楚漢戦争 斉平定2 韓信は蒯通の説得を受け斉攻撃を続行、酈食其は斉王に煮殺される 斉王は臨淄を捨てて逃走し、項羽は斉へ将軍龍且を送る
降伏後の地位や安全を約束することで降伏させるのは、蒯通を見ても、楚が外黄を降した後に他の城が降ったのも、酈食其が田広を説得した流れを見ても同じですね。逃げ道を失えば、徹底抗戦しか道は残っていないのですから。 この蒯通は、斉攻撃を中止しようとする韓信に「将軍は勅命を受けて斉を攻撃しているのです。中止の勅命が無いのに、勝手に進軍を止めてはなりません。また、酈食其は口先だけで斉の70余城を降し…
楚漢戦争 斉平定1 酈食其の説得を聞いた斉王は劉邦に降ることを決意し、国境の防備を解除して酈食其と宴会に耽る
酈食其は斉に着くと、「斉王様は誰が天下の主となるかご存じでしょうか」と尋ねます。田広は「知らぬ」と答えました。酈食其は、「もし王が、誰が天下を取るかをご存じならば国を保つことができましょう。しかし、ご存じないのでしたら、国を保つのは難しゅうございます」と重ねて言います。 田広「誰が天下を取るのであろうか?」 酈食其「漢です」 田広「どうしてそう言えるのだろうか?」 酈食其「漢王は最初に関…
楚漢戦争 再始動 非戦を命じられていた曹咎、侮辱に堪えられずに撃って出るが、韓信に破れ自害する 楚漢両軍は広武山を挟んで対峙する
この言葉により、再び劉邦は滎陽に向かうことになったのです。また、同時に酈食其は自分が斉へ趣いて、田氏一族を漢に付くよう説得しよう、と行って、東へ向かいました。これが、劉邦と酈食其の今生の別れとなります。 漢軍は成皋に押し寄せます。曹咎は項羽の言いつけを守って戦いを挑まれても籠城を続けるだけだったのですが、数日間侮辱され続けると、怒り心頭に発し、��水を渡って漢軍に攻撃を仕掛けました。 …
楚漢戦争 弱気な劉邦 項羽は叛いた都市を落とし、住民を皆殺しにしようとするが、13歳の子の説得で取りやめる 弱気になった劉邦、講和を考える
曹咎と司馬欣と言えば、項羽の伯父の項梁が罪を犯した際、彼らの力で罪を免れた縁で降伏を受け入れられたのでしたね。 さて、戦場では負け知らずの項羽でも、流石に15日というのは大言壮語も過ぎました。外黄の街は数日間に渡って抵抗します。ようやく外黄を落とすと、項羽は15歳以上の男子を全員穴埋めにしようとします。 人々を救ったのは、外黄の令が抱える客の、13歳になる子でした。彼は項羽を訪れると、「彭越…
楚漢戦争 彭越の蠢動 東方で彭越がゲリラ戦を繰り広げ、項羽は補給路確保に苦しむ 項羽は成皋の守備を曹咎と司馬欣に任せ、東に戻る
夜のうちに張耳の軍に入ったのは、劉邦なりの作戦でしょう。もし昼間に張耳を訪れ、兵の移譲を拒否されれば、由々しきことになっていたでしょうから。 劉邦は張耳に趙の防衛を命じ、韓信は趙の宰相に任じた上で、趙で新兵を募って斉を攻撃するよう命じます。やがて、成皋を脱出することに成功した諸将も劉邦の下に集ってきます。 一方の楚軍は、成皋を落として関中を伺うべく、西進を図ります。劉邦はこれを迎撃、楚…
楚漢戦争 成皋へ 英布と合流した劉邦、滎陽に向かっては項羽と正面からぶつかることになるため、南の武関から成皋に入る
この時、韓王信はやむなく楚に降伏していますが、後に逃げ出して再び劉邦に仕えるようになります。 さて、滎陽を失い、御史大夫の周苛を亡くすという大打撃を被った劉邦でしたが、この頃に随何の説得を受けた英布が劉邦に合流したこともあり、態勢を整えることに成功します。 英布が訪れた時、劉邦は足を投げ出して洗わせているところでした。どう考えても、重要な客人を迎えようとするときに相応しい状況ではあり…
