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アートプラス京めぐり https://blog.goo.ne.jp/korede193

京都の探索中、記事数5200、まち歩き・寺院神社・石碑道標・陵墓・看板 京都府南部も始めました

アートプラス京めぐり
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2015/02/19

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  • 時代祭行列 豊公参列 羽柴秀吉

    秀吉の京での逸話はたくさんある。関連記事⇒有名人ゆかりの地時代祭行列次回の記事⇒前回の記事⇒時代祭行列豊公参列羽柴秀吉

  • 寺院笠置0734 笠置寺 寺内 山めぐり

    全山岩だらけ寺院前回の記事⇒寺院笠置0733笠置寺山中寺めぐり次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0734笠置寺寺内山めぐり

  • 時代祭行列 豊公参列 立入宗継(たてり・むねつぐ) 信長の入京を促した

    立入宗継(たてり・むねつぐ)(1528~1622)、禁裏御倉職、皇室経済の立て直しに尽力、正親町天皇の使者となって尾張に下り、織田信長の入京を促した。墓は清浄華院にある。関連記事⇒清浄華院浄土宗松平容保の宿舎・新選組も訪れた時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列豊公参列次回の記事⇒時代祭行列豊公参列立入宗継(たてり・むねつぐ)信長の入京を促した

  • 時代祭行列 豊公参列

    豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。乗物は特に盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のものです。前後に従う大名は実際はもっと多数ですが、本列はその一部を現わしたものです。また服装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通ではなく、袴をつけ、太刀も武家風です。徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。この行列の中に前田玄以、石田三成、浅野長政、増田長盛、、長束正家が参列しているなのだか、名前を描いた旗がない。前田玄以秀吉の命により、石川五右衛門を...時代祭行列豊公参列

  • 寺院笠置0733 笠置寺 山中寺めぐり

    寺院前回の記事⇒寺院笠置0732笠置寺ゆるぎ石寺院笠置0733笠置寺山中寺めぐり

  • まち歩き下1404 京の通り・富小路通 NO65 仁丹 通り名看板

    関連記事⇒下京区綾小路通仁丹まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1403京の通り・富小路通NO64店次回の記事⇒まち歩き下1404京の通り・富小路通NO65仁丹通り名看板

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 出雲阿国

    出雲の阿国は「於国」、「国」、「郡」、「久仁」などともきろくされている。出生や経歴については確実な史料がない。生没年不詳。江戸時代の「出雲阿国伝」は「出雲国の鍛冶職人の娘で、永禄時代(1558~70)に出雲大社修理の勧進のために神楽舞をしながら諸国を巡業していて、美女だったこともあって評判になった。阿国の考案したかぶき踊りは織田信長や豊臣秀吉らにも気に入られた」と記されている。阿国が現れたのは1582年(天正10)奈良市の春日大社で上演された「ややこ踊り」に8歳の「加賀」とともに出演している。この時、阿国は11歳だったとされています。また、1600年には京都で「菊」とともに、ややこ踊りを演じている。「ややこ(稚児)」は「赤ん坊」のことで、ややこ踊りは幼女のかわいい踊りのことらしい。阿国のかぶき踊りはブームを起こ...時代祭行列江戸時代婦人列出雲阿国

  • 寺院笠置0732 笠置寺 ゆるぎ石

    元弘の戦乱。笠置山を取り囲む鎌倉幕府方に対し、武器によって応戦していた天皇方でしたが、続く戦いの中、武器だけでなく、下から攻める敵方に岩を落として応戦したと伝えられています。「ゆるぎ石」はその名残で、不安定なため、端を押すとゴトゴトと揺れるので、この名が付きました。ゆるぎ石元弘元年(1331)9月28日、後醍醐天皇が鎌倉幕府の奇襲を受けたところで、この石は奇襲に備えるための武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため「ゆるぎ石」といわれている寺院前回の記事⇒寺院笠置0731笠置寺胎内くぐり寺院笠置0732笠置寺ゆるぎ石

