三国志 蔡邕 若き日の蔡邕は有能な学者として古文のテキスト校正に活躍 宦官を批判して死刑にされかかるが、宦官の硬骨漢呂強に救われる
出仕した蔡邕は、県長を皮切りに郎中、議郎へと昇進を重ねます。その中で、蔡邕は研究し続けた古文の6つの経書を校訂するよう進言して認められました。焚書坑儒等によって古より伝えられてきた文章は失われ、誤った文章が流布されていると考えられていたため、どのテキストが正しいのか判断する作業です。その成果は彼自身の記した文字として、洛陽の太学門外に石碑として立てられました。石碑とすることで、後世の者も正し…
三国志 名士招聘 董卓は政権を安定させるため、名士を招聘する 唯一董卓に協力的だった名士、蔡邕
呂布は字を奉先といい、五原郡九原県出身の人物です。勇猛さを認められて并州に仕えました。并州刺史の丁原は呂布を主簿に任じ、親愛していました。呂布が丁原の首を斬って董卓のもとへうやってくると、董卓は呂布を騎都尉に任じ、父子の関係を結びました。弓術と馬術に優れ、抜群の腕力を持つことから「飛将」と呼ばれたそうです。 軍事力を独占した董卓は、続いて天候不順を理由に司空の劉弘を免職にしてその後釜に座り…
三国志 董卓上洛3 執金吾の丁原を呂布に殺させてその軍を奪ったことで、洛陽で董卓に対抗できる者はいなくなる
洛陽には四方から軍勢が集まっていましたから、それでも董卓の軍は他を圧するとまでは言えません。そこで、董卓は一計を案じます。董卓は夜中の内に軍勢を洛陽城外に出し、翌日に鐘や太鼓を叩かせながら入城させ、「西方からの軍がまた洛陽に至りました」と言わせました。これを繰り返し、自分の軍を実際よりも多く見せかけたわけです。 もちろん、この詐術では他の軍に対して董卓の優位性を錯覚させる役には立ちますが、…
三国志 董卓上洛2 騎都尉の鮑信は袁紹に董卓排除を進言するも、袁紹は動けない 董卓の弟董旻は同僚の呉匡を追い払い、何進の軍を手中に収める
同じく三国志董卓伝の注に引く『献帝春秋』だと、駐屯地で皇帝が帰還するとの情報を得て軍勢を率いて迎えに行ったことになっており、同じく『英雄記』だと河南中部掾の閔貢(びんこう)が皇帝と劉協を助けたのを、董卓が迎えたことになっています。 宦官たちが皇帝と劉協を連れて逃げ、宦官は漢紀の記すように自殺したか、董卓(または『献帝春秋』に見える閔貢)の軍に滅ぼされたかで何れにせよ命を落とし、そして皇帝と…
三国志 董卓上洛 張譲や段珪らは少帝と陳留王劉協を連れて逃げる途中で上洛中の董卓と遭遇し、宦官は川に身を投げ皇帝兄弟は保護される
では、洛陽を出た少帝たちはどうなったのでしょうか。 三国志演義ですと、皇帝とともに洛陽を脱出した張譲や段珪たちは小平津に逃げたところで上洛中の董卓の軍勢に遭遇、川に飛び込んで自殺しました。董卓は徒歩で逃げ惑う皇帝と劉協を保護し、洛陽へ戻ることになります。 では、史実ではどうなのでしょうか。これが実に困ったことに、後漢書、三国志、さらに注として異説がいくつもあり、よく分からないのです。 …
三国志 何進の死 何進は何皇后に会うために宮中へ参内したところを斬られ、それを知った袁術らは宦官や何進の異母弟何苗らを殺害する
この重大局面で何進がとった行動は、甚だ理解できないものです。8月、何進は袁紹の忠告も聞かずに宮中へ参内します。嘉徳殿に至った何進を待っていたのは、中常侍の段珪と篳嵐(ひつらん)の率いる兵士たちでした。兵士に取り囲まれた何進の前に、張譲が現れます。そして、何進は張譲に罵られながら斬殺されたのでした。 宦官たちにとっても正念場です。ここで洛陽内の軍を少しでも多く押さえなければ、宦官には生き残る…
三国志 一触即発 何進は董卓に上書させて何皇后に圧力をかけ、袁紹は地方の宦官一族を逮捕するよう命令を下す
