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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 笠岡市大井まちづくり協議会「大井の文化財・ミニガイド」

    大井地区(笠岡市東大戸・西大戸・小平井・春日台・大井南)の第一号郷土史が、令和5年11月吉日に発刊された。「大井文化探訪の会」により、約7年間の調査研究、ついに刊行された。表紙の写真は、「金浦坂東東33観音・25番札所」笠岡市東大戸助実地区の信仰篤く毎年当番が色鮮やかに彩色を施し大井地区ではこの観音様だけが色鮮やかである。地域の神社・小社、辻堂、常夜灯、石碑、石塔、石仏、道標、供養塔等々。そこに刻まれた文を最大限解読し、現代語訳している。特に地域の先祖の、信仰の厚さに対しては、会員の思いが伝わるような説明文となっている。(東大戸・天神社)(小平井・春日神社)今後「総集編」の発刊目指して活動するそうだが、会員には大学の先生もいないので、郷土のにおいが充満する「総集編」を大いに期待したい!応援したい!(西大戸...笠岡市大井まちづくり協議会「大井の文化財・ミニガイド」

  • (福沢諭吉の)一万円札

    場所・日本全国切り換わり・2024年前半(予定)撮影日・2023.12.31(ネットから)2024年度前半に、1.000円札、5.000円札、10.000円札が、それぞれが一新されるそうだ。1.000円は野口英世→北里柴三郎。5.000円は樋口一葉→津田梅子。10.000円は福沢諭吉→渋沢栄一。10.000円札は誕生したのが昭和33年で、人物は聖徳太子。初めて見たの高校生になってから、「いいものを見せてあげる」と言われて、同級生から一万円札を初めて見せてもらった。その友人は島から下宿していて、賄い賃を含めて親からもらったばかりだったと思う。思い出深いのは一円札。家の近くの恵比寿神社の賽銭は一円札が多かった。(賽銭箱はなく神の前に置いていた)しばらくしてから一円玉ができた。軽くて、金属で、新時代を感じた。そ...(福沢諭吉の)一万円札

  • ガイア笠岡シーサイドモール店

    場所・岡山県笠岡市笠岡・シーサイドモール閉店・2023年8月20日撮影日・2017.12.21昭和40年代の日本全国の地方都市では、駅前風景がほぼ決まっていた。バスがあり、タクシーがいて映画看板が建ち、自転車預り店があり、大衆食堂があり、そしてパチンコ店があった。パチンコ店に入るとタバコの煙がもうもうとして、流行歌や軍艦マーチがやかましく景気づけしていた。その後、パチンコ店は駅前から郊外に、大型店となって移転し、全盛期を迎えた。近年はレジャーの多様化で客が減っているそうだが、たしかに、管理人が駅前のパチンコ店にはいっていた当時、身近なレジャーはパチンコしかなかったようにも思える。笠岡シーサイドモールにあったパチンコ店『ガイヤ』は閉店していた。シーサイドモールには月に2~3度行くが、昨日(2023.12.3...ガイア笠岡シーサイドモール店

  • 割烹べにす

    場所・岡山県笠岡市中央町閉院・2023年11月30日撮影日・2019.8.25"べにす”がなくなった。”べにす”では、たまに昼食に行ったり、年に二回の愛好会の新年会と夏のビール会をしていた。料理もよく、場所もよく、会計もやさしく、ママさんはおだやかな人だった。突然の閉店に、多くの笠岡人がびっくりしたり、さみしがっていると思われる。11月末で閉店し、お店の看板はすぐに撤去された。割烹べにす

  • 鞆の浦トライアスロン

    場所・広島県福山市鞆町「せとうち福山―鞆の浦トライアスロン」大会無くなった日時(発表日)・2023年12月22日撮影日・2017年6月4日鞆のトライアスロンが無くなるようだ。・・・中国新聞Web(最終更新:2023/12/22)鞆の浦トライアスロン、2024年以降開催せずトンネル工事遅れ駐車場確保できず福山トライアスロン協会(広島県福山市)は、2024年以降、「せとうち福山―鞆の浦トライアスロン」の開催を打ち切る。・・・スタートは名勝鞆の浦の仙酔島。仙酔島から泳いで本土へ渡る。自転車でグリーンラインを登って、降りる。芦田川の河川敷でバイクを置いて、ランが始まる。芦田川大橋の下まで、河川敷を4~5回ぐるぐる回ってからゴールする。鞆の町歩きを兼ねての応援見物は楽しかった。コロナで中止がつづき、今度はトンネル工...鞆の浦トライアスロン

