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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • もとやんの藁草履

    もとやんは茂平の漁師で、漁業とわらじを編むのを業としていた。普通の茂平の漁師は、半農半漁で、収入も労働時間も、ほぼ漁業半分、農業半分で生活していた。もとやんは農業をせずに毎日、稲わらで草鞋を編んでいた。もとやんは無口な男で、浜にいるときも無口だった。自宅で草鞋を編むでいる時も、もちろん無口だった。子供たちも、もとやんを不思議な感じで見ていた。もとやんは、中年だったが、独身の身の様子だった。その当時、独身で一人家族の家は珍しかった。もとやんとは年に一度話す機会があった。それが城見小学校の運動会の前の日。5円玉を持ってもとやんの家に入る。そこには、もとやんが黙々と手と足を使って藁仕事をしている。家の土壁には、もとやんが作った草鞋が紐に結んで何足も壁中に吊ってあった。そこで、もとやんと何か話したはずだが記憶がな...もとやんの藁草履

  • ”裸足のおっさん”

    「はだしのおっさん」とは、裸足で、自分が獲った魚を、ザルにいれて持って、茂平の家々に魚を売って歩いていた中年の漁師。裸足のおっさんは打瀬の漁師だった。船を茂平の樋門に繋ぎ、その日獲れた魚を売って生計をたてていた。たぶん、ようすなの漁師じゃあないかといわれていた。裸足のおっさんは、本業が漁師なので無口に近い魚売りだった。ザルを持って家の前に立てば、ほぼ無口でも商売が成りたっていた。魚が安いのと、獲れたばっかりの魚しかないので、評判もよかったのだろう。子供たちは「裸足のおっさん」と呼んでいたけれど、おっさんは音もなく歩き、かつ無口なので、話した子供はいなかった。「裸足のおっさんが歩きょうるなあ」でおしまい。おっさんは、「おしぐらんご」が中止になるころ、体力が落ちたのか、魚が獲れなくなったのか、鋼管の埋立工事で...”裸足のおっさん”

  • 日本唯一かな? ”二宮尊徳像”

    場所・岡山県井原市芳井町吉井芳井体育館駐車場芳井町の町中心の中学校跡地に銅像が建っている。ところが、この像には銘板もなく、説明板もなく、台座に刻したものもなく・・・、銅像近くでゲートボールの老人に尋ねても、誰一人その名も功績も知らず井原市の資料館館等で聞いてもわからず。誰も知らない像が、公共地に建つ、という珍事になっている。頭にちょんまげ、羽織袴、腰には小刀。江戸時代末期の商家か農家の大旦那さんで、地域にために尽くした人の感じがする像。なにげなく見ていた本に「緒方研堂」の記述があった。たぶん、研堂ではないだろうか?「岡山人じゃが2011」岡山ペンクラブ吉備人出版2011年発行井原生まれ、幕末の蘭方医緒方研堂(緒方竹虎の祖父)をもっと理解しよう赤井克己大坂・適塾創始者緒方洪庵(1810~1863)は著名な蘭...日本唯一かな?”二宮尊徳像”

  • リーデンローズに松竹大歌舞伎を観にいく

    日時・2023年7月28日14:00~16:15場所・広島県福山市・リーデンローズ名称・松竹大歌舞伎福山公演福山市のリーデンローズ、今日は恒例の”松竹大歌舞伎福山公演”の日。今年は、「鬼一法眼三略巻・菊畑」と「土蜘蛛」。チケットを提示して入場。”菊畑”は咲き誇る菊畑が舞台と思ってたが、予想に反して菊の本数は少なかった。「土蜘蛛」は迫力があった。土蜘蛛と源雷光の四天王の戦いは万雷の拍手で終わった。4時過ぎに「午後の部」の歌舞伎は終わった。18:30から「夜の部」がある。明日(2023.7.29)は岡山市民会館で、まったく同じ歌舞伎公演がある。(「備前おかやま松竹大歌舞伎」)えいちゃんのスマホに熱中症の「警戒アラート」が、ここ2~3日何度も鳴る。毎日快晴、毎日真夏日、毎日38~39度。暑いので終わるとすぐにお...リーデンローズに松竹大歌舞伎を観にいく

