前漢 劉興居の乱2 文帝は灌嬰を引き上げさせ、同時に柴武を大将軍にして劉興居に当たらせる 匈奴には莫大な贈り物をし、和平成立
劉興居は要衝の滎陽を攻撃しようとしたため、文帝は丞相灌嬰の軍を引き上げさせると共に、柴武を大将軍に任じて10万の兵を与え、済北王を討たせました。 また、文帝は一度は劉興居に与した者でも、漢に戻るなら赦免すると宣伝し、反乱軍の分断を誘います。こうしたこともあり、済北王は敗北して捕らえられ、自死しました。 反乱はこうして収まったものの、その影響で対匈奴戦については撃退こそしたものの、攻め込…
前漢 劉興居の乱1 匈奴が侵入してきたため、文帝が出兵した隙をついて劉邦の孫の劉興居が反乱を起こす
列侯で元丞相でもあるような人物を私怨で殺害するようなことが許されてはなりません。本来であれば、劉長は死刑になるのが相当でした。しかし、文帝は兄弟の情から、劉長の罪を全く問いませんでした。 兄弟の情から処刑はしないとしてもきちんと処罰を与えていれば、彼もまた行動を改めたかも知れません。しかし、処罰は与えられませんでしたし、劉長もまた行動を改めはしませんでした。それが後に兄弟双方が望まなかった…
前漢 淮南王劉長の死1 淮南王劉長、劉邦の子であることを鼻にかけて傲慢になり、来朝の際には宰相も務めた審食其を殺害する
気持ちは分からないではないのですが、それでは秩序は保てません。 問題になったのは、文帝の弟である淮南王の劉長です。劉長は文帝が即位すると、自分が皇帝の近親者であることから思い上がった行動を取るようになっていきます。 前177年、入朝した劉長は、文帝の車に同乗して皇帝に向かって「大兄」と呼びかけ、また臣下の審食其を殺害するといった暴挙に及びます。 審食其は呂后に寵愛されて丞相にまで至っ…
前漢 周勃引退3 文帝は周勃を厄介払いする 領国に帰った周勃、猜疑心から漢の使者を完全武装で引見し、反乱を疑われて収監される
ところが、やはりここまで重鎮が側にいると文帝もやりにくかったのでしょう。「前年に列侯も国に行くようにさせたにも関わらず、赴任しない者がいる。最も信頼する丞相に、率先垂範してもらいたい」と言って、体よく厄介払いしてしまいました。 周勃の嫡男の周勝之は文帝の娘を娶っていましたが、それでも周勃は領地へ赴いた後はいつ処刑される分からないという恐れを抱いていました。 そのため、中央から使者が訪れ…
前漢 周勃引退2 陳平にはとても敵わないと悟った周勃は引退する しかし、陳平はまもなく没し、周勃は再び丞相になる
「それぞれ主管者がいるというのであれば、そなたは何を主管するのか」と、文帝は大変にごもっともな問いかけをします。 陳平は「宰相とは、上は天子を補佐し、陰陽の調和を図り、時の流れを順調にし、下は草木や禽獣など全てのものがあるようにし、外に対しては異民族や諸侯国を鎮撫し、内に対しては百姓万民を親しみなつかせ、大臣らにはそれぞれの職務を全うさせることでございます」と答え、文帝は大いに満足しました…
前漢 周勃引退1 文帝に細かな実務について聞かれた周勃は答えられずに恥じ入るが、同じことを聞かれた陳平は担当者に答えさせる