  • 明治の遠足

    明治20年代「富国強兵」をめざして、遠足、運動会、修学旅行が、訓育的性格をもって登場した。明治後期には試験にかわって学芸会が、学習したことを人前で発表することを目標として成立した。明治期末には、小学校で学校行事を含めた教科外活動の教育的価値が認められてきた。このとき学校行事は、個々の行事としてではなく、まとまったものとして考えられるようになった。文部省や地方当局は、外国に対抗できる国家・国民をつくることに懸命であった。為政者たちは、試験、儀式、運動会、展覧会、学芸会に父兄の参集を強く呼びかけた。父兄を学校に集め、父兄の教化をもはかった。「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行・・・(昭和4年の遠足)・・・「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行兵式体操の隊列運動...明治の遠足

  • 明治の運動会

    運動会は、学芸会と異なり、明治期後半には「如何なる学校に於ても必ず挙行せられ、学校に於ける確定事業の一」となっており、町ぐるみ・村ぐるみの「マツリ」になりつつあった。小学校では明治19年ごろから全国的に広まった。当時の小学校運動会は、県郡単位による連合運動会であり、体育奨励・教育誇示の運動会でもあった。この小学校運動会では、旗綱引などの遊戯競争や徒手体操、唖鈴体操などの体操のほかに兵式体操が多く、陸上競技、スポーツはまだあまり行われていなかった。各地で挙行されるようになった単独の運動会は、遠足運動会であり行軍であった。遠足や運動会は、体力の向上よりも強兵のための心身鍛練をめざしていたのである。学芸会は、学芸奨励の目的で行われ、父兄を集め、学習した教科内容を人前で表演する行事であった。「学校の歴史第2巻小学...明治の運動会

  • 祖母さんの学歴

    一代(かずよ)祖母さんは、管理人の祖母。父の母。明治28年9月7日、岡山県小田郡城見村茂平に生まれた。農家の4人姉妹の次女だったが、長女が家を出たために養子をもらい家を継いだ。長女が家を出た原因は、どうしても”女学校に行きたい”、そのために金持ちの養女となって家を出た。・・・一代祖母さん(明治28年~昭和52年)・・・祖母との会話で、学校や教育の話が出たことがない。祖母の姉が命がけとも思える気持ちで、女学校に進学したのを比べると勉強に関心がなかったようだ。祖母は実の娘(管理人のおば)からも、「おばあさんは女学校に行かしてくれなんだ」と恨み節を何度も何度も聞いたことがある。当時の農家の現状からみて、祖母の学歴は下記ではないかと思える。明治34年尋常1年明治35年尋常2年(※明治35.4笠岡町立笠岡女学校開校...祖母さんの学歴

  • 祖父さんの学歴

    ・一(しゅいち)祖父さんは、管理人の祖父。父の父。珍名で、名前は”しゅいち”、文字は“・一”。昭和32.33年頃、山陽新聞の珍名欄で記事になったことがある。その時、人里から離れた山の桃畑にいて(自分も父も祖父も)、そこへ山陽新聞の記者が取材に来た。(山の中まで歩いてくること)あれにはびっくりした。珍しい字なので、本人は村人の前でも「てんいち」「ちょぼいち」「しゅいち」と適宜に使い分けていた。晩年は長寿であることと、酒好きであることとで”長老”と呼ばれ気分を良くし訪れた人から、おちょこに酒を注いでもらうのを最高の楽しみにしていた。(と思った)祖父は、明治26年12月2日生まれ。広島県深安郡下竹田村に農家の四男として生まれた。大正6年1月養子婚姻。平成4年に亡くなったが、その年の笠岡市民広報の長寿番付では笠岡...祖父さんの学歴

