漢武帝 衛青出撃 匈奴が侵入を繰り返すため、武帝は衛青ら4将軍に各1万騎を率いさせて遠征させるが、李広が捕虜になるなど大敗を喫する
少々時間を戻します。 衛青が出世を続けていた前130年、匈奴が上谷に侵入して住民を殺傷します。武帝は車騎将軍衛青をはじめとする4人の将軍に各1万の騎兵を与えて出撃させました。衛青は北方で羊の放牧をしていた関係で、匈奴の生活に詳しくなっていたため、その知識が活かされることになったのです。 この大規模な軍事作戦には、匈奴侵入の害が甚だしかったことがあるのは当然ですが、どうやら経済的な理由もあっ…
漢武帝 皇太子冊立 陳皇后は巫蠱の呪いをかけた咎で廃される 寵愛する衛子夫の生んだ劉拠は皇太子となり、衛子夫は皇后に上る
張湯はネズミの巣を掘り返すと、盗まれた肉片と犯鼠を捕まえると、ネズミを告訴し、調書を作り、裁判を行い、磔の刑としました。検察官と裁判官が同一人物で弁護人は不在という信じられないほどの暗黒裁判ではありますが、 その調書は見事な出来栄えだったため、父親は息子に法律を勉強させました。 後に田蚡が逮捕されると、長安の下級官吏となっていた張湯が彼のために便宜を図ったことから、田蚡が釈放されて中央へ…
漢武帝 衛青の登場2 衛子夫に嫉妬した陳皇后、衛青を拉致して殺害しようとするも失敗し、今度は武帝に巫蠱の呪いをかける
姉の衛子夫は武帝の姉である平陽公主の歌妓となっていましたが、平陽公主の力で武帝の後宮に入れられます。暫くは武帝の目に止まることがなく、後宮から離れた際に武帝に気に入られ、そこから寵愛を得ることになりました。 こうして衛子夫は懐妊したのですが、面白くないのは陳皇后です。陳皇后は衛青を拉致させて殺害しようとします。友人で 騎郎の公孫敖が仲間と共に衛青を救い出したため、危機を脱しました。 何…
漢武帝 衛青の登場1 武帝と陳皇后の仲は険悪なものとなり、その寵愛は卑賤の身から後宮に入った衛子夫に移る 衛青ご幼少のみぎりの逸話
宴席で灌夫が暴言を吐いたことから、田蚡は灌夫を死刑にしようとします。竇嬰は彼を庇おうとしたのですが、最終的に灌夫だけではなく、竇嬰にまで死刑に処されてしまいました。 これで田蚡の我が世の春かと思いきや、間もなく田蚡も体調を崩します。全身が痛むというもので、武帝が術士に見させると、灌夫と竇嬰がムチで打って殺そうとしているとの診断でした。その後、程なくして田蚡も世を去ります。武帝が即位して…
漢武帝 大水害2 丞相の田蚡は自分の所領には害が無いことから復興を遅らせる 匈奴南下は武帝の時代の寒冷化が原因か?
