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亀岡市
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2014/12/21

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  • 保津川下りを世界遺産に

    昔は、角倉了以さんが都に物資を送るために保津川を開きました。いかだ流しで、運んでいましたが、京都の実業家、田中源太郎が、鉄道を引き、物資を運ぶのは、鉄道に代わりました。その後、いかだ流しは、観光の保津川下りになりました。田中源太郎は、今では、トロッコ列車の生みの親ともいわれています。私は、今の京都銀行の前身である亀岡銀行を作った方です。私たちは、子供の時から見ているので、そうは思っていあなかったが、保津峡など素晴らしいと、よく外国人も来られます。東京にいた叔父さんをよく言っていましたが、富士山や京都の金閣寺と同じくらい、外国人の照会に、保津川下りが出てくるらしい。巻頭んぼ方も、景色が素晴らしいとよく言われました。この美しさをいつまでも残してほしい。保津川下りを世界遺産に

  • 保津に生まれる⑤

    昔から、保津川は、重要な川であった。都に物資を送る川として豊臣秀吉もいかだ船を送っている。また、角倉了以も保津川を切り開いて、都に物資を送っています。その後、田中源太郎は、鉄道を引き都に物資を送っています。昔、嵯峨嵐山に製材所が多かったのも、ここで、水揚げして都に調達しています。また、鉄道ができてからは、二条駅近辺に製材所や、木材店が、今でも多く残っています。いつも重要な川でした。鉄道や、材木商の私のおじいさん山口惣次郎は、トラックを取り入れました。明智光秀は、この亀岡で天下を取りました。その後、譜代大名でいつの時代も、重要な位置だったようです。この丹波亀山で生まれて、この保津川で産湯につかり、この保津川で育ち、保津という名前に感謝しております。保津川は、亀岡から、嵐山までの名前で、その下は、大堰川、桂川、そし...保津に生まれる⑤

  • 保津に生まれる④

    子供のころは、よく保津川下りの船に乗せてもらった。十三詣りに行くときも、船で行った。午前中に船で下り、渡月橋を歩いて、法輪寺にお参りして、午後、父がまた下ってきたときに、父と一緒にトラックで亀岡まで帰りました。昔は、船と一緒に船頭も乗っていました。今は、船頭は、JRで帰ってきます。この保津川下りも、私が中学生のころに、京都交通から、阪急に経営が変わった時に、大幅な合理化案が出されて、船頭が、労働組合を作り、そして、その合理化案が飲めないと、組合がストライキに入り、保津川下りがストップしました。話が長引いて、中々折り合いがつかないときに、組合が、自主運営の道を考えて企業組合を作り京都府より特殊ではありますが、保津川下りの伝統を守るということが京都府の認可を受けました。しかし、船がない。兵庫県の香住に木造船を作る大...保津に生まれる④

  • 保津に生まれる③

    子供のころは、保津町といっても、川の近くは、よく水害にあいました。昔、小学制の時に屋根まで、使ったことがあります。私の勉強部屋のある別棟は、水に流されました。裸同然でしたが、体は、保津浄学校や、お寺に避難して無事でした。保津川下りの造船場に住んでいた早田君の住まいは、造船場ごと流されました。HHKの取材で、早田君と私が、インタビューを受けました。母は、何もかも流されたといって泣いていました。父は、家だけは、残った。元気な体も残った。一からやり直そうとみんなを励ました。父は、保津川下りの船頭だったので、日銭は入りました。また、多くの方から、救援物資もいただきました。そのひとつひとつにお礼の手紙を書きました。私たちは、この保津川にひどい目にあわされたり、魚をいただいたり、日銭をいただいたり、泣き笑いの人生でした。幼...保津に生まれる③

  • 保津に生まれる②

    保津川下りの保津川は、桂川です。亀岡から、嵐山までを保津川と呼んでいます。亀岡より上は、亀岡市内でも大井川、また、もう少し上は大堰川と呼んでいます。京都府の工事をするときは、上桂川です。保津川下りの経営も、私の子供の時に、京都交通になり、観光をほとんど押さえました。その時、保津川会館ができ、初めて大きなビルが建ちました。その後、経営が阪急になった時に、大幅な合理化案が出て、船頭は、労働組合を作り、阪急と交渉しました。結果的に、阪急の合理化案が飲めない組合がストライキに入り長期化しました。そしてロックアウトされ、船もロープを張られて、さわることもできない状態でした。組合も、阪急と折り合うこともなく、京都府に、保津川下りを存続したい、守りたいということを当時の知事が了承して、なんとか、組合が、限定的に保津川下りの営...保津に生まれる②

  • 保津に生まれる。①

    私は、京都府亀岡市保津町に生まれました。保津町といえば保津川下りの保津町です。とてものどかな田園都市です。保津小学校の校歌も、愛宕の緑、色まして、保津の川水清らけく、、、、と、愛宕山と保津川を校歌の中に歌われています。父は、3代続いた船頭でした。昔、父のアルバムに、蝶ネクタイした方と、船頭が一緒に写っていた写真がありました。でも、今はありません。なぜかというと、川の横で育ちましたので、川の氾濫で、よく水が付きました。また、父は、松茸狩りが好きで、たくさんのお客さんを世話をしとぃました。200人ぐらいの宴会道具もありました。父、母に会いたければ山に行かないと会えない日もありました。自宅には、松茸の傷物、がごろごろしていました。焼き松茸や、ご範囲も、みそ汁にも、何から何まで、松茸のみない日はありませんでした。そして...保津に生まれる。①

  • 親の七光り、十四光り、

    私の父は、保津川下り下りの船頭でした。母の父は、材木商でした。昔、羽柴秀吉がいかだ流しで丹波地方の物資を都に運んだ。そして、角倉了以が保津川を開いて、亀岡の物資を都に運んだ。また、多額納税者で、貴族議員だった田中源太郎が亀岡から、京都に京都鉄道を開設し、竣工式で保津峡付近で列車が雑線して、亡くなってしまいました。すべて、都に物資を送るためでした。昔、嵯峨嵐山には、製材所が多かった。これは、保津川を使って、材木を運んだからです。また、二条駅近くにも、製材所や材木商が多い。これは鉄道ができたからです。母方は、亀岡駅前にたくさんの土地があります。すべて、都に、物資を収めていた証です。親の七光り、十四光り、

  • お盆の墓参り

    今日は、実家の墓参りに行ってきました。新型コロナのおかげでお彼岸には、行けてなかったので、せめてお盆くらいはと思って、今日になりました。15日ではないので、ちょっと早いかなと思っていましたが、意外と、お参りしている人もおりました。そこで、もう長く会っていなかった同級生と何十年ぶりかの再会でした。私は、気が付かなかったが、相手のほうが、私の名前を呼びました。彼は高校を卒業して国鉄に勤めたと思います。お父さんの仕事の後を継いだと思います。その後、JR、そして退職後は、JR系のゴルフ場の支配人をされていたようです。その彼が、発起人で同友会のお誘いも何回かもらいました。15,6回中、私は、5,6回しか行っていません。彼とは、いつも彼がいないときばかりだったので、久しぶりでした。私としては、高校を卒業して、ほとんど会って...お盆の墓参り

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