その第一条件は、辺境の守備を固くして、周辺の蛮夷に中国を侵略させないようにすること、第二条件は、これら蛮夷の君長が中国の天子に謁見を求めようとしたときには、これを妨害してはならないことであった。前者は、中国の皇帝が外藩を置くことによって、蛮夷の侵寇を 防御しようとしたもので、中華思想によって蛮夷を拒否する姿勢の表現である。それに対して後者は、天子の徳を求めて来朝する蛮夷があったばあい…
前漢 文帝即位6 閩越は文帝を立てて帝を名乗らないと言ったものの、国内では相変わらず帝号を唱え続けていた
異姓の王が滅ぼされて、漢の国内事情が安定してくると状況はまた変わってきます。劉邦が世を去ると、呂后は南越への鉄輸出を禁じました。もちろん、これは南越への警戒があってのことです。 趙佗は国境を接する長沙王が越を攻撃しようとしていると考えて、逆に長沙に侵入します。更に閩越など周囲の国も併合し、武帝を名乗りました。 帝を名乗るのは看過できないことだったようで、文帝は陸賈再び陸賈を派遣して、…
前漢 文帝即位5 外国勢力との付き合い 匈奴と南越の場合、待遇は大きく異なっていた
恤民政策の延長か、はたまた諸侯国の反乱防止か、文帝は即位翌年に王国での勝手な兵の動員を禁じます。『
前漢 文帝即位4 即位を祝い、恩赦が行われ、民には爵位が加えられる 真っ先に罪人の罰が家族に及ぶという規定を無くした温情の君主文帝
劉恒は玉璽を受け、高祖廟に参って皇帝に即位することを報告しました。この玉璽こそ、三国志演義で皇位の正統性を示すものとして扱われたアイテムです。真偽の程はかなり怪しいものの、和氏の璧から作られた、という伝説があることは記したとおりです。 この劉恒が、後に文帝の諡号を与えられる皇帝です。 文帝の即位を祝い、天下に赦令が行われ、民には爵位を加えて女性には100戸ごとに牛と酒を配り、5日に渡って宴…
前漢 文帝即位2 呂氏の時代を劉恒が生き延びられた理由 代では警戒の声が上がるが、賛成派が勝ち、劉恒は長安へ向かう
既に記したとおり、劉邦は韓信と曹参に命じて魏を攻撃させ、魏豹を降伏させています。この際、薄氏は織物部屋に送られますが、魏豹の死後に織物部屋に入った劉邦が薄氏の美貌に気づき、後宮にいれました。 ところが、薄氏にはまったくお呼びがかかりません。 彼女を劉邦の閨に導いたのは、彼女自身の美貌ではなく、偶然でした。彼女がまだ若い頃、仲良くしていた管夫人や趙子児といった女性たちと、「貴い身分になっ…
前漢 文帝即位1 重臣たちは呂后の立てた皇帝を正当な皇帝とは認めず、劉邦の息子のうち存命中の最年長者、代王劉恒を後継者と決める
やはり、権力移譲にルールが定まっていない制度は怖いですね。 呂氏の乱を平定した重臣たちの次の問題は、主君をどうするか、です。前少帝にしても後少帝にしても、恵帝の血を引いているわけではなく、呂后がどこかから連れてきた者、とされていますからね。 「後少帝やその兄弟は恵帝の実施ではない。呂后が実母を殺し、恵帝の子として呂氏の勢力を強くしようとしたものだ。呂氏が立てた帝をそのままにしておけば、…
前漢 呂氏殲滅5 呂氏殲滅までの流れを英雄史観ではなく俯瞰して見てみると?
