾根状の地形を利用して造られています。特に、その東側は急峻な崖となっており、外敵の侵入を阻みます。その反面、山頂部分にはこのような急峻な地形からは想像できない程の平坦地が各所に設けられています。山頂の三角点付近には帯状の郭1があり、これをとり囲むように高さ50cm程の低い土塁が認められます。この土塁と尾根の山道と交わる場所に虎口が設けられ...
椿城@Google椿城は鎌倉時代に小笠原長清の孫に当たる小笠原盛長が築城したとされ、地名から上野城と呼ばれる一方で、周囲に椿が群生していた事から椿城とも称しました。盛長は地名に因み「上野」姓を掲げましたが、3代目当主上野政長に嗣子が居なかった事から秋山家から養子を迎えたものの、上野姓は引き継がず実家の秋山姓を名乗っています。南北朝時代には武田家10代当主武田信武の次男である武田信明が当地に配され、「大井...
小笠原長清館@Google小笠原長清館は現在の小笠原小学校一帯として推定され、江戸時代末期に編纂された「甲斐国志」には「御所ノ庭 村ノ西ニ在リ松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭ニニシテ・・・」と記されており、小笠原小学校付近が「御所ノ庭」とされます。 現在は小学校の校庭や住宅街として整備された為、目立った遺構は失われています。小笠原 長清は、平安時代末期から鎌倉時代前期の...
笹砦@Google 甲斐国志では、平岡ノ古趾として記され(三ッ角判官?ナル者居跡)であったとする伝承を記している。さらに笹城東には(本城)が存在していたという。今の笹城跡は、尾根先にある曲輪の西背後堀切が一条設けているだけです。詳細は不明です。笹城の性格、集落に距離的に近い後背地に築かれ、単純な単郭構造の山城(660M)であることで、戦国大名あるいは国人などといった権力による領国経営や領土拡大にかかわる軍事...
寺山館@Google寺山館 イメ-ジ図になりますm(__)m寺山館跡は別名蛇頭館とも呼ばれ、棚倉町大字寺山字防ノ内から字豊都にかけて所在する中世の山城です。戦国時代、白川氏により築城されましたが、常陸国側から北進する佐竹氏によって落城しました。その後は佐竹氏の城として白川氏・伊達氏に対する前線基地として使われ続け、最終的に天正18年(1590)、豊臣秀吉の命令により廃城となりました。現在寺山館跡には、曲輪や虎口など...
毛無山方向から雪がちらほら⛄フジヤマに雪・・・・・先月は雪無⛄夕方の、赤富士🏔フジヤマと月テンマクと北斗七星石油スト-ブ最高 TOYOYMI朝霧の星空・・・・・星が!!多い!!北斗七星の見える朝霧の夜空早朝の朝霧⛺この広場サイトに2組だけ、早くチェツクアウト・・・・・・近い場所でなかったのに暑くていられないルーシさん朝霧アリ‐ナからのフジヤマ🏔2024.12.8~9人気ブログランキング...
音止の滝 高さ 25mの絶壁から轟音をとどろかせているこの滝。その昔、曾我兄弟が父の仇の工藤祐経(くどうすけつね)を討つ相談をしていた際、滝の音で声がさえぎられたため、しばし神に念じたところ一瞬滝の音が止んだという伝説からこの名が残されています。曽我兄弟の隠れ岩 曽我兄弟が、この岩に隠れて父の仇工藤祐経を討つ密談をしたと伝えられています。音止の滝の東側にあり、しめ縄が張られるなど、伝統の岩らしい雰囲...
天下の名瀑としてその名を轟かす白糸ノ滝。この滝は、富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境の絶壁から湧き出しています。高さ20m・幅150mの湾曲した絶壁から、大小数百の滝が流れ落ちています。 その姿は白糸の名にふさわしく、幾筋もの絹糸をさらしているようです。優しく、女性的な美しさで、滝壺近くに立つと、三方が水のアーチとなって幻想的な世界を見...
朝日馬場館@GoogleEarth詳細不明。 「御屋敷」と呼ばれる100m四方程の地があり、甲斐国志にも記載されているが、「何人ノ館蹟ナルコト不詳。」と誰の館か既にわからなくなっている。 この東側二町の所には「馬場」の地名も残るという。朝日馬場館の館主等は不明であるが、与縄城と同様に、小山田氏に属した一族の居館があったところであったと考えられる。朝日馬場館 立派な旧家だが・・・・もう長年住まわれて居ない長屋門・・・...
与縄館@GoogleEarth都留市与縄の北に伸びるなだらかな丘に築かれている。南側を道路が通り、山側は崖となり地続きで堀などはないが、郭間を隔てる空堀が残っており、居館跡と思われる。詳細不明。地元に残る伝承として谷内豊後守(谷口豊後守とも)の名を伝えるのみである。㊟Googleで示されている、上部が舘跡である。西側から見た館 西側から道路沿いに探索郭3 下段にも腰郭らしき・・・・・・東側の堀 上部はたけでその先は激...