毌丘毅についてはその動向が詳しく分かりません。三国志先主伝によれば、毌丘毅は丹楊で兵を募集させたとあります。この際、劉備も同行し、下邳で賊軍を破ったことで下密の丞となったそうですが、だいぶ本筋から外れた話ですね。残った7名は、軍勢を率いて洛陽へ向かいました。 四方からの軍勢に加え、虎賁中郎将の袁術、典軍校尉の曹操は何進の命令で動くことは確実であり、加えて袁術は1000人からなる部隊を洛陽城…
三国志 軍隊呼び寄せ 何進は盧植や曹操らの反対を退け、各地から軍を呼び寄せる
董卓を懸念したのは盧植だけではありません。鄭泰もまた、董卓の名を挙げて危険性を説きました。鄭泰は尚書侍郎や議郎などを歴任し、高い評価を得て何進の目に止まり、側近とされていました。 なぜ盧植や鄭泰は董卓を恐れたのかと言えば、董卓は過去に何度も傲岸不遜な行動をとってきたからです。 反乱討伐に向かった張温に対する不遜な態度については既に記しましたね。他にも188年に董卓を少府に任じて彼が率いて…
三国志 宦官誅滅策 袁紹は何進に宦官誅滅を進言するも何皇后の許可が下りないため、各地から軍を呼び寄せて圧力をかけることとする
この袁紹が、何進に宦官誅滅を進言します。 何進にとって、甥が無事に即位して反対派の董太后や蹇碩は滅ぼされたことで1つの安定が訪れたはずでした。そして、何進が宦官と対立しなければならない理由など、既に失われていました。 ところが、復興しつつあった知識人たちと宦官との間には党錮の禁が対立の火種として存在し続けていたのです。何進は優秀な部下たちか、後宮の宦官たちか、どちらにつくかを選ばなけれ…
三国志 何進と袁紹 何皇后や何進の異母弟の何苗は宦官に親しい 一方、何進は幕下の名士たちよりも袁一族の若きリーダー袁紹を股肱と頼む
では大将軍何進の力は絶対のものになったのでしょうか?いえ、そうではありませんでした。何進体制にはかねてから存在した火種が燻り続けていたのです。その根源にあるのは、宦官が後宮を支配し、文書の上奏ルートを握っていたということです。 史書によれば、何皇后の家は屠者で、人口調査の際に係の者に金品を贈って何皇后を後宮に入れていれていました。その係というのが宦官だったとは思えませんが、何らかのルートで…
三国志 劉辯即位 霊帝の親任篤かった蹇碩は斬られ、霊帝と何皇后との間の子の劉弁が即位する
荀攸は潁川の名族である荀氏の出です。同じ一族には、既に名士として著名であった荀爽や、同世代の荀�ケがいます。荀攸の曽祖父が荀�ケの祖父と兄弟という間柄なので、荀�ケの曽祖父から数えると荀�ケが3代目、荀攸が4代目の子孫ということになります。そのため、歴史書では荀攸は荀�ケの「従子(おい)」であると書かれますが、年齢は荀攸の方が6歳年長でした。 話が長くなりましたが、党錮の禁がしっかり解かれていたこ…
三国志 何進配下の名士たち2 客人を守って家族で誰が死刑になるか争い有名になった孔融 若き曹操を評価した、清流派の名士何顒(かぎょう)
張倹は孔融がまだ若かったことから、孔家に来た理由を話すことはありませんでした。それでも孔融は困窮した様子の張倹を匿いました。ところが、張倹が孔家に逃げ込んだことが露見し、役人がやってきます。張倹は逃亡し、孔褒と孔融兄弟が逮捕されました。 孔融は「彼を匿ったのは私ですから、私が死刑になるべきです」と主張し、孔褒は「いや、彼は私を頼ってきたのだから、私が死刑になるべきだ」と言います。困った役人…
三国志 何進配下の名士たち 董皇后は蹇碩とは劉協擁立を図るが、その前に何進が立ち塞がる 何進配下の名士たち 孔融について