漢統一からここまでの流れについて、英雄豪傑たちを中心に追いかけてきたわけですが、ここで少し俯瞰してみてみましょう。 漢は貧しい農民の両親を持ち、地方の下級官吏だった劉邦が、せいぜい半径数キロ程度の、狭いコミュニティの仲間とともに旗揚げしたものでしたね。そのため、天下を統一しても、統一を維持するための手法が考えられていたわけではありませんた。秦の方式を基本的に踏襲したことは極めて自然なことだ…
前漢 呂氏殲滅4 上将軍の印綬を収めた周勃、兵士の支持も得る 軍手中に収めた重臣たちは呂産、呂須といった呂一族を滅ぼした
上将軍の印綬を手中に収めた周勃は、北軍の軍門をくぐり、「呂氏に尽くしたい者は右袒せよ(右肩を脱げ)、劉氏に尽くしたい者は左袒せよ(左肩を脱げ)」と命令します。兵士たちは皆、左肩を脱いで劉氏のために働くことを示しました。 味方することを意味する「左袒する」は、この故事から生まれたものです。 周勃は北軍の指揮権を手に入れましたが、南軍はまだ呂産が押さえています。そこで、陳平は劉章を呼び寄せ…
前漢 呂氏殲滅3 酈寄は呂禄に「国に帰って王となってこそ万世に利益を残せます」と説く 周勃、北軍に入る
長安においても反呂氏派が隙を狙っていました。その中心にいたのは、「劉氏の天下を保つのはこの男だろう」との劉邦の遺言に見える、周勃です。しかし、南軍、北軍が握られているため、太尉の周勃といえども動くことはできません。 劉章、周勃、陳平らは密談し、なんとか呂氏から軍を引き離そうと図ります。あとは、誰がネコに鈴をつけるのか、が問題です。 使者に選ばれたのは、酈商の息子で呂禄と親しい酈寄です…
前漢 呂氏殲滅2 劉章の妻、呂氏が劉氏や反呂氏を皆殺しにしようとしているとの情報を劉章に告げる 斉王劉襄、軍を起こして長安に向かう
先に劉章が宴会を軍法に則って行いたいと言ったことを許可してしまった手前、呂后もなにもできませんでした。もちろん、その背後には斉王肥の力があったからこそ劉章は呂后の下でも生き延びることができたわけですが、それでも胆力には驚かされます。 呂一族も愚かではありませんから、国内に敵が居ることは分かっていました。しかし、軍を率いる重鎮には灌嬰や周勃といった、高祖劉邦の時代から重きをなしている将軍たち…
前漢 呂氏殲滅1 呂后存命中から反呂氏の姿勢を鮮明にしていた朱虚侯劉章、呂后の前で挑発的な歌を歌い、呂氏一門の者を殺害する
さて、呂后亡き後は、遺詔により呂産が相国、呂禄が上将軍となりました。政治と軍事のトップを一族で握った形となります。 しかし、呂后が一族を優遇する一方で功臣や劉一族を厳しく排除しようとしたことが、反動を招きます。 反呂氏勢力の1人が、劉邦の孫の朱虚侯劉章です。劉章は劉邦の庶子の斉王劉肥の子に当たります。劉肥といえば、呂后に毒殺されかかったところを恵帝に救われたことのある人物でしたね。そし…
前漢 文帝即位3 劉恒を帝位につけるため、後少帝は宮廷から連れ出され、毒殺される
新たな皇帝を迎えようとするのに、宮廷に皇帝が居るのでは話になりません。 劉章の弟で、東牟侯の劉興居は、「私は呂氏を誅する際に何もできませんでしたので、どうか宮中を払い清めることはお任せください」と言って、汚れ仕事を買って出ます。劉興居は夏侯嬰と共に宮中に入ると、少帝の前に進み出て、「あなたは劉氏ではないので皇帝になってはいけない」と言い渡しました。 護衛に武器を捨てて退去するように促す…
前漢 呂后の死 自分の死後に大臣たちが背くかもしれないのでよくよく備えなさいと言い残し、呂后は逝く
死期を悟った呂后は、呂産と呂禄に「高祖は大臣たちと『劉氏ではない王が現れたら天下こぞってこれを撃て』と言っていましたが、今は呂氏一族が王となっているので大臣たちは心穏やかではありません。帝は年若く、力を持っていませんから、私が死ねば大臣たちが反乱を起こすかも知れません。お前たちは軍を握り、宮中を守りなさい」と戒めました。 間もなく、呂后は亡くなります。 戚夫人に対する目を覆うばかりの非…