秋の床もみじ特別公開 宝徳寺 期間:10月19日(土)~12月1日(日) 12月8日(日)※紅葉状況により12月8日(日)まで拝観延長 2024.11.24人気ブログランキング...
小野寺城@Google鎌倉幕府の御家人として活躍した小野寺氏には、出羽国雄勝郡が与えられており、ここに移り住んだ小野寺氏は、「仙北小野寺氏」と呼ばれている。小野寺城は消滅してしまったが、小野寺城の石碑と小野寺道綱の墓(小野寺禅師太郎基)によって、その存在を今に伝えている。 また、小野寺城の西に住林寺があり、住林寺は小野寺道綱の菩提である。小野寺城 城址碑小野寺禅師太郎の墓保元元(1156)年、小野寺義寛が小...
仮称 小野寺城@Google近年新たに確認された城!!歴史的詳細は不明だが、麓には東北道に分断された小野寺城が存在した!!小野寺城 遠景 二つのピークの左側砂防ダム用の道路を進む、綺麗な工事中の路を進み山へ入って行く山道の分岐、ここは間違えてはいけない!手前の右手に目印になる祠が有る。 三角点の有る第一のピークピ-で!!一休みし・・・・から鞍部へここまで来て、周辺の感じが変わり・・・・・城は近い!!南側...
仲方城@Google近年新たに発見された城!!歴史的詳細は不明だが、物見や監視の為の城ではないのだろうか?城址遠景 仲方 駐車した川沿いから!!南側から仲方城・・・帰りはこの尾根を、墓地側に下りました。西側の腰郭、主郭を巻くような郭。主郭の北側堀切1本目北側堀切2本目・・・・・・・浅い!!この先はゴルフ場となっている東側 腰郭南側上段 腰郭仲方城 主郭 そこそこの広さである!!2024.11.24 初登城人気ブログ...
落ノ沢城@Google歴史的詳細は不明・栃木県の中世城郭さんのサイトを参考に探索しました。落ノ沢城@GoogleEarth 城址遠景(駐車は、川沿いのスぺ-スに)ほぼ壁を、登る!!壁の途中に・・・・・腰郭のような?登切ると、郭か?工場造成に伴い、削りとられたか?1本目の堀切真横からの堀切緩やかな尾根を登る・・・・・と・・・・・落ノ沢城主郭2本目堀切1本目堀切先の郭2024.11.18初登城人気ブログランキング...
布施谷城@Google歴史的詳細は不明・栃木県の中世城郭さんのサイトを参考に探索しました。布施谷城@GoogleEarth布施谷城遠景フェンスから入りすぐに右手の廃屋を目指す作業道が現れたら上を目指し、突き当りに神社の参道が現れる(崩壊してる)参道の石階段の痕跡参道の先の神社神社背後の主郭主郭先の堀切真横からの堀切堀切先の尾根住人の足跡?🐗?鹿?2024.11.18 初登城人気ブログランキング...
富沢城@Google歴史的詳細は不明である。(中世栃木の城郭さんのサイトを参考に探索しました)富沢城@GoogleEarth富沢城遠景道の、右奥の尾根に取り付く(駐車スぺ-ス有)ひたすらの尾根登り・・・20分位か?尾根を、登り切った最初の郭 主郭より1段下がる!!富沢城の主郭主郭先の堀切堀切先の尾根・・・・・この先には遺構は無2024.11.18 初登城人気ブログランキング...
前山古城@GoogleEarth㊟この前山古城は全体の主郭を指す。前山古城(長野県佐久市大字前山)は、貞祥寺の裏手、北側の倉沢川と五輪平の沢の間の山尾根上の小山にある。荒城に対する古城と呼ばれている。城の歴史は不明。前山城の伴野氏にかかわる城砦の一つとされる。又北東尾根については発見され数年たつが情報が少なく、北東尾根の遺構から見て拡張された城と思われる。下から三之郭、二之郭、主郭として見えて来ます!!前山...
虚空蔵山烽火台@GoogleEarth標高773m、比高105m。虚空蔵山が烽火台である。虚空蔵山烽火台(長野県佐久市根岸大字竹田字虚空蔵)は、佐久平を一望する蓼科山から派生する山頂に位置する。日向城の出城ともされる。武田晴信の佐久侵攻の時に、武田の武士が山下を通ると落馬する事故が続いたため、山頂に祀られていた虚空蔵菩薩を麓の多福寺に移して、頂上を烽火台にした・・・・・・武田氏による当時の情報伝達のネットワ...
荒城@Google荒城(長野県佐久市大字前山字洞源)は、前山城の南側、貞祥寺より一つ東の尾根上に占地した。西側600mに前山古城があり、その関連が指摘される。城の歴史は不明だが、前山城の支城の一つで、伴野城・伴野貞祥の祖父・伴野光利の隠居城といわれている。城址は、土塁を設けた34×21mの主郭を中心に、幾重にも腰曲輪、段郭が配され、規模の大きさを物語っている。ただ、空堀・堀切は見られず、居住用の構...
