前漢 劉如意の殺害1 恵帝は心優しい好青年でしたが、呂后は彼のライバルになり得る異母兄弟を敵視、特に趙王劉如意を殺そうとする
誰もがひやりとした場面でしたが、呂后はその言葉の正しさを認め、匈奴には「私は年をとってお傍に侍る役にはたちませんので、代わりに公女をお送りします」として、再び匈奴と講和を結びました。 なお、冒頓単于の行動は呂后を侮辱したものと受け取られましたが、『
前漢 劉邦死後2 冒頓単于は呂后に、連れ合いを喪って寂しいだろうからお相手しようとの書簡を送り、漢は激怒する
劉邦は長陵に葬られました。そして、劉邦と呂后の子の太子劉盈が17歳で即位します。これが恵帝です。その皇后は呂后の娘の魯元公主と趙王張敖の間の娘ですから、恵帝にとっては姪に当たります。 当然、この婚姻には呂后の意思が強く働いていました。血縁関係による支配の確立を狙ったものです。 せめて、恵帝ではない劉邦の王子に嫁がせていれば、歴史はまた別のストーリーを用意できたのかも知れないのですが……。…
前漢 劉邦死後 呂后は諸将を恐れて劉邦の死を秘匿するが、逆に諸将は動揺したため、公表に踏み切る 絶望した盧綰は匈奴へ逃亡
命拾いしたのは樊噲です。陳平は劉邦の命令に従って樊噲を捕らえましたが、劉邦の容態が思わしくない状況で彼を斬れば、呂后にどのような目に遭わされるか分かったものではないと、車に乗せて長安に送り届けようとしていました。呂后が妹の夫を、それも自分が助ければ自分に忠義を示すであろう人物を処刑するはずはありません。樊噲の拘束は即座に解かれました。 このような個別の決定はどうにでもなりますが、問題に…
前漢 劉邦の死 劉邦の傷は重く、盧綰討伐を部下に任せたものの、容態は悪化を辿る 呂后に相国を誰にするか言い残し、劉邦は世を去った
これまでと異なり、劉邦は親征しませんでした。英布との戦いで負った傷が余りに重く、とても戦いになど行けなかったのです。 盧綰は匈奴との国境に逃げました。彼は一連の粛清は呂后から発していると考えていました。そして、劉邦と語り合えれば赦しが得られると信じており、劉邦の戦傷が癒えたら入朝して詫びようとしていたのです。 ところが、劉邦の傷は、癒えることはありませんでした。苦痛は甚だしく、呂后は名…
前漢 相次ぐ粛清7 蕭何が私服を肥やしていると聞いた劉邦は激怒して蕭何を獄につなぐ 劉邦の幼馴染で無二の親友の盧綰、背く
ちなみに、劉濞は元代王で、匈奴を恐れて逃亡した劉喜の長男です。劉邦は劉濞を王にする際、「あと50年すると東南に乱が起こるとされるが、お前ではないだろうな。同姓の一家なのだから、慎んで背くことの無いようにせよ」と言い、劉濞は「決してそのようなことは致しません」と応えています。この会話も虚しく、劉濞は漢朝を揺るがす大反乱の中心人物となっていくのを後に見ることになるでしょう。 長安に戻った劉邦…
前漢 相次ぐ粛清6 反乱を起こした諸侯とその理由を見てみると、韓信、彭越、英布は密告がきっかけになっており、裏があるように見える
続いて豊でも人々が歓待します。そして、沛と同じように賦役の免除を願いますが、劉邦はかつて豊が魏についたことからそれは出来ないと断ります。しかし、沛の人々まで劉邦に頼み込むので、遂に認めました。 英布が殺されたのはこの頃のことです。また、樊噲と周勃が陳?を破り、当城で斬って代を平定しました。 散発した反乱は、これで全て鎮圧されたことになります。この時点で、劉姓ではない王は、燕王盧綰と長沙…
前漢 相次ぐ粛清5 激戦だが敗北した英布は逃走するが、民家で殺されて反乱は終息する 負傷した劉邦、故郷の沛へ寄って父老と宴会を催す
