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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

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2015/02/19

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  • 時代祭行列 平安時代婦人列 百済王明信

    百済王明信百済王明信(くだらのこにきしみょうしん/めいしん、生年不詳-弘仁6年10月15日(815年11月19日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての女官。百済王理伯の娘。桃園右大臣藤原継縄に嫁ぎ、乙叡を生む。宝亀元年(770年)正五位下、宝亀6年(775年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下、天応元年(781年)従四位上、延暦2年(783年)正四位下、同年に正四位上とつづけて昇叙される。延暦6年(787年)高椅津への行幸の帰りに従三位に叙される。延暦16年(797年)には尚侍を賜る。2年後に正三位に昇る。弘仁6年(815年)10月に没。従二位であった。桓武天皇との関係桓武天皇は百済からの帰化系氏族を重用してきたが、特に明信は天皇の寵愛を受けていた。『日本後紀』によると、延暦14年(795年)4月1日...時代祭行列平安時代婦人列百済王明信

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 和気廣虫

    和気廣虫和気広虫(わけのひろむし、天平2年(730年)-延暦18年1月20日(799年3月1日))は、奈良時代の女官。和気清麻呂の姉。藤野別広虫女とも称される。従五位下葛木連戸主の妻となるが、その後死別。孝謙上皇に仕えるが、762年(天平宝字6年)上皇に従って出家し"法均"と号した。765年(天平神護元年)に吉備藤野和気真人の姓を賜り、768年(神護景雲2年)大尼に任じられた。翌年宇佐八幡宮の神託を請うための勅使に任じられたが、この時は病弱で長旅に耐えないことを理由に、弟の和気清麻呂に代行させている。その神託の結果が道鏡の意に反していたことから還俗させられ、弟の清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国へ、広虫は別部広虫売(わけべのひろむしめ)と改名させられて備後国へ、それぞれ配流に処せられ...時代祭行列平安時代婦人列和気廣虫

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 小野小町

    小野小町36歌仙の一人として、数多くの恋歌を残し、紀貫之に「あはれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と語らせる。それほど妖しげな魅力あふれる女性だった。仁明天皇(850年没)の世、小町は皇后のねたみに山科小野の里へ逃れる。小町に魅せられていた深草少将は、山科を訪れた。関連するところは東山区臨済宗東福寺派退耕庵。小町に寄せられた恋文を納めたと伝わる玉章(たまずさ)地蔵尊。中京区の神泉苑には雨乞小町。左京区の補陀洛寺(小町寺)には歌碑と小町供養塔。井出町・玉津岡神社の小町像福知山市の久昌寺の歌懸薬師像関連記事⇒人物050小野小町時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列紀貫之の女次回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列小野小町

  • 人物050 小野小町

    小野小町36歌仙の一人として、数多くの恋歌を残し、紀貫之に「あはれなるようにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と語らせる。それほど妖しげな魅力あふれる女性だった。仁明天皇(850年没)の世、小町は皇后のねたみに山科小野の里へ逃れる。小町に魅せられていた深草少将は、山科を訪れた。関連するところは東山区臨済宗東福寺派退耕庵。小町に寄せられた恋文を納めたと伝わる玉章(たまずさ)地蔵尊。中京区の神泉苑には雨乞小町。左京区の補陀洛寺(小町寺)には歌碑と小町供養塔。井出町・玉津岡神社の小町像福知山市の久昌寺の歌懸薬師像欣浄寺曹洞宗小野小町道元禅師伏見の大仏さん随心院小町伝説が多く残る小野小町のゆかりの化粧橋化粧水小野小町の別荘址小町も使ったのでしょうかえっ知らなかった小野小町・・・小町通いきな通り名です史...人物050小野小町

  • 人物049 常盤御前

    常盤御前時代祭では義朝の死後、清盛に子どもたちの助命を嘆願するため、息子の牛若丸を懐に抱いて六波羅に向かう姿が再現されている。源義朝の妾、近衛天皇皇后の雑仕。今若、乙若、牛若の母。平治の乱で義朝を失い捕まったとき「3人の子は武士にしないから」と命乞いをして平清盛にかこわれた。のち一条長成と再婚。生没年不詳。源光寺(右京区常盤馬塚町)寺の東側にある。墓石は84程の自然石で、表面に「源氏義経御母室常盤御前御墓」とある。伝説によると、この地は常盤御前の生誕地といわれ、今若、乙若、牛若の三子を手放してのち、この墓所の桜の木の下に庵をむすんで冬ごもりをしていたと伝わる。宝樹寺(東山区本町11丁目)薬師如来坐像は世に子育常盤薬師とよばれ、常盤御前が牛若丸の生長を願って日夜祈願をこめた像と伝える。他に常盤御前雪除けの松の残株...人物049常盤御前