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 吉野大夫

    吉野大夫江戸時代初期、吉野大夫は本阿弥光悦や灰屋紹益(豪商)らと交遊していた。京都市北区鷹峯の常照寺に吉野大夫が寄進した山門の吉野門がある。墓も開山堂の脇にある。二代目吉野大夫は(1606~43本名松田徳子)は慶長11年3月3日洛東方広寺付近で生まれ、7歳で公許の遊里・六条三筋町に預けられた。そこは名だたる文人や学者が集う高級社交場で、容色だけでなく一流の知識と文化芸能を身につけていないとその大夫の座につけない。書・画・和歌連歌・俳諧・立花・茶湯・聞香・太鼓・鼓・琴・三味線・囲碁・双六にまで及ぶ。灰屋紹益(16010~1691、本名佐野重孝)は、上京の智恵光院上立売の紺灰問屋だったことから通称になっているが、元は本阿弥光益の子で佐野家の養子になった。生涯を通じて多趣味で風雅な生活を楽しんだ人。吉野が身請けされ結...時代祭行列江戸時代婦人列吉野大夫

  • まち歩き下1403 京の通り・富小路通 NO64 店

    この牛は・・・まち歩き前回の記事⇒まち歩き下1402京の通り・富小路通NO63綾小路通ここから南は道が狭い次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1403京の通り・富小路通NO64店

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 祇園梶女

    祇園梶子(ぎおんかじこ、生没年不明)は江戸時代中期の歌人。本名は梶。本姓不明。梶女とも。梶子は京都祇園の八坂神社近くで茶店を営む店主であった。幼少の頃より、草子や歌物語を好み、特別な師を持たなかったが、歌才に恵まれ、公家の冷泉為村から和歌を贈られるほどであった。宝永3年(1706年)に歌集『梶の葉』を出版。挿絵は友禅染めで有名な宮崎友禅斎が描いた。和歌を口ずさむ店主がいる珍しい店として、梶子の和歌目当てに訪れた客で茶店は繁盛し、梶子の歌名は、洛中のみならず全国に知られたという。また、町絵師でもあった友禅斎が絵を描いた扇子に、客の頼みで梶子が和歌を書き、客がそれを京都の土産にすることもあったという。梶子は生涯独身であったが、百合という養女を貰い、茶店を継がせた。百合も養母梶子と同じく歌才に恵まれ、歌集『佐遊李葉』...時代祭行列江戸時代婦人列祇園梶女

  • まち歩き下1402 京の通り・富小路通 NO63 綾小路通 ここから南は道が狭い

    南を見る昔の京は道が狭かったのかまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1400京の通り・富小路通NO62徳正寺次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き下1402京の通り・富小路通NO63綾小路通ここから南は道が狭い

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 中村内蔵助の妻

    中村内蔵助は京都で巨万の富を築いた商人。内蔵助と親交のあった尾形光琳のアドバイスで、当時行われた「衣装比べ」に出た妻が、あえて地味な装いで登場し、称賛を得たという逸話が残る。正徳4年(1714)5月、光琳の後援者、銀座年寄りだったが貨幣改鋳の不正事件で家財没収のうえ、闕所追放となった。「中村内蔵助像」(重要文化財、江戸時代中期)は、琳派の代表的な画家として著名な尾形光琳の描いた唯一の肖像画として貴重です。光琳の最大の後援者を題材としたこの作品には、内蔵助の堂々とした佇まいが描写される関連記事⇒京を彩る琳派京都国立博物館時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列江戸時代婦人列玉蘭次回の記事⇒時代祭行列江戸時代婦人列中村内蔵助の妻

  • 寺院笠置0731 笠置寺 胎内くぐり

    胎内くぐり笠置山修行場の入口にあり、行場入りする前に滝で身を清めるのが普通であるが、当山は滝がないためこの岩をくぐり抜けることにより身を清めたという。安政地震で天井岩が落下、以後切り石の天井となった。寺院前回の記事⇒寺院笠置0729笠置寺千手窟東大寺・お水取り次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0731笠置寺胎内くぐり

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 玉蘭

    池大雅の妻本名は町、柳沢淇園(やなぎさわきえん)や夫から画業を学ぶ、大雅より4つ年下とされている。八坂神社南門の近くの名物茶屋の娘であった。初代は祖母の梶・母の百合・そして町の三代続いた。大雅は東山双林寺門前や八坂神社境内でむしろの上に自らの書画を並べて商っていた。大雅30歳、町26歳の頃夫婦となった。大雅はふらりと家を出ると1ケ月も家に帰らず画を描いた。そんな大雅を町は大きく包み込むように見守り、動ぜず留守を守った。二人は終生仲睦まじく暮らした。大雅は1776年(安永5年)、54歳で亡くなった。玉蘭はその後も8年間、茶屋を守りながら過ごし、1784年(天明4年)56歳の生涯を終えた。関連記事⇒人物044池大雅・画家時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列江戸時代婦人列大田垣蓮月次回の記事⇒時代祭行列江戸時代婦人列玉蘭