決壊したのは黄河がその流れを北に変えるために弧を描いている部分で、川から溢れた水は南方の鉅野沢という湖に流れ込み、それでは留まらずに遥か南の淮水にまで流れ込む有様でした。 丞相の田蚡は、「川の決壊は天の定めたことなので、人が介入することは天に逆らうことになります」と言って、修復を邪魔しました。こんなことを言い出したのも、列侯でもあった田蚡の所領は、黄河下流の北岸だったため、黄河が決壊し…
漢武帝 大水害1 匈奴との関係が悪化した前132、黄河が決壊する 黄河下流域の状況が被害を拡大させた
何の話をしていたのかと言えば、郷挙里選でした。董仲舒の学問的な基盤からも容易に想像ができるとおり、孝廉は儒教的な素養を持つ者が選ばれました。更に、儒教を国教として、他の諸子百家を退けるように進言しました。武帝はこれを認めたため、以後は儒教を修めた者にしか栄達の道が開かれなくなっていきます。 郷挙里選翌年の前133年、匈奴との関係を険悪化させるできごとが起こります。武帝は匈奴に和親を破らせてお…
漢武帝 郷挙里選 地方から中央へ優秀な人物が推薦されるようになる 秀才(後漢では劉秀の諱を避けて茂才と呼ばれる)には曹操や袁術、孫堅の名前も
従来も地方から優秀な子弟が推薦されることはありました。文帝は前178年に勅令で賢良を求めています。郷挙里選がそれまでのものと異なるのは、郡守に対して孝者、廉者を毎年1人ずつ推薦するように義務付けたところでしょう。 この推薦の科目を孝廉と呼びました。 儒教を疎んじた竇太后が亡くなった翌年のことですから、ようやく武帝が自分の望む政治に着手することが可能になったということですね。もっとも、もう1…
漢武帝 武帝のオカルト趣味 声は聞こえても姿は見えない神君なるものを信じ、永遠の70歳を自称する怪しげな老人に騙される武帝
神君は言葉は聞こえるが姿は見えないということで、何やら詐欺の匂いがぷんぷんするのですが、当時の人々の意識では不自然では無いのかもしれません。 また、仙人になる術をもって見えた李少君なる方術士も重用します。この人物、いつも70歳であるなどと言っていたそうですが、たとえ仙人になろうとも、1年過ぎたら1歳年を取るのが道理だと思います。 彼に騙されたのは武帝1人ではなく、多くの人が鬼神を操り不死の…
漢武帝 閩越出兵 呉楚7国の乱の首魁劉濞の息子は閩越に逃れ、閩越に東甌を囲ませたので、武帝は閩越討伐の軍を起こす 神仙への傾倒
前138年、閩越が東甌(とうおう)という国を囲みます。東甌は楚漢戦争で功績のあった搖という人物が恵帝に封じられて成立した国です。呉楚7国の乱の際、東甌は反乱に与していましたが、呉王劉濞が敗北後にその首を斬って漢に献上したため許されていました。 呉王劉濞の息子は閩越に逃れていたため、親の仇である東甌を攻撃させたのです。 東甌の助けを求める使者が長安に至ると、田蚡は出兵に反対します。しか…
漢武帝 即位当初2 田蚡は年若い皇帝すら凌駕する権威を持つ 匈奴との関係を変える野望を抱く武帝、張騫を西方に送る
趙綰は儒教に基づいた改革を進めようとしたのですが、誰もが儒教に価値を見出している社会ならともかく、急進的に過ぎました。重臣たちは竇太后に趙綰を中傷し、両者の仲は険悪となっていきます。翌年、趙綰は竇太后への上奏を辞めるように提案すると、竇太后は激怒して趙綰を攻撃して自殺に追いこみ、竇嬰、田蚡を罷免しました。 罷免されたとはいえ、竇太后は田蚡を寵愛し、基本的に彼の進言は採用されます。田蚡の…
漢武帝 即位当初1 年若い武帝に変わって権力を握ったのは祖母の竇太后と、反乱を起こして敗死した臧荼の曾孫で重臣の田蚡
武帝は強力なリーダーシップで前漢時代の頂点を築いたことで知られますが、即位したのは16歳ですから、まだまだ政治を見ることはできません。祖母の竇太后が実権を握ります。 祖母の意向で、いとこに当たる陳氏を皇后に迎えています。陳皇后は景帝の同母姉である館陶公主の娘です。館陶公主は不仲な栗姫の子劉栄が即位することを望まず、弟の景帝に劉栄の悪口を吹き込み、武帝を褒めていました。こうしたこともあって劉栄…
