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自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか
1歳から80歳あまりの自分史を大正・昭和・平成の近現代史を織り込んで記録する。 近現代史のテーマは戦傾化の解明。 自慢は謎解きのオリジナル。 ①樺美智子さん死の真実 ②田中上奏文の真実 ③狭山事件の真実(未完)
イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアラニー戦争 「この地には主がいる!」
ミッション七か村を率いてスペイン・ポルトガル連合軍と戦ったグアラニーの伝説的英雄セペ・ティアラジュの宣言「この地には主がいる」左からサン・ミゲル大天使像背景は裸馬を乗りこなす戦士群像(弓から槍への武器の進化に着目)サン・ミゲル教会、牛、神父たち右端に攻撃軍の騎馬と銃列と砲車出所州都ポルトアレグレの地下鉄メルカド駅の入り口にあるリオ・グランデ・ド・スル叙事詩記念碑壁画の左半分作品名は「グアラニーミッションアート」(ブラジル語)作者はリオグランデ・ド・スルの視覚芸術家ダヌビオ・ゴンサルベス(10月に逝去/享年94歳)南米では永らくポルトガルとスペインが実効支配を巡って領土争いを繰り広げていた。とくに大西洋岸南部地方では、ブエノス・アイレスの対岸に位置するコロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ)が、立地上の理...イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアラニー戦争「この地には主がいる!」
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[ハイチは、サント・ドミンゴと呼ばれていて、カリブ海イスパニョーラ島の西側3分の1を占めるフランス植民地であった。元は全島スペインの支配下にあったが、西からフランスが浸食して、スぺイン領は東部(ドミニカ)に限られていた。ハイチは先住民語由来の名称«山ばかりの土地»である。ハイチの植民者は北と南の平原に分かれていた。北部平原の肥沃な土地は、富裕白人(グラン・ブラン、主に貴族)のプランテーションに属し、南部平原の分を加えると、黒人奴隷を使役してフランス王国の財政の3分の1を産出していた。ハイチは、世界の砂糖消費量の40%、コーヒーの60%を産出するまでになった。貧しい白人(プティ・ブラン)が小市民として様々な職業(監督者、農民、職人、商人、労働者)に就いていた。解放黒人(ムラート=カラード)は職業選択の自由は...フランス革命下の一市民の日記3/フランス革命とハイチ黒人反乱
子育て、義務教育の過程で悩んでいる親と子と教師に、なにがしかの足しになればとの思いを込めて始めた自分史「物怖じしない国際人を育てるヒント集」ブログが9月30日に投稿最終日になります。10月からは引っ越し先に投稿します。2010年10月1日に初投稿してから15年、膨大な量の記事を保存できる引っ越し先が見つかるか心配しています。hatenablogのアカウントをとり情報を集めています。はてなブログに優るツールがあればご指導をおねがいします。ブログに詳しい経験者のコメントを切望してやみません。コメント内容は公開しません。gooblog11.18閉鎖の通知に関して/当ブログは外で継続します
去る年末年始に、子供たちの家族が集まってくれたが、難聴のために会話が聞き取れず、輪に入れない孤独感を痛感した。その体験から、思い切って補聴器(最も安いクラスの36万円)を買い求めた。効果は限定的で不満だが、前より一人で外出できるようになった。以前は診察で医者の話すことが聴きとれなかった。年末のある日、鉢の土を広げていると、スズメほどの大きさの小鳥が手を伸ばせば届くほど近くに飛んできてとまった。前にオスを観ていたのでジョウビタキのメスだとすぐわかった。じいっと私を見つめていたが、一瞬の早業で、土の上でもぞもぞしていたミミズをくわえて飛び去った。こうしてモノ言わぬ小鳥との付き合いが始まった。餌がほしいときは、チッと鳴いて体をお辞儀をするように上下に振る。ミミズをやろうにも雨不足の乾燥で、鉢をひっくり返してもミ...ジョウビタキと「会話」/難聴者の孤独をいやされた