  • 明治33年義務教育4年

    昭和30年代の城見に、文盲の人たちは何人もいた。その当時の城見小学校では「運動会」と「学芸会」のプログラムを全家庭に配布していた。校長先生は全児童の前で、「読めない方もおられるので、読むのを頼まれたら、必ず読んであげること」と訓辞していた。小学生が在学していない家に配って歩いていたが、上級生からの言い伝えで、どの家がその人であるか知っていた。すぐ近所のおばあさんも、文盲の人だった。そのおばあさんは母に、「子どもの時、マンの悪いことが重なっておきた」と話していたそうだ。ほとんどの家庭が貧しかった時代に、さらに「マンが悪い」ことがあった家庭の子どもが、不幸にも満足に学校に行けなかった。そういう気の毒なおじいさん・おばあさんであることは、子ども心に自然と認識していた。・・・・・・「学校の歴史第2巻小学校の歴史」...明治33年義務教育4年

  • 教育勅語

    「教育勅語」は戦前の小学校・国民学校での記憶が強いのは共通だが、やはり世代によって相当差がある。父や母の世代は紀元節や天長節や節句の学校行事に限定されている。父の場合は、校長先生が読み上げるのを聞くだけ(耐えるだけ)。母の場合は、覚えるように指導されていた。戦時中になると、覚えることに加え児童は、「教育勅語」に向って毎朝最敬礼して教室に入っていった。先生は、児童の命よりも先に守るべき大切な”紙”であった。・・・「教育の歴史」横須賀薫河出書房新社2008年発行「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スペシ」(教育勅語)明治23年(1890)10月30日、明治天皇の言葉(勅語)として発布されたもので、正確には「教育ニ関スル勅語」という。日本の教育理念とされ、国民の精神のあり様を規定してきた。全文3...教育勅語

  • 明治20~30年代の小学校 (学校施設の標準化)

    働かなければならないために、小学校にも入学せず、または入学しても、中途で小学校をやめて、働きにでる子どももたくさんいた。明治28年の就学率は、61.24%であるが、不就学者の約58%が「貧窮によるもの」であった。この子どもたちは、他家の子守奉公にだされたり、丁稚奉公や徒弟奉公に出されたりした。また明治20年代以降、産業革命の進行する中で、製糸・紡績・織物などの繊維工場や、マッチ工場、ガラス工場などに幼年労働者として就業したものもいる。「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行・・・「ビジュアル版学校の歴史」岩本・保坂・渡辺汐文社2012年発行A.就学率とクラス分け1900年代になって就学率があがり、ほとんどの子どもが学校に通うようになると、多くの学校で2学級ないし3学級のクラスができた...明治20~30年代の小学校(学校施設の標準化)

  • 明治19年、尋常4年、高小4年 (四四制)

    明治19年「四四制」となった。”義務”教育ではなく、”就学義務”であった。・・・「ビジュアル版学校の歴史」岩本・保坂・渡辺汐文社2012年発行A.女子の就学率を上げるため明治10年代(1877~86年)くらいまでは女子の就学率は低く、男子の半分くらいでした。その頃、兵庫県の田舎で小学校初等科(3年)を修了したのち、中等科3年)に進まず退学した子どものその後を調べてみると、男子は家業の手伝い、女子は裁縫塾に通っていることが多いことがわかりました。そのころの人々には教育の必要さがよくはわからなかったですし、実生活に役立つとも思われない学校に授業料を払ってまで、通学させるほどのよゆうもなかったのです(「兵庫県教育史』)。このことは全国で同じ傾向にあることが文部省もわかったのでしょう。1880(明治13)年に、前...明治19年、尋常4年、高小4年(四四制)

  • 明治5年「学制」の制定 学校が発足(下等4年・上等小学4年)

    「村に不学の戸なく」の方針では統一されていたようだが、実際の制度となると議論や課題は多く、明治5年まずスタートした。・・・「創立150周年」(井笠鉄道記念館2023.12.22)・・・文部科学省HP2023年9月5日学制150年記念式典「学制」は、すべての人々が基本的な学校教育を受けられることを目指し、小学・中学・大学から成る学校制度を定めた、我が国最初の全国規模の近代教育法令です。9月5日、「学制」が明治5年に公布されてから9月4日で150年を迎えたことを記念し、天皇皇后両陛下の御臨席の下、岸田文雄内閣総理大臣、細田博之衆議院議長、尾辻󠄀秀久参議院議長、戸倉三郎最高裁判所長官、松野博一内閣官房長官を御来賓に御招きし、「学制150年記念式典」を執り行いました。式典では、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特...明治5年「学制」の制定学校が発足(下等4年・上等小学4年)