富士見城@GoogleEarth飯綱山公園歴史の広場(富士見城跡)は戦国時代の山城跡で、小諸鍋蓋城の支城としてつくられたものと考えられおり、今でも広大な削平地や急斜面に石垣が残されています。浅間山の南斜面、飯綱山の山頂に位置しているため、大変眺めが良く、富士山を眺望できることから富士見城の名がついたと言われています。城址遠景 北側から現地説明板絵図旗塚・・・・・旗を立てた跡らし?堀切4・・・・埋められている・...
数年ぶり⛺本日はD 栗の木下で、風も弱く穏やか・・・・暑い位です設営後の1本今シーズン初の薪スト 薪消費は訳15Kか・・・・・・・・小型は燃費が良い!!サイトからの夜景・・・・・予報通り曇り空・・・・・・・・・・・早朝の幕、日の出前から霧が!!日が上がると晴れ・・・・もう1城行きますか!!2024.11.10~11人気ブログランキング...
応永13年(1406年)、上野沼田氏が群馬郡小窪(現・高崎市国分地区)へ侵攻した際に同地から阿弥陀仏を持ち去り、家臣の高橋外記と桜井伊織が出家しそれぞれ法増(蔵)坊・正覚坊と名乗り、根岸村(現・沼田市榛名町)に阿弥陀仏を本尊として草庵を結んだのが始まりと伝えられている。天正2年(1574年)に誓故上人によって鍛冶町に移され法蔵山正覚寺と称し、これを以て中興開山とする。天正17年(1589年)、真田氏家臣で名胡桃城...
関東平野の屋根にあたり、日本武尊が遊んだと言われる武尊や、谷川岳などの山々が連なり、雪解けの清水が細川となって集まり関東を縦断する利根川の源流のひとつの源の地に、緑に囲まれ歴史と共に歩んできた吉祥寺。創建は南北朝時代の暦応二年(1339)中巌円月禅師を開山和尚とし大友氏時により創建されました。建長寺派四百有余かヶ寺の寺院の中で一番北域に位置することから、建長寺北の門とも呼ばれています。山門文化十二年(...
今回はいつもの左手側へそしてMAS3W・・・・・夜半から☔予報!!サイトからの風景・・・・本日も完ソロ⛺焚火開始の時間久しぶりの炊飯焚き火小雨になり!!朝のコーヒ―タイム2024.10.27/28人気ブログランキング...
身延道の道祖神身延道武田氏や豊臣氏、徳川氏などの保護を受けた日蓮宗の総本山「身延山久遠寺(山梨県身延町)」へ参詣する道を身延道といいます深山を静かに流れる稲子川の畔に湧きいでる良質で心地いい温泉です。日本の田舎を感じるロケーション堪能♨2024.10.22人気ブログランキング...
井出の代官屋敷・井出館建久4年(1193)源頼朝が富士山麓で巻狩を行った時陣所となった所です。その時の建物は江戸時代中期に火災により焼失してしまいましたが、現存する井出館は江戸時代中期の上層農家の貴重な建造物です。屋敷地には、頼朝が馬をつないだといわれ、昭和27年に、国の特別天然記念物に指定されている「狩宿の下馬桜」があり、別名「駒止めの桜」とも呼ばれています。この桜は学名アカメノシロバナヤマザクラとい...
稲子城遠景主郭は二郭より構成されていて、南端の曲輪は50m×15mで、土塁は残存しない。北側に小さな堀切りを設けて北に小郭(13m×5m)を付属させている。ここから斜面となり、北端に小規模な曲輪と堀切りを設けているにすぎない。又鞍部を下りた先にも、堀切が有るらしい・・・・・・・・・・城主は、今川氏の被官である宮城弾正左衛門の名が伝えられているが真意は不明です。しかし、山麓の居館址と考えられる地には、現在、...
真夜中のフジヤマ1真夜中のフジヤマ2ふもと⛺北斗七星早朝のフジヤマ早朝のふもと⛺からのフジヤマ日の出のフジヤマ2024.10.22 真夜中から早朝のフジヤマ 人気ブログランキング...
伊釜山城@GoogleEarth舗装された北側の林道から城址へ・・・・・歴史的詳細は不明、しかし確かに城は有る!!北1本目堀切、山道左手に残る北側2本目堀切 両サイドへ郭が延びる西側の帯郭南1本目堀切 山道左手に!!藪の中に南 2本目堀切主郭手前の堀切伊釜山城主郭2024.10.13 初登城人気ブログランキング...
高橋城@GoogleEarth高橋城は、多気山城の北東の山麓にある。多気山修験道の大火渡り祭の会場となる広場の東側にある比高15mほどの台地先端部が城址となっている。会場建設のためか、台地の西側は削られてしまっている。北側から登っていくと、横堀に囲まれた半円状の地形が見えてくる。これが高橋城の跡である。城の西側半分は削られてしまっているのであろうか?道路より 北側から城址へ想像より、綺麗になっています 丘上部...