1927年4月20日、震災恐慌につづく金融恐慌を受けて田中義一内閣が成立した。田中義一を首相、外相とする政友会内閣は、かつての政友会のポリシー(憲政擁護、進歩主義)と打って変わって国粋主義、対華積極主義で際立つ。内と外で強硬路線をになった面々を挙げておく。個々の経歴に通じている人なら田中内閣が戦傾化内閣であることに同意するにちがいない。鈴木喜三郎(内務)、原嘉通(司法)、森恪(外務政務次官山東出兵、東方会議を推進中国で山本丈太郎の部下・実業家東洋のセシル・ローズを自認)、小川平吉(鉄道、始終強硬論者)、久原房之介(逓信=交通・通信・電気田中の援助財閥鉱山王の異名)。閣外では政友会幹事長・山本条太郎(満鉄社長元三井物産重役中国通)金融危機と蒋介石の北伐最中の南京事件(3月、日米英の公館襲撃、在留外国人に対す...昭和100周年/大東亜侵略戦争の起原2/東方会議と「田中上奏文」の真実
昭和元年は1926年。なのに今年が昭和100周年。満年齢の数え方と違うのでちょっと違和感があるが、数え方なので仕様がない。2025年!今年もひとびとは、普遍的な価値観であった立憲民主主義と人権、国際法が侵犯されるのを目の当たりにしそうだ。脅威は、言う迄もなくトランプ現象とSNS(socialmedia)である。背景に取り残され大衆の生活苦と反感がある。グローバリズムにより富の偏在と窮乏化が堪えがたいまでに進んだ。かつてエリート層が独占していた情報収集・発信システムに対抗し、それを凌駕する情報機器スマートフォーンを大衆が手にしたとき、大衆は不満を無遠慮に発信するようになった。野心家がそれを権力奪取に利用する。無遠慮にということは、教科書の標準語ではなく巷のコトバで、ということであり、当不当を吟味することなく...昭和100周年/大東亜侵略戦争の起原1/治安維持法
一人目は遠藤章農芸化学者。東北大学ひと語録によると「世界で一番服用されている奇跡の薬『スタチン』を発見」とある。カビやキノコ6千種の株の中からコレステロール合成阻害剤になる青かび「コンパクチン」を1973年に発見し、1976年学術雑誌に発表した。遠藤博士が所属する三共とアメリカの学者を結集したメルクがスタチン(総称)開発で熾烈な先陣争いを演じた。博士も当然渦中の人となったが、スタチン発見のパイオニアであることは最終的にメルクの学者たちも認めた。構造(分子式)の重要部分はみなコンパクチンと同じだった。遠藤博士の研究成果は、1985年のノーベル生理学・医学賞受賞者ブラウン、ゴールドスタインの「コレステロール代謝の調節に関する諸発見」に用いられた。そして遠藤は、2008年に米国最高の医学賞『ラスカー賞』を受賞し...物故した二人/命の恩人・「悲しき熱帯」翻訳者
前回は、日記を書いたC.ダナールの日常と当時の気象に主な関心があったので、革命下の政治的事件は国王逃亡事件にふれただけで終わった。今回と次回は、革命の深化と激化、それがカリブ海のフランス植民地(ハイチ)に及ぼした影響について考える。韓国の尹大統領が12月3日、政治活動、報道などを制限する非常戒厳令を宣布したが、数時間後には議会の議決により解除を余儀なくされた。大統領は宣布の理由を「破廉恥な従北の反国家勢力」をあぶり出し撲滅し、自由憲法秩序を守るためだと説明した。同じ様な事件が1791年に革命下のフランスで起きた。7月16日土曜日[以下、気象記録等の割愛、センテンスの削除あり]三日前からパリの民衆のあいだに不穏な空気が高まっている。反乱でも起こりそうな気配だ。そうなると厄介だ。7月17日日曜日きょう、パリに...フランス革命下の一市民の日記2/戒厳令と虐殺
歴史は史料、史跡、物語として、あるいは発掘されるか発見されるかして後世の人の目に触れる。歴史を営んだ人々の精神がひょっこり現代に顔を出すことがある。蘇るほどに価値があったからであろう。その一)グアラニー戦争の伝説的英雄セペ・ティアラジュがパジェ教区で模範的聖性を認められて、リオグランデ・ド・スル州(以下RS)で殉教者として崇拝されている。法王庁が承認すれば正式に福者となる。日本でも一番新しいところではキリシタン大名高山右近が列福されている。セペの名は飛行場の名、街の名にもなっている。損得を度外視して最前線に立つ漢気が当時の牛追い(ガウチョ、メスティーソ)のアイデンティティと響き合い、今では、MS州民が誇るガウーショ魂の象徴となっている。その二)20世紀後半以降の土地なしSemTerra農民運動の発展202...イエズス会グアラニーミッションが遺した精神文化