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 紀貫之の女

    紀貫之「土佐日記」で知られる平安前期の歌人で歌学者、文章家。「古今和歌集」の選者の一人でもあるが、36歌仙の一人に数えられ、醍醐、朱雀両天皇に仕えて御書所領から土佐守、玄蕃頭、のち木工権頭に至った。そのほかの歌集に「貫之集」「古今集序」「大堰川行幸和歌序」「新撰和歌」などがある。天慶9年(946)の没だが、生年は不明。その没時まで住んでいた元万里小路(柳馬場)通り椹木町の宅地に祀られていたのが、上京区葭屋町一条辺に移されたと伝えたのち不明となっているが、また西本願寺北側の観持寺と、壬生川通り五条下ル辺にも紀貫之を祀るという福大明神社がある。墓は、比叡山の大乗院の東北方にある。紀貫之が詠んだ歌は逢坂山大堰川桂川紙屋川で残っている。紀貫之の女はどんな人かがわからない関連記事⇒音羽山まち歩き山0166歌碑だ小塩山神社...時代祭行列平安時代婦人列紀貫之の女

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 紫式部 清少納言

    この二人は歩かないで車に乗せてもらっています清少納言⇒人物018清少納言紫式部⇒関連0012紫式部ゆかりの各地時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列常盤御前次回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列紫式部清少納言

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 常盤御前

    常盤御前時代祭では義朝の死後、清盛に子どもたちの助命を嘆願するため、息子の牛若丸を懐に抱いて六波羅に向かう姿が再現されている。源義朝の妾、近衛天皇皇后の雑仕。今若、乙若、牛若の母。平治の乱で義朝を失い捕まったとき「3人の子は武士にしないから」と命乞いをして平清盛にかこわれた。のち一条長成と再婚。生没年不詳。源光寺(右京区常盤馬塚町)寺の東側にある。墓石は84程の自然石で、表面に「源氏義経御母室常盤御前御墓」とある。伝説によると、この地は常盤御前の生誕地といわれ、今若、乙若、牛若の三子を手放してのち、この墓所の桜の木の下に庵をむすんで冬ごもりをしていたと伝わる。宝樹寺(東山区本町11丁目)薬師如来坐像は世に子育常盤薬師とよばれ、常盤御前が牛若丸の生長を願って日夜祈願をこめた像と伝える。他に常盤御前雪除けの松の残株...時代祭行列平安時代婦人列常盤御前

  • まち歩き左1419 植物園生態園 見頃情報 R1.10.20現在

    マツムラソウツリフネソウサクラタデアキチョウジノコンギクフジバカマサラシナショウマキブネギクキセワタまち歩き前回の記事⇒まち歩き左1418植物園の彫刻「歓びと期待」山崎正義次回の記事⇒1420まち歩き左1419植物園生態園見頃情報R1.10.20現在

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 横笛

    嵯峨野に滝口寺があるが、ここはもと三宝寺といい、昭和の初めの頃に復興された往生院の子院です。ここは建礼門院の雑仕・横笛と重盛の家来の齋藤時頼(19歳)が父親に反対されて恋に破れ、出家遁世し、滝口入道と号して入寺していたところと伝わる。門前の歌碑は滝口を慕って訪ねてきたのに会えなかった横笛が歌った一首がある。横笛はその後大堰川の千鳥ヶ淵に身を投げて死んだとある。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列藤原時代公卿参朝列次回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列横笛

  • まち歩き左1418 植物園の彫刻 「歓びと期待」 山崎 正義

    昭和49年2月建立関連記事⇒まち歩き北1084彫刻「寒」山崎正義まち歩き前回の記事⇒まち歩き左1417植物園の彫刻「麦藁帽子と少女」宮瀬富之次回の記事⇒1419まち歩き左1418植物園の彫刻「歓びと期待」山崎正義