  • ひい祖父さんの学歴

    利三郎(りさぶろう)祖父さんは、管理人のひい祖父さん。父の祖父。元治元年(1864)備中国の茂平村に生まれた。農家の長男、第一子だが利三郎。終戦の年の11月、隣家から発生した赤痢になり、医療や薬品もなく、あっけなく亡くなった。それまで農業一筋の元気な人だったそうだ。ひい祖父さんの話は、家庭内でもよく聞いたが、学歴の類の話は記憶にない。たぶん、義務教育を受けた後、終生を農業して茂平で暮らした。子は4人、すべて女子。・・・(利三郎じいさん1864~1945)じいさんを現在の小学入学に当てはめると、じいさんは、明治4年・1年生明治5年・2年生(←この年学制発足)明治6年・3年生明治7年・4年生しょうじき、じいさんの学歴はまったくわからない。茂平に寺小屋があったのか?どうかも不明。親が文字が読めたのと、督促で、少...ひい祖父さんの学歴

  • 学校制度ができる前

    江戸時代、幕府は、庶民教育はまったくの放任主義だったが、維新政府は庶民教育の必要性を高く認識していた。・・・明治維新「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行維新頃維新政府指導者たちの維新政府の直面する重大な課題は、欧米資本主義列強からの圧力に抗し得る統一国家の建策設にあり、その精神的基盤をなす国民意識の形成と国家の富強をめざす人的能力の育成は急務であった。ことに、国民一般の教育すなわち初等教育の普及の必要性は指導者の間で早くから認識されていた。尊皇攘夷派公家として、新政府の枢要な地位にあった岩倉具視は、慶応2年9月「時務策」において「文武学校ヲ興ス事」を掲げ、ついで翌3年3月摂「皇道」を明らかにするための大小学校の設置を建策している。江戸時代から続いた寺子屋・私塾は、大きな勢力をもっ...学校制度ができる前

  • ひいひい祖母さんの学歴

    由久(ゆく)ばあさんは、管理人の高祖母で弘化3年9月20日備中国の吉浜村に生まれた。元治元年に長男を出産しているので、逆算すると、文久2年頃吉浜村から茂平村に嫁いだと思われる。母とは亡くなる前の1年間を暮らしているが、新聞を読んでいたそうだ。(字が読めた)父は以前、「吉浜村の実家は教育に熱心な家だったので学校にいっとる」と話していた。(たぶん文字も書けた)吉浜の実家とは、管理人が小学生の頃までつきあいがあった。・・・吉浜村には寺小屋が二校あった↓、由久ばあさんは、このどちらかに3~4年位通ったのだろう。「語り継ぐ金浦」金浦郷土史研究会2009年発行明治5年の学校令以前の寺小屋吉浜村(天保年間~明治元年)教師=北村九平治・農男40女5教師=大橋勘衛門・農(生徒数不明)・・・由久ばあさん(1845~1943)...ひいひい祖母さんの学歴

  • 寺小屋の授業

    ・・・世直し大江戸学石川英輔NHKラジオ2009年10月~12月号民間まかせの初等教育さまざまな教科書現代人の多くは、それほど就学率が高かったのならさだめし教育制度は完備していたのだろうと思うだろうが、江戸時代の日本には、義務教育の制度どころか庶民のための学校制度や教員免許など、教育に関する法規そのものがなかった。幕府には、民間教育の部門がなく、江戸の市民行政を担当する町奉行所でさえ、手習いを専門に担当する役人などいなかったから、誰でもその気になれば寺子屋・手習い塾を開業し、「お師匠様」と最高の敬称で呼ばれる教師になれた。高等教育にはある程度の予算をつけて学問所を建てた幕府だったが、一般庶民の手習いにはまったく無関心だったといっていいだろう。教室は、教師の自宅を使うのが普通で、教師の生活空間を昼間だけその...寺小屋の授業

  • 寺子屋

    ・・・「学校の歴史第2巻小学校の歴史」仲新第一法規出版昭和54年発行寺子屋江戸時代は武家が社会を支配した時代であったが、商工業の発達、貨幣経済の発展とともに町人の力が抬頭し、その生活に文字の読み書きや計算が必要になると、やがて庶民の間に自然発生的に教育機関が設けられていった。これが寺子屋である。石川謙がその著『寺子屋』の冒頭で「寺子屋とは近世になって生れた初等教育のための私立学校である」と言っている。寺子屋は江戸時代の中期から次第に発達し、幕末・明治初年にかけて全国的に激増した。そこで授けられた教育内容は庶民の日常生活に必要な読み・書き・そろばんの初歩であった。寺子屋における日々の学習は「手習い」を中心として、それに読み物が加えられた。幕末以後にはそろばんを合わせ授ける寺子屋も多くなった。このように寺子屋...寺子屋