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 大田垣蓮月

    大田垣蓮月(おおたがきれんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日)-明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。尼僧の姿ではない。大田垣の姓は、花街・三本木の生母と別れ、養女となった知恩院寺侍の家の姓です。実の父は津藩主分家の藤堂金七郎と伝える。養女となった大田垣家では何不自由のない生活だった。和歌など諸教養のほかなぎなた、剣術、柔術など武芸も身につけている。およそ10年の勤めの後最初の結婚をする。が、長男鉄太郎は生後20日ばかりで死亡した。それに長女・次女も生まれてはすぐに死亡した。そして夫・望古との関係も破局する。5年後1819年(文政2年)、28歳の誠は、彦根藩家中の石川重二郎と再婚した。だが、夫は結婚4年後に病に亡くなる。2...時代祭行列江戸時代婦人列大田垣蓮月

  • まち歩き中1400 京の通り・富小路通 NO62 徳正寺

    町名の由来になった徳正寺(とくしょうじ)独創的な茶室「矩庵」がある。真宗大谷派。本尊は釈迦如来像。関連記事⇒寺院下0034徳正寺真宗大谷派寺院前回の記事⇒まち歩き中1323京の通り・富小路通NO7寺院中0723東漸寺⇒まち歩き中1400京の通り・富小路通NO61町名・徳正寺町次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1400京の通り・富小路通NO62徳正寺

  • 時代祭行列 江戸時代婦人列 和宮

    和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉-1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。孝明天皇(こうめいてんのう)の妹で、5才のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。しかし、幕府の公武合体(こうぶがったい)策により、1862年、16才で同じ年の第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚することになり、京都を離れて江戸城大奥に入ります。...時代祭行列江戸時代婦人列和宮

  • 時代祭行列 徳川城使上洛列 続き

    時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列徳川城使上洛列時代祭行列徳川城使上洛列続き

  • まち歩き中1400 京の通り・富小路通 NO61 町名・徳正寺町

    町名「寺の字が付く町名」京都には百近くあるまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1399京の通り・富小路通NO60四条下ル付近次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1400京の通り・富小路通NO61町名・徳正寺町

  • 寺院笠置0730 笠置寺 伝 虚空蔵磨崖仏

    伝虚空蔵磨崖仏寺伝では弘仁年間(810~824)弘法大師がこの石にのぼり求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。彫刻の様式から中国山西省雲南の磨崖仏に相通じるものがあるところから本尊弥勒磨崖仏と同様奈良時代の渡来人の作と考えられる。先年拓本にとり8m×10mの大掛軸が出来た。おそらく拓本の掛軸としては最大だろう。寺院前回の記事⇒寺院笠置0729笠置寺千手窟東大寺・お水取り次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0730笠置寺伝虚空蔵磨崖仏

  • 時代祭行列 徳川城使上洛列

    徳川幕府は、朝廷の大礼などの大切な儀式や年始などの際には必ず城使を上洛させ、皇室に対し礼を厚くしていました。城使には親藩・譜代の諸侯が選ばれ、ことにご即位の大礼には将軍家名代が多数の従者をしたがえ、その服装器具などは非常に華美なものでした。本列は普通の場合を模したもので、城使は乗物(本列では騎馬になっています)、目附頭以上の者は騎馬。乗物の駕籠は幕末当時の形式をとったものです。先頭の槍持、傘持、挾箱持の「ヒーサー」の掛け声や動作は当時の面影を偲ばせてくれます。参勤交代の大名行列は墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科の勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野随心院を北に折れて追分けへと大津に向かう道が定められていました。京の町中は通っていません大名行列は伏見街道をまっすく北へ進んで京の...時代祭行列徳川城使上洛列