  • まち歩き左1417 植物園の彫刻 「麦藁帽子と少女」 宮瀬 富之

    宮瀬富之作品「全国女子駅伝皇后盃」1989年(平成元年)西京極総合運動公園正面玄関前「青春の軌跡」1989年(平成元年)西京極総合運動公園野球場北側「麦藁帽子と少女」1993年(平成5年)京都府立植物園中庭「巨大な輝き」不明琵琶湖疎水記念館前まち歩き前回の記事⇒まち歩き笠置1416笠置寺の道案内猫次回の記事⇒1418彫刻⇒まとめ020彫刻まち歩き左1417植物園の彫刻「麦藁帽子と少女」宮瀬富之

  • ポスター0142 菊花展

    ポスター前回の記事⇒ポスター0141菊花切花展次回の記事⇒0143ポスター0142菊花展

  • 時代祭行列 藤原時代 公卿参朝列

    時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列巴御前次回の記事⇒時代祭行列藤原時代公卿参朝列

  • 神社左0237 熊野若王子神社

    恵比須殿当若王子神社の末社夷川社の御祭神であります。恵比須神像は木造寄木造り等身大の坐像で社宝の御神体として祀られ現在も多くの崇敬者より篤く信仰されております宝暦11年(1761)に書かれた「京町鑑」には「古老云、往古西洞院中御門―今の椹木町―に北山の下流あらはれ、またこの辺に蛭子(えびす)社有りしゆえ恵比寿川と號し、其後次第に人家建つゝ゛きしゆえ通りの名とす、應仁の乱に此社亡滅し、川も埋もれ侍りしが不思議に蛭子の神像残り…云々」とありこの御神像が当社に祀られたと伝えられている。熊野若王子神社当社は永歴元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧請した若王子の鎮守社で社名は天照大神の別称若一王子に因んでこのように名付けられた。以後室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3...神社左0237熊野若王子神社

  • ポスター0141 菊花切花展

    ポスター前回の記事⇒ポスター0140苔・こけ・コケ展次回の記事⇒0142ポスター0141菊花切花展

  • 時代祭行列 平安時代婦人列 巴御前

    巴御前義仲の死後、義仲寺に美しい尼僧が住みつき、供養の日々を送っていた。ともいわれている。巴の墓は、故郷の長野県木曽郡日義村徳音寺にある。木曽義仲の妾(妻)だったが、義仲の戦死後は尼となって、越後友松に隠棲した。その巴御前に仕えていた女房が遺品を埋めたと伝わる巴塚が、京都府南丹市八木町室橋西垣内の如城寺にある。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列鎌倉時代流鏑馬次回の記事⇒時代祭行列平安時代婦人列巴御前

  • 石碑0231 忠魂碑 笠置寺内

    日露戦後戦利品在郷軍人会忠魂碑大正8年4月在郷軍人会笠置関連記事⇒まとめ053関連0011慰霊碑戦没碑石碑前回の記事⇒寺院笠置0378笠置寺石碑笠置0230忠勇義烈石川義純次回の記事⇒石碑0231忠魂碑笠置寺内

  • ポスター0140 苔・こけ・コケ 展

    ポスター前回の記事⇒ポスター0139第4回植物園の森と水油彩展次回の記事⇒0141ポスター0140苔・こけ・コケ展

  • 時代祭行列 鎌倉時代 流鏑馬

    時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列中世婦人列静御前英雄との出会い悲劇の生涯次回の記事⇒時代祭行列鎌倉時代流鏑馬

  • 寺院笠置0740 笠置寺 毘沙門堂

    毘沙門堂笠置寺49院の一子院多聞院の本堂。本尊は、鎌倉期の像高50cm木造毘沙門天である。伝説では、楠木正成公の後念持仏として、かつては信貴山の毘沙門天と並び戦勝の神、福徳の神、財宝の神として多くの人々に信仰された。建物が老朽化したため、平成16年現在の建物に改築したものである。寺院前回の記事⇒寺院笠置0739笠置寺大師堂次回の記事⇒0741下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0740笠置寺毘沙門堂