  • 江戸時代の子ども

    出産時・間引き・疫病等、赤ちゃんが二歳まで生きるのも、なかなかたいへんだった。・・・「江戸の子育て読本」小泉吉永小学館2007年発行菜っ葉のように子を堕ろすルイス・フロイスは堕胎が日常化しているしていることに仰天した。「日本の女性は、育てられないと思うと、嬰児の首に足をのせ、すべて殺してしまう」と述べた。・・・「子宝」を人為的に抹消する「間引き」には、子どもの生命を尊重する観念はまったくない。たしかに経済的な理由による間引きも多かったが、しばしば親の身勝手(体面保持や性的欲求など)のために子殺しが行なわれ、なおかつ、残忍な手口で行なわれることもあり、「子宝」思想とは相容れないものであった。間引きを「お返しする」「お戻しする」と表現したように、たとえ「授かりもの」でも一定期間なら、育児を放棄し授かった生命を...江戸時代の子ども

  • 相方城跡

    備後地方(広島県の東半分)では知られた山城だが、広島県全域ではそれほどでもなく、中国地方となると無名に近い山城。だが芦田川沿いの絶壁に築かれた、戦国時代の城跡に立つと、脚はふるえるほどに危険な場所に石垣の遺構が残る。岐阜県の犬山城は木曽川沿いに建ち”日本ライン”を構成した城跡だが、相方城も芦田川とで”備後ライン”と呼んでいい。広島県史跡相方城跡(さがたじょうあと)標高191mの通称「城山」の山頂を中心にして、東西約1000m、南北約500mの範囲に城郭遺構が分布する大規模な山城である。芦田川を挟んで正面に見える亀寿山城(標高139m)を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた宮氏一族などにより16世紀前半には、中世山城として整備されていた。天文21(15...相方城跡

  • 孝女・津留の顕彰碑

    場所・岡山県井原市七日市町・孝津公園今もつづく「春の褒章」「秋の褒章」は明治10年頃制度化されたようだ。表彰や勲章は、体制の安泰に一定の効果があり江戸時代から孝子・孝女はお殿様や為政者からご褒美をもらっていた。笠岡近辺では、浅口郡大島村柴木の孝子・甚助が有名であり、井原には孝女・津留がいた。・・・講談社の絵本孝女といえば、なんといっても、歌にも映画にもなった”孝女白菊”・・・庶民教化活動孝子伝の刊行各藩は、孝子をはじめとする忠臣・義士・貞女などのいわゆる善行者を表彰するという方策がとられた。江戸時代においては「孝は百行の本」といわれ、孝は「五倫五常」の道を代表する最も重要徳目であった。孝行なる者、法令に忠実に従う者、質素で勤勉なる者などは支配者の期待する人間であった。一方、幕府は、寛政元年全国各地の為政者...孝女・津留の顕彰碑

  • 十七瀬川栄吉の墓

    場所・岡山県井原市西江原町井原市西江原町に十七瀬川の墓があった。笠岡市金浦にもあるので、同じ力士の墓だと思った。ところが、家に帰って調べると、金浦にあるのは・・・「孫たちに語りつぎたい金浦」金浦地区まち協・金浦公民館平成25年発行十七瀬川龟之助力士寛延2年(1749)~天明7年(1787)本名内山亀之助享年38歳墓所笠岡市金浦西浜墓原「相撲の史跡」によると、「西浜で過ぎたるものが3つある。夜灯、庄屋に、十七瀬川」とうたわれ、「小田郡誌」に巻酒樽を片手にて捧げ瀧飲したと伝い、墓は十七瀬川常用の煙管一本を換金して建てたという。安永2年10月東3段目江戸番付安永3年8月安永7年7月安永7年7月天明6年8月幕内東前頭12枚目東前頭19枚目東前頭19枚目西前頭47枚目大阪相撲西幕尻限りで死亡。・・・・井原市の墓は、...十七瀬川栄吉の墓