  • ポスター0138 仮面展 朏(みかづき)健之助氏のコレクション

    昭和5年(1930)頃から、平成2年(1990)に亡くなるまで生涯かけて郷土玩具の蒐集をした人。ポスター前回の記事⇒ポスター0137佐竹本三十六歌仙次回の記事ポスター0138仮面展朏(みかづき)健之助氏のコレクション

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 平野国臣

    攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。関連記事⇒寺院中0179竹林寺幕末、六角獄舎で処刑された勤王志士37名が眠る石碑中0019-12日本近代医学発祥の地かつ平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列中山忠能(ただやす)時代祭行列明治維新時代維新志士列平野国臣

  • まち歩き中1399 京の通り・富小路通 NO60 四条下ル 付近

    南を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1398京の通り・富小路通NO59四条通次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1399京の通り・富小路通NO60四条下ル付近

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 中山忠能(ただやす)

    中山忠能(ただやす)天保11年(1840年)、参議となる。この年亡くなった光格上皇に対する諡号復帰の問題で、1人反対論を唱えて注目される(ただし、この反対論は諡号復活に対してではなく、退位した天皇に「天皇号」を贈ることに対しての疑問であり、在位中の天皇が崩御した場合に限るべきというものであった)。弘化4年(1847年)、権大納言となる。嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。安政5年(1858年)、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。その後、議奏となる。公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組...時代祭行列明治維新時代維新志士列中山忠能(ただやす)

  • 寺院笠置0729 笠置寺 千手窟 東大寺・お水取り

    千手窟「笠置の龍穴」とも呼ばれ、社には龍神を祀る。天平勝宝3年(751)「東大寺実忠和尚、ここより未未仏弥勒菩薩の住する世界、都率天に至り、天乗の行ずる修法を伝授され人間界に移した」と縁起に記される。11面観音悔遇行発祥の場、仏の世界への入り口である。実忠和尚、天平勝宝4年(752)、笠置寺大内に正月堂を建立され天乗より伝授された行法を修法。和尚により同年2月、東大寺に二月堂が建立され、この行法が修された。これが、今日まで続く二月堂の悔遇行(通称お水取り)である。゛悔遇゛とは我々が知らず知らずに犯す罪について11面観音の宝前において懺悔いることである。ちなみに東大寺山内には、二月堂・三月堂・四月堂があるが、正月堂はない。実忠和尚建立の正月堂は、ここ笠置寺にある。千手窟1200年来、笠置寺の修行場であり二月堂のお...寺院笠置0729笠置寺千手窟東大寺・お水取り

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 三条実萬

    さんじょうさねつむ、三條實萬嘉永元年(1848年)に武家伝奏となり、たびたび江戸に下って対米政策について江戸幕府と交渉した。安政5年(1858年)には日米修好通商条約への勅許を巡り関白・九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣・近衛忠煕と共に参内停止を命じられる。これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣・鷹司輔煕と権大納言・二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。これは長年朝廷の全権を握っていた摂関家が勅使となり、政治的に非力であった清華家出身の三条を出仕させるという公家社会始まって以来の出来事として衝撃を与えた。安政6年(1859年)4月に安政の大獄で謹慎の処分を受け、出家して澹空と号した。同年、病気危篤となり、従一位に叙され、10月に謹慎していた一条寺村で薨去。享年58。薨後...時代祭行列明治維新時代維新志士列三条実萬

  • まち歩き中1398 京の通り・富小路通 NO59 四条通

    2019年10月26日撮影南を見る西を見る東を見るまち歩き前回の記事⇒まち歩き中1397京の通り・富小路通NO58民家次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1398京の通り・富小路通NO59四条通

  • 寺院笠置0728 笠置寺 弥勒磨崖仏

    本尊弥勒磨崖仏笠置寺本尊仏古来より天人彫刻50尺の仏といわれているが調査の結果では奈良時代中期には彫刻されていたようで天人とは中国大陸から来た人たちのようである。磨崖仏前の礼堂が創建から三度火災にあいその都度本尊磨崖仏も火をあび彫刻された表面は焼け崩れてしまった。しかし、平成22年秋特殊カメラとその技術で残った線を探したところいたるところから最初の彫刻線がみつかりその線をつなぎ合わせ完成されたのが堂内の画像で1300年前の本尊50尺の弥勒磨崖仏のお姿である。寺院前回の記事⇒寺院笠置0727笠置寺十三重石塔・重要文化財五輪石塔次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0728笠置寺弥勒磨崖仏