英布は劉賈を攻撃して敗死させ、更に北に向かって楚を攻撃しました。楚軍もまた敗北を喫してしまいます。 劉邦がやってきたのはこうしたタイミングでした。彼は堅塁を築き、遠方の英布に「なぜ叛いたのか」と問います。英布はただ、「皇帝になりたかっただけだ」と答えました。これでは妥協の余地がありませんね。 斯くして両軍は激突しました。戦巧者の英布と劉邦の戦いですから、戦いは激闘となりました。総大将で…
前漢 相次ぐ粛清4 気弱になって宦官の膝枕で休む劉邦を樊噲が泣いて諌めたため、劉邦は英布を討つため立ち上がる
劉邦は寵愛する宦官に膝枕をさせて寝ていました。その姿を見た樊?は、「沛で兵を起こし、天下を平定されるまで、どれほど意気盛んだったことでしょう。それが、天下の治まった今では何と衰えられたのでしょう。陛下は病が重く大臣はみな恐懼しているというのに、私たちを引見することもなく、ただ1人の宦官に看取られて世を去ろうとなさいますか。趙高の例をご存じないわけではないでしょうに」と泣きながら諌めました。 …
前漢 相次ぐ粛清3 呂后は彭越が反乱を謀っていると訴えさせ、彭越は一族共に滅ぼされる 英布は異姓王の排除に怯え、反乱を考えるようになる
それと並行して、呂后は息のかかった者に「彭越が再び謀反を企んでいる」と告げさせます。 劉邦も彭越の処刑を認め、こうして彭越の一族は殺されました。また、彼の遺体は見せしめとして塩漬けにされ、諸侯に配られました。 この功臣への非道な仕打ちと諸侯王への恫喝以外の何物でもない行為に、最も恐れを抱いたのは英布です。 英布は、韓信が処刑されたときから恐れていました。それに続いて彭越です。韓信、…
前漢 相次ぐ粛清2 韓王信が敗死すると、次は彭越がターゲットに 反乱を誣告された彭越は蜀へ流罪となるが、その途中で呂后と出会う
こうして両軍は干戈を交えることになりました。韓王信は敗北して捕らえられ、長男とともに処刑されました。後に匈奴に残してきた次男が漢に戻ることになるのですが、それはまだ後の話です。 続いてターゲットとされたのは、彭越です。 彭越は楚漢戦争では何度も劉邦の側に立ちましたが、少し状況が項羽の側に傾いたと見るや協力を取りやめるという風見鶏的な振る舞いを最後まで続けました。広武山の和平交渉後に劉邦…
前漢 韓王信の死1 前196年、再び漢に侵入した韓王信に迎撃する柴武はを勧めるが、韓王信は自分には罪が多いからと謝絶する
「臣下はそれぞれ主君のために働くものでございます。季布が項羽のために働いたのは、彼の与えられた仕事を果たしただけのことです。項羽の臣下が与えられた仕事をしたからといって、その部下を全員誅殺することができるでしょうか。陛下が私怨で1人の男を追求するのは器量の狭さを示すものではないでしょうか。また、漢が季布を厳しく追うのなら、彼は北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。壮士を追って敵を扶けるのは不合…
前漢 蒯通の弁明2 誰もが主人のために働くのは当たり前、という実に当たり前の弁明で命拾いした蒯通 同じようにして助かった硬骨漢季布
「秦の綱紀が緩み、関東で諸侯が並び起こり、英雄豪傑は鳥のように集まりました。天下の諸侯は天下を求め、陛下がそれを仕留めました。盗人の盗跖の犬が聖帝堯に吠えるのは、堯帝が不仁だからではありません。当時、私は韓信のみを知り、陛下を知らなかっただけのことです。天下には武器をとって陛下と同じことをしようと思っている者が大勢いますが、ただ自らを顧みて諦めているだけのことです。こうした者をことごとく煮殺す…
