住所
羽生市
出身
羽生市
ハンドル名
樋口山城守与六さん
ブログタイトル
古城巡り 写真館
ブログURL
http://yamashiro2015.blog.fc2.com/
ブログ紹介文
関東を中心に全国の、城館や史跡をデジタルアルバムのデジブックにて現在の城を紹介して行きます。
自由文
更新頻度(1年)

88回 / 54日(平均11.4回/週)

ブログ村参加:2015/08/12

樋口山城守与六さんの人気ランキング

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樋口山城守与六さんのブログ記事

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  • 手賀城 千葉県柏市

     手賀城の詳細は不明である。『手賀城城主原氏系図』によれば、小弓城主原胤清の子胤貞が下総国相馬郡手賀六百貫を賜り、その後胤親、久胤へと続いたとある。しかし異説もあり明らかにはされていない。 元亀二年(1571)以前、臼井城主の原上総介胤貞は、家督を小弓城の子胤栄に譲った。天正二年(1574)頃には胤栄が臼井城主となり、胤貞は上総小西城に移る。天正十七年(1589)、秀吉による小田原攻めが開始される...

  • 高野館 千葉県柏市

    高野館 右手の竹林の中に遺構が手賀沼南岸から1㎞ほど南方に入り込んだ谷津奥の高野台地上に占地する。伝承では、平将門の別所として造営され、高野御殿と呼ばれていたという(『東葛西郡誌』)が信じがたい。当地は、千葉氏の重臣・円城寺氏の所領であったと伝わる、こちらも裏付ける確かな史料はない。東西120m、南北100mの範囲に、土塁・空堀や方形の郭跡などの遺構が残されている。土塁の中央部には虎口があり、規模...

  • 布施館 千葉県柏市

    布施館の地蔵堂南の土塁布瀬館は、布瀬南部の県道柏印西線南側の手賀沼を見下ろす台地縁辺に位置する。その歴史は明らかでなく、古くは原氏、二階堂氏が領し、その後、岩松氏が支配したと推察される。しかし、戦国時代については全く不明である。現在、館跡は地蔵堂・墓地・宅地となっていて、遺構は壊滅しているが、その周辺に僅かに土塁跡と思われる痕跡が発見される。しかし、具体的な構造・形態などは明らかでない。...

  • 松前館 千葉県柏市

    松前館 遠景・・・遺構は無と思われる松前館は、手賀沼を東に望む布瀬南部の標高20m前後の舌状台地上に占地した。館跡の台地は、手賀沼を東にして北側の入谷津に向かって突き出していたが、現在この台地の先端部は県道柏印西線の開通によって失われている。歴史・伝承に関しては、記録が無く不明である...

  • 藤ヶ谷城 千葉県柏市

    藤ヶ谷城 遠景 藤ヶ谷交差点の一帯が城址藤ヶ谷城(千葉県柏市藤ヶ谷)は、手賀沼南端部から発達する入谷津田が南西に突出した台地先端部に、かつて土塁・空堀によって一つの郭があったことが窺える。現在は土塁の一部と、妙見社(香取神社)が付近に存する。古くは相馬岡田氏が支配した所で、付近に居館を構えていたと思われる。戦国時代には高城氏が領したものとされ、その家臣・藤ヶ谷修理との関係が指摘されている。城跡一帯...

  • 藤心陣屋 千葉県柏市

    和2年(1616年)本多俊正の四男で本多正信の弟である本多正重が下総国で九千石の加増を受け、一万石で諸侯に列したことに始まる。重信の跡を継いだ正貫の時に二千石の減封となるが、元禄元年(1688年)正永の時に一万石に復帰、さらに五千石の加増があり、元禄16年(1703年)上野国沼田に転封となった。沼田に転封後も下総国の領地は飛領地として維持され明治に至る。藤心陣屋中門 法林寺藤心陣屋表門 観音寺[千葉県柏市藤心288]大...