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 姉小路公知

    姉小路公知天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子として誕生。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。享年25(満23歳没)。墓所は京都市上京区の清浄華院。関連記事⇒まち歩き上0531京都御苑御所の猿ケ辻清浄華院浄土宗松...時代祭行列明治維新時代維新志士列姉小路公知

  • 石碑0229 日露戦没使者鎮霊

    関連記事⇒まとめ053関連0011慰霊碑戦没碑石碑前回の記事⇒まち歩き中1337京の通り・富小路通NO15石碑中0228京都市立商業實修學校跡地次回の記事⇒石碑0229日露戦没使者鎮霊

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 近衛忠煕

    左大臣・近衛基前の長男として生まれた。安政3年(1856年)には島津氏の篤姫(天璋院)を養女としている。安政4年(1857年)、左大臣となるが将軍継嗣問題で一橋派に属し戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し落飾謹慎する。文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔煕が後任となった。東京奠都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、子・忠房没後の明治11年(1878年)のことである。死後6年経った明治37年(1904年)に正一位を追叙された。江戸幕府の征夷大将軍は代々が死後正一位を追贈されているが、最後の将軍・徳川慶喜は従一位に留め置かれており、また忠煕の後に関白...時代祭行列明治維新時代維新志士列近衛忠煕

  • まち歩き中1397 京の通り・富小路通 NO58 民家

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1396京の通り・富小路通NO57ばったり床几西大文字町次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1397京の通り・富小路通NO58民家

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 吉田 松陰

    ペリーが来た嘉永6(1953)年10月、旅の途中京都に立寄り、勤王思想体現のため御所を遥拝しています。その時、松陰が詠んだといわれる「吉田松陰先生山河襟帯詩碑」が京都府立図書館敷地内に立っています。関連記事⇒石碑左0063吉田松陰詩碑時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列橋本左内次回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列吉田松陰

  • まち歩き中1396 京の通り・富小路通 NO57 ばったり床几 西大文字町

    西大文字町大文字町は他の区にもある。西大文字町は伏見区にもある。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1395京の通り・富小路通NO56乾物屋次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1396京の通り・富小路通NO57ばったり床几西大文字町

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 橋本 左内

    1834〜59幕末の志士福井藩士。号は景岳。藩医の家に生まれ,大坂で緒方洪庵に医学・蘭学を学ぶ。将軍継嗣問題がおこると,藩主松平慶永(よしなが)の命によって,一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)を立てるため京都で運動した。統一国家の樹立や日露提携論を唱えるなど,若年にして名声を得た。1858年安政の大獄で捕らえられ,江戸小塚原で刑死。関連記事⇒橋本左内寓居跡福井藩邸跡7月1日藩士追加時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列梅田雲浜時代祭行列明治維新時代維新志士列橋本左内

  • まち歩き中1395 京の通り・富小路通 NO56 乾物屋

    昭和10年8月先代社長島本伝二、乾物問屋を開業とある。まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1394京の通り・富小路通NO55錦小路通次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1395京の通り・富小路通NO56乾物屋

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 梅田 雲浜

    文化12年6月7日(1815年7月13日)、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。はじめ藩校・順造館、天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。捕縛後は京都から江戸に送られた...時代祭行列明治維新時代維新志士列梅田雲浜

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 頼 三樹三郎

    1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や...時代祭行列明治維新時代維新志士列頼三樹三郎

  • まち歩き中1394 京の通り・富小路通 NO55 錦小路通

    2019年10月26日撮影南方向を見る錦小路通錦小路通まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1393京の通り・富小路通NO54間口の広い家屋次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1394京の通り・富小路通NO55錦小路通

  • まち歩き中1393 京の通り・富小路通 NO54 間口の広い家屋

    約築100年の町屋をリノベーション。最先端のクラフトビールを生み出す醸造所を併設した、“和クラフト”料理が楽しめる「SPRINGVALLEYBREWERYKYOTO」まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1392京の通り・富小路通NO52法衣店明治8年創業次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1393京の通り・富小路通NO54間口の広い家屋