ミッション七か村を率いてスペイン・ポルトガル連合軍と戦ったグアラニーの伝説的英雄セペ・ティアラジュの宣言「この地には主がいる」左からサン・ミゲル大天使像背景は裸馬を乗りこなす戦士群像(弓から槍への武器の進化に着目)サン・ミゲル教会、牛、神父たち右端に攻撃軍の騎馬と銃列と砲車出所州都ポルトアレグレの地下鉄メルカド駅の入り口にあるリオ・グランデ・ド・スル叙事詩記念碑壁画の左半分作品名は「グアラニーミッションアート」(ブラジル語)作者はリオグランデ・ド・スルの視覚芸術家ダヌビオ・ゴンサルベス(10月に逝去/享年94歳)南米では永らくポルトガルとスペインが実効支配を巡って領土争いを繰り広げていた。とくに大西洋岸南部地方では、ブエノス・アイレスの対岸に位置するコロニア・ド・サクラメント(現ウルグアイ)が、立地上の理...イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアラニー戦争「この地には主がいる!」
良し悪し関係なく歴史的大事業は、盟約と宣言で始まる。キリスト教会と聖職者の腐敗堕落に抗して興った宗教改革運動に対抗して、1534年8月15日、パリ郊外モンマルトルの丘の礼拝所に集まったロヨラ、ザビエルら七人のパリ大学同窓生が、生涯を神にささげることと、エルサレムへの巡礼と清貧・貞潔を誓いあった。これはモンマルトルの誓いとして知られ、イエズス会創立日となった。フランス人1名を除く、ロヨラ(初代総長)、ザビエルら6名はイベリア半島(現スペイン、ポルトガル)出身者である。余談だが、教科書等で広く知られるザビエル像は高槻城主高山右近の元領地千提寺の旧家で発見され神戸市立博物館に現存する。2020年、発見100周年を記念して里帰りした実物を鑑賞できた。同地には、重要文化財級の、磔にされたキリスト像(木製)があるが非...イエズス会グアラニー布教区の興亡/理想郷を創ったカリスマ性とタレント
後年、大ミッション地方の布教区は、イエズス会の名を冠し、帝国とも共和国とも呼ばれるようになる。私は、カトリックの世界布教を掲げたイエズス会によるグアラニーのコミューン(自治区)と定義する。先例として、コミューンなる語を史的用語に変えたパリ・コミューン(1871)がある。ロシア革命もコミューンを至上目的とした時期があった(戦時共産主義、1917~21)。いずれも、周りを取り囲む世俗世界の壁と敵意に阻まれ、短期間で歴史の幕を閉じ、ユートピアの語源のとおり、どこにもない国になった。どこにもないから私にとってひいき目もしくは憧憬の対象にもなるのである。それでは、布教区はいかにして創られたか考えてみよう。布教区成立の制度的・組織的条件まず、イエズス会が法王庁に所属し、国王によって直接管理されたカトリック修道会であっ...グアラニー族布教区の興亡/イエズス会ユートピアの出現
再移動、再建、新設と変遷を重ねたこれらの教化村は「1720年代の時点で、ミッションの総数は30に達し、人口も12万1168人を数え、その繁栄ぶりは遠くヨーロッパへも伝わった。*」*田島久蔵・武田和久編集『パラグアイを知るための50章』配置図出典は『幻の帝国』グアイラ地方から移動後のスペイン人町ビリャ・リカもロレトとサン・イグナシオ・ミニも移住先を確認できる力作画像である。スペイン人町が三つしかないことが、イエズス会ミッション村の自立性を物語っている。イエズス会ユートピアは確かに存在したのだ。まずは、その後のバンデイランテの爪痕をたどってみよう。上掲図で、パラグアイ北部にイエズス会ミッション村が無いのが目立つ。そこイタティン地方にはグアイラ地方から撤退したイエズス会外国人会士4人が創った200から400家...グアラニー族布教区の興亡/大ミッション地方とバンデイランテ