岩原城@GoogleEarth 国道沿いにやや高くなった地形があり、その間を通って東側に入って行く道が付けられている。やや高くなっている地形は櫓台の跡のように見えている。これを進んで行くとすぐに堀が残されているのが見えてくる。堀の南側には土塁がそびえており、虎口が開口している。虎口と堀の形状からすると、虎口の北側が城内ということのように見える。さらに東側に進んで行くと、そこにはかなり大規模な土塁と堀が南北に5...
大堀城@GoogleEarth 大堀城の城主、半田藤右衛門は戦国時代に活躍している。すなわち、天正2(1574)年3月26日の「芳賀高継書状写」(小田部庄右衛門氏所蔵文書)に、「鹿沼朝懸致之候處、各出合敵五十余人討捕候条」 と、芳賀高継が半田藤右衛門尉に送っている。 鹿沼勢が朝早くに攻め入ってきたところを、半田藤右衛門が討ち取ったというものである。西側の堀北側の堀東側の堀2024.10.13 再登城人気ブログラ...
藤本館@GoogleEarth宇都宮市の西部、新里町字藤本に所在します。場所は国本西中学校の東約600mになります。上の写真は西側から見たところです。現在は個人宅となっており内部散策はしておりません。規模は東西約120m、南北約90mの複郭で、西側を流れる姿川支流の小川に臨む場所に本郭が設けられております。「栃木県の中世城館跡」によれば、本郭は西側を除く三方に空堀を設け、曲輪縁部ではなくさらに内側に逆台形上に...
田中城@GoogleEarth宇都宮氏家臣、田中氏の城とされるが・・・・・・・ゴルフ場の造成の為、土取りし遺構が消滅している!!往時は堀が巡っていたらしい・・・・・・・・・・城址への入口削り取られた中心部以前は、ここに寺が在ったらしい墓地 左手の堀さらに奥に有った堀か?北側 土塁?東側に残る堀と土塁 本来はこの堀が巡っていたのか?東側の郭?東側から見た墓地方面・・・・土取りで大きな窪みとなってい...
下田中城@GoogleEarth徳次郎城の西3kmの場所に位置し、徳次郎城との関係が深いと思われるが・・・・歴史的詳細は不明。城址遠景ソ-ラ-畑の手前を右へ小さな墓地の裏手から尾根へ分りずらいが 堀切1本目2本目堀切手前の郭2本目堀切堀切3本目南北に長い郭南側から北側の上部 主郭主郭 北端の岩主郭北側 岩壁の堀切最北端の堀切?・・・・・非常にあいまい・・・・・2024.10.13 初登城人気ブログランキング...
本日のサイト No,24 比較的新しサイト⛺程よい感じテンマクの炎幕 二代目エクストレイルでの初おいらの森後ろにいたんだよ🐐🐐🐐焚火の時間・・・・まだまだ結構暑い夜でした蚊もいたな( ;∀;)朝飯旨し😋2024.10.6~7人気ブログランキング...
雨乞山城@Google帰ってきた 栃木県の中世城郭さんのサイトより近年新たに城に確認された城である。雨乞山は、多気山城の北方3kmほどの所にある。この位置関係からすると多気山城と関係はいかに?遠景南側から、湿度の高い日でした( ;∀;)入口となる墓地目印となるハイキングコース?、少し進むと少し急登になり、踏み跡が有るが道が曖昧になってくる!!が、直進し大岩を目指す!!城域が近い事を表す大岩・・・・生で見ると、...
同慶寺城@GoogleEarth同慶寺は芳賀氏の菩提寺であり、芳賀氏歴代の墓が残されている。だけではなく、この寺院には城郭遺構の名残かと思われる遺構が各所に残されている。近くには芳賀氏が取り立てた飛山城もあり、飛山城の付属施設として機能した城館だったのではないかと考えられている。同慶寺 左手側が飛山城方面芳賀氏累代の墓南西の郭 土塁上から南東に残る土塁北側の虎口とされる、 奥に土塁は見えるが!南西側の...
淡路城@Google 淡路城は鬼怒川の東岸の比高20mほどの台地上に築かれていた。かつてはかなりの規模の城館であったと思われるが、昭和40年代に大規模な宅地造成工事が行われたため、遺構の大変は消滅してしまったという。現在は、竹林の奥に腰郭と横堀が僅かに残る!!淡路城の城主は直井淡路守と伝えられ、城名の由来にもなっている。造成を断念した?城址周辺この看板の脇から、遺構へ・・・・・・・・・東側の腰郭倒竹...
桑島城@GoogleEarth桑島城を築いたとされる桑島辰業は、横田綱親の子である。中城、御城、東の門、西の門、政所といった地名が残されており、複数郭の城館であったと思われるが、耕地整理でかなり破壊されてしまったものらしく、現状では土塁が1本残るのみとなる。お宅背後の土塁、堀は消滅している2024.10.6 初登城人気ブログランキング...