  • さんこう(おかやま山陽高校)が甲子園出場決定

    2023夏の甲子園に、生石(おんじ)の山陽高校が甲子園出場を決めた。日時・2023.7.25倉敷マスカットスタジアム・高校野球岡山大会決勝戦TV放送・NHK岡山”さんこう”のクラブ活動は、野球・ボクシング・空手・ゴルフが特に知られている。今日は倉敷商業と高校野球予選の決勝戦。接戦だったが、見事に優勝。(倉商応援団)野球は元ロッテオリオンズの仁科時成投手(かねやん時代のアンダースロー)や、ソフトバンクホークスの藤井皓哉投手が有名。目指せ甲子園初勝利!さんこう(おかやま山陽高校)が甲子園出場決定

  • 大正9年・尼港事件③北樺太を占領

    日本のシベリア出兵は無残な失敗に終わった。尼港事件は、その中の事件でそれから四半世紀後に発生した、ソ連による日本兵のシベリア抑留の口実の一つにも利用された。・・・「シベリア出兵」麻田雅文著2016年発行・中公新書7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。・・・「加藤拓川」成沢栄寿著高文研2012年発行1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。1925年、北サハリン撤兵。日本は各国間で孤立化を深めた。侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。・・・尼港事件「平和をたずねて」毎日新聞2018年8月21日日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町...大正9年・尼港事件③北樺太を占領

  • 大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

    甘港の惨劇にたいし、日本は北樺太を占領した。その対抗措置は米国や他国から不審な目でみられた。・・・「シベリア出兵」麻田雅文著2016年発行・中公新書尼港事件1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。外務...大正9年・尼港事件②”尼港の惨劇”

  • 大正9年・尼港事件①事件前

    日本とロシア(やソ連)は、江戸時代末期から、(共存共栄の途ではなく)自国の利益だけで、争ったり仲良くしてきた。大正時代、ロシア帝国が崩壊してゆく過程で、その弱みにつけこんだ日本はウラル山脈まで影響国家をつくる野望に燃えたが、わずか1~2年で崩れ、ニコライエフスク(甘港)では、住民と軍人と領事館の人たち、全員が虐殺された。日本人を殺したのはロシア赤軍の他に中国人、それに多くの日本人がいた。この日本人は国籍が日本の朝鮮の人たちだった。・・・・・甘港事件甘港事件「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(甘港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が...大正9年・尼港事件①事件前

  • 最上稲荷の注連縄

    場所・岡山県岡山市北区高松「最上稲荷山妙教寺」廃止日時・2021年12月13日撮影日・2018年1月1日岡山県の初詣数が長年NO1の”最上稲荷”。また、岡山県内では”日本三大稲荷”とも信じられている。2023.6.17にお参りすると、なんと、神社本殿に注連縄がなかった。しらべてみると、2021年12月13日に注連縄は終了したそうだ。【最上稲荷山妙教寺HP】2021.12.16お知らせ大注連縄の飾り付けが終了しました大勢の参拝者をお迎えしてきた大注連縄ですが、本年をもってその役目を終えることとなりました。平成6年末より初お目見えの大注連縄は、平成9年に職員が初めて製作に携わり、平成10年より2年に1度掛け替えられました。平成30年に掛け替えられたものが13代目となり、通常ならば昨年末に掛け替えられる予定でし...最上稲荷の注連縄

  • アキタ珈琲店

    場所・岡山県笠岡市五番町閉店日・2023年3月31日撮影日・2017年9月12日喫茶店の「アキタ」が閉店したそうだ。いつも前を車で通ったり、歩いたりしているが気が付かなかった。一昨日(2023.7.17)の山陽新聞投稿欄に、笠岡高校の卒業生が同窓会を開催した記事があり、読むとお店が3月31日に閉店とのことだった。いい雰囲気のお店だっただけに残念だ。笠岡に限らないが、一昔前に”純喫茶”と呼ばれていた感じのお店が絶滅している。待ち合わせ・商談・モーニング・さぼり・・・いろいろ利用した。会話にもどの店がいい、という話がよく出ていたが、すっかり昔話となった。アキタ珈琲店

  • 大松食堂

    場所・岡山県笠岡市六番町(県庁内大松食堂)閉店日時・2021年頃撮影日・2017年9月8日笠岡市図書館に行き、午前と午後をまたぐときは、すぐ近くにある岡山県井笠事務所の職員食堂「大松食堂」に昼食に行っていた。定食や一品ものなどのメニューもあったが、笠岡ラーメンを注文することが多かった。値段は500円、麺も出汁も鶏肉もよかった。食堂の雰囲気もよかった。コロナ禍の時、店長さんの高齢化等の理由で店を閉じられた。大松食堂