  • エンジェルスの大谷選手

    今朝(2023.12.14)の新聞に、MLBドジャースの背番号17のユニフォームが載っている。日本時間の今朝の8時からドジャーズ入団会見が行われる。日本でも、新聞のテレビ欄を見ると、(テレビ東京を除いて)各局とも朝のワイドショーで中継する。今日から、エンジェルスの大谷選手は過去のこととなった。・・・大谷選手が大好きなOくん。毎日、この赤いシャツを着ていた。(2021.7.28岡山県真庭市にて)・・・・スポニチ[2023年12月14日02:45]ドジャース・大谷翔平入団会見は日本時間15日午前8時フリードマン編成本部長が同席ドジャースは12日(日本時間13日)、大谷翔平投手(29)の入団会見を米西部時間14日午後3時(同15日午前8時)に本拠地ドジャーススタジアムのセンターフィールドプラザで開催することを発...エンジェルスの大谷選手

  • 「きけわだつみのこえ」

    「菊と刀」ルース・ベネディクト現代教養文庫昭和42年発行あのちっぼけな飛行機を駆りわれわれの軍艦目がけて体当り自爆をする操縦士たちは、精神の物質に対する優越をものがたる無尽蔵の教訓とされた。これらの操縦士たちは「カミカゼ特攻隊」と名づけられた。「カミカゼ」というのはあの、十三世紀のジンギスカンの来寇の時に、その輸送船を蹴散らし転覆させて日本を救った神風の意味である。・・・・・・「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記東京大学出版会1952年発行上原良司慶應大學學生。昭和二十年五月十一日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納の米國機動部隊に突入戦死。二十二歳。遺書生を享けてより二十數年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。溫き御両親の愛の下、良き兄妹の勉勵に依り、私は楽しい日を送る事ができました。そして稍もす...「きけわだつみのこえ」

  • 三八式歩兵銃

    日本陸軍兵士が持つ銃は、日露戦争から第二次大戦まで変わることなく使用された。そのことに米軍は呆れたのであろう、空から宣伝ビラ(伝単)でまき散らした。・・・三八式歩兵銃「日本軍事史」吉川弘文館2006年発行三八式歩兵銃は一発撃つたびに槓桿(こうかん・レバー)を動かして空薬莢を輩出するという操作が必要であったのに対し、米軍はそれがいらない半自動小銃・M1小銃を採用していた。「相手は自動小銃、撃ちあいをしていたらこちらは負ける」「ジャングルがあり、これを隠れミノに敵に近づき、油断しているところを突撃攻撃して、さっと退くから戦争になっていた」・・・「三八式歩兵銃」(センデンビラ)諸君の使って居られる三八式歩兵銃は明治三十八年の日露戦争当時新鋭兵器として村田銃に代わって初めて戦線委に登場したのはご承知の通りでありま...三八式歩兵銃

  • 12月8日、米英へ宣戦布告

    日清戦争以来、日本は満州の利権に強く拘り、拡大していった。その結果、満州事変を自ら起こし、その数年後には支那事変をも自ら起こし、日中全面戦争となった。米英より、せめて「満州事変」前を求められたが拒絶、昭和16年12月8日の対米英開戦となった。・・・「軍国日本の興亡」猪木正道中公新書1995年発行東条英機内閣は、ハル・ノートを最後通牒だと受けとめた。「満州事変前の状態へ、日本を逆戻りさせることはできない。撤兵しては、英霊にあいすまない」として、開戦を決意した。当時の日米の国力には、気が遠くなるほどの格差があった。「日米蘭の経済封鎖が持続する場合、日本は”ジリ貧”におちいることになる。特に石油は昭和17年7月ころには貯蔵ゼロ皆無となり、海軍は全くその機能を喪失するに至るであろう。」ジリ貧を避けるために開戦する...12月8日、米英へ宣戦布告