前漢 景帝の死 前141年、「文景の治」と言われる穏やかな時代を生み出した景帝が死去、9男の劉徹が即位する
この背景にあったのは、どうやら栗一族の排除だったようです。劉栄に罪を着せ、あらゆる力を奪おうとしたのです。取り調べに当たる中尉も、衛綰から刑を厳しく執行する郅都(彼についての伝は『史記』の酷吏列伝に見ることができます)に変更しています。 劉栄は弁明を記すための刀筆を求めます。当時は木簡や竹簡に文字を記していたため、書き誤りを削るために刀が必要だったのでしたね。郅都は与えませんでしたが、先…
前漢 周亜夫と竇嬰 周亜夫は丞相に上るが、景帝と意見が対立して罷免され、竇嬰は太子の傅役となるが太子は廃立される
さて、中山靖王という極端な例はあるにしても、王族が皆、淫欲に溢れた、爛れた生活を送っていたわけではありません。皮肉なことに、こちらの例もまた景帝の息子で劉勝の同母兄の劉彭祖に見ることができます。 劉彭祖は限られた権限ながらも国をよく治めようと精勤した人物です。もっとも、彼は処刑を乱発したので、民にとってはどちらがありがたかったか、悩ましいところです。 このような2人ですから、兄弟ながら…
前漢 呉楚7国の乱7 戦後処理として、新たに封国を与えられる場合の規模は縮小される 中山靖王劉勝のように、子作りにばかり励む王も現れる
更に、封地は大きく減らされました。呉楚7国の乱以後、新たに任命される諸侯王は10余りの城を与えられるのがせいぜいでした。漢のはじめには70余城を与えられた諸侯王もいたことを考えると、激減と言うのが相応しい程ですね。 また、既にある国は、王子たちで均等に相続することになりました。 過去、封国は息子にしか継がせないということは紹介しましたね。ここで言う「息子」とは実子に限る、文字通り息子以外に…
前漢 呉楚7国の乱6 斉を包囲していた諸侯軍も敗れ、反乱は鎮圧される 戦後処理として、諸侯王の強大な権限は削減された
春秋時代に「呉越同舟」などという言葉が生まれたほど仲の悪かった呉と越が同盟というのは面白いめぐり合わせです。 劉濞は越と合流して戦力を立て直すつもりでしたが、越は既に漢と結んでいました。安堵も束の間、呉王劉濞は捕らえられ、処刑されてしまったのです。挙兵からわずか2ヶ月後のことでした。劉?に付き従った兵士たちは次々に降伏し、楚王は自殺しました。 呉楚連合軍を破った漢軍は斉へ向かいます。膠…
前漢 呉楚7国の乱5 周亜夫はゲリラ戦で呉の補給線を寸断する一方、陣を固めて守りを固める 兵糧の尽きた呉は撤退に追い込まれた
仮に鼂錯の策が誤っていたとしても、呉を反乱に追いこむことになった政策は皇帝の裁可を経た、言わば国策だったはずです。それを、トカゲの尻尾切りで誤魔化そうとするのは、良い上司ではありませんね。 政敵を葬り去った袁盎は、反乱の元凶鼂錯が処刑されたとの報を携えて呉王のもとへ赴きます。しかし、劉濞はかつて呉の相国だった袁?を謁見すらせず、「私は既に東帝である。今更誰かにひざまずくことなどできるか…
前漢 呉楚7国の乱4 反乱勢力が君側の奸を除くと主張したことを受け、袁盎は鼂錯斬るべしと上奏、景帝はこれを認め、鼂錯は棄市される
なお、呉は既に中央との関係が悪化していましたので、甥の袁種は、「呉王は野心に溢れ、周囲は奸臣ばかりです。きちんと治めようとすれば、呉王に刺客を送られるでしょう。酒を飲んで仕事をせず、呉王に召されれば『反乱を起こしてはいけません』とだけ言っておけば危機を逃れられることでしょう」と忠告しました。 袁盎はこの忠告に従ったため、呉王は袁?を歓待しました。自分に置き換えても、監視役は無能であれば無能…
前漢 呉楚7国の乱3 景帝は周亜夫に反乱鎮圧を命じる 袁盎、ほとんど血を流すこと無く反乱を収める妙策があると景帝に訴える
また、劉安の弟たち、衡山王劉勃、廬江王劉賜もまた反乱には与しませんでした。ただ、劉安の野望は以後も衰えることはなく、最終的に彼を破滅に導くことになるのですが、それはまた別の話です。 反乱を知った景帝は、周亜夫を討伐の総大将に据えました。 周亜夫は呂氏の乱鎮圧に活躍した将軍周勃の子です。文帝は死去する際、「危急の際には周亜父を将軍にせよ」と遺言を残していたほど、周亜夫に厚い信頼を置いてい…