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 吉村 寅太郎

    吉村虎太郎は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。木屋町三条上る35番路地は、幕末の勤王志士吉村寅太郎が文久3年(1863)に仮住まいをしていた場所である。このあたりは、高瀬川の舟運によってにぎわい、幕末の志士たちの絶好のかくれ家となったところで、付近に武市(たけち)瑞山、佐久間象山、桂小五郎などの寓居跡があり、池田屋もほど近い。吉村寅太郎は土佐(高知県)の人で、庄屋の生まれ、武市半平太の教えをうけて勤王党に加わり、文久2年には土佐を抜けだして入洛、尊王攘夷運動に加わった。寺田屋事件で一たん帰国したが、文久3年3月...時代祭行列明治維新時代維新志士列吉村寅太郎

  • 蔵のある風景中0412 京の通り・富小路通 NO53

    蔵のある風景前回の記事⇒まち歩き中1385京の通り・富小路通NO47蔵のある風景中0411回次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます蔵のある風景中0412京の通り・富小路通NO53

  • 寺院笠置0727 笠置寺 十三重石塔・重要文化財 五輪石塔

    鎌倉時代・室町時代重要文化財無銘のため建立年代ははっきりしない。寺伝によるともと木造であったが、元弘の乱によって焼失し、乱による戦死者の霊を供養するために石造に改めたという。この五輪石塔は、元弘の役に戦死した石川義純および錦織判官俊政の墓と伝えられる。寺院前回の記事⇒寺院笠置0726笠置寺笠置石下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0727笠置寺十三重石塔・重要文化財五輪石塔

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 七卿落の面々

    公卿三條実美(さんじょうさねとみ)公卿三條西季知(さんじょうにしすえとも)安政5年(1858年)、権中納言となり重んじられるが、文久3年(1863年)八月十八日の政変により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。その後さらに大宰府まで走り、やがて王政復古の大号令によって赦され、権大納言に復し帰洛。明治元年(1868年)には皇太后宮権大夫となった。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。三条西家の当主だけあって歌道の宗匠として知られ、西四辻公業と共に明治天皇の歌道師範となった。季知自身は三条西家分家当主の高松公祐に師事した。明治11年(1878年)、13年(1880年)出版の『開化新題歌集』第一編に三首、二編に二首、以下の通り歌が収められている。公卿東久世通禧(ひがしく...時代祭行列明治維新時代維新志士列七卿落の面々

  • まち歩き中1392 京の通り・富小路通 NO52 法衣店 明治8年創業

    まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1391京の通り・富小路通NO51蛸薬師通民家次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1392京の通り・富小路通NO52法衣店明治8年創業

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 七卿落 先導 久坂玄瑞

    久坂玄瑞(くさかげんずい)天保11年(1840年)5月誕生日不明-元治元年7月19日(1864年8月20日)。幼名は「秀三郎」、諱(本名)は「通武(みちたけ)」。字は「玄瑞」、「実甫」通称は「誠」「義助」。久坂玄瑞は、長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医久坂良迪と富子の三男として誕生。両親が歳をとってから生まれた子供だったこともあり、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため、藩校医学所好生館に入学した後、藩校・明倫館に入学。嘉永6年~7年(1853~1854)にかけて母、兄、父が次々となくなり15歳にして家督を継ぐこととなった(次男は玄瑞誕生時に既に死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。松陰は、自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧め、安政4年12月、玄瑞は松陰の妹・文と結...時代祭行列明治維新時代維新志士列七卿落先導久坂玄瑞

  • まち歩き中1391 京の通り・富小路通 NO51 蛸薬師通 民家

    大きそうな家だ高宮町ここだけの町名まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1389京の通り・富小路通NO50蛸薬師通次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1391京の通り・富小路通NO51蛸薬師通民家

  • 寺院笠置0726 笠置寺 笠置石

    左から薬師石笠置石・真ん中の隙間に挟まったような石・1.5m程文殊石寺院前回の記事⇒寺院笠置0725笠置寺次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます寺院笠置0726笠置寺笠置石