刑部城@Google刑部城@GoogleEarth宇都宮頼綱の子,頼業から数えて6代目の横田安芸守師綱の二男,五郎兵衛尉良業が刑部の地を治め,城を築き刑部と名乗りました。良業の子,刑部五郎左衛門業知が,この城を継いで宇都宮氏の家来となり知行三千石となったとされています。数代のちの経貞は,豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わりましたが,1594年(文禄3年)に戦死しました。宇都宮氏の滅亡により刑部氏の子孫は,帰農し土着した。城...
児山城@Googl児山城は、多功城・上三川城とともに宇都宮城の南方を守るために築かれた城です。今から約700年前の鎌倉時代の終わりごろに、宇都宮頼綱の四男多功宗朝の次男(又は三男)朝定が築城したと伝えられます。 現在も、本丸をめぐる堀と土塁がよく残されていて、四隅には櫓があったと考えられる高まりも確認できます。また城の周囲にも部分的に堀と土塁が残されていることや、西城、中城、北城、稲荷城などの地名から城の...
東林寺城@Google牛久城を拠点に勢力を張った岡見氏によって築かれた平山城で、牛久城同様、岡見氏及び後北条氏方の拠点として用いられたものと考えられている。城の地積は大きく、南北150m、東西70mの規模を有する。同じく大規模な城郭である牛久城とは指呼の距離であり、また、牛久在番衆の一翼を担った井田氏の坂田城と構造が酷似していることから、牛久在番との関連を指摘する向きもある。牛久沼に向かって延びる半島状...
牛久城@Google城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に築造された。この城は、戦国期に築かれた東国の城の特徴を持ち、本丸がある城山には石垣や天守を持たない典型的な遺構を残している。ここは、後北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られている。天正年間、多賀谷氏と岡見氏の係争の舞台となり、多賀谷氏を支持する佐竹氏と、岡見氏を支持する北条氏の間での対立の地と...
足高城@Google足高城が何時頃築かれたのかは不詳だが、戦国時代には周辺を支配していた岡見氏の有力な支城だったと推測される。足高城@Google Earth八幡神社入口の土塁?鳥居の先の堀郭1は激藪・・・・道路から堀の断面は見えるが、激藪と個人宅の為に中は見ていません。主郭の堀の断面・・・・・・・・主郭側が激藪、郭2側個人宅となっています。この標識城中の側に堀が!!個人宅の中に堀と土塁城中の標識の向かいは・・堀跡...
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網代城@GoogleCS立体図 網代城・・・・・この図は少し粗い・・・・15世紀中頃、農山村の地侍たちは地域の指導者として村単位の自営権力を持ち、南一揆と呼ぶ武装集団を成立させていた。 この山城はそうした者たちによって利用されていたと考えられる。このような小規模な山城は村人らの逃散(領主の重税から逃れる)の場としても利用されていた。 16世紀中頃、滝山城に入城した北条氏照により南一揆は解体され、網代城は滝...
根小屋城@Google根小屋城CS立体図北方に秋川が流れる加住(かすみ)北丘陵の断崖上に位置する根小屋城ですが、主郭部周辺は変形が進んでいるため、縄張の詳細が把握しにくく謎が多い山城です。 直線距離にして180メートル程度の小さい平山城ではありますが、残存する堀や土塁の跡からは、自然の要害を最大限に利用していたことがうかがえ、少人数でも効果的に守れるよう工夫された山城であったといえます。根小屋城入口竹林の南郭...
今回は久しぶりのNo1サイト・・・・今の時期は新緑で、展望が悪かった・・・・今回は炎幕・・・今日は気温が高いので、オープンで⛺湿度も高い!気温も高く、地雷を設置💣イヤ蚊取り線香を 早朝のコーヒ-旧管理棟からの風景焚火と新緑2025.5.18~19人気ブログランキング...
乙城(自性院の裏山)@Google自性院裏山が城址となり、周辺にも多くの城が存在する!!歴史的詳細は不明又栃木県のCS立体図から外れている。城址遠景 駐車場から東側内側の堀・・・こちらは造りがあまい乙城主郭 南側の立木が伐採されている!!主郭 北側雑木林内東側 外側の腰郭又は堀跡か?北側 腰郭上段西側 内堀・・・東側と違い造りが良い!!西側 外堀西側から見た主郭主郭内の古墳群2025.5.11 初登城...
所野城(小倉山森林公園)@CS立体図近年新たに発見された城、日光東照宮に程近い!小倉山森林公園が城址となり公園化されていた!歴的詳細は不明北の堀切・・・低い竹が邪魔して見ずらい!!虎口か?郭2主郭への虎口 土橋・堀切所野城の主郭東側の腰郭、西側にも有り主郭からの男体山・・・・昨日辺りで雪が降ったか?2025.5.11 初登城人気ブログランキング...