前漢 呉楚7国の乱2 呉と楚の軍は長安を衝く動きを見せ、他の軍は離脱した斉を攻撃する 淮南も反乱に呼応しようとしたが、部下に止められ未遂に終わる
呉王劉濞は、末子と同じ14歳から自分の年である62歳までの男を兵士として20万の兵を集め、叛きます。事前の根回しどおり、膠西王ら6カ国もまた劉濞に呼応しました。 ただ、斉は同盟から離脱し、済北王は臣下に遮られて挙兵できなかったため、9国の予定が7国になったのは誤算だったでしょう。 彼らは外国勢と手を結ぶべく、楚王は越に、趙は匈奴に使者を送って連合を求めました。 呉軍は淮水を渡って楚と合流…
前漢 呉楚7国の乱1 土地を削られることに恐れを抱いた呉王劉濞、諸侯王に密使を送り、反乱を準備する
太子の亡骸は呉に送られましたが、呉王劉濞は「天下を治めるのは同じ一族で、長安で死ねば長安に葬るのが筋だ。なぜ呉で葬らせるのか」と言って、棺を長安に送って葬らせました。 以後、呉王劉濞は病気と称して参内しなくなっていました。もちろん、中央では病気と信じたわけではありません。呉の使者がやってくると、これを問責しました。劉濞はますます恐れ、改めて使者を送って「使者が何度も問責されるので、病と…
前漢 鼂錯の改革 諸侯王の領土を合わせれば漢を圧倒するため、漢にとって諸侯は脅威だった 鼂錯は諸侯王の領土削減政策を推進する
漢の成立時、諸侯王の土地を合わせれば、漢の直轄地を遥かに上回ることになると記しましたね。その後、異姓の諸王は滅ぼされたのではありますが、そこには劉氏から新たに王が生まれていましたから、状況はそれほど大きく変わっていたわけではありません。 しかも、いくつかの制限はありましたが、諸侯王は皇帝にも匹敵するような、強大な権限を有していました。 だからこそ、淮南王劉長のように皇帝だけに許された行…
前漢 景帝即位 景帝の寵愛を受け、鼂錯が権力を握る 丞相の申屠嘉は鼂錯を排除しようとして失敗、憤りから病を発して亡くなる
即位を祝って大赦が行われ、田租の半分が免除されました。 景帝は父の恤民政策路線を引き継ぎました。その一つの現れとして、文帝の廟を立てた際にも群臣に朝賀させていません。また、即位元年にまたも侵入してきた匈奴と和親を結んだのも、父の路線を継承したものと言えましょう。 即位翌年、丞相の申屠嘉が亡くなります。申屠嘉は弩を引く兵士として劉邦に仕え、項羽との戦いは指揮官として活躍し、英布の反乱鎮圧…
前漢 文帝の死 前157年、質素を貫いた優しき皇帝、厚葬を禁じて世を去り、文帝の5男の劉啓(景帝)が即位する
しかし、冷静に考えて、このようなことが起こるはずもありませんね。実は、その前年に新延平という者が、「渭陽に五帝廟を設けて失われた周の鼎をだしてみせます。それが出れば瑞祥が現れるでしょう」という、甚だ怪しげな建言を行っていました。 文帝は自ら五帝廟に詣り、その翌年に玉杯が出現したのです。どう考えても、権力者に取り入ろうと怪しげな輩が蠢動しています。呑気に改元などしている場合ではありません。 …
前漢 文帝の受難 匈奴は漢を見くびり、何度も条約を破って侵入を繰り返す
李広は、戦国時代末期、秦の始皇帝に仕えた将軍李信の子孫と伝えられます。李信は、始皇帝が荊軻に暗殺されそうになった後、騎兵の機動力を活かして数に勝る燕を散々に打ち破って太子丹を追い詰めるのに活躍し、その後に楚を攻撃する際には20万の兵で事足りると主張して果敢に攻撃するも、項燕に破れたのでした。 その後も一族は騎射をよくしたようで、李広も騎射で多くの敵を討ち、中郎に任命されています。 中郎と…
前漢 肉刑廃止2 幼い娘の上書に心を打たれた文帝は肉刑を廃止するが、宮刑(腐刑)は廃止されなかった
