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2015/03/05

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  • 松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る! ②

    昨日に引きつづき徳松周辺の事情を、大胆かつ妄想的に考察していきたいと思います前回は、案内板に書いてあった徳松親子の死亡日はウソではないかと勝手に決めつけましたが、今日は忠輝改易後2人がどこに軟禁されていたかを、何の資料もなしに独断で推測します。それは、ズバリ「お竹・徳松は、忠輝の改易後、岩槻藩に預けられた!」です。「え~、それじゃあ案内板は正しかったんか~い」というブーイングが聞こえてきそうですが、それは早計。つまり、正確にいえば、「徳松たちは、当時岩槻藩主だった高力忠房に預けられたのではないか」ということです。元和2年に藩主だった高力忠房は、岩槻藩初代・高力清長の孫で、父が早世してしまったため、祖父・清長の薫陶を受けて育ちました。(祖父・高力清長の墓石。徳松の供養塔の横にありました。忠房のお墓は京都にあるそう...松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る!②

  • 松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る! ①

    みなさまごきげんよう。またもやお久しぶりになってしまったゴマでございますです。さてさて、約4ヶ月ほど前に阿部重次の記事をアップしましたが(許すまじ、阿部重次っっ!)、その中で「忠輝の子・徳松は寛永9年、18歳のときに館に火を放ち、母とともに抗議の焼身自殺を遂げた」と書きましたが、その後母子のお墓のある浄安寺を再訪したとき、市教育委員会が設置した案内板に「???」となり、このたびあらためて確認しに行ってまいりました。(突っこみどころ満載の案内板)これによりますと、『徳松丸は家康の六男松平忠輝の子息である。父・忠輝は伊達政宗の娘・五郎八姫を妻とし、とかく粗暴の振舞が多かったため、大御所家康や将軍秀忠の勘気に触れて、改易、蟄居を命じられた。忠輝は妻との間には子がなく、徳松丸は側室竹の局の子であったが、父の改易に伴い、...松平忠輝長男・徳松の死の真相に迫る!①

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