董皇后は蹇碩とも親しい間柄でしたし、甥の董重は驃騎将軍として軍を掌握していました。董皇后からすれば、権力を握ったと思ってもおかしくはなかったでしょう。「しかし、董皇后は何皇后の兄で大将軍の何進の実力をあまりにも甘く見すぎていたのである」(『実録三国志 - 于 濤, 鈴木 博…
三国志 霊帝の死 189年、霊帝が後継者を定めないまま34歳の若さで死ぬ 2人の皇子、劉辯と劉協のどちらが即位するかを巡る争い
189年の2月、皇甫嵩が陳倉で王国や韓遂を破り、王国たちは逃走しました。韓遂は王国を追放して自分が軍を握り、王国は混乱の中で命を落としました。 それだけではなく、反乱軍の中で血で血を洗う権力争いが起こった結果、集団としてのまとまりは失われ、反乱軍は瓦解しました。これで西方の反乱は落ち着きました。 更に3月には張純が殺害され、漁陽の反乱もまた幕を閉じます。 劉虞の温厚な政策により烏桓が漢に和親…
三国志 蜀の半独立 蜀に入った劉焉、張魯に桟道を絶たせ、蜀に中央からの干渉を受けない半独立国を作り上げる
賈龍の狙いがどう転んだのか、先に片付けてしまいましょう。 劉焉は蜀に入ると、綿竹に役所をおいて統治を開始します。反乱に加わった者たちを許し、寛容と恩恵を中心にした政治を行いました。治下では恩恵を施しながら、彼は密かに自らの野心を温めていました。そして、野心を実現させるために都合の良い人材も見つけていたのです。その人物の名を、張魯といいます。 張魯については、184年に(恐らくは)黄巾賊と…
三国志 劉焉 皇族の劉焉、刺史設置を提言し、「益州に天子の気がある」と言われたことを受け、益州刺史となる
この改革を献じた劉焉について触れておきましょう。 劉焉は字を君郎といい、江夏出身です。その祖は前漢景帝の第4子である劉余に遡るという皇室の生まれです。なお、同じく劉余を祖とする皇族に劉表がいます。 彼は中央での混乱を避けるため、中央から遥か離れた交阯への赴任したいとの希望を隠して「刺史や太守の多くが賄賂によってその地位を得て民を苦しめ、離反を招いています。清廉な臣下を地方の長とし、国内…
三国志 刺史の設置 劉焉の提言により、牧が廃止され刺史が設置される 刺史は牧と異なり軍事権、行政権も持つので、地方の軍閥化が進む
ただ、この経歴を見ると、184年に募兵に応じて3年後には征西将軍や征東将軍になって、更に反乱に参加していたというのは考えにくいように思います。187年に馬騰が反乱に参加したとの記録は後漢書のみに見えるのですが、187年には反乱に参加しておらず、もっと後のことかもしれません(もっと後の反乱については三国志にも記述があります)。馬騰の参加は眉唾ものと思いながら話を進めることにしましょう。 氐や羌も反乱を…
三国志 劉虞と公孫瓚2 劉虞が幽州牧となると、劉虞を慕う丘力居は降伏、張純は逃亡するも、食客に殺される 馬騰や王国の反乱
不祥事を起こして刺史を免じられましたが、黄巾の乱が起こると甘陵の相となり、荒廃した土地で民を慰撫し、質素倹約に努めながら民を指導していました。 この劉虞が幽州牧となったことは早速効果をあげます。丘力居は劉虞を慕っていたので、使者を送って恭順を示そうとしました。 公孫瓚はその動きを知ると、劉虞に手柄を奪われるのではないかと邪推して使者を殺害してしまいます。公孫瓚の嫉妬に始まった確執は、…
三国志 劉虞と公孫瓚1 公孫瓚は白馬義従と称する騎兵を率いて勝利を挙げるが、政治が過酷で民が懐かないため、朝廷は劉虞を送る
薊周辺を荒らし回り、本拠地に引き上げようとする張純らを、公孫?は300キロも長駆して追います。そして石門山で張純を攻撃して大勝しました。しかし、深追いし過ぎて糧道を断たれてしまったため、逆に烏丸によって遼西の管子城に包囲されてしまいます。包囲は200日余りにも渡って続き、窮した人々はウマを屠り、ウマが尽きれば弩に貼った革を煮て食べる有様でした。 このままでは全滅するだけです。公孫?は士卒たちと別れ…