  • 真里谷城 千葉県木更津市

    真里谷城房総半島中南部に広がる房総丘陵のほぼ中央部に位置し、小櫃川支流の武田川上流域にあった。1456年(康正2)、真里谷氏(上総武田氏)の祖武田信長が築城したとされる。当時上総は犬懸上杉家の上杉政憲の支配地となっていたが、政憲に敵対する古河公方足利成氏は、守護代として信長を上総に派遣し、政憲の領地を削いで勢力を広げようとした。上総に入部した信長は、真里谷城とともに庁南城(長生郡長南町)を築いて上総進...

  • 大野城 千葉県いすみ市

    大野城 麓より見上げる大野城は、かつては狩野氏の伊保城と関連付けて説明されることが多かったが(つまりこここそが狩野氏の住んでいた伊保城ではなかったかということ)、狩野氏は応仁元年に城を攻め落とされていることと、現在見られる大野城の遺構は戦国末期のものであると見られることなどから、狩野氏の居城をそのまま大野城とするには疑問を持たれるようになってきている。そのため「大野城発掘調査報告書」では、「大野城...

  • 万木城 千葉県いすみ市

    土岐氏の勢力は決して大きく無かったが、県内でも屈指の中世城郭万喜城を築き、庁南武田氏、安房の里見氏、正木氏をはじめとする周辺の勢力と渡り合った。土岐氏は土岐為頼が当主の頃に最盛期を迎え、万喜城を拠点に夷隅川流域に多くの支城を築き勢力を拡大していった。万喜城は夷隅川を堀の代わりにし、水運も利用でき、城を築くには絶好の立地条件にあった。 万喜城は幾度か周囲の敵に攻められたが、落城したという記録は残され...

  • 大多喜城 千葉県夷隅郡大多喜町

    大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが...

  • 国府台城 千葉県いすみ市

    万木五支城の1つで、三階(みはし)氏の居城であったと云われている。伊甚(いじみ)の国造(くにのみやつこ)の子孫が野に下って、三階氏を称し国府台に居を構えた。三階義政は、土岐為頼の娘弘子を娶り万木城主に仕えた。その後、長男義堅が義政の後を継いで国府台城主となった。天正十八年(1590年)万木城落城と共に義堅は、国府台城に火を放ち家人と共に中滝郷古屋の別邸に落ち延びた。国府台城 説明板郭1 五社神社郭2 耕作...

  • 久留里城 千葉県君津市

    久留里城久留里城は別名「雨城」(うじょう)と呼ばれています。「城の完成後、3日に一度、21回雨が降った」とか「この山にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨が降っているように見え、城の姿が隠し覆われ敵の攻撃を受けにくかった」ともいわれています。 久留里城の起源については「平安時代中期の猛将平将門の三男、東少輔頼胤が初めてこの地に砦を構えた」と伝えられていますが、確証はなく伝説と考えられています。 以後、...

  • 船形城 千葉県野田市

    船形城跡周辺・・・・位置は特定できない・・・・・・・城址跡と伝えれれている場所は、主要地方道我孫子の船形中の交差点の北西一帯であり、かつ手は土塁跡が見られたというが、現在は住宅地や駐車場、資材置き場、田畑となり遺構は残されていない。僅かに我孫子関宿仙沿いの旧家山崎家の屋号に「殿山」の呼称が残っているのみである。又殿山の北東一帯は字小堤である。同家周辺には居館跡が存在したことを窺わせるが、城域を特定...

  • 目吹城 千葉県野田市

    目吹城(千葉県野田市目吹)は、北に利根川の低湿地帯を望む台地上にあった。平安時代後期には鎌倉景政の館で、その後戦国時代、永禄-天正年間には佐々木義信の城であり、さらに天正十年(1582)には丸山将監という人物が城を修復したと伝わっている。熊野神社 城の東側とされる熊野神社拝殿背後の土塁?手前が城宿で奥が城山、そしてそのお宅の西側に城址標柱が有ります城宿周辺西側からの目吹城[千葉県野田市目吹1058]大き...