前漢 蒯通の弁明1 陳豨の将軍を買収して趙の多くの地域を奪還した劉邦、長安に戻り、韓信に反乱を勧めた蒯通を逮捕させる
張勝はそのとおりと考え、盧綰の許可を得ないまま匈奴と陳?が手を結ぶように動きました。 盧綰は張勝が叛いたと考え、劉邦に張勝一家の処刑を具申します。その後、張勝が帰国して盧綰に理由を知らせると、盧綰はもっともだと考えて張勝にそのまま匈奴との交渉を続けさせました。その一方で張勝の一家によく似た者を処刑して劉邦を騙しています。 劉邦の幼馴染でその寵愛を一身に集めた盧綰ですら、異姓の王が辿って…
前漢 韓信の死 反乱計画を知った蕭何と呂后、陳豨は破れたので祝賀に来て欲しいと韓信を呼び寄せ、斬る 韓信は蒯通の言を聞かなかったことを悔やんで死んでいく
大きなことを為そうとする者はその前の軽微なことも疎かにすべきではないという、「大事の前の小事」という言葉の正しさを示すような逸話です。 呂后は韓信を呼び出そうとも考えたのですが、それでは反乱が早まるだけと気がついたのでしょう。宰相の蕭何と対策を検討します。そして、韓信に兵を挙げさせないための策が練られました。 反乱の準備の整った韓信の下に、中央からの使者が訪れます。そして、「陳豨の反…
前漢 陳豨の反乱2 陳豨が抱えた数千人の食客の中には法に背く者が多く、脅威とみなされていた 反乱を知った劉邦、直ちに親征を開始する
趙の大臣だった周昌は、その盛大な様に加えて自由に兵を動かしていることを警戒し、劉邦に叛乱の危険が有ると進言します。 ちなみに、この周昌は滎陽で包囲された劉邦の身代わりになって項羽のもとへ趣き、降伏を拒否して煮殺された硬骨漢周苛の弟です。直言を憚らない人物で、その人物をよく示すエピソードがあります。ある時劉邦を訪れると、ちょうど劉邦は戚姫を抱いているところでした。慌てて引き返す周昌を劉邦は…
前漢 陳豨の反乱1 代に拠って背いた陳豨、匈奴に降伏した韓王信とも連絡を取って漢を攻撃する 陳豨反乱の背景
劉太公が世を去ったことで、諸侯が長安に集められます。しかし、この時に病を理由にやってこなかった者がいます。陳豨です。 彼の名は、先に劉邦の信頼する臣下で、韓王信が叛いた時に代の宰相兼将軍という、絶大な力を握る地位に据えられた人物として見えていましたね。陳豨が劉邦に従うことになった経緯は分かっていません。人望だけではなく、能力も買われたのでしょう。 この陳豨には、死刑になってもおかし…
前漢 未央宮落成 未央宮が完成し、諸侯を集めて宴会を催す 太后は長寿を祝われるが、翌年に亡くなる
随分と脇道に逸れてしまいました。趙で企てられた劉邦暗殺事件について書いてきたのでしたね。 暗殺未遂事件が片付くと、劉敬から進言を受けた劉邦は元王族など、各地の有力者を長安に移住させます。楚の昭氏、屈氏、景氏、懐氏、斉の田氏などです。もちろん、有力な人物が地元とのつながりを利用して強大化するのを防ぐためです。 また、未央宮が完成したことを祝い、諸侯を集めて未央宮の前殿で祝杯を上げまし…
前漢 跡目争い2 劉邦の招聘にも応じなかった4老人を招いて共にいる劉盈を見た劉邦、劉如意を後継者にすることを諦める
張良は、上が愛情に基づいて太子を変えようとしている中、こうした骨肉の間柄を自分のような者が大勢居ても効果が無いでしょう、と断りました。呂沢が強いて答えを求めると、張良はこう答えました。 「これは口先で諌められることではありません。陛下には、招いても応じてもらえない者が4人います。彼らは皆老人で、陛下を傲慢だと思っているため、山中に逃げています。金銭を惜しまず、太子に書簡を認めさせ、辞を低く…
