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  • 人間の限界。(自我その531)

    人間は、自我を持って、初めて、動物から離れ、人間になるのである。自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)である。構造体とは、人間の組織・集合体である。家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体には友人という自我があり、夫婦という構造体には、夫・妻の自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があり、県という構造体には、県知事・県会議員・県民などの自我があり、国という構造体には、総理大臣・国会議員・...人間の限界。(自我その531)

  • 無意識の思考の力。(自我その530)

    ドイツの哲学者のアドルノは「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチス党によるユダヤ人大虐殺の原因を方向性を誤った理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性という自らを意識している思考が生み出したものではなく、深層心理が思考して生み出した自我の欲望によって起こされたのである。深層心理とは無意識の精神活動である。理性は自我の欲望を抑圧しきれないのである。プーチン大統領は西欧寄りの政策をとるウクライナに兵を向けた。ロシアを嫌っているゼレンスキー大統領はそれに真っ向から対抗した。数多くのロシア兵、ウクライナ兵、ウクライナ国民へが亡くなっても、まだ戦闘が続いている。プーチンのロシアの大統領としての自我の欲望、ゼレンスキーのウクライナの大統領としての自我の欲望が、...無意識の思考の力。(自我その530)

  • 蟹は甲羅に似せて穴を掘るように、愚かな国民は愚かな政治家を生む。(自我その529)

    「神がいなければ、すべてが許される。」とは、ドストエフスキーの言葉である。それは、逆に言えば、人間は、神が見ていると思うからこそ、神の断罪を恐れ、自重するということを意味している。キリスト教徒は神に承認されたいのである。しかし、日本人には神はいない。神道の言う神は、キリスト教の言う神ではない。キリスト教の神は人間を断罪する。しかし、神道の神は、賽銭を上げれば願いをかなえてくれる現実的な存在である。それでも、日本人は、「すべてが許される」とは思っていない。世間が悪事を許さないと思っているからである。世間が罪ある人を断罪するのである。日本人にとって、世間がキリスト教の神に代わる存在なのである。キリスト教徒が神に承認されたいように、日本人は世間に承認されたいのである。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」...蟹は甲羅に似せて穴を掘るように、愚かな国民は愚かな政治家を生む。(自我その529)

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