  • 道標左0312 同志社創立者 新島襄先生墓所 参道

    同志社創立者関連記事⇒新島襄の妻人物045新島八重墓所道標道標左0136哲学の道・新島襄墓地登り口・冷泉天皇陵住まい新島襄旧邸22歳の時アメリカへ密航した女紅場我が国最初の女学校道標前回の記事⇒道標左0311市営若王子墓次回の記事⇒0313道標左0312同志社創立者新島襄先生墓所参道

  • 時代祭行列 中世婦人列 静御前 英雄との出会い悲劇の生涯

    静御前英雄との出会い悲劇の生涯義経に愛され、劇的な生涯をおくった女性。都随一の白拍子だった静は、義経との出会いで、生まれたばかりのわが子を、海に投げ捨てられ殺されるといった、波乱にとんだ一生を過ごすことになる。後白河法皇から六条堀川館を賜わる。ここが義経・静の住まいとなる。このとき義経には既に正妻がいた。頼朝に追われた義経。静は義経と吉野山中で別れた後、鎌倉方に捕らわれる。義経の行方詮議の厳しい取り調べをうける。生まれたばかりの子どもは、男の子だったため、由比浦に投じられ、殺されてしまう。放免され京に帰った静は、嵯峨野の一角に草庵をむすび、文治3年(1187)の秋に20歳で死んだと伝えられている。静の祠府下竹野郡網野町の入船の浜に小さな祠があり、白拍子姿の像がある。静神社関連記事⇒静・義経の住まい石碑左女牛井・...時代祭行列中世婦人列静御前英雄との出会い悲劇の生涯

  • 神社笠置0236 稲荷社 笠置寺内

    稲荷社「その法を修するものには自由自在の力を与える」といわれる、茶枳尼(ダキニ)天を祭る。荼枳尼天は、日本において稲荷の神格と同一であるとされ、稲荷大明神、飯縄大権現などと同等にされる。笠置山の麓を流れる木津川は、古くより船による水運業が盛んで、笠置にも回船業が多く、鉄道が開通する以前、江戸時代~明治初期まで栄えていた。当社は大正時代に笠置町内の回船業者の発願で、愛知県妙厳寺(豊川稲荷)より勧請したものである。神社前回の記事⇒神社左0235大豊神社(後)次回の記事⇒神社笠置0236稲荷社笠置寺内

  • ポスター0139 第4回 植物園の森と水 油彩展

    ポスター前回の記事⇒ポスター0138仮面展朏(みかづき)健之助氏のコレクション次回の記事⇒ポスター0139第4回植物園の森と水油彩展

  • 時代祭行列 中世婦人列 阿仏尼 「十六夜日記」

    阿仏尼(あぶつに、阿佛尼,貞応元年(1222年)?-弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。奥山度繁(おくやまのりしげ)の養女となる(ただし奥山度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)。桓武平氏大掾氏流の平維茂の長男である平繁貞の子孫である奥山度繁の娘(または養女)。安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり、冷泉為相らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い、1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在の...時代祭行列中世婦人列阿仏尼「十六夜日記」

  • まち歩き下1415 京の通り・富小路通 NO76 宿泊施設

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1414京の通り・富小路通NO75京仏師の家次回の記事⇒まち歩き笠置1416笠置寺の道案内猫下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1415京の通り・富小路通NO76宿泊施設

  • まち歩き笠置1416 笠置寺の道案内 猫

    笠やん追悼平成2年夏、どこから来たのか笠置山に住みついて5年。多くの人々に愛され可愛がられた野良猫、笠やん。笠置山を訪れた多くの観光客と共に日に何回となく笠置寺修行場を歩いていた。人は案内猫、笠やんと呼んだが、君は君自身修行をしていたのではなかったのか。君の姿を見ていると、ほんとうに猫だろうか、ほんとうは人間ではないかと。愛され可愛がられた笠やん。しかし平成6年2月2日、冬にしては風のない暖かい日だった。君はき君の好きな駐車場脇で、冷たくなってしまっていた。朝は元気だったのに、静かに笠置山を去ってしまった笠やん。多くの人々に愛と夢と希望を与えてくれた笠やん、有難う。笠やんを愛した全国の多くの人々と共にここに君の名を永久に止めたいと思う。平成7年春笠置寺住職慶範まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1412京の通り・富小...まち歩き笠置1416笠置寺の道案内猫