前漢 趙王の自死 新たな趙王となった劉恢、呂一族に監視される窮屈さから愛妾に溺れるが、愛妾が毒殺されてしまい、悲嘆の余り自死を遂げる
劉恢の妻は呂産の娘を娶っています。そのこともあり、劉恢の周りには呂氏の一族が固めており、劉恢以上の権力を振るい、密かに劉恢を見張る有様でした。さぞ窮屈な思いを強いられたことでしょう。それ故かも知れませんが、劉恢は愛妾に溺れます。 全く同じような話を前趙王でも見ましたね。劉恢は讒言を受けることは無かったため、呂后は人をやって劉恢の愛妾を殺させてしまいました。劉恢は失意のあまり、詩を作って楽人…
前漢 後少帝の即位 呂后は後宮の美人の子を皇帝に立て、実権は自分が握り続ける 劉邦の子の趙王友は呂氏出身の妻を愛さなかったため殺される
呂后は少帝と同じように、後宮の美人の子で恒山王の劉弘を皇帝に立てます。 新たに皇帝が即位したわけですから、本来ならば改元するはずです(ただし、この時期にはまだ元号は存在しませんので、「今○年」と称される数えが元年に戻るだけです)。しかし、呂后の臨朝称制が続くことから、改元は行われませんでした。劉弘もまた完全な傀儡で、それを隠しもしなかったのです。 後述の理由により、劉弘にも諡号がありま…
前漢 呂后の貨幣改革2 貨幣改革は失敗し、インフレは続く 実母が呂后に殺されたことを知った少帝、恨み言を口にして呂后に殺される
農民にとっては、8銖銭で税の納入を求められると負担が極端に増加するし、軽銭2枚ないし3枚で1枚の8銖銭を鋳造するのであるから政府も改鋳による損害を被った。また、大量に流通している軽銭の禁止とその回収も困難であった。8銖銭発行にはこのような無理があったため、流通貨幣の現実に合わせつつ、貨幣の国家発行という原則を維持しようとしたのが、4年後の呂后6年(紀元前182年)であり、「5分銭を行す」政策(…
前漢 呂后の貨幣改革1 当時はまだ国が通貨を発行していたわけではないので、粗悪な硬貨で出回り、猛烈なインフレが起こっていた
『貨幣の中国古代史 (朝日選書)』は「…
前漢 呂氏の王3 呂台に続き、呂産、呂禄、呂通など、次々と呂氏の王が生まれていく
王位を得たのも束の間、呂台は数ヶ月で病死しています。この後で呂一族を見舞うことになる悲劇を考えれば、栄華の頂点で死んだ彼は幸運とも言えるかも知れません。 その後も、梁王に呂産、趙王に呂禄、燕王に呂通を据えるなど、各地に呂一族の王が誕生していきます。 しかも、呂后は彼らを将軍にも任命し、首都警護に当たる南北軍を統率させました。そのため、彼らは封地へは赴かず、首都で睨みを利かせるようになっ…
前漢 呂氏の王2 王陵は怒り、辞職して故郷へ帰る 後任には呂后の親任する審食其が就く
また、恵帝が即位してからは酒を飲み続け、無能を装うことで呂后の警戒心を解くことに成功しています。この頃に呂須は陳平の讒言を呂后に吹き込みましたが、彼女は取り合いませんでした。呂后はわざわざ陳平にそのことを告げ、「婦人や子供の言うことを聞いてはならないと諺にある通りです。思うに、この国は私とそなたの心次第です。呂須の言葉を恐れる必要などありません」と言う始末でした。 なるほど、陳平はとても反…
前漢 呂氏の王1 一族を王位につけようと王陵と相談して反対された呂后、陳平と周勃から「良いでしょう」との答えを得る
しかし、彼女には権力基盤がありません。彼女の権力源泉は、高祖劉邦の妻で恵帝の母であった、ということだけです。 そこで呂后は自分の親族を王にしようとして、右丞相の王陵に相談します。 王陵は実直さを買われた人物で、直言を好んだのでしたね。それは相国になっても変わることはなく、彼は「かつて高祖は白馬を殺してその血を啜り、『劉氏ではない王が現れたのなら、天下を挙げてこれを撃て』と申されました。…