楚漢戦争 滎陽撤退2 劉邦と見せかけて降った紀信、降伏を拒否して煮殺され、徹底抗戦した周苛と樅公も戦死、韓王信は降伏する
輿はいよいよ項羽の前に辿り着きます。その輿の中から現れたのは、将軍の紀信でした。 紀信と言えば、鴻門の会で劉邦に付き従い、鴻門から覇上まで闇夜を共に逃げた人物でしたね。彼は危機が差し迫っていることを悟ると、「私が漢王と称して項羽を欺きますから、その間に逃げてください」と劉邦に進言し、死を覚悟して囮となったのです。 項羽は紀信に、「漢王はどこか」と問います。紀信は「王はもはや城を出ました…
楚漢戦争 滎陽撤退1 范増との離間策は成功し、范増は項羽を見捨てて去る 滎陽の包囲は解けず、東門から降伏の一行が歩み出る
劉邦の裁可を得た陳平は、楚軍にスパイを送り込み、「将軍の鍾離昧らは大きな功績を挙げているのに土地を与えられて王になる見こみが無いため、漢に寝返って項王を倒し、漢によって王に封じられようとしている」と噂を流させます。 項羽は将軍たちも信じられなくなり、劉邦へ使者を送りました。劉邦たちは使者に対し、王に対する最高級のもてなしを準備して使者の前に運び入れながら、「亜父(范増)の使者では無く、項王…
楚漢戦争 陳平5 劉邦の疑いを解いた陳平、項羽と臣下の離間策を講じる
魏無知の言葉だけでは疑いを解くには足りず、劉邦は陳平を呼び出すと、「先生は魏に仕えて上手くいかず、楚に仕えながら去っている。今は私に仕えてくれているが、信実のあつい者はもともと心が多いものだろうか」と責めました。 陳平は、「臣は魏王に仕えましたが、私の説は採用されませんでした。それ故、魏を去って項王に仕えました。しかし、その項王は人を信じることができず、寵愛されるのは項王の一族か妻の兄弟に…
楚漢戦争 陳平4 劉邦に重用される陳平を、古参の周勃や灌嬰が讒言する 品行でだらしがない陳平を魏無知は能力が高いと擁護する
劉邦は既に反項羽の中心の1人となっていましたから、彼と面会したい者は数多く居ます。陳平もいきなり2人きりで会えたわけではなく、他に6人の者と食事をしながら会うことになりました。しかし、食事が終わると、劉邦は一行に退くように伝えます。ただ会うだけでも苦労するのに、ここで引き下がるわけにもいきません。陳平は、「私には大王に申し上げたいことがあって参ったのです。今日のうちにも申し上げなくてはなりません…
楚漢戦争 陳平3 司馬卬が漢に降ったために殺されそうになった陳平、項羽の下を逃げ出して劉邦軍に身を投じる
後に章邯が陳勝を滅ぼした後に他の反乱勢力も叩き潰そうと動いていた際、魏咎は田儋と共に章邯と戦いますが、敗北して追い詰められ、民の降伏を受け入れてもらえるよう交渉すると焼身自殺を遂げています。あるいは、陳平が魏咎の下に留まり続けたのなら、共に亡んでいたのかも知れません。 魏咎の下を去っていた陳平は、項羽軍に合流、関中入りに従って秦が滅びる様を目の当たりにしています。どうやらしっかり功績を挙…
楚漢戦争 陳平2 貧しく無職の陳平、何度も夫を亡くした富裕層の女性を娶り、そこで得た資金で出世の階梯を登り始める
そんな陳平も年を重ね、そろそろ結婚すべき、という年になります。現代なら結婚などしなくても何も咎められないでしょうが、当時では不自然極まりないことだったのでしょう。ところが、陳平は貧乏な相手は嫌がり、金持ちの方では陳平を嫌がるといった具合でうまくいきません。 そんな中、近くにお金持ちの家で5回も嫁ぎながらいずれも夫と死に別れて家に帰ってきたという女性がいることを知ります。これだけ不幸が続いたこと…