  • まち歩き下1414 京の通り・富小路通 NO75 京仏師の家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1413京の通り・富小路通NO74民家次回の記事⇒1415下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1414京の通り・富小路通NO75京仏師の家

  • 運動記録 11月分 一番大切なことは 続けること

    11月の運動記録20日階段昇降・7㎏60往復月合計840往復、ダンベル8㎏144回月合計2016回、腹筋36回月合計504回19日階段昇降・7㎏60往復月合計780往復、ダンベル8㎏144回月合計1872回、腹筋36回月合計468回18日ウォーキング26076歩(合計58076歩)17日階段昇降・7㎏60往復月合計720往復、ダンベル8㎏144回月合計1728回、腹筋36回月合計432回16日階段昇降・7㎏60往復月合計660往復、ダンベル8㎏144回月合計1584回、腹筋36回月合計396回15日カウントダウン1595(2020.10~つ3、た4)14日階段昇降・7㎏60往復月合計600往復、ダンベル8㎏144回月合計1440回、腹筋36回月合計360回13日階段昇降・7㎏60往復月合計540往復、ダンベル8...運動記録11月分一番大切なことは続けること

  • 寺院笠置0739 笠置寺 大師堂

    大師堂石仏弘法大師(室町期)を奉安する。天平勝宝(751)東大寺實忠和尚により建立された正月堂の跡である。旧正月堂は元弘元年(1331)の元弘戦乱で焼亡、以来復興されず、明治30年(1897)関西鉄道の開通により、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺旧正月堂跡に移築し現在に至る。正月堂の名は笠置寺本尊禮堂にとどめる東大寺山内には、このため当初から正月堂は建立されていない。寺院前回の記事⇒寺院笠置0378笠置寺石碑笠置0230忠勇義烈石川義純次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0739笠置寺大師堂

  • 時代祭行列 中世婦人列 淀君

    関連記事⇒淀君茶室の庭石寺院八幡0579神応寺曹洞宗重要文化財淀君の子の坐像寺院右0626妙心寺隣華院(りんかいん)重文豊臣棄丸座像淀君の供養塔寺院右0424三寶寺日蓮宗淀君と関連あり神社伏0119與杼神社(よどじんじゃ)最初の淀城は別の所史跡伏022淀城跡古淀城薬師堂跡まち歩き伏0658淀の見どころを知らせる店淀古城跡寺院伏0408妙教寺淀古城址戊辰役東軍戦死者碑木村久夫碑淀君が子授け成就の祈願寺院伏0317宝福寺曹洞宗淀君が、その父浅井長政の追善養源院宗達寺といわれたり、血天井のお寺とも太閤坦(たいこうたいら)更新時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列中世婦人列大原女次回の記事⇒時代祭行列中世婦人列淀君

  • まち歩き下1413 京の通り・富小路通 NO74 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1412京の通り・富小路通NO73民家次回の記事⇒1414下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1413京の通り・富小路通NO74民家

  • 時代祭行列 中世婦人列 大原女

    関連記事⇒まち歩き左0784大原の里にモニュメントまち歩き左0728大原女彫刻時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列楠公上洛列侍大将次回の記事⇒時代祭行列中世婦人列大原女

  • まち歩き下1412 京の通り・富小路通 NO73 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1411京の通り・富小路通NO72高辻通次回の記事⇒1413下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1412京の通り・富小路通NO73民家

  • 時代祭行列 楠公上洛列 侍大将

    時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列楠公上洛列楠木正季(まさすえ)次回の記事⇒時代祭行列楠公上洛列侍大将

  • 時代祭行列 楠公上洛列 楠木正季(まさすえ)

    楠木正季(くすのきまさすえ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。河内国の豪族・楠木正成の弟。七郎・帯刀と称した。元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)から閏2月1日(3月17日)にかけて、上赤坂城の戦いで主将平野将監入道のもと副将として活躍する。1336年(建武7年/延元元年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦う事を命じられ、湊川の戦いで敗北する。そして、兄・正成と共に、自害して果てた。古典『太平記』などには兄・正成と刺し違えて自害したと記され、このとき有名な「七たび人間に生まれ変わっても、朝敵を滅ぼす」と誓い、刺し違えて死んだという。幕末にはこれに「国に報いる」の意が加わり「七生報国」の言葉が成立した。野口雨情の先祖という伝承もある時代祭行列前回の記事⇒時代...時代祭行列楠公上洛列楠木正季(まさすえ)