  • 「広島国際平和マラソン」

    場所・広島県広島市西区・広島県総合グランド無くなった日(最終回)・2019年11月3日撮影日・2019年11月3日あの、大好きだった「広島国際平和マラソン」がなくなる。コロナで3年中止され、今年は4年ぶりに再会されると楽しみに待っていた。経費節減のため2023年は大会消滅、コロナ前の2019年の大会が最後となった。NHKニュース2023年04月24日16時52分昭和56年に始まった「ひろしま国際平和マラソン」は令和元年まで39年連続で開催されていましたが、新型コロナウイルスの影響で令和2年から3年連続で中止になっていました。実行委員会は、4年ぶりの開催を目指して検討を続けてきましたが、運営費の高騰や参加者の減少を理由に大会を終了すると発表しました。とにかく楽しい大会だった。スタート地点は「広島ダイヤモンド...「広島国際平和マラソン」

  • みはらし温泉

    場所・広島県三原市須波無くなった日・2019年1月31日撮影日・2009年6月16日「みはらし温泉」は、いい温泉だった。外観からして”みはらし”がよかった。これは↓、生口島沢港~須波港のフェリーから見る「みはらし温泉」。写真左から、ホテル・温泉・駐車場。ここが「みはらし温泉」、国道185号線。JR呉線とほぼ平行する。大浴場は海側に面して長い風呂。前に見える佐木島と小佐木島の間には渦潮が発生するが、浴槽内も渦を思わす流れがあった。大浴場のガラス越しに見える眺めも最高。大浴場から見る左から「みはらし連山」「小佐木島」「佐木島」。こんなに眺めも温泉もよかった「みはらし温泉」だが、レジオネラ菌で新聞テレビで報道され、営業休止を経て再開後に再びレジオネラ菌が見つかり、死者も出て、ついに休館となった。みはらし温泉

  • 小早川隆景

    場所・広島県三原市本町(駅裏)小早川隆景(Wikipedia)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では五大老の一人に任じられた。実子はなく、豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。・・・「あなたの知らない広島県の歴史」山本博文洋泉社2012年発行豊臣秀吉は得意の絶頂にあった。しかし、高齢であった秀吉は、幼少の秀頼を残して死ぬことを何よりも心配していた。自身の死後の安定を図り、有力者に幼い秀頼を補佐させなければないと思い立った。そして当時秀吉に次ぐ地位を誇った徳川家康、前田利家、毛利輝元...小早川隆景

  • 笹川良一母子像(孝養の像)

    場所・岡山県岡山市北区高松稲荷・最上稲荷最上稲荷に行くと、笹川良一さんの銅像(母子像)があった。昔はTVコマーシャルでよくみた銅像。岡山県内には倉敷市児島ボートレース場にもある。児島ボートの銅像は「孝養の像」と呼ばれるから、この最上稲荷の銅像も「孝養の像」が正式名称かもしれない。でもなぜ、最上稲荷とは縁がなさそうな笹川さんの像がココに建つのだろう。・・・笹川良一(Wikipedia)抜粋生年月日1899年5月4日没年月日1995年7月18日(96歳没)称号勲一等旭日大綬章座右の銘「世界一家人類兄弟」。・・・撮影日・2023年7月16日笹川良一母子像(孝養の像)

  • 高松城跡の宗治蓮

    場所・岡山県岡山市北区高松・備中高松城跡公園日時・2023年7月16日帰省していた長男が東京へ帰るので、妻といっしょに岡山空港へ送っていった。途中、空港の10kmほど手前にある高松城へ寄った。目的は宗治蓮を見ること。満開には少し早いかな?時間が午後3時なので、早朝に咲く蓮見物には不利。とか思いながら、公園駐車場からハス池に向かった。予想通り、満開には早く、見物時間は遅かった。しかし四百年地下に眠っていたという「宗治蓮」は、見る人に花と戦国の歴史を、じゅうぶん感じさせてくれた。備中高松城水攻め(Wikipedia)備中高松城の戦い天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水...高松城跡の宗治蓮

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (悲劇の序幕)

    盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争は、現在のウクライナ戦争に似ている。相手を弱国とみて、一方的に進攻する。世界中で、日本国民だけが、”正義の皇軍”であると信じていた。・・・「軍国日本の興亡」猪木正道中公新書1995年発行盧溝橋事件1937年7月7日、盧溝橋で、日本の天津駐屯軍の小部隊が演習中に中国軍の小部隊と衝突した。これを「盧溝橋事件」という。最初の一発が、日中両軍のどちらかによるものかは、いまだ明らかでない。7月11日現地で停戦協定が結ばれた。・・・ところが、同じ7月11日、東京では五師団の兵力を中国に派遣することが閣議で決定された。参謀本部作戦課長は「千載一遇の好機だからこの際やったほうがいい」、参謀本部支邦課長は「上陸せんでよいから、塘沽附近まで船を回して行けば、それで北京とか天津はもうまいる...昭和12年7月7日・盧溝橋事件(悲劇の序幕)