  • 兵隊

    兵隊は戦争の要員なので、戦争が無い時は兵は一定数以上は必要なかった。父はよく、「まんが悪い」とこぼしていた。日中戦争が勃発した年が徴兵検査の年齢だった。それは父と同じ生まれの人は、ほぼ全員そう思ったに違いない。この年から検査合格者は、全員兵隊に召集された。・・・「美星町史」徴兵検査小田郡の各村々は笠岡の貫閲講堂を検査場としていたので当地の受検者は全員、検査地に宿泊し、翌日の検査に出場した。その検査場には、村長は勿論、在郷軍人分会長・小学校校長・青年学校長も列席して行われ、それは厳格そのものであった。大体一日に三~四ヶ村の数え年二十歳の青年を対象に行われた。検査官は岡山聯隊区司令部の職員で、下士官・軍医将校・徴兵官で構成されていた。検査内容は身長・体重・胸囲・視聴力・肺活量・四肢・性病などで、受検者は初めか...兵隊

  • まえからわかっていたこと

    「菊と刀」ルース・ベネディクト現代教養文庫昭和42年発行まえからわかっていたこと日本は勝利の望みを、アメリカで一般に考えられていたものとは異なった根底の上に置いていた。日本は必ず精神力で物質力に勝つ、と叫んでいた。なるほどアメリカは大国である、軍備もまさっている、しかしそれがどうしたというのだ、そんなことは皆はじめから予想されていたことであり、われわれははじめから問題にしていないのだ、と彼らは言っていた。そのころ日本人は、日本の大新聞『毎日新聞』で、次のような記事を読んだ。日本の政治家も、大本営も、軍人たちも、くり返しくり返し、この戦争は軍備と軍備との間の戦いではない、アメリカ人の物に対する信仰と、日本人の精神に対する戦いだ、と言っていた。真珠湾奇襲のずっと以前から公認されていたスローガンであった。軍国主...まえからわかっていたこと

  • 12/8 学童

    ・・・「美星町史」学童の生活小学校では、敵国の肖像画を書いて、長針を突き刺し「打ちてし止まん」と朱書きしたポスター等を教室や廊下にはり付け、校門の入り口にわら人形をしつらえて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養い、又、朝礼の時、「海ゆかば・・」の短歌を朗読し、必勝の祈りをして教室に入った。戦争末期になると、青年学校男生徒は次々に戦地にかりたてられ昭和20年2月、女性徒は軍需工場に徴用され飛行機の部品を作るところで3ヶ月間働いた。工場では早朝から機械に取りくみ、夜は午後10時に工場長が廻ってこられ「ご苦労様」おわれて終わりのベルとともに機械が止まった。夜具も極端に粗末で、裏表の判らないセンベイぶとんで12時ごろ、床に入れば、空襲警報の発令で防空頭巾をかぶり、服装を整えてそのまま夜を明かしたこと...12/8学童

  • 敬業館

    笠岡村に”寺子屋”は、推測だが5~10程度あったと思われる。笠岡は寺の町だったので、文字通りの”寺子屋”も多かっただろう。名代官として知られた早川八郎左衛門正紀の時代に、「敬業館」ができた。四書五経など教える郷学だったので、現在に言うと中等教育(中学・高校)の一段高い学校だった。・・・・・「岡山県教育史上巻」久世條教刊行代官は躬行実践を以て身を律し、屡々部民の啓蒙に奔命し、更に其の趣旨を徹底せしめんが爲、條を纏めて月毎に部民に諭した。これが『久世條教』である。『久世條教』は早川代官の管下たる美作久世に流布したのみならず、常陸の代官岡田寒泉によつて刊行、其の管下七郡百八十二個村にまで頒布せられ、此種著書の権威としてとして重きをなしたものである。・・・笠岡敬業館笠岡住民の感激久世代官早川正紀は、天明八年七月二...敬業館

  • 戦争期の桃太郎

    戦時中の子どものヒーローといえば、「桃太郎さん」や、無敵の「双葉山」や、忠君「楠木正成」。今も変わらず日本中の子どもに親しまれているのは、桃太郎さんだけ。現代では話は少し変わり、「金銀珊瑚綾錦(きんぎんさんごあやにしき)」を持っての凱旋帰国でなく、元の所有者に戻したり、鬼は改心して良い鬼になるようだ。・・・(広島県福山市新市町「吉備津神社」2023.11.29)・・・「ビジュアル版学校の歴史」岩本・保坂・渡辺汐文社2012年発行A.戦争期の桃太郎「サクラ読本」と呼ばれた1933(昭和8)年の「小学国語読本巻一』(尋常科用)では、22ページという1年生向きとしては大変多くのページをさいて、桃太郎を学習する内容となりました。教科書がカラー版でさし絵も1おばあさんの洗濯、2桃太郎の誕生、3出陣、4犬との対面、5...戦争期の桃太郎