  • 寺院笠置0378 笠置寺 石碑笠置0230 忠勇義烈 石川義純

    義勇義烈石川義純?-1331鎌倉時代の武士。京都から笠置(かさぎ)山にのがれた後醍醐(ごだいご)天皇の勅に応じて陣営にくわわり,六波羅(ろくはら)軍を支援する20万余の幕府軍とたたかう(元弘(げんこう)の乱)。敗れて,元徳3=元弘元年9月27日(一説に29日)自害した。ここは宝蔵坊跡寺院前回の記事⇒寺院笠置0737笠置寺後醍醐天皇行在所跡次回の記事⇒石碑前回の記事⇒石碑0229日露戦没使者鎮霊次回の記事⇒231parts:eNoztDJkhAMmJgNj80Qji6RkV0NjUz1TMz0TIz0Dc3M/YxM9EyBfz9LMQC3K19bQUC04ytbEwkDH2MwAAFf5DAU=]寺院笠置0378笠置寺石碑笠置0230忠勇義烈石川義純

  • まち歩き下1411 京の通り・富小路通 NO72 高辻通

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1410京の通り・富小路通NO71民家次回の記事⇒1412下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1411京の通り・富小路通NO72高辻通

  • 時代祭行列 楠公上洛列 楠木正成

    後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護、河内守(国司)となる。また、そのほかにも河内新開荘、土佐安芸荘、出羽屋代荘、常陸瓜連など多くの所領を与えられた。正成は建武の新政において後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる。だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の...時代祭行列楠公上洛列楠木正成

  • まち歩き下1410 京の通り・富小路通 NO71 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1409京の通り・富小路通NO70民家次回の記事⇒1411下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1410京の通り・富小路通NO71民家

  • 時代祭行列 楠公上洛列

    元弘3年(西暦1333年)5月、第96代後醍醐天皇が隠岐より還幸される際、楠木正成(くすのきまさしげ)は一族郎党を率いて兵庫に迎え、先導して京へ上洛されました。これは楠公一代の盛事でありました。本列はその楠公を中心とした行列で、楠公は紫末濃(むらさきすそご)の大鎧、兵庫鎖太刀(ひょうごくさりのたち)に豹の鞘(さや)、正季は逆沢瀉縅(さかおもだかおどし)の大鎧に革包太刀、蛭巻太刀(ひるまきのたち)を重ねて着け、侍大将は卯花縅(うのはなおどし)の胴丸を着けて、いずれも小刀を挿しています。この列の特徴は、腹巻、胴丸が多く、華麗な甲冑や武具が一目で見られることです。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列室町洛中風俗列時代祭行列楠公上洛列

  • まち歩き下1409 京の通り・富小路通 NO70 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1408京の通り・富小路通NO69蔵のある風景下0413回次回の記事⇒1410下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1409京の通り・富小路通NO70民家

  • 時代祭行列 室町洛中風俗列

    16世紀、室町時代後半に経済力を蓄積した京の町衆によって盛んに催された風流踊りを再現したものです。風流傘を中心に、内側に囃子方で構成する「中踊り」と外側に踊り手で構成する「側踊り」からなっています。当時の風流踊りは男性のみで、奇抜な仮装や妻女の派手な衣裳で着飾っていました。この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出し、また江戸時代以降の盆踊りの原型ともなっています。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列室町幕府執政列二階堂氏次回の記事⇒時代祭行列室町洛中風俗列

  • まち歩き下1408 京の通り・富小路通 NO69 蔵のある風景下0413回

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1407京の通り・富小路通NO68老舗人形店蔵のある風景前回の記事⇒蔵のある風景中0412京の通り・富小路通NO53下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1408京の通り・富小路通NO69蔵のある風景下0413回