楚漢戦争 陳平1 項羽に囲まれて窮地に陥った劉邦が頼った陳平という男 若い頃は定職にもつかず、兄の陳伯の家に厄介になっていた
現代でも、強大な軍事力で国民の自由を奪う圧政国家があります。そんな国に対し、「恩徳を施せば彼らは必ず感謝して圧政を止めるようになるに違いないので、武力で対抗してはならない」といった類のことを主張する者も居ます。しかし、それは正しくないのです。理想を持つことはとても大切なことであるとは思いますが、力にのみ頼る理想の通ない相手も居て、そうした勢力には力を背景にして対峙するしかないのです。 こう…
楚漢戦争 滎陽の戦い2 張良は酈食其の策を木っ端微塵に打ち砕く
張良はこの動きを知るとすぐに劉邦を訪れ、「王のためにこのような謀をしたのは一体何者でしょう。これでは王の大事も失敗してしまいます」と言います。 その理由として張良が挙げたのは以下のものです。 張良「湯王が夏の桀王を討ってその子孫を杞に封じたのは殷を滅ぼせる自信があったからですが、王は項羽を滅ぼせる自信がおありですか?」 劉邦「まだ自信はない」 張良「武王が殷の紂王を討ってその子孫を宋に封…
楚漢戦争 滎陽の戦い1 韓信は趙を固め、燕も降伏させる 項羽は劉邦のいる滎陽を囲み、窮した劉邦に酈食其が策を献じる
遂に李左車は韓信に献策することを肯んじます。それは以下のとおりです。 「韓信の軍は勝利をあげて韓信の名は諸侯の間に轟いきましたが、兵士は疲れ果てているので燕を簡単には落とせないでしょう。もし弱い燕を落とせなければ斉は守りを固めて力を蓄えると思われます。そうなると楚と漢の勢力均衡が続きます。今は兵を休ませ、趙の支配を拡大しながら、戦争孤児を労られるのが良いでしょう。そうすれば民衆は懐き、ウシ…
楚漢戦争 背水の陣3 趙軍は壊滅し、陳余は斬られて趙王歇は捕らえられる 韓信が定石外れの背水の陣を敷いた理由について
趙軍は為す術もなく壊滅します。陳余は川の辺りで斬られ、趙王歇は捕らえられました。韓信は李左車を生きて捕らえた者には千金の報奨を出すと告げていたこともあり、李左車もまた捕らえられました。 この日の朝、韓信は幕僚に「今日は趙軍を打ち破ってから正式な食事にしよう」などと呑気なことを言っていたそうです。幕僚たちは立場上「承知しました」としか言えませんでしたが、かといって本当に1日で趙軍を破ることが…
楚漢戦争 背水の陣2 李左車の奇策を陳余は聞き入れず、正攻法で堂々と戦うことを選ぶ 韓信は隘路を抜けると川を背に陣取った
しかし、陳余は李左車の策を取り上げませんでした。というのも、彼は正義の戦いを標榜し、奇策を嫌ってこう主張したのです。 「私が学んだ兵法には、『10倍なら囲み、2倍なら戦う』とある。韓信の軍は数万と称するが、実態は数千に過ぎない。千里の道を超えて攻撃することまではできたとしても、すでに軍は疲れ切っている。こんな敵を避けるようなら、後にもっと強い相手が現れても防げまい。諸侯は私を臆病と思って攻撃をし…
楚漢戦争 背水の陣1 韓信は魏を降し、張耳と合流して趙攻撃に向かう 趙では隘路の出口に20万の兵を張り付けて韓信に備える
その頃、漢軍は関中からの補給を得て再び攻勢に出ていました。蕭何が全力で補給を行うことで、立て直しに成功していたのです。また、狙い通り楚が英布攻撃に兵を割いたため、圧力が弱まったことも幸いしたのでしょう。 8月韓信を左丞相に任命し、魏を攻撃させる。魏豹は軍を集め、川の渡し場を塞ぐ。韓信は船を並べて川を渡ると見せかけ、その間に別働隊に木の桶を使って渡河させ、安邑を攻撃します。魏豹がもし安邑に取…
楚漢戦争 英布の調略2 随何は漢に付くことこそ有利であると英布に説くだけではなく、楚の使者の前に出て英布は漢に付いたと宣言してしまう