  • 鳥取城”渇え殺し”は、飢えで死に、次いで栄養摂取で死ぬ

    昭和13年の秋、食糧を現地調達しながら、大別山脈を越えて、やせ細った日本兵がようやく漢口(現・武漢市)に入城した。国際都市漢口の倉庫には、山と積まれた米があり、飢えた日本兵は腹いっぱいにそれを食べ「いっぺんに食べ過ぎて死んだものもいた」と、父は話していた。おば(父の妹)は満州から引揚時、「葫蘆島から笠岡に帰るまでの間、食べたものは博多港でもらったオニギリ二つだけ。それで家に着いて、食べようとしたら舅が兄嫁に”いっぺんに食べさすな!”と大きな声で言った」と話していた。その二つの話を思い出す記事が今日、新聞に載った。・・・兵糧攻めの生地獄「歴史と旅」昭和57年12月号秋田書店秀吉の軍勢による鳥取城包囲網が完成したのは七月十二日。こうして数ある戦国の戦史の中でも最も悲惨かつ凄惨な戦い「鳥取城の兵糧攻め」がはじま...鳥取城”渇え殺し”は、飢えで死に、次いで栄養摂取で死ぬ

  • 尋常小学校唱歌・四学年「広瀬中佐の歌」

    〽轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)荒波洗ふデッキの上に闇を貫く中佐の叫び「杉野は何処(いづこ)、杉野は居ずや」船内隈なく尋ぬる三度(みたび)呼べど答へずさがせど見えず船は次第に波間に沈み、敵弾いよいよあたりに繁し今はとボートに移れる中佐飛来る弾丸に忽ち失せて旅順港外恨みぞ深き、軍神廣瀬とその名残れど・・・母は、このことを自分で見てきたように小学生であった管理人に語っていた。杉野はいずこ、杉野はいずや。母が小学4年生は昭和5年頃。広瀬中佐は軍神第一号だったので、その後雨後の竹の子のように生まれた軍神とは、認知度も知名度も全く異なる。母が習って5年後、昭和10年。軍神広瀬中佐は歌だけでなく、広瀬神社も出来た。日本は軍事国家から神の国へと転換し、昭和の戦前では楠木正成と並んだ英雄として、いよいよ祀り...尋常小学校唱歌・四学年「広瀬中佐の歌」

  • 西井ウイメンズクリニック

    場所・岡山県笠岡市中央町閉院・2023年12月末日(予定)撮影日・2023.11.19管理人は、茂平の産婆さんの世話によって産まれた。子供二人は、(妻の地元で)井原市民病院で産まれた。孫の三人は、笠岡の西井産婦人科(西井ウイメンズクリニック)で産まれた。両親はたぶん、両祖母の自力で出産したと思われる。永く出産は、母体にとって生死を分ける危険があったが、産婆さんやお医者さんによって安全度や安産度が高くなった。ところが、産婆さんが、ほぼ消滅し、ほぼ全員が病院で産むようになったにもかかわらず、出産は病気でない、という理由で”健康保険”が使えないまま半世紀。その半世紀の間に、医療責任や、その裁判沙汰、医療労働の長時間化により医療現場はキツくなり、責任度は高くなった。少子化傾向は止まず、産科医院は減り、出生率は下が...西井ウイメンズクリニック

  • 日生~小豆島航路

    場所・岡山県備前市日生町~香川県小豆島町大部無くなった日時・2023年11月30日撮影日・2010年2月7日(日生港)日生(ひなせ)と小豆島大部を結ぶフェリーが廃止された。航路廃止が数か月前に報道され、一度利用したいと思っていたが、12月1日の新聞に最終便の写真ニュースが載り、ついに一度もしなかった。観光の島・小豆島には岡山港、高松港、宇野港、姫路港、大阪港から多くの航路があるが、大部港に着くのは日生からの航路だけだった。NHKニュースによれば、「新型コロナの影響で、利用者が大きく減少するなど、今後も回復が見込めないため」と両備グループの瀬戸内観光汽船が発表したが、他にも、過疎化や高齢化などを背景に、利用者や物流量が減少。燃料費も高騰した。ことによる経営悪化と報道された。日生~小豆島航路

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