  • 時代祭行列 室町幕府執政列 二階堂氏

    京都二階堂氏京都にいた信濃家の二階堂行直(高衡)・行元兄弟は政所執事を務めた。行元は叔父の高貞(行広)の養子となり、観応の擾乱では足利直義に従ったが、やがて京都に復帰する。政所執事は後に伊勢貞継に奪われたものの、子孫は評定衆として定着する。行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され、忠行の代に再び政所執事となる。これは足利義政の元服を足利義満の先例を元に行おうとした際に当時の政所執事は二階堂行元であったことから、今回も二階堂氏の政所執事が相応しいと言う意見が出たことによる(当時の伊勢氏と二階堂氏が縁戚関係であったことも長く執事職を独占してきた伊勢氏が行元に執事を譲ることを同意したのも大きい)。忠行の子である二階堂政行は足利義尚の腹心として伊勢氏・摂津氏と権勢を争った。だが、義尚が急死するとその反動で失脚に追...時代祭行列室町幕府執政列二階堂氏

  • まち歩き下1407 京の通り・富小路通 NO68 老舗 人形店

    昭和43年認定仏光寺東町まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1406京の通り・富小路通NO67仏光寺通富小路通がずれている次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1407京の通り・富小路通NO68老舗人形店

  • 時代祭行列 室町幕府執政列 山名氏

    明徳の乱で殺された氏清の遺児らを保護していたのは他ならぬ時熈であり、時熈は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。応永6年(1399年)に発生した応永の乱で戦功をあげて、山名氏は備後・安芸・石見の3か国の守護に任じられ、今度は大内氏に対する最前線を務めることになる.その結果、明徳の乱からわずか8年で6か国の守護としての地位を回復した。また、山名時熈は幕政にも深く関与して第6代将軍・足利義教からは長老として遇された。だが、時熈が3男の持豊を後継者にしようとしたところ、将軍義教は自分の側近である次男の持熙を次期当主と定めた上、その持熈が義教の怒りを買って追放後に討たれると持豊が改めて後継者に決定されるという事件が発生している。赤松氏討伐と応仁の乱家督を継いだ・山名持豊(宗全)は1441年(嘉吉元年)、嘉吉...時代祭行列室町幕府執政列山名氏

  • 時代祭行列 室町幕府執政列 細川氏

    南北朝時代、細川氏は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍・足利義満をよく補佐し、以後その嫡流である京兆家は、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられた。応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥となる。戦国時代のはじめ、その子・細川政元は、将軍・足利義材を退けて幕府の実権を掌握し(明応の政変)、政敵も攻め滅ぼして細川氏の全盛期を築いた。しかし政元には実子がなく、3人も養子を決めたことによって跡目争いを招き暗殺された。政元を暗殺した養子の一人である細川澄之は他の2人の連合軍に滅ぼされ、以後細川氏は残った養子である細川高国と細川澄元の2派に分かれ、それぞれに被官や畿内近国の諸勢力が結びつい...時代祭行列室町幕府執政列細川氏

  • 神社左0235 大豊神社 (後)

    良縁招福の石金運恵寿狛巳火難除愛宕社災難除日吉社現在は病気平癒、健康長寿の祈願にお参りになる方が多いようです。境内の末社の中で五穀豊穣を祈る美田稲荷にはキツネがいますし、愛宕社の前にはトンビ、新日吉社の前にはサルがいます。トンビサル大豊神社の末社、大国主のネズミ、右に巻物を喰わえた牡のネズミ、巻物は学問を意味します。左は玉を持った牝のネズミです。これは豊穣、薬効、長寿を意味しています。古事記では罠をかけられ、野原で火に囲まれてしまった大国主命を救ったという神話のネズミが社前をお守りしています。子供の視角にちょうどよい高さに作られています。紀元2600年奉納絵馬紀元2600年⇒まとめ006紀元2600年石碑・献木・奉納額神社前回の記事⇒神社左0234大豊神社(前)下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の...神社左0235大豊神社(後)

  • 時代祭行列 室町幕府執政列 足利将軍

    室町時代尊氏から始まり15代義昭が織田信長によって京を追われるまで2世紀半に及んで、足利氏による幕府の時代江戸時代と同じくらい長く続いたんだ。関連する史跡はたくさんありそうだ。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列室町幕府執政列政所執事伊勢氏時代祭行列室町幕府執政列足利将軍

  • 時代祭行列 室町幕府執政列 政所執事 伊勢氏

    時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列豊公参列柴田勝家時代祭行列室町幕府執政列政所執事伊勢氏

  • 神社左0234 大豊神社 (前)