岩槻城図室町時代末期・戦国時代初頭に築城され、明治時代初期に廃城となった岩槻城。およそ400年にわたる存続期間に、岩槻城は大きく移り変わりました。激しい戦乱の中で築かれた当時の軍事的機能、大きな勢力配置が固まった中で、領主(国衆・くにしゅう)の本拠や関東統治の要として加わった拠点城郭としての性格、「泰平の世」における幕府の全国統治における幕閣の城としての性格・・・。時代の推移とともに、岩槻城の性格や...
久野又城ルート@国土地理院(林道の分岐に注意!!)近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明。城への農道・・・・・・山へ進む・・・・・林道の分岐・・・・・この分岐点は、間違えてはいけない(私は、間違えて直進してしまった( ;∀;))爽やかな林道・・・林道はほぼ平坦林道突き当り右手へ作業道を進が・・・・・🏔尾根を直登!!目的の峰に出て、最初の遺構・・・・南の堀切主郭 南側の腰郭久野又城の主郭・・・・眺望は無...
寺宿城ルート@国土地理院 近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明。城への作業道入口・・・入口付近に目印のテープが有るが、この斜面を進む事は推奨しない・・・斜面がきつ過ぎる!!東側から見上げる?遺構はこの上の稜線!!主郭への土橋、堀切 虎口寺宿城 主郭主郭 西側の崩壊した祠主郭北側の段郭北東の切通・・・この切通から城の祠へか?まだこの辺りには、菜の花が咲く2025.4.27 初登城人気ブログランキン...
sあ富池城@Google近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明(動画は暗いため、ブレていますm(__)m)城址遠景温泉神社 背後の森に遺構が!!(藪!藪!藪!)森に入り・・・少し進んだ場所に、最初の遺構!堀切、若干竪堀に北先端の堀切2025.4.27 初登城人気ブログランキング...
小幡城@Earth小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(一四ニ〇年頃)に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代(一ニニ〇年頃)に築いたという二説がある。 戦国時代の文明年間(一四八一年頃)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。 現在の城域約十二ヘクタールが整備されたのは、元亀~天正年間(一五七〇年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。 安土・桃山...
竹原城 出城@Earth竹原城は大掾氏の府中城(石岡市)の支城で、府中大掾平貞国の弟、竹原四郎義国が長禄2年(1559年)に竹原に築いた城である。天正18年(1590年)12月佐竹氏は水戸城主江戸氏に続いて、常陸の名門付中城の大掾清幹(貞国の子)をも攻略した。この時、義国も討死し城も廃されたと伝えられている。牙城の高さ約16メートル、1の郭、2の郭、3の郭ともに円形をなし、外部は水田に接している。昔の面影としては、館跡、...
鶴田城@Google園部川の支流である沢目川右岸に所在する標高 28mの台地上に占地しており、東側には沢目川が開析した小支谷がある。二重の土塁と堀が廻る長方形の居館であるとされ、その規模は、南北225m、東西115mの範囲に及んでいる。戦後までは山林であたが、昭和30 年代には部分的に開墾されて畑地となり、近年、本館の北側は残土置き場となっている。 周辺には、要害という地名を中心に弾正、古屋敷、陣場などがある。かつて...
堅倉砦@Google標高27mの台地上に所在する南北方向に構築された長塁である。北側は巴川、南側は園部川の支流、沢目川が開析した谷津の谷頭が所在していることから、この地が選地されたと想定される。現状で、高さ0.6~2mの土塁と深さ0.5mの堀が500mにわたって残存している。2か所に外側に張り出す「物見台」と思われる遺構が付設されている。 北に延びる防塁張り出し・・・・物見台?・・・・いずれは消滅か?最北端の堀・・・...
明神城@Google ㊟イメ-ジ図になりますm(__)m近年新たに発見された城で、歴史的詳細は不明!!熊野神社 ここは物見か?熊野神社手前の竪堀熊野神社から北へ 2本目竪堀3本目竪堀 堀切もあったか?中間の郭で先端に、2本の竪堀たぶん?堀切からの竪堀山頂部南の郭 土橋付堀切南の郭から下がった位置の堀切明神城 主郭主郭から北へ1本目堀切主郭から2本目堀切 虎口有2025.4.20初登城人気ブログランキング...
仮称小春城@Googleこの城の向かいには愛宕山城が存在する・・・近年新たに発見された城で、歴史的詳細は不明!!城への入口、橋を渡り右手の林道を進む東郭の城塁 ここ迄5分位郭2背後の堀切 林道が北側迄巡り、最初にこの堀切に取り付いた!!郭2 主郭と堀切を挟んで西側の郭主郭と郭2間の堀切小春城 主郭 最近か?立木の選定や幹に保護ネットを取り付けたか・・・南郭 主郭から見て南側に一段下がる位置の郭東郭 東側下段...