イエズス会によるペルー布教は1568年に始まった。エンコミエンダ制の行き詰まりのかたわらで、先住民布教にめざましい活躍をするイエズス会のミッションに目を付けたペルー副王トレドは、海抜4000メートルのティティカカ湖畔のフリ村(人口9000人)の布教をイエズス会に委ね、イエズス会士以外のスペイン人の立ち入りを禁止した。「会士たちは布教に携わるだけではなく、村のカシケ[首長]と一緒になって、行政や経済活動、あるいは村人の生活にいたるまでをこと細かに指導し、フリの住民の生活をめざましく改善することに成功した。*」*この章においても、典拠を明記してない出典はすべて前記伊藤慈子著『幻の帝国』である。それだけではない。ほかに類書が無いので、関連の章は創作ではなく、主題の文脈にあわせて同書の「まとめ」で代用した。157...イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアイラ地方とバンデイランテ
同成社2001年当ブログ記事もようやくイグアス―瀑布の滝下流域、イエズス会士の指導で築かれたグアラニー族の教化村の世界に到達した。最大の大河パラナ川を挟んでパラグアイ川とウルグアイ川を配した流域である。大西洋への出口は、スペインの最初の遠征隊(1516年)に太平洋に通じる水路と間違われたラ・プラタ川(銀の川)である。イエズス会ミッション遺跡群Londrinaとイグアスーの滝も確認できる。スペイン人遠征隊は三度パンパスの先住民との抗争に敗れて撤退した。残留して上流に向かい適地を探求していた一隊が、首長の許しを得てパラグアイ川東岸Távaに砦を築いた。1541年、ブエノスアイレスを放棄した残留者を加えて、役所と教会を設けてアスンシオン市となった。その地は各地へのスペイン人進出の根拠地となり、のちにパラグアイの...イエズス会グアラニー族布教区の興亡/前史グアラニー族とスペイン人の出会い
皆既日食Londrina1947.5.204月6日の朝日夕刊に、「北米縦断皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。今回の下調べで私は自分の不安定だった位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの...皆既日食/Londrinaで幼時に体験
4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事mrt宮崎放送4/4(木)19:02配信鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グ...鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想
16世紀後半、総督によるキャピタニア回収、統治により砂糖キビのファゼンダ(先進のペルナンブーコを中心とする)が軌道に乗ると植民地の奴隷不足が発展のネックになった。黒人奴隷の輸入が始まっていたが本流になっていなかった。大農場主(ファゼンデイロ)は先住民の奴隷化を望み、総督(カピタ~ン・ジェラウ)は洗礼を受けていない先住民の奴隷化を認めて先住民に改宗をせまった。イエズス会は改宗者を保護した(布教所が「駆け込み寺」になった)が奴隷化の流れに抗しきれない。しかも移民の数は増える一方で、移住者が持ち込んだ伝染病で先住民集落の人口が激減したこともあって、力関係が逆転した先住民は、服従(改宗と定住)するか蜂起して逆襲するか、ほかに選択の余地がない窮地に陥る。抵抗した主要部族は、ペルナンブーコのカエテー族をはじめとして、...「正義の戦争」と抵抗部族の根絶ブラジル1550~1650
胃もたれが治ったと思ったら、間を置かず、寝ていて突然右肩に激痛が走った。右腕を動かすと痛くて力が入らない。左腕一本では起き上がることができない。寝返りしようにも肩と腕が痛くて動けない。寝不足のまま朝を迎えた。右足で蹴ってマットの左側に転がって、残りの肢(てあし)を使って起き上がった。立った状態では、ふつうに体を動かすことができた。幸いにもその日は通院予定日だった。自転車をこいで病院に行った。まず胃カメラの受付に行った。消化器内科主治医に症状を告げると、救急に行くレベルだから、と予定の変更を提案された。わたしも不安だったのでそうすることにした。次に飛び込みで循環器内科の診察を受けた。肩の痛みが心筋梗塞の前兆(放散痛)ではないか、と心配だったからである。いろいろ調べて、頸椎が圧迫され、首筋の筋肉が緊張している...背中を寝違えたような痛み/寝ていて発症