    大豊神社狛ねずみの社この社は少彦名命・応神天皇・菅原道真を祀っている。社伝によると、仁和3年(887)、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花、山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。更に、椿の名所としても知られている。子年になると脚光を浴びる狛犬がいます。大豊神社の末社、大国主のネズミで、右に巻物を喰わえた牡のネズミ、左は玉を持った牝のネズミです。古事記では大国主命を救ったネズミが社前をお守...神社左0234大豊神社(前)

  • 寺院笠置0737 笠置寺 後醍醐天皇行在所跡

    行在所遺址後醍醐天皇行在所跡元弘元年(1331)8月27日政治改革に失敗され、京都御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所である。天皇方2500、笠置山に向かって北条方75000と伝う大軍を相手に攻防1ケ月、ついに9月28日夜半風雨を味方にした北条方50名の決死隊により奇襲攻撃を受け、大磨崖仏をはじめ笠置寺山内49ケ寺すべて灰燼に帰してしまった。標高290m山頂である。後醍醐天皇御製寺院前回の記事⇒寺院笠置0736笠置寺寺内山めぐり次回の記事⇒0738下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0737笠置寺後醍醐天皇行在所跡

  • 寺院笠置0736 笠置寺 寺内 山めぐり

    寺院前回の記事⇒寺院笠置0735笠置寺二の丸跡次回の記事⇒寺院笠置0736笠置寺寺内山めぐり

  • 時代祭行列 豊公参列 柴田勝家

    柴田勝家天正10年6月ごろ佐々成政、前田利家らとともに軍勢を率い、越後の上杉景勝勢と対峙していた。のち賤ヶ岳の戦いに敗れる。京の町とは深い関係はなさそう。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列豊公参列滝川一益時代祭行列豊公参列柴田勝家

  • 寺院笠置0735 笠置寺 二の丸跡

    二の丸跡太平記には笠置の城は山高くして・・・と書かれているが後醍醐天皇の仮皇居であり正式な築城はされなかった。しかし室町時代以降山頂行在所跡を本丸とみたてたのか一段下の子の広場を二の丸跡と呼ぶようになった。寺院前回の記事⇒寺院笠置0734笠置寺寺内山めぐり寺院笠置0735笠置寺二の丸跡

  • 時代祭行列 豊公参列 滝川一益

    滝川一益(1525~86)織田信長に仕え、のち豊臣秀吉につく。小牧・長久手に敗れ、秀吉の怒りを受け、出家して妙心寺に入る。一益が建てた信長・信忠と武田一族の墓標が大雲院の消滅と共に明治以降玉鳳院に移された。京にある信長の墓、5ケ所の内の1つ。豊臣秀次に討たれる。天正10年3月、甲斐に武田勝頼、信勝父子を滅ぼした功により上野一国を領し、関東管領職に任じられ、東国鎮撫に任じ、さらに5月末には三国峠に出兵し越後勢と戦っていた。関連記事⇒寺院右0609妙心寺長興院(ちょうこういん)滝川一益の墓がある時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列豊公参列行列馬が突然暴れ出した。危ない。時代祭行列豊公参列滝川一益

  • まち歩き下1405 京の通り・富小路通 NO67 仏光寺通 富小路通がずれている

    突き当りが仏光寺通富小路通が北から南に行く時、西にずれているまち歩き前回の記事⇒まち歩き下1405京の通り・富小路通NO66車と家下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1405京の通り・富小路通NO67仏光寺通富小路通がずれている

  • 時代祭行列 豊公参列 行列 馬が突然暴れ出した。危ない。

    この人物誰なのかわからない馬が突然暴れ出した。危ない。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列豊公参列丹羽長秀時代祭行列豊公参列行列馬が突然暴れ出した。危ない。

  • 時代祭行列 豊公参列 丹羽長秀

    丹羽長秀織田家の老臣、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)。天正9年(1581年)には京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。天正13年(1585年)4月16日、積寸白(寄生虫病)のために死去した。享年51。時代祭行列豊公参列丹羽長秀

  • 時代祭行列 豊公参列 危ない 落馬した

    馬が驚いたのか時代祭行列豊公参列危ない落馬した

  • まち歩き下1405 京の通り・富小路通 NO66 車と家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1404京の通り・富小路通NO65仁丹通り名看板下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1405京の通り・富小路通NO66車と家

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