英布は項羽が斉を攻める際も、不在の間に根拠地である彭城を落とされたときも、馳せ参じなかったのですね。淮南の統治に心血を注いでいたか、はたまた項羽と距離を取ろうとしていたのでしょうか。 随何は英布の姿勢が危なっかしいことを示し、その上で、漢を弱いと考えているのだろうが、楚は義帝を殺して大義を失い、漢を攻めようにも間に梁があるため進んでも退くことは困難な一方、漢は諸侯を味方につけた上に補給が万…
楚漢戦争 英布の調略1 滎陽に逃げ込んだ劉邦、英布を味方に付けたいと願う 随何、自薦して英布の下へ趣く
漢軍の敗北の影響は甚大なものでした。 趙は項羽の側に付くことを選択し、塞王司馬欣と翟王董翳は漢軍から逃げて項羽の陣営へ舞い戻りました。元殷王の司馬卬は彭城まで劉邦に付き従ったようですが、その後の記録が無いので恐らく戦死したのでしょう。 6月、魏豹は帰国して病気の親を見舞いたいと願い、許されて帰国します。国に戻った魏豹は直ちに漢との国境を閉じ、楚と講和してしまいました。劉邦は酈食其を派…
楚漢戦争 彭城の戦い2 大敗した劉邦は何とか滎陽に逃げ延びるが家族は項羽の人質に 塗り替えられた勢力地図
劉邦と共に脱出に成功したのは数十騎のみです。劉邦は沛の家族を収容しようとしますが、楚軍はその意図を見抜き、沛へ軍を差し向けます。なぜ劉邦が彭城を抑えた時点で家族を迎えなかったのか、あるいは項羽はなぜ劉邦が叛いた時点で家族を人質にとっていなかったのかは分かりませんが。 彭城の戦いの模様は既に近隣に広まっていたようで、劉邦が沛へ辿り着いた時には家族は逃亡していました。劉邦は家族の救出には失敗し…
楚漢戦争 彭城の戦い1 諸侯も劉邦に付き、50万と号する大軍が項羽不在の彭城を落とすが、項羽は3万の騎兵を急行させて劉邦を破る
義帝殺害を知った劉邦は、「天下はともに義帝を立てて仕えていたが、項羽は義帝を江南に逐った挙げ句にこれを殺した。大逆無道である。私は義帝のために喪を発した。諸侯もみな喪服を纏い、関内や三河(河南、河東、河内)の兵を発して東へ川を下っている。私も諸侯の後を追い、義帝を殺した者を討ちたいと思う」と檄文を飛ばし、自分の正当性を訴え、項羽への攻撃を煽ります。 この時、劉邦は趙の陳余(彼は張耳を逐って…
楚漢戦争 劉邦の始動3 秦と同様に民に爵位を与え、支配体制に組み込む 黄河を渡り、魏王豹を捕らえ、殷王司馬卬を降伏させる
民間人に爵位を与えるというのは秦でもありましたね。20等爵のうち、民間人でも国家に功績があると認められると爵位が進みました。といっても、民間人は8等爵までですが。 また、三老についても秦では既に見られるものです。三老とは50歳以上で人徳があり、指導者として相応しい者を郷ごとに1人選び、教化を担わせたものです。更に、郷の三老から1人を選び、県の三老としました。三老は県令や丞、尉といった県政トップと…
楚漢戦争 劉邦の始動2 前205年、章邯の弟の章平を捕らえ、秦の社稷を廃止して漢の社稷を立てる 宗教的にはここで秦が滅亡する
ヒトラーのラインラント進駐を思い出させるような話です。下手な言い訳ではあると思いますが、項羽にとって遠方の関中よりも国境を接する斉や趙の方がより重要度が高かったことは間違いありません。項羽は斉との戦いを優先させました。 一方の劉邦にとって、行政の中心地が漢中にあるのでは遠すぎて不便になり、11月には櫟陽を都にし、秦王室所有だった土地も耕作させました。項羽が咸陽を焼き払ってしまったため、櫟陽の…
楚漢戦争 劉邦の始動1 密かに陳倉道を抜けた漢軍、章邯の弟章平を敗走させ、翟王司馬欣、塞王董翳、河南王申陽を降伏させる