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 七卿落 先導 真木和泉

    1863年(文久3年)、薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策した八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。なお、7名のうち、公卿の列にあるのは、三条実美と三条西季知の両名だけであることから、二卿五朝臣といった言い方もある。同月24日には、彼らの官位が剥奪され、さらに、同年9月9日、彼らの諱はそれぞれ、()内に改めさせられる。三条実美(実)、三条西季知(知)、四条隆謌(謌)、東久世通禧(通)、壬生基修(修)、錦小路頼徳(頼)、澤宣嘉(宣)。この7名は長州藩兵に付き添われて洛東にある妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。先導するのは真木和泉守幕末の志士。筑後(ちくご)久留米水天宮神官。名は保臣(やすおみ)。従5位下和泉守...時代祭行列明治維新時代維新志士列七卿落先導真木和泉

  • 寺院笠置0725 笠置寺

    山門天武天皇勅願所後醍醐天皇行在所笠置山寺縁起笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品からみて飛鳥時代すでに造営されていたようである。奈良時代大和大峰山と同じく修験ばとして栄え、平安時代には永承7年(1052)以後世の末法思想とともに笠置山寺本尊弥勒陀摩崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けた。更に鎌倉時代、建久2年(1191)藤原貞慶(解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として全盛を極めた時代であった。しかし、元弘元年(1331)8月討幕計画に失敗された後醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防1ケ月9月29日全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興をみるも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。明治9年、大蔵丈英和尚賜をこの山に止め復興に力を尽くすこと2...寺院笠置0725笠置寺

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 高杉晋作

    京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。京都では薩摩藩と会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年)1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷する高杉晋作の京都での足跡はどこにあるのだろう。見当たらない。時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列中岡慎太郎時代祭行列明治維新時代維新志士列高杉晋作

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 中岡慎太郎

    関連記事⇒神社向0105向日神社坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)中沼了三の石碑ここで、塾を開く時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列坂本龍馬時代祭行列明治維新時代維新志士列中岡慎太郎

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 坂本龍馬

    関連記事⇒1坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)慶応3年(1867)11月15日2石碑坂本龍馬妻お龍の実家楢崎家跡3石碑幕末史蹟・土佐藩士寓居跡龍馬・お龍も暮したところ、4坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所5武信稲荷神社坂本龍馬も登場6佐藤継・忠信塚碑,佐藤嗣信・忠信墓,佐藤文褒翁碑7石碑中0019-12日本近代医学発祥の地かつ平野國臣外数十名終焉の地(六角獄舎跡)8まち歩き東0372龍馬展9史跡伏019寺田屋坂本龍馬ゆかりの宿10石碑伏0097坂本龍馬避難の材木小屋跡11神社向0105向日神社12史跡大津021寺田屋お登勢の実家は大津にあった13石碑伏0109薩摩島津伏見屋敷跡坂本龍馬・寺田屋事件・逃避先14石碑伏0100寺田屋恩賜紀念碑伏見の寺田屋で15石碑伏0099坂本龍馬の碑伏見寺田屋で16ポスター...時代祭行列明治維新時代維新志士列坂本龍馬

  • ポスター0137 佐竹本 三十六歌仙

    ポスター前回の記事⇒ポスター0136海住山寺と道標次回の記事⇒ポスター0137佐竹本三十六歌仙

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 西郷吉之助

    関連記事⇒石碑右0191津崎村岡局の像寺院東0364清水寺舌切茶屋2寺院東0357清閑寺1寺院伏0308大黒寺真言宗九烈士の墓伏見義民の遺髪塔西郷・大久保の会談部屋葉山馬頭観世音一燈寺境内は崩壊していましたここに西郷隆盛が梅田雲浜に遇いに来た薩藩戦死者の墓1864年1868年角屋・角屋もてなしの文化美術館石碑東0018坂本龍馬とお龍が結婚式を挙げた場所橋本左内寓居跡時代祭行列前回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新志士列桂小五郎時代祭行列明治維新時代維新志士列西郷吉之助

  • まち歩き笠置町1390 笠置山・笠置寺 案内

    明治30年(1897)JR関西線開通に際し、笠置駅が設置されたが、当時は史跡を探勝する人は少なかった。その後、昭和7年(1932)笠置山とその山麓の木津川一帯が史跡名勝地として国から指定されて以来、来遊するものが増えてきた。笠置山「鹿鷺(かさぎ)山」ともしるす。高さ289m。全山すべて花崗岩からなり、山中には奇岩・怪岩が多く、人目をおどろかせる。笠置寺はこの山の山頂付近にあって、古来弥勒信仰の霊山と仰がれ、中世には山伏修験者の修行場となった。花山法皇や藤原道長も来山したことがある。後醍醐天皇がこの山を拠点とし、北条勢と合戦されたことから寺は荒廃した。この山へ登るには柳生街道に面して新旧二道がある。旧道はけわしいが、切込谷や地獄谷・下の堂・上の堂(仁王堂跡)・名切り石など、元弘の役をしのばせる遺跡があり、新道は乗...まち歩き笠置町1390笠置山・笠置寺案内