実に健気な娘ではありませんか。上書を受けた文帝は哀れに思い、入れ墨、鼻削ぎ、足切り(くるぶしで切断する)を廃止することを決めました。 犯罪の種類にもよりますが、犯罪を犯した者はまず入れ墨を受けます。入れ墨を受けた者で次に入れ墨の罪を犯した場合は鼻を削ぎ落とされ、更に罪を犯せば、左足の踝を、更に罪を犯せば右足の踝を切られました。 入れ墨、鼻削ぎは金1斤、足切りや腐刑は金1斤4両で贖うことがで…
前漢 肉刑廃止1 肉刑は報復刑として生まれ、一目で囚人と分かることから労務管理にも使われた 文帝はその肉刑を廃止する
農民の田租を免除しても国庫が空にならなかったのは、それだけ商人階級が豊かになっており、彼らが競って爵位を買ったからですし、文帝が奢侈に耽らなかったからでもありますし、匈奴はちょっかいこそ出してきたものの全面戦争には至らなかったからです。 前167年には、長く続いてきた肉刑を廃止しました。 もう一度、なぜ肉刑が必要だったのか振り返りましょう。当時、受刑者は貴重な公共事業の従事者でもありまし…
前漢 鼂錯 商人が農民から作物を買い叩かないようにするため、穀物を納入すれば爵位を与えることにする 政策は大成功で田租は免除された
商人側は、農民が一斉に同一作物を売りに来るわけですから、いくらでも買い叩くことができます。それを嫌っても、現金を手にする手段は他には高利貸から借りるくらいしか残っていません。一方で商人は原価に倍する値段で物を売り、巨額の富を蓄えることが可能です。 また、高利貸に金を返せなくなった農民は土地を失い、流浪するしかありません。彼らは富農の下で小作人として働くか、あるいは秦末の彭越のように、山賊に…
前漢 賈誼2 太傅だった賈誼、梁王劉勝が事故死したことにショックを受け、33歳で死ぬ 賈誼の路線は鼂錯が引き継ぐ
商人も利益を追求するのは当然のことですが、どうやって彼らの利益と搾取をバランスさせるかは、古代だけではなく、現在も課題であると言えるでしょう。 とりあえず、ここでは賈誼が農民を保護することを説き、文帝はこれに従い勧農政策を採用したことだけ押さえておきましょう。 若く、知力に優れ、しかも弱者にも暖かい目を注いた賈誼でしたが、前168年に33歳という若さで世を去ります。その前年の前169年、賈誼が…
前漢 賈誼1 20歳あまりで博士となった賈誼、匈奴政策を始め、多くの献策を行う その中で見える、商人階級の台頭と農民の苦しみ
文帝もまた賈誼を高く評価し、大中大夫に昇進させています。しかし、余りに急進的な改革案が太尉の周勃らに嫌われ、長沙王の太傅に流されてしまっていました。長沙への赴任に際しては屈原を弔う詩を詠んでおり、これは文選にも収録されています。 文帝はこの賈誼を呼び戻し、鬼神について討論して心に適う答えを返したことから重用することとし、末子の梁王劉勝の太傅(教育係)としました。 賈誼はしばしば文帝に匈…
前漢 冒頓単于の死 前174年に冒頓単于が死に、子の老上単于が即位 漢は宗室の女性に公主を名乗らせ匈奴へ送る
これまで何度か繰り返してきた通り、文帝は優しい皇帝です。母親にも尽くし、自ら毒見役を買って出たことで、元の時代に24人の孝子の行跡をまとめた『二十四孝』にも選ばれている程です。 流刑の途中で餓死を選んだ淮南王劉長を不憫に思った文帝は、前172年にまだ幼い劉長の4人の息子劉安、劉勃、劉賜、劉良を侯にし、更に前164年には既に亡くなっていた劉良以外の3人について、劉安を淮南王、劉勃を衡山王、劉賜を廬江王…
前漢 淮南王劉長の死2 増長した劉長、柴武の息子の柴奇を引き込んで反乱を起こそうとして失敗、蜀に流される途中で食事を取らず餓死を選ぶ
それでも、領地で皇帝を気取っているだけなら、まだ文帝には許されたかも知れません。しかし、彼は決して超えてはいけない一線を超えてしまいます。即ち、大将軍柴武の息子の柴奇と密謀して反乱を起こさせた上、越や匈奴も誘って天下を奪おうと企んだのです。 結局、柴奇は捕らえられて処刑され(父の柴武は連座こそしませんでしたが、家はそこで絶えることになりました)、劉長は長安に召還されます。取り調べ官は、棄市…
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