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県郷土部隊~護国の人柱~)

    護国の人柱「岡山県史」『合同新聞』は、「独流鎮の華仰げ護国の人柱碧血に輝く郷土将兵の偉勲」「あゝ○○大尉、我が赤柴部隊に鳴る勇猛果断」と大きく報道。そこでは、岡山市の留守宅を訪れると、夫人はさすがに武人の妻らしく、「かねて覚悟してゐました、お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい」と、少しも取り乱すことなく言葉少なに語ったという。この後も、一貫するワン・パターンの記事が載せられ、銃後の国民の本音はそうした建前に押し流されていくことになる。・・・「歩兵第十聯隊史」歩兵第十聯隊史刊行会昭和49年発行支那事変昭和11年12月に起きた西安事件は、それまで対立抗争を続けてきた国共両党を合作に導き、抗日意識を全国的に統一させた。こうした情勢の下に、昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。7月11...昭和12年7月7日・盧溝橋事件(岡山県郷土部隊~護国の人柱~)

  • 昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県内)

    第二次世界大戦の始まりは、1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻といわれる。大東亜戦争と呼んだ戦争は、1941年(昭和16年)12月8日のハワイ・マレー沖海戦。日中戦争の始まりは、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件。(旧日支事変、旧支那事変)令和の現代からみると、日本が戦争状態になったのは国家総動員態勢となり、国家・国民が戦争体制に組み込まれた、「盧溝橋事件」と思える。”神州不滅”という狂乱国家の始まりは、今から86年前の今日。・・・・「美星町史」美星町昭和51年発行戦争の泥沼へ昭和12年7月、日本はついに中国への全面戦争に突入し、動員令がしきりに下命されて軍隊は続々と中国大陸へ向けて出勤したのである。岡山に駐屯する歩兵第十聯隊、工兵第十聯隊にも7月27日、動員が下され、...昭和12年7月7日・盧溝橋事件(岡山県内)

  • 七月七日 ②なぬかび

    牛が一年で仕事をするのは、一度(田植え時)しかなかった。しかも牛は大飯食い。エサをあたえるのは農家の大仕事、それでも牛は大切にされていた。その極めが七夕の水浴だった。茂平では”とんま”の浜で牛を洗っていた。牛が何頭も波打ち際で、体全体をゴシゴシ洗うさまは子供がみていても興味深い風景だった。・・・井戸掃除は、井戸が深くなく、はんぶん遊びだった。朝からバケツで井戸水を汲みだし井戸を空にしていた。空になる頃、父が井戸の底に降りて、底に溜まった枯葉などを取り除いておしまい。すぐ終わり、すぐに地下水が井戸に溜まっていった。・・・井戸掃除(母の話し)何処のうちでもボニの前、七夕の頃。・・昔ぁ、旧じゃが。井戸掃除をしょうた。毎年じゃ。井戸の水を全部出して、底をこさぎょうた。ウチのは浅いのでワケはないが、(実家の)賀山に...七月七日②なぬかび

  • 七月七日 ①たなばた

    七夕飾りは楽しかった。ナスビやスイカを書いた絵を買ってきて、藪から竹を一本持って帰り、こよりを作りながら、竹に飾った。家の庭に立てたまま1週間ほど経つと「七夕」の日となり、庭から海に、ひこずって持ち運び、流した。毎年の夏休みに一度ある、朝の行事だった。・・・・・・「福山市引野町誌」引野町誌編纂委員会ぎょうせい昭和61年発行七月七日七夕の節句、たなばたさん、星祭りともわれている。六日の夜に主に行う。二三日前の早朝に、稲の葉の上にある露を集めて硯に入れ墨をすり、五色の紙を短冊に切ったものに七夕の歌、星の名、俳句、和歌などを書き、これを竹の葉枝につるして庭前に立てて牽牛、織女の二星に供える。六日の夜は、うり、なすの各一個を七つに切ってこれを稲の葉で通し、かしわの葉に盛り、酒、もち(だんご)とともに星に供え、技芸...七月七日①たなばた