ここ2週間ほど、夜間にお腹がすかなくなった。食事の量が増えたわけでもないのに体重が2kgほど増えた。上腹部、臍から上方が肥満して突き出ている感じになった。パートナーが以前からそうなっていたのを冷やかしていたが自分がなるとは思いだにしなかった。妻は胃が弱く長らく食事制限をしている。孫たちを放課後迎えにいって母親の仕事が終わるまで世話をしている(土日だけ休み)ので過労でダウンしてしまった。内科医の診断は胃下垂だった。それがわたしの自己診断のヒントになった。わたしの場合、お腹がすかなくなったのと同時に胃もたれでえずくようになった。昨晩目が覚めてから眠れなくなって、いろいろ思考をめぐらして原因を探った。妻と違って胃腸が丈夫な私が胃下垂らしい症状になるとすれば食べ過ぎによる消化不良しか考え付かない。一昨年の大腸癌発...胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良
イエズス会によるペルー布教は1568年に始まった。エンコミエンダ制の行き詰まりのかたわらで、先住民布教にめざましい活躍をするイエズス会のミッションに目を付けたペルー副王トレドは、海抜4000メートルのティティカカ湖畔のフリ村(人口9000人)の布教をイエズス会に委ね、イエズス会士以外のスペイン人の立ち入りを禁止した。「会士たちは布教に携わるだけではなく、村のカシケ[首長]と一緒になって、行政や経済活動、あるいは村人の生活にいたるまでをこと細かに指導し、フリの住民の生活をめざましく改善することに成功した。*」*この章においても、典拠を明記してない出典はすべて前記伊藤慈子著『幻の帝国』である。それだけではない。ほかに類書が無いので、関連の章は創作ではなく、主題の文脈にあわせて同書の「まとめ」で代用した。157...イエズス会グアラニー布教区の興亡/グアイラ地方とバンデイランテ
同成社2001年当ブログ記事もようやくイグアス―瀑布の滝下流域、イエズス会士の指導で築かれたグアラニー族の教化村の世界に到達した。最大の大河パラナ川を挟んでパラグアイ川とウルグアイ川を配した流域である。大西洋への出口は、スペインの最初の遠征隊(1516年)に太平洋に通じる水路と間違われたラ・プラタ川(銀の川)である。イエズス会ミッション遺跡群Londrinaとイグアスーの滝も確認できる。スペイン人遠征隊は三度パンパスの先住民との抗争に敗れて撤退した。残留して上流に向かい適地を探求していた一隊が、首長の許しを得てパラグアイ川東岸Távaに砦を築いた。1541年、ブエノスアイレスを放棄した残留者を加えて、役所と教会を設けてアスンシオン市となった。その地は各地へのスペイン人進出の根拠地となり、のちにパラグアイの...イエズス会グアラニー族布教区の興亡/前史グアラニー族とスペイン人の出会い
皆既日食Londrina1947.5.204月6日の朝日夕刊に、「北米縦断皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。今回の下調べで私は自分の不安定だった位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの...皆既日食/Londrinaで幼時に体験
4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事mrt宮崎放送4/4(木)19:02配信鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グ...鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想