和見砦@Google㊟和見砦イメ-ジ図になりますm(__)m唐御所横穴の背後が砦7世紀頃に造られたと考えられる。周辺には横穴墓がいくつもあり、こちらの横穴墓は凝灰岩の丘陵の南斜面に掘り込まれた精巧さでは全国屈指。また平将門の娘がこの地に逃れ、この横穴で娘を生んだという伝説が残されている。横道が有ったので!南側から取り付いた主郭手前の堀切 見和砦 主郭 唐御所横穴の背後郭2の堀切郭3 最北端堀切手前の郭最北端の堀...
健部城@Google㊟健部イメ-ジ図になりますm(__)m近年新たに発見された城、歴史的詳細は不明城址への入口 民家の間の道を山へ・・・・・直登すると、腰郭 南側西へ 最初の堅堀最初の堀切 西側最西端の堀最西端の郭 馬出?健部城 主郭 西側から(三角点有)主郭東側の堀切 郭2? 半分は?・・・土砂取りか?最北端の堀切・・・チョイ藪北側の腰郭2024.4.16初登城人気ブログランキング...
Freedom~プライベート野営地 今回は道路の右手側にて初⛺久しぶりの、本日はソロテイピ-1TC西側サイト 全体に緩やかな斜面設営後に一杯🍺雨の焚き火翌朝8時には晴れ間が2025.4.13~14人気ブログランキング...
前玉神社の桜崎玉古墳 丸墓山🌸忍城の桜2025.4.8人気ブログランキング...
鰻山城@Google鰻山城跡は、通称鰻山山頂に所在する平山城です。堀と土塁が残り、城跡の東側には旗川が流れます。現在は主郭のところに石碑が建てられています。当城は、東西約31m、南北約56mの規模の主郭を設け、主郭の西側には2個の曲輪が確認できます。築城については、鎌倉時代に佐野氏の一族の奈良五郎宗綱が築いたといわれ、その後、宝治元年(1247)廃城となったといわれています。一族が築いた城として佐野氏と関係の深い城...
金尾要害山城@Google金尾弥兵衛(かなおやへえ)の居城と伝えられています。荒川右岸の金尾峠を押さえる城。堀・土塁・矢倉跡・石積みが一部残存しています。・・・・石積は、分かりませんでした!! 金尾要害山城へ・・・駐車場完備御手植えの碑現地説明板愛宕神社の有る郭 主郭?東に延びる尾根の堀切・・・・石積はどこに?堀切から延びる竪堀櫓台からの展望愛宕神社脇から櫓台を見上げる・・・久しぶりに来たら、綺麗に整備さ...
天神山城@Google天文年間に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したと伝えられている。1546年(天文15年)の河越夜戦以降に北武蔵に勢力を伸ばしてきた北条氏康に重利は1549年(天文18年)7月従属した。1560年(永禄3年)に上杉謙信が関東侵攻を開始すると藤田氏は上杉方についた。しかし、同年9月に北条氏によって攻め落とされた。1564年(永禄7年)頃に北条氏康の四男である氏邦が入城した。氏邦は1568年(永禄11年)10月か...
仲山城@Google城の北と南にはそれぞれ一条堀切があるシンプルな構造を持っています。南の国道からの入口には「野上下郷石塔婆」という日本一の青石塔婆があります。この塔婆は阿仁直家夫人が応安2年(1369年)に十三回忌の追善供養のために建立したもので、歴史的な意味を持っています。仲山城は、鎌倉時代後半の1312年に、北面の武士であった阿仁和兵助橘基保が神のお告げを受けて一族を引き連れて関東に移り、新田義貞の配下と...
須花城 ・正光寺城@Google正光寺の裏側の山林の中に所在し、堀と土塁、曲輪が確認できる砦跡です。かつては『悪戸(あくと)城』と言われていたようです。規模は東西約24メートル南北約24メートルで彦間川との丘陵を利用した小規模な砦と考えられます。須花城と近接していることからも、須花城の出城と考えられます。正光寺入口地蔵堂佐野宗綱・諸将の墓土橋と虎口正光寺城の主郭主郭の石祠東側の堀北に落込む東側の堀...
須花城 ・正光寺城@Google㊟イメ-ジ図になりますm(__)m飛駒足利線側の空き地から取り付く(須花沼上の空き地)須花城跡は下彦間町に残る標高約200メートルの山城で、別名小坂城ともいいます。築城は佐野国綱と伝えられます。本丸周辺には土塁を巡らせた削平地と堀切が認められます。須花周辺は、佐野宗綱が天正13年(1585)、足利長尾方に討たれた地としても知られています。また、本城の東側には、正光寺城跡も残されています西の...
Aサイトゾーン・・・キャンプ場中央を、道が貫通!!管理棟 夜はいません・・・本日は、二組でした。Bフリ-サイト、上段が区画サイト(ソロ向きの広さです)本日は,炎幕DX・・・渋い幕であるが!前幕を使用した際の雨天では・・・・・・久しぶりのステ-キに宮のたれコンビニでの衝動買い!!2024.5.12~13人気ブログランキング...