  • 金野井城 千葉県野田市

    ㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/東金野井浄水場や、その隣の西福寺の周辺は、字『堀の内』と呼ばれ、西福寺の境内を囲むように、土塁と堀による区画を見ることができます。古くからこの区画は、かつて尾崎・金野井などを支配していた豪族の城跡、館跡であろうと考えられてきました。伝承では、元久3年(1206)に野本将監家定が築城したとも言われていますが、正確なことはわかっていません。昭和55年(1980)と60年(1985)に発掘調...

  • 木崎城 千葉県野田市

    木崎城 西側からの遠景木野崎地区の利根川に面した一画に、島のように孤立した台地が見られます。字名を『城下』、またその周囲には『新町・下町・本郷・下屋敷』などの地名や、『大門・倉庫・水牢等の跡』と伝えられる所もあり、市内で城下町が形成された唯一の史跡と思われます。土塁や堀などの遺構を見ることはできませんが、周囲を湿地に囲まれた“天然の要塞”となった地形は、城があったことを思わせるような雰囲気です。木野...

  • 山崎城 千葉県野田市

    1590年(天正18年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、譜代の家臣・岡部長盛に1万2000石を与えた。藩庁は下総国葛飾郡山崎(現在の千葉県野田市山崎)に置かれた。これが下総山崎藩の立藩である。1591年(天正19年)には、領内である堤台(現在の千葉県野田市堤台)に堤台城を築城した。長盛は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、下野国において上杉景勝の牽制を務めた。1609年(慶長14年8月)、長盛は丹波亀山藩に加...

  • 堤台城 千葉県野田市

    天正18年(1590)、下総国葛飾郡山崎(現在の野田市山崎)に入部した岡部長盛は、翌19年(1591)に領内である堤台に『城』を築き、慶長14年(1609)に丹波国亀山(現在の京都府亀岡市)に移るまでの19年間を過ごしたといわれています。大正8年(1919)の『稿本千葉県誌』によれば、「堤臺城址=野田町大字堤臺字寺山にあり、報恩寺の地即ち是なり」とありますが、『野田町誌』によると、『稿本千葉県誌』で書かれている報恩寺は「...

  • 古峯神社 栃木県鹿沼市

    鹿沼市の北西端の山麓にあり、古峯原街道沿いの鹿沼市草久に鎮座する神社です。天狗信仰で知られていて、宿坊もあるため参拝だけでなく参籠し参拝する方々が多く訪れています。御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りしています。御神徳としては、開運・火防・海上安全・交通安全などとなっています。御祭神の使者、天狗が厄災を除災されています。古峯神社 拝殿前の鳥居奉納天狗 天狗御朱印古峯神社 拝殿古峯神社...

  • 古峯原 金剛山瑞峯寺 栃木県鹿沼市

    今から凡そ1250年前、聖武天皇の御代、天平宝字元年(757年)に、日光山を開いた勝道上人(しょうどうしょうにん)によって当山奥之院三昧石(三枚石)が開創されました。御年二十三歳の時であります。下野の名刹出流山(いずるさん)より奥之院にきた時に、峯に古色蒼然とした広大な原野があるので、古峯原(こぶがはら)と名づけられました。一説には華供(はなく)の峯が供峯(くぶ)になり古峯(こぶ)になったともいわれてい...

  • 龍福寺 山口県山口市

    この寺は、建永年間(1206年 - 1207年)大内満盛が開基となり、山口の白石で創建された瑞雲寺に始まるという[1]。はじめ臨済宗に属していたが、享徳3年(1454年)大内教弘が開基となり、雪心を開山として中興し、曹洞宗に改められた。このとき現在の山号・寺号となっている。 天文20年(1551年)、陶晴賢が主君・大内義隆に対して起こした謀反(大寧寺の変)に伴う兵火で焼失したが、弘治3年(1557年)に後奈良天皇の綸旨を受け、...