三国志 公孫瓚 187年に張純が反乱を起こして幽州を攻撃し、公孫瓚が鎮圧に向かう 若き日の公孫瓚について
ただ、西園8校尉は、設置されはしたものの、組織として目立った活躍をすること無くその役割を終えています。 187年、今度はかつて中山太守を務めていた張純が烏丸の丘力居と結んで反乱を起こし、幽州の薊中を攻撃します。張純は185年に韓遂や辺章が反乱を起こした際に討伐軍を率いた張温に従軍を却下されたことに不満を抱いていました。そして、後漢の弱体化を見て後漢からの離脱を考えていた烏丸の丘力居らと結んで反乱…
三国志 西園8校尉 西方での反乱鎮圧作戦は、兵力を分散した漢軍の敗北に終わる 同年8月、霊帝に直属する組織として西園8校尉が新設された
数年後、間違いなく張温は孫堅の進言を取り上げなかったことを深く悔やんだことでしょう。 張温は一度は反乱軍に敗北しますが、踏み止まって陣を構築し、再び反乱軍と対峙します。11月のある夜、尾が10丈にもなる流星が落ちて反乱軍の陣を照らすと、兵士たちは不吉だと思って金城へ退却しようとします。それを知った董卓らは反乱軍を攻撃して数千の首を獲る大勝を得ました。 張温は軍を分け、董卓に先零羌を、盪寇将…
三国志 孫堅と董卓 張温の招集を受けた董卓は遅れてやってきて、不遜な態度を取る 孫堅は董卓を斬るべきだと張温に進言
罪人を誅するという部分は、通常の犯罪者を考えるべきではありません。彼らには官吏が対応すれば十分ですから。軍を動かさなければならないような罪人として、他に反乱を起こした者が思い浮かびます。しかし、張弦の主張の結びにおいて反乱を破ることができるとしているのですから、反乱と考えると論旨が崩れます。反乱軍でもなく、犯罪者でもなく、かつ軍を動かさなければ対応できない存在。すなわち、宦官と対決せよと発破を…
三国志 西方の反乱 先零羌や王国(人名)らが湟中月氏の集団出身の北宮伯玉なる人物を擁立して反乱を起こす 辺章や韓遂の反乱参加
同じ185年には、黒山では張牛角なる者を始め、10余りの指導者が反乱を起こし、各地で略奪を繰り返します。張牛角は暴れまわり、そこに食い詰めた農家の次男三男などが合流、その兵は100万を号するほどに膨れ上がりました。張牛角はまもなく亡くなり、その死後は?燕が張燕と名前を変えて反乱を引き継ぎます。更に後の188年には黄巾を名乗る反乱が再び勃発し、黒山賊とも連携してしまいます。 185年に時間を戻しましょう。…
三国志 霊帝暗殺計画 暗愚な霊帝を除こうと暗殺計画が巡らされ、曹操らも声をかけられる
同じく『典略』によれば、黄巾の乱が鎮圧されると、まもなく張脩も滅んだとされるので、黄巾賊と五斗米道は各個撃破されたことになります。ただ、五斗米道は滅ぼされたわけではなく、後にまた歴史に顔を出すようになります。 さて、時期ははっきりしませんが、黄巾の乱鎮圧後しばらくして、冀州刺史の王芬や南陽の許攸らが霊帝を廃して合肥侯(史書は合肥侯と記すのみで、それが何者なのかははっきりしません)を立てよう…
三国志 五斗米道 黄巾の乱と同じ184年、西方では同じ道教系の宗教団体である五斗米道が反乱を起こしていた
それにしても、なぜ劉備は監査役に暴行を加えた挙げ句に職を捨てて逃亡したのでしょうか。盧植のように賄賂を要求されたのでしょうか?もしそうなら、督郵が面会に応じないのには矛盾があるように思います。ではなぜなのでしょうか。私は、劉備は働きが悪かったため、実力通りに悪い査定を付けられることを防ぐためにこっそり面会しようとして拒否されたのではないかと思います。劉備は勉強はサボっていましたし、県の尉となっ…