16世紀後半、総督によるキャピタニア回収、統治により砂糖キビのファゼンダ(先進のペルナンブーコを中心とする)が軌道に乗ると植民地の奴隷不足が発展のネックになった。黒人奴隷の輸入が始まっていたが本流になっていなかった。大農場主(ファゼンデイロ)は先住民の奴隷化を望み、総督(カピタ~ン・ジェラウ)は洗礼を受けていない先住民の奴隷化を認めて先住民に改宗をせまった。イエズス会は改宗者を保護した(布教所が「駆け込み寺」になった)が奴隷化の流れに抗しきれない。しかも移民の数は増える一方で、移住者が持ち込んだ伝染病で先住民集落の人口が激減したこともあって、力関係が逆転した先住民は、服従(改宗と定住)するか蜂起して逆襲するか、ほかに選択の余地がない窮地に陥る。抵抗した主要部族は、ペルナンブーコのカエテー族をはじめとして、...「正義の戦争」と抵抗部族の根絶ブラジル1550~1650
胃もたれが治ったと思ったら、間を置かず、寝ていて突然右肩に激痛が走った。右腕を動かすと痛くて力が入らない。左腕一本では起き上がることができない。寝返りしようにも肩と腕が痛くて動けない。寝不足のまま朝を迎えた。右足で蹴ってマットの左側に転がって、残りの肢(てあし)を使って起き上がった。立った状態では、ふつうに体を動かすことができた。幸いにもその日は通院予定日だった。自転車をこいで病院に行った。まず胃カメラの受付に行った。消化器内科主治医に症状を告げると、救急に行くレベルだから、と予定の変更を提案された。わたしも不安だったのでそうすることにした。次に飛び込みで循環器内科の診察を受けた。肩の痛みが心筋梗塞の前兆(放散痛)ではないか、と心配だったからである。いろいろ調べて、頸椎が圧迫され、首筋の筋肉が緊張している...背中を寝違えたような痛み/寝ていて発症
ここ2週間ほど、夜間にお腹がすかなくなった。食事の量が増えたわけでもないのに体重が2kgほど増えた。上腹部、臍から上方が肥満して突き出ている感じになった。パートナーが以前からそうなっていたのを冷やかしていたが自分がなるとは思いだにしなかった。妻は胃が弱く長らく食事制限をしている。孫たちを放課後迎えにいって母親の仕事が終わるまで世話をしている(土日だけ休み)ので過労でダウンしてしまった。内科医の診断は胃下垂だった。それがわたしの自己診断のヒントになった。わたしの場合、お腹がすかなくなったのと同時に胃もたれでえずくようになった。昨晩目が覚めてから眠れなくなって、いろいろ思考をめぐらして原因を探った。妻と違って胃腸が丈夫な私が胃下垂らしい症状になるとすれば食べ過ぎによる消化不良しか考え付かない。一昨年の大腸癌発...胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良
河出書房新社2022年本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。「パウ・ブラジルと先住民」収奪期封建制ブラジル人祖型「サトウキビと奴隷」搾取期カピターニア制先住民蜂起「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期総督制三結合項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。ブラジル史は贈り物の交換から始まった。1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人...ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ
バンデイランテスは、ブラジル植民地創成期に大農場(ファゼンダ)の労働力不足を埋める奴隷を求めて、インジオ狩りをした奥地探検部隊のことである。「イエズス会士とバンデイランテス」の章の執筆途中で自分史とちょっと関わりがあったのでエピソードとして投稿する。奥地に奴隷狩りに向かうバンデイランテスは、往路の駐屯地で砦を築き、耕作、播種をして帰途の食料に備えることもあった。私の父方の伯母家族(父は姉家族の構成員とされていた)がサンパウロ州での義務労働(コロノ)で貯めた資金で購入・移住したバンデイランテス駅付近の土地は、昔その駐屯地の一つだったと考えられないこともない。そこは南部ジェ語族・カインガンゲス族の生活圏だった。バンデイランテス遠征隊は奴隷狩りと奴隷商売で忌避される一方で金銀ダイア目的の遠征の実績によりブラジル...バンデイランテス余聞/二人のキング