比叡山を源に発する白川の流域に住み、季節の花を売り歩くのを業とする女性が白川女(しらかわめ)です。その歴史は古く、平安時代中頃から御所に花を届けていたともいわれています。本列は伝統的な白川女姿で、神前に献花する花を頭にのせています。『花や番茶、いりまへんかア』と売り歩いていた。大原女とは売るものが違う。関連記事⇒神社左0228北白川天神宮石碑・紀元2600年神社左0104北白川天神宮と御旅所太閤地蔵とか子安観世音これは大きい時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列神幸列孝明天皇桓武天皇時代祭行列白川女献花列
まち歩き下1421 京の通り・富小路通 NO78 仁丹看板のある民家
松原通り富小路東入松原中之町関連記事⇒下京区松原通仁丹看板まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1420京の通り・富小路通松原通次回の記事⇒1422まち歩き下1421京の通り・富小路通NO78仁丹看板のある民家
11月5日東中筋東入天神前町11月5日室町西入中野之町5月9日富小路東入中之町関連記事➡仁丹町名ホーロー看板下京区松原通仁丹看板
2019年10月30日撮影南方面を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1419植物園生態園見頃情報R1.10.20現在次回の記事⇒まち歩き下1420京の通り・富小路通松原通
御鳳輦(ごほうれんご祭神の乗る御輿)を中心とした神幸の本列です。先に進む御鳳輦が孝明天皇、後の御鳳輦が桓武天皇で、宮司以下神職が前後に供奉します。こうして両御祭神が一年に一度、京都市内をご巡幸になって、市民の安らかな状を親しくご覧になるのが時代祭なのです。各列はこの神幸のお供をする行列となっています。孝明天皇関連記事⇒史跡八幡074石清水八幡宮表参道豊蔵坊三宅石碑寺院右0602妙心寺塔頭東海庵重要文化財まち歩き上0516京都御苑内九条邸跡石碑上0120京都御苑内貽範碑まち歩き上0515京都御苑内賀陽宮邸跡家庭教師神社向0105向日神社御陵道道標東0098泉山御陵参道桓武天皇関連記事⇒まち歩き長岡京1247長岡京駅前ローターリー、西国街道道標陵墓向日034淳和天皇火葬塚陵墓向日033桓武天皇皇后高畠陵道標向日02...時代祭行列神幸列孝明天皇桓武天皇
神幸列の直前を行くので前列といいます。御賢木(おんさかき)を先頭に、迦陵頻(かりょうびん)、胡蝶(こちょう)の舞人、さらに雅楽の伶人など優美な衣裳の列で、多数の狩衣装束のお供が従います。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列神饌講社列次回の記事⇒時代祭行列ご祭神の行列「神幸列」前列
神饌講社列ご祭神の行列「神幸列」となります。時代祭当日の神饌物を奉献する役目の人達で、騎馬に白の礼装の御饌長(みけちょう)・副御饌長および水干(すいかん)姿の講員により組織されています。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列延暦文官参朝列次回の記事⇒時代祭行列神饌講社列
延暦15年(796)、文官が朝賀の儀式のため参朝する様を表しています。服装は朝服(ちょうふく)で、身分によって色が定められています。三位は浅紫、四位は深緋、五位は浅緋、六位は深緑の袍を着用しています。当時は平安遷都から間もない時期で、まだ奈良時代の服制が受け継がれ、いわゆる唐風が色濃く残されています。時代祭の全行列が平安神宮に還り着いた時に、代表して三位が大極殿で祭文を奏上します。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列延暦時代延暦武官行進列次回の記事⇒時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列延暦時代延暦武官行進列次回の記事⇒時代祭行列延暦文官参朝列
延暦20年、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征を終えて平安京に凱旋する様を表しています。大将の坂上田村麻呂は、きらびやかな金小札(きんこざね)の甲冑に、金作りの直刀を差し、丸木弓を従者に持たせ、木地に漆画をほどこした鞍に赤革の三懸の馬に乗り、従者に矛持、弓持を従えています。この時代の考証史料は少なく、行装は正倉院御物や古墳の出土品などによって復元、その後の研究成果をもとに逐次改良が加えられています。関連記事⇒尚徳諏訪神社創建は801年です、随分と昔だ時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列百済王明信次回の記事⇒時代祭行列延暦時代延暦武官行進列
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