三国志 劉備下野 黄巾の乱または張純の乱で功績を挙げた劉備は県の尉となるが、ほどなくして督郵に暴行を加えて逐電する
話を劉備に戻しますと、黄巾の乱後に県の尉に取り立てられたということを考えれば、小部隊を率いて局地戦で活躍を見せた、という程度でしょうか。 『正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 井波 律子』の先主伝では『典略』を引き、劉備が召されたのは張純が反乱を…
三国志 黄巾の乱前の「3兄弟」 黄巾の乱前の物語はほぼ全て創作だが、宦官の悪政や董卓の性格に触れている点で物語としては素晴らしい
張飛は字を益徳(演義は版によっては翼徳としますが、実際は益徳が正しいようです)といい、劉備と同じく涿郡出身です。関羽よりも数歳年下だったため、関羽を兄として仕えており、関羽と共に劉備に従うようになっていました。 三国志演義ですと、劉備と張飛が遭遇し、その縁で関羽と張飛が劉備の元にやってくることになるのですが、その筋書きは怪しいようです。 演義と正史の違いについて、少々次代を遡って見て…
三国志 関羽 読書を好まずドッグレースや音楽、服飾に関心を寄せた劉備の学生時代と、その頃から劉備に従った関羽について
もっとも、劉備は「読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた」とあります。犬というのは犬を愛でることではなく、ドッグレースのことですから、今風に言えば賭け事と音楽に熱中していたということで、勉強せずに遊び呆けていたことになりますね。 一方で、口数は少なく、よく人にへりくだり、喜怒を顔に出さず、好んで豪傑と親しんだため、多くのものが劉備に近づきました。中…
三国志 劉備 父を早くに亡くし、わらじを売ったりむしろを編んだことが史書に残る劉備の幼少時代 叔父の資金で同郷の盧植に学ぶ
まあ、中山靖王の劉勝といえば女色に耽ったことで有名で、子は50人を超えたという人物ですから、またなんとも都合の良い人物を先祖に設定したものだ、との見方も可能でしょう。これを劉備の欺瞞と見るか、何の後ろ盾も無い人物が窮余の策として権威付けに使ったとするかは意見が分かれるかもしれません。 劉備の祖父の劉雄は孝廉に推挙されて県令になったとのことですが、父の劉弘は早くに亡くなったため、劉備は母ととも…
三国志 反乱鎮圧の論功行賞 トップの皇甫嵩は左車騎将軍に任じられたのを始め、朱儁、曹操、孫堅らが功績に報いられる
しかし、皇甫嵩は自分が凡才であることを理由に閻忠の進言を退け、漢の忠臣として生きる立場を明確にしました。皇甫嵩の決意がどのような未来を彼にもたらすのかは、また後に見ることになるでしょう。 さて、黄巾の乱鎮圧の功績に報いられたのは2人だけではありません。 まずは孫堅を紹介しましょう。朱儁のもとで孫堅は獅子奮迅の働きを見せます。汝南から潁川にかけての賊が宛に逃げ込むと、孫堅は自ら城の一方の…
三国志 黄巾の乱の鎮圧 皇甫嵩らが広宗を囲む間に張角は病死、張宝が戦死、広宗は陥落し、反乱は終結する
皇甫嵩が広宗を囲んでいる間に、もともと病で体調を崩していた張角は病死しました。彼の神通力は自分には何の効果もなかったようです。反乱は、張角の弟で、地公将軍を自称した張宝が反乱を引き継ぎます。 しかし、皇甫嵩の猛攻により人公将軍を称した張梁は戦死し、10月には広宗が陥落して地公将軍の張宝も戦死しました。勝利した官軍は張角の墓を暴き、死体の頭を断ち、首を洛陽に送りました。こうして、黄巾の乱は幕を…
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