前漢 少帝即位 恵帝と姪の皇后との間に子が生まれなかったため、呂后は宮中から幼い子を連れてきて皇帝とし、自分の傀儡とする
呂后は、息子を喪ったというのに、泣くようなことはありませんでした。彼女の心の中は、心配事でいっぱいだったのです。 その異常さを見た張良の息子で侍中の張辟彊は、陳平に「太后の得られた男児はただ恵帝お一人なのに、哭礼は行っても悲しまれないのは何故でしょうか?」と尋ねます。陳平は「何故であろうか」と分からないようでした。そこで張辟彊は、「恵帝には壮年のお子がいらっしゃいませんから、呂后はあなた方…
前漢 恵帝の死 曹参が死に、劉邦の遺詔通り王陵と陳平が丞相になる 母の残虐性を見て厭世的になった恵帝、身を持ち崩して23歳で世を去る
ちなみに、唐の長安城はその更に南に、より規模の大きいものとして造られています。現在の西安は唐代の長安あたりです。 さて、曹参は相国の地位にあること足掛け4年で没します。劉邦の遺命どおり、右丞相に王陵が、その補佐として左丞相に陳平が就任しました。 王陵と陳平が「相国」ではなく「丞相」なのは、漢建国に当たって極めて功績の大きかった蕭何、曹参と同じ役職なのは恐れ多い、という意識が働いたようで…
前漢 相国曹参2 老荘思想の曹参、飲んでばかりで仕事をしないため、恵帝は自分が軽んじられていると考えて真意を尋ねる
そこで、曹参の息子の曹窋(ちゅつ)が中大夫となって出仕すると、「そなたが家に帰ったら、それとなく相国に『高帝が崩御され、新たに立った皇帝は年少です。それなのに、父上は相国になりながら、毎日のように酒を飲んで政治を奏上されませんが、それでは天下を憂いることができましょうか』と問うてみよ。ただし、朕の命令だと言ってはならぬ」と、息子から諌めさせようとしました。 曹窋が帰宅して命じられたとおり…
前漢 相国曹参1 蕭何は死を前に自分の後任者を尋ねられ、曹参を推す 曹参は斉の相だったが、後任に市場と裁判を見るように言い、中央へ
両者はもともと沛では同僚で、親しい間柄でしたが、思わぬ出世が仲を裂いていたのです。 ところが、蕭何はきちんと曹参の才能を高く評価していました。 病に倒れた蕭何を恵帝が見舞い、次の相国は誰が良いかと尋ねると、蕭何は「主以上に臣下を知る者はいないとの由でございます」と答えるのを辞退しました。重ねて「曹参はどうか」と問うと、蕭何は「陛下は適切な相国を得られました。臣はいつ死んでも悔い」と答え…
前漢 劉肥暗殺未遂事件 劉邦の長男の斉王劉肥が長安へ来た際、恵帝は兄を立てて上座に座らせたが、呂后は激怒して毒殺を図る
恵帝は激しいショックを受け、「これは人のすることではございません。臣(子として例を尽くすため、こう称します)は太后の子として、これでは天下を治めていくことはできません」と泣き悲しみました。 まぶたに浮かぶ戚夫人の憐れな姿を忘れるためか、恵帝は連日深く酒を飲むようになり、体を壊して1年余りも寝込むことになります。呂后は我が子の性格も理解していなかったのでしょう。 恵帝の病が癒えた前193年、…
前漢 劉如意の殺害2 劉如意の召喚に反対した周昌は職を奪われる 恵帝は自ら劉如意を出迎え、三度の食事も共にして守ろうとしたのだが……
周昌は筋を通す人物で、このブログでも臣下の前で戚夫人と戯れる劉邦に「桀や紂のような主君だ」と言ったり、劉如意を後継者にしようとする劉邦をどもりながら諌めたりしたことを紹介しましたね。そして、だからこそ劉邦が劉如意を託したことも。 彼は「先帝から密かに趙王を頼まれています。趙王は年が幼く、呂太后は趙王を召して殺そうとしているとのこと。私はどうしても、趙王を遣る訳にはいきません。更に、王はご病…
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