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列 桂小五郎

    明治維新の志士と云われる人々は、徳川幕政の末期における公家・武士の知識階級層の人達で海外の事情にも通じた人が多くいました。当時は開港・攘夷など内政外交とも問題が山積していましたが、幕府にその処置をとる力が無くなっていたため、憂国の志士達が身を挺して国事に奔走しました。維新の大業はこれら幾多の人々の大きな働きと犠牲とによってその基礎が築かれたのです。ご祭神孝明天皇百年祭を迎えた昭和41年(1996)に、これらの志士たちを顕彰する維新志士列が加わりました。志士の多くは20~30歳代が中心ということもあり、京都青年会議所が担当奉仕しています。桂小五郎関連記事⇒木戸孝允ここで亡くなる、明治天皇も見舞いに訪れる桂小五郎・幾松寓居跡まち歩き城陽1117木戸孝允御中飯処明治13年桂小五郎の銅像石碑中0166池田屋騒動址時代祭...時代祭行列明治維新時代維新志士列桂小五郎

  • 道標左0311 市営 若王子 墓

    道標前回の記事⇒道標左0310若王子次回の記事下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0311市営若王子墓

  • 道標左0310 若王子

    駒札が朽ちて読めない若王子神社永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請せられ祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残ったのである。夷川通りに鎮座せられていた室町時代作の恵比須を祀っている。足利尊氏、義政が、この地に花を愛で宴を開いたと伝えるが今日でも東方山中に瀑布が有り奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として聞こえている。社殿は度々荒廃し、明治の修築の際本宮、新宮、那智、若宮などがあったが、現在は1社相殿になっている。道標前回の記事⇒道標左0297後花園天皇御遺蹟之地三宅石碑次回の記事下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せます道標左0310若王子

  • 時代祭行列 明治維新時代 維新山国隊

    明治維新の際、幕府の遺臣が東北地方で反抗した時、丹波の国北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して、官軍に参加した当時の行装を模したものです。三斎羽織(さんさいはおり)に義経袴をはき、下には筒袖の衣、頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆、足袋、草鞋をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿です。また、肩章をつけ階級を表しているところなど、近代の軍制への過渡期を示しています。この山国隊は、時代祭の始まった当初より同村有志が奉仕していましたが、大正10年より朱雀学区が引継いで現在の名称で奉仕しています。時代祭行列前回の記事⇒まち歩き中1388京都・時代祭令和元年次回の記事⇒時代祭行列明治維新時代維新山国隊

  • まち歩き中1389 京の通り・富小路通 NO50 蛸薬師通

    撮影日は2019年10月26日まち歩き前回の記事⇒まち歩き中1387京の通り・富小路通NO49敷石玄関他とちょっと違う次回の記事⇒下の地図のユーザー地図の囲みをクリックすると付近の記事が探せますまち歩き中1389京の通り・富小路通NO50蛸薬師通

  • まち歩き中1388 京都・時代祭 令和元年

    令和元年10月26日のものです。例年は10月22日が行列の日となります。時代祭りの行列は明治維新から昔へたどります順に、名誉奉行~明治維新時代~江戸時代~安土桃山時代~室町時代~吉野時代~鎌倉時代~藤原時代~延暦時代と続きます。POLIS平安騎馬隊11月1日は古典の日市会副議長市会議長京都市長向こう側、京都府知事手前側旗持の後ろ白髪の人が時代祭の雰囲気に似あっている総奉行時代祭関連記事⇒まち歩き中1355京の通り・富小路通NO28御池通時代祭まち歩き中1309京都御苑・富小路口令和元年時代祭当日の様子時代祭10月22日時代祭への参加徳川城使上洛列時代祭に参加か朱雀の誇り維新勤皇隊時代祭次回の記事⇒まち歩き中1388京都・時代祭令和元年

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