劉邦が選んだのは、陳倉に向かうルートです。 漢軍の動きは関中の3王に知られることはありませんでした。漢軍が難所を通り抜けた後になってようやく章邯は劉邦の攻撃を知ります。 ペルシア戦争において、スパルタ王レオニダス1世が僅か300の兵士でペルシア軍をよく防いただのは、天嶮の地テルモピュライの隘路を占め、密集陣形(ファランクス)で敵を寄せ付けなかったためです。隘路は、通過されてしまったら価値は…
楚漢戦争 韓信という男6 関中の人々は項羽に降って自分たちだけ生き残った3王を嫌っていることを利用する 侵攻ルートの問題
既に記した通り、田栄が陳余や彭越と結んで楚に叛いたため、項羽は田栄を攻撃します。田栄は迎え撃ちましたが敗北し、平原に逃げます。しかし、その地の民に殺害されて世を去りました。項羽は城を破壊し、兵士を穴埋めにし、女性は捕虜にします。当然、このようなことをすれば、民の心は離れるばかりです。 田英の弟の田横は、田英の子の田広を立てて城陽で抵抗を続けました。項羽は斉で戦い続けるしかありませんでした。…
楚漢戦争 韓信という男5 項羽の残虐な仕打ちこそ劉邦を有利にしている 韓王信もまた兵士の気持ちを理由に東方への進撃を進言する
この人物評は、陳余が田栄に送った書簡に見える、「仲の良い者は豊かな地に封じたが、元からの王らは僻地に追いやられた」、という言葉と軌を一にしますね。項羽はなまじ自分が名家生まれの有能な人物だったが故に、成り上がろうとする者の野心を読みきれなかったり、自分よりも能力の低い人物を正しく評価することができなかったのかもしれません。 「項王は天下に覇を唱え、諸侯を臣下と致しましたが、要地である関中を…
楚漢戦争 韓信という男4 韓信は劉邦に、項羽より優れていると思うかと問い、否の答えを引き出す そして、項羽の欠点を指摘する
劉邦はすぐに韓信を呼んで大将軍に任命しようとしましたが、蕭何が礼を失していると窘めます。そこで、劉邦は高台を築くと、吉日を選んで大将軍を選ぶと宣言しました。 なお、この時に作られた拝将台は現在も残っておりますので、漢中方面に行くことがある方は余裕があれば遥かな過去に思いを寄せられても良いかも知れません。 さて、これまで功績を上げてきた将軍たちは誰もが自分が選ばれるものだと思っていたので…
楚漢戦争 韓信という男3 蕭何にも高く評価された韓信だったが昇進しないため逃げ出す 蕭何が急いで後を追い、逃亡したと誤解される
間もなくして蕭何の知遇も得ます。蕭何もまた韓信を高く評価し、何度も劉邦に韓信を重用するように説きますが、劉邦は特に待遇を上げるようなことはしませんでした。 韓信は、劉邦の下にいても出世はおぼつかないと見ると、職を捨てて逃亡してしまいます。 もっとも、逃げ出したのはなにも韓信1人に限りません。東方出身の兵士の少なからずが漢中に留まり続けることを嫌って逃亡していました。 韓信の逃亡は、…
楚漢戦争 韓信という男2 侮蔑した男の股をくぐり笑われながら心に大志を抱く韓信 漢中で罪を犯し死刑判決を受けるが、夏侯嬰に訴え助命される
このような生活ですから、周りの者は韓信を莫迦にしていました。ある荒くれ者が、「おい、お前はデカいなりで剣なんかぶら下げてるが、ビビってんだろ。死ぬ気があるなら俺を刺してみろ。それができないなら股をくぐれ」と喧嘩を売ります。韓信は黙って股をくぐりました。誰もが韓信を臆病者だと笑いました。 もし、秦帝国が長く続けば、韓信は働きもせずにブラブラしているだけの人物で終わったことでしょう。しかし、歴…
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