前漢 跡目争い1 張敖の代わりに趙王となったのは、寵愛する戚夫人の生んだ劉如意 劉邦は活発な如意を愛し、太子劉盈を廃そうとする
空位となった趙王には、代王の劉如意を移しました。そして、信頼する陳豨を諸侯に加え、代の丞相と将軍を兼ねさせ、兄の代王劉仲を扶けさせました。 劉如意は劉邦と彼が寵愛した戚夫人の子です。楚漢戦争中に見初められ、遠征中も側に置いていたという女性でした。呂后が項羽の人質に取られていた時期ですね。 戚夫人は漢による統一後も、遠征のたびに劉邦と行動を共にし、我が子の劉如意を跡継ぎにして欲しいとね…
前漢 張敖の王位剥奪 部下の反乱計画に巻き込まれ、趙敖も逮捕される 取り調べの結果、無罪とはなったが、王位は剥奪されて列侯に格下げとなる
首都に宮殿ができたからと言って、長安に落ち着く劉邦ではありません。東方にでかけた際、趙で宿泊しようとします。劉邦の行動を知った趙の宰相貫高は、以前劉邦が趙王に対して働いた無礼を償わせるため、暗殺計画を巡らせます。 しかし、劉邦は宿泊しようとした県の名の「柏人」を聞いて、「柏人とは、人に迫られることではないか」と言うと、宿泊を取り止めてしまいました。こうして暗殺計画は未遂に終わりました。 …
前漢 叔孫通2 宮廷での儀式を定めたことで劉邦に喜ばれた叔孫通、手にした褒美は部下に分け与えてかつての約束を守る
先に、将軍たちが功績を争ったとのエピソードを紹介しましたね。劉敬叔孫通列伝では、その様子について「酒を飲むと功績を争い、怒号が飛び、剣で柱に斬りつける輩がいた」などと記していますので、かなり殺伐としたものだったようです。 叔孫通は劉邦が部下の乱暴な振る舞いを嫌がるようになったと知ると、「儒者は共に新しい世の中を作ることには向いておりませんが、守成には適しております。願わくば魯の学者を召し、…
前漢 叔孫通1 2世皇帝の悪政から逃れ、主を変えながら乱世を生き延びた叔孫通、即位の礼を取り仕切って信用を得る
その頃、既に薛は項梁の支配下にありましたので、そのまま楚の懐王に仕え、懐王が義帝と尊称を変えて長沙に送られた際には彭城に残って項羽を主と仰いでいます。 もし義帝と行動を共にしていたのなら、義帝が殺害された際に叔孫通もまた殺されていたかも知れません。劉邦が彭城を落とすと、叔孫通は劉邦に付き、彭城の戦いで劉邦が惨敗した際にもそのまま劉邦と行動を共にしています。 叔孫通はそれまで儒服を着てい…
前漢 長安の規模 公共事業の効果 宮殿はできたが、それにふさわしい礼法はまだ存在しない漢の初期
税金が過度に重かったり、労働が厳しすぎたりすれば天下の不満を買ったのでしょうが、余裕があるのなら、こうした人心を落ち着かせ、皇帝の威光を思い知らせるための装置を整えるのは悪いことではないでしょう。たとえば教会がステンドグラスやら何やらで綺羅びやかなのは、視覚的に威光を表現するものです。 もちろん、これはある程度の善政が伴ってのことでしょうけど。 ただ、国家が崩壊すると、あちこちで矛盾が…
前漢 長安への帰還 窮地を脱した劉邦、趙で婿の張敖相手に失礼な振る舞いをして暗殺計画の種を蒔く 長安には壮麗な宮殿が
劉邦は陳平の策に従い、兵士に矢を番えさせ、外側に狙いを付けさせたまま包囲を抜けました。韓信・盧綰列伝によれば、濃霧が立ち込めていたことになっています。 窮地を脱した劉邦は己の非を認め、匈奴攻撃を諌めた劉敬を釈放して関内侯(20爵の19爵目で、列侯の下)に任じました。 講和成立を受け、劉邦は樊噲に代周辺の平定を任せると、自分は長安に戻ることにします。 帰途、劉邦は趙に立ち寄ります。この…