澤村城@Google沢村城は、文治3年(1187年)に那須資隆の七男沢村満隆によって築かれた。那須氏の勢力範囲の南方にあった塩谷氏に対抗するために築かれたとみられる(『矢板市史』)。ただ、この時の沢村城が、山城の方か、旧沢城の方か、それとも当初から両方が築城されていたのかは不明である。しかし、この満隆については、1代限りで断絶しており、この時代においては、旧沢城の方が最初に築城され、山城の沢村城は、築かれていな...
岡城@Google平安時代の末、塩谷郡を支配した堀江氏(源姓塩谷氏)の重臣・岡四郎兼春により築城、あるいは戦国時代に塩谷安芸守による築城と伝わる。低い独立丘に造られた城で、平城と山城の中間的な平山城である。東西約300メートル×南北約150メートルの規模を持ち、東を流れる内川と南を流れる江川を天然の要害として、空堀と土塁で固めた簡素な城で代々、塩谷氏の重臣・岡氏の居城として機能した。城は片岡地域の...
乙畑城@Google現在、遺構の残る山城の乙畑城は、明応文亀の頃(1501年)に喜連川塩谷氏によって築かれたものだが、それ以前に、堀江氏(源姓塩谷氏)の重臣乙畑六郎兼房により築かれた乙畑城があり、現在は、乙畑城の馬場跡として伝わる乙畑小学校周辺の場所に、館城としてそれがあったものと思われる。その子孫は小幡氏を名乗り、山城の乙畑城の中にある熊野神社にある円形銅板の懸仏には、「応永二十五年(1418年)九月十日 小幡浄賢...
戸村城@Google 集落の中に遺構が点在する!!戸村城(南城)の創建は古く、1160年戸村能通によって築かれました。能通は那珂市産代通兼の子で、大井郷戸村に居城を築いて戸村氏を称しました。1336年戸村氏六代の戸村又五郎は南朝方として、北朝方の佐竹貞義の籠る金砂城を攻めたが敗れ、戸村氏は滅亡しました。佐竹氏十二代佐竹義人の子義倭は、大掾姓を名乗っていたが佐竹に復し、1460年那珂氏系戸村氏の古城である...
安川城@Google源氏の流れの国井氏が平安末期に築いたというが、南北朝の争乱でこの地を去り、佐竹系の国井氏が住んだという。水戸市の最北部、那珂川北岸、那珂市との境、南側を常磐自動車道が通る那珂川の河岸段丘上の縁部にあったが、戦争中、この台地上には水戸北飛行場が建設されおり、その際破壊されたのだろうか?・・・・・・・・・・安川城説明板現在残る、主郭の堀安川城 主郭方面・・・・・ほぼ耕作地となっている!!...
成沢要害@Google比較的最近に発見された城であるが!!昔からこの地に城が有ることは、知られていた様である。東漸院背後の山が城址である、西城のピークに金砂神社の石祠が祀られているので、そこを目指し山道を進みます。金砂神社の場所が主郭と思われ、四方の尾根に複数の郭が確認できる又堀切も見受けれられるが・・・・埋没が進み判別が厳しい物がほとんどである。(今回は東城には、行っていません)歴史的詳細...
2024.4.28人気ブログランキング...
2024.4.28人気ブログランキング...
今年初!!Freedom~プライベート野営地~!!サイト前の風景⛺初張りの炎幕DXVer2今日は暑い!!💦💦💦直火を堪能する!!Baird Beerと柿の種旨し夜更けを待つ・・・・・これで6時前雨上がりの朝・・・・キャノピ-に雨が溜まるが!!大丈夫⛺コットン100%人気ブログランキング...
2024.4.14 散り出し🌸人気ブログランキング...
忍城 花手水雨の忍城と桜雨の丸墓山古墳と桜石田堤と桜2024.4.9 雨天人気ブログランキング...
No1からのサイト風景本日のサイトとパスファインダ-⛺newLEDランタンお気に入りの焚き火台焚き火から見えるサイト🔥沈む夕日🌇真夜中の・・・北斗七星☆彡おいら⛺から見える山桜🌸飛行機雲・・・・・・・人気ブログランキング...
高尾阿弥陀堂の墓地にある桜で、樹高13メートル、根回り2.9メートルである。樹齢はおよそ200年。3月下旬に淡いピンク色の花をつける。市の天然記念物に指定されている。阿弥陀堂エドヒガン普門寺枝垂れ桜・・・・・チョイ早い!!2024.3.31現在人気ブログランキング...
笠鉾(かさほこ)状の枝一杯に花が咲き誇り、下から見上げると淡紅色の花と青い空とのコントラストが美しい古木です。隣あう2本の桜の木がいったん伐採され、その株跡から12本の芽が伸びて、美しい樹形になりました。樹高18m、枝張りは東西23.5m、南北21.8m、根回り6.5mです。人気ブログランキング...