  • 瑠璃光寺 山口県山口市

    山号は保寧山、本尊は薬師如来。国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されている。 香山公園案内図室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れ...

  • 萩藩主毛利家墓所 香山公園 山口県山口市

    この墓所は萩市に所在する旧天樹院、大照院、東光寺毛利家墓所とともに長州藩主(毛利本家)の墓所です。萩市に所在の場所は五輪問、笠塔婆形であるのに比してこの墓所は土饅頭の全面に墓石を立てる形式になります。墓所には七基の墓が有り中央の13代敬親公夫婦の墓は高さ約18m、経約5.8mの円形の墓であり「贈従一位大江源臣敬親卿墓」刻してあります。そのほか、14代元徳公夫婦15代元照公夫婦及び毛利本家歴代諸霊之墓が...

  • 大内義隆主従供養塔 龍福寺 山口県山口市

    大内義隆は大内氏の第16代当主 。第15当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟し、西国の地方政権大内政権を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた一族でもある家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。 大内義隆菩提寺、龍福寺...

  • 萩藩主毛利家墓所 東光寺 山口県萩市

    吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にあり、元禄四年(1691年)萩藩三代藩主毛利吉就(よしなり)(1668-1694)が建立しました。吉就は若くして黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。吉就の没後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となりました。三門(国指定・重要文化財)この門は東光寺が創建されて百二十一年後の文化九年(1812年)九月十九日に竣工...

  • 出雲の阿国 島根県出雲市

    出雲の阿国の墓入口・・・・普通の墓地の中に有ります歌舞伎の創始者とされる女性。松江の鍛冶職中村三右衛門の娘で,出雲大社の巫女であったというが,各種の伝説があって不明確。中世末期の歩き巫女と考える説もある。女性中心の舞踊団 (→阿国歌舞伎 ) を組織して全国を巡演し,慶長8 (1603) 年には京都で「かぶき踊」を興行して,広く庶民,武士,貴族の間に人気を得,結城秀康もこれを城中に招いたという。この「かぶき踊」は...

  • 鴻神社 埼玉県鴻巣市

    鴻巣宿の中心にあった氷川社、熊野社、雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである。その後、明治35年(1902年)に、日枝社、東照宮、大花稲荷社、八幡社を合祀して、社号を現在の鴻神社と改めた。当初は市内宮地5丁目にあったが、後に現在地に移転した。なお、旧社地には現在も八幡、稲荷、氷川の三社の祠が残されている。 こうのとりのお宮鴻神社拝殿鴻の宮と夫婦銀杏夫婦銀杏 社殿の両脇にある樹齢500年...

  • 氷川八幡神社 埼玉県鴻巣市

    氷川八幡神社氷川八幡神社は、鴻巣市箕田にある神社です。氷川八幡神社は、箕田八幡神社と通称し、渡辺綱(源綱)が、永延2年(988)当地に八幡宮を勧請して創建したといいます。氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい、また鴻巣市八幡田は、氷川八幡神社の神田だったといいます。また境内には、宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されています。明治時代に入り、字龍泉寺の八幡社、箕田氷川神社...

  • 結城御殿 埼玉県鴻巣市

    勝願寺勝願寺山門牧野氏墓所 徳川家譜代家臣。武蔵国足立郡石戸を治めていた牧野康成は伊奈氏と同様に家康から当寺の檀那になるように命じられた。康成の跡を継いだ牧野信成は領地替えのため石戸から下総国関宿、信成の後を継いだ牧野親成は関宿から丹後国田辺へと移り住んだが、その後も檀那としての関係を維持し続け、歴代当主は当寺に埋葬された。牧野氏の墓所は仁王門の向かって右手にあり、門扉には丸に三つ柏の家紋が記され...

  • 鴻巣三社巡り 埼玉県鴻巣市

    鴻巣三社巡り三ツ木神社 「おさるのお宮」氷川八幡神社 「鬼退治の御宮」鴻神社 「こうのとりのお宮」三社巡り 御朱印最後の神社で頂ける、満願札...