前漢 白登山の敗北 弱兵ばかりとの情報を得て出撃した劉邦を匈奴は白登山に囲み、劉邦は単于の妻に貢物をして窮地を脱する
これを完全に見抜いていたのが、関中を首都にすべしと唱えて劉姓を賜った劉敬です。「戦争の際には自国の強いところを見せようとするものです。いま、匈奴が弱兵ばかりを見せているということは、伏兵を忍ばせて勝利を得ようとしているに違いありません」と攻撃を断念するよう説きます。 しかし、劉邦は劉敬を獄に下すと、32万という大軍を率いて冒頓単于攻撃に向かいました。 戦いが始まると、匈奴の前線は漢の攻撃…
前漢 韓王信の造反 対匈奴最前線に領地を与えられた韓王信だったが居城を匈奴の大軍に包囲されて降伏、劉邦は匈奴へ親征する
この広く人口に膾炙した諺は、前漢に成立した『淮南子』に見えるものです。ということは、これは匈奴との国境線近くの話であると考えて間違いはないでしょう。 話が長くなりました。この匈奴に、漢は対応する必要に迫られていたのです。 韓王信は匈奴に備えるため、匈奴との境界線に近い太原に住むよう命じられます。韓王信は「韓王」とありますが、戦国時代の韓の領域を与えられたわけではありません。太原に国替え…
前漢 塞翁が馬 匈奴の度重なる侵入が、人生はどう転ぶか分からないという「塞翁が馬」の諺を生んだ
『シルクロード全史』には以下の記述があります。 ステップ・ルートは、ユーラシア…
前漢 冒頓単于3 冒頓単于は自分を侮った東胡王を急襲して滅ぼし、西方では月氏を駆逐して広大な土地を手中に収める
下手に出ればつけあがるのが世の常です。東胡の王は冒頓単于を完全に見下し、匈奴と東胡の間にある無人の地帯へ侵入し、領有しようと思うと匈奴に言ってきました。 冒頓単于が今回も臣下に図ると、臣下たちは「あそこは捨て地ですから与えてもよろしいでしょう」と答えました。冒頓単于は大いに怒り、「土地は国家の基本である。与えるわけにはいかぬ!」と言うと、土地を与えても良いといった側近を斬り、国中の兵士を集…
前漢 冒頓単于2 自分の放った鏑矢に続いて射ない部下を処刑した冒頓の最後のターゲットは父の単于 単于即位当時の苦労
冒頓は鏑矢(矢の先端に鏑を付けることで射ると音がなるようにした矢)を作らせると、部下に「鏑矢が射掛けられた目標を射て。射てない者は斬る」と命じました。そして約束通り、行軍中に鳥や獣を見つけると鏑矢で射掛け、射ない者がいれば斬り捨てました。 部下が概ね従うようになった頃、冒頓は自分の愛馬を鏑矢で射ます。今回も、躊躇った者は斬られました。暫くして、冒頓は今度は自分の寵愛する女性を鏑矢で射ます。…
前漢 冒頓単于1 秦の将軍蒙恬の攻撃によりオルドスより北に追い払われた匈奴に、冒頓単于という強力な王が現れる 父に殺されかけた幼年時代
彼らの生活は基本的に過酷で、軍事力が重視されていたからこそ、力を持つ健康な若者が尊重されたのです。女性関係については中国とは大きな違いがありますね。これもまた、匈奴を非文明国と見下す背景になっていたのかもしれません。同じ匈奴列伝において、戦国の七雄を「衣冠束帯の礼儀を守る中国の国家は七つ」と表現していることからそうした司馬遷の考えが透けて見えます。 匈奴について延べるのはここで止め…
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