  • お祖父さんの自慢話

    祖父(1893~1992)は、明治26年広島県深安郡下竹田村に生まれた。4男だったので、茂平の農家に養子結婚した。平成4年に亡くなったが、その時は、笠岡市の男性で2番目の長寿だった。4人の子がいるが、戦死者もなく、今も2人が健在。(その長命の系統にあやかりたいと、ひそかに、いつも願っている)子どもの頃、風呂で話す祖父の話はワンパターンだった。「百姓はいけん。月給取りになれ」その話を信じ(職種は選ばず)、”会社員”になったが、悪くはないが、いいものでもなかった。でも、祖父が言いたかったことは、時代や社会や世相をからみて、至極妥当な意見であったと思っている。・・・(昭和16年頃と思える家族写真・後列右側が祖父)・・・江戸時代末期、日本の識字率は60~70%といわれ、それが明治の文明開化成功の大きな要因とも言わ...お祖父さんの自慢話

  • 一つの鍋 (満州引揚の話)

    昭和20年8月8日、ソ連軍の満州侵攻でたちまち、日本人は棄民となった。これは、おば(父の妹)の引揚時の話。昨日、姉と雑談していたら高齢のおばのことが話題となり、記録として書き残す。一番困るのが・・・おばの話(2002・4・30)吉林から葫蘆島(ころとう)まではゴットン車ででた。ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。食事は日に一食。高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。汽車が止まるのは一日一回。止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。野宿。一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。野宿じゃから毛布を頭から被って寝んと顔に露がつく。とにかく私らはづっと野宿をしとった。若かったけぇなあ。何日かかかってコロ...一つの鍋(満州引揚の話)

  • 鞆の祇園さん参り

    広島県福山市鞆町「沼名前神社」(鞆の祇園さん)茂平の港に年に一二度、観光汽船が入港していた。茂平の波止場には、小さな漁船しかなかったので大きな旅客船が目の前で見えるのは楽しかった。波止場には乗る人や、見送る人や、見物人でにぎやかだった。観光汽船は茂平の樋門の前に停まり、荒神さん側から伝馬船で客を2~3人ずつ乗せて、本船へ運んでいた。観光汽船は茂平から鞆へ行くということだった。知らない鞆よりも、観光汽船へ一度乗ってみたい、その願望や気持ちが強かった。鞆への観光船は、茂平の人たちの日帰りの物見遊山だと思っていた。広島県・岡山県・香川県・愛媛県の、漁船や海上輸送の人達が、”海上安全”の信仰でお参りしていた、ということを知ったのは、それから何年も後の事だった。祇園さん参り管理人は祇園さん参りに行ったことがないので...鞆の祇園さん参り

  • 神島88ヶ所霊場参り

    神島霊場は備中備後から多くの霊場巡りの人達がいた。たいてい一泊二日の日程で、毎年お参りし、毎年同じ宿に泊まっていた。外浦には宿が集中してあった。いつの間にか、車でお参りする人たちが増え、いつの間にか、それも減り、宿も減り、巡礼する姿を見るのが珍しくなった。・・・撮影日・2008年4月26日神島88ヶ所霊場・笠岡市神島・・・お接待。青龍寺。・・・神島88ヶ所霊場参り「金光町史」戦前・戦後の頃、4~5人で、早朝歩いて鴨方から里庄へ行き、そこから川沿いに神島瀬戸へ出て、神島外浦を巡って定宿で一泊する。翌日島を巡って瀬戸から船に乗り笠岡港へ、笠岡駅から鴨方まで汽車に乗る、そこから歩いていた。・・・「岡山県史・民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行大師信仰と88ヶ所めぐり弘法大師大師信仰とは一般に弘法大師信仰と理解されている...神島88ヶ所霊場参り

  • 石鎚参り (お山開き7/1)

    笠岡市の山で、いちばん多い名は「竜王山」次に「石鎚山」。各小学校区に竜王山と石鎚山はあるように思う。この地方に”石鎚講”は多く、今も形を変えながら、四国石鎚山へ登る人は多い。・・・矢掛町史・民俗編」矢掛町昭和55年発行石鎚参り石鎚山登拝は古くから行われているのであるが、現在古老より聞きうる、大正から昭和初年ごろの石鎚参りを記してみよう。石鎚参りは田植えの終わった直後、先達を中心に50~60人の人が組を組んで参った。思い思いの服装の人が多かった。歩いて夕方笠岡市西浜に着いた。その夜、舟で西浜を出、翌朝伊予の壬生川港に着いた。舟は櫓を漕いだので、潮の加減で遅れる場合もあった。壬生川から黒川まで歩き、はじめて宿についた。宿を早朝出発し、石鎚山に登った。登る途中には「ナンマイダー、ナンマイダー」と声高に唱えた。山...石鎚参り(お山開き7/1)

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