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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 坂本龍馬とお竜

    場所・鹿児島県鹿児島市天文館龍馬は傷の手当てのためお竜と、霧島温泉と日当山温泉に湯治に来たが、これが日本人初の新婚旅行と、いつのまにか言われるようになった。「歴史と人生と」綱淵謙錠中公文庫昭和55年発行伏見・寺田屋の養女お竜(おりょう)といえば、伏見奉行の手の者に襲われた坂本龍馬と三吉慎蔵の危機を、機転をもって助けたことで有名である。慶応2年(1866)1月23日の深夜、龍馬らが二階の座敷で寝に就こうとしていたとき、裏階段から息せききって入ってきたお竜に、急を知らされた。そこで龍馬はピストル、三吉は槍で、警吏との修羅場が展開されるわけだが、このときのお竜が素っ裸だったといわれている。お竜の後日談によると、濡れた肌に袷(あわせ)を一枚ひっかけたことになっているが、おそらく湯殿の窓から外を眺めて捕吏の存在に驚き、素...坂本龍馬とお竜

  • 浦上玉堂

    場所・岡山県岡山市北区石関町浦上玉堂は江戸時代の画家。元は戦国武将の浦上家の末裔、鴨方藩の武士。妻の死後、武士をやめて漂泊の画家となった人。「岡山の人物」黒崎秀明著岡山文庫昭和46年発行浦上玉堂玉堂は市内石関町で生まれたという。備中鴨方藩の藩邸があった。玉堂はその藩邸内でうぶ声を上げたわけだ。琴は巧みに弾じていたが、画の勉強がはじまった。37歳の春、新知行90石をもらって大目付役を仰せつかった。それから12~13年の月日が流れ、寛政6年となる。職を辞し、但馬城崎の出湯にて一絃琴をかなでる。玉堂は父子3人で漂泊が続く、江戸、会津へ行く先々で何枚かの画を描き残した。やがて京都に居を定めたが、好んで旅に出た。心のおもむくままに画筆をふるった。この頃から彼の画作はいよいよ円熟の度を加ええてゆくのだ。ブルーノ・タウトは玉...浦上玉堂

  • 良寛さん

    場所・岡山県倉敷市玉島柏島円通寺子どもたちと「手まり」ついたり、「かくれんぼ」した良寛さん。今も日本で愛されている。「岡山の人物」黒崎秀明著岡山文庫昭和46年発行良寛1758~1831新潟県三島郡出雲崎の人。18歳の時出家して同地の光照寺にはいる。22歳の時備中玉島の円通寺十世の、国仙和尚が光照寺に錫杖を休めたのを機縁に、良寛は和尚に随って玉島に来り、円通寺の住僧となった。かくて円通寺にあること20年前後といわれるが、その詳細な消息は2、3の詩篇以外に知るよすががない。44歳の時出雲崎に帰り、郷土に近い国上山中に一庵を設け、天保2年75歳で没している。その作歌の数々はいつの時代にも人々に愛好され、書は年ごとに価を高くしている。撮影日・2019年4月6日良寛さん

  • 菊池寛

    場所・香川県高松市中央公園新田藤太郎1956年菊池寛の銅像は高松市の中央にある中央公園の、いちばんよい場所に建っている。公園のすぐ近くに「菊池寛通り」があり、そこに代表作『父帰る』の像もある。菊池寛菊池寛氏は、わたしの社の初代社長である。わたくしは、この人をはるかに尊敬していたので、文芸春秋に入社し、この人の強い影響を受けた。菊池さんが昭和23年、急逝した時、たまたまその席に居合わせて、少数の御遺族と共に静かな臨終を見守ったのも、何か強い因縁を感じている。若い時代に、こうした人の下で働いたということは、どのくらいしあわせであったか、このごろになって、しみじみと感じる。「私の日常道徳」という小文がある。大正15年に書いたものだから、先生が38歳の時の随感だが、今読んでみても実に立派である。---私は自分より富んで...菊池寛

  • 外苑の大楠公

    場所・東京都千代田区皇居外苑高校の修学旅行で初めて東京に行った。二重橋前で記念写真を撮ったのは覚えているが、大楠公の銅像はまったく記憶にない。「広瀬中佐の銅像」もりたなるお著新人物往来社2002年発行紀元は二千六百年宮彦は去年の春に東京府立青梅農林学校を卒業して、平井尋常高等学校に代用教員として勤めた。代用教員一年目の宮彦は担任の学級はなかった。六年生が卒業を控えての修学旅行が2月10日と決定し、宮彦は付き添いをするのである。「東京へ着いたらいちばん先にいくのはやっぱり宮城の二重橋なのかね」「二重橋で宮城を遥拝することは修学旅行の原則になっているそうです。宮城遥拝のあとは宮城前にある楠木正成の銅像を見ます」「それからどこを回るの」「万世橋の広瀬中佐の銅像です。広瀬中佐の銅像の次は上野にいって西郷隆盛の銅像を見ま...外苑の大楠公

  • 西郷四郎

    場所・広島県尾道市東久保町戊辰戦争の若松での市街戦では「白虎隊」が有名なため、その陰に隠れた感があるけれど福島県では並んで有名なのが会津藩家老・西郷頼母の一家自刃。その数21名。飯盛山の白虎隊より1名多い。その西郷家の養子が、後の”姿三四郎”のモデルとなった柔術家・西郷四郎。尾道の千光寺から浄土寺へのモデルコース脇に銅像がある。なぜ尾道に西郷四郎の銅像が建つのだろう?銅像の隣に説明看板が建っている。西郷四郎先生は日本柔道界の奇才で、加納治五郎師範が講道館を創設した頃、それを助けて日本柔道を大成した人です。小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大業は天下無敵でありました。小説・映画で有名な「姿三四郎」は先生がモデルでした。大正九年に病気療養のため吉祥坊(現在は廃寺)に仮寓し養生につとめていましたが、大正11年12...西郷四郎

  • 加賀尾 秀忍

    場所・岡山県井原市東江原町「宝蔵院」【モンテンルパの父】井原市の偉人の一人だが、市の扱いが小さく思える。もっと語り継いでほしい気がする。「歌のよこはま」富樫啓著有隣堂昭和54年発行フィリピンの教戒師・加賀尾秀忍から、一通の便りが鎌倉の渡辺はま子宅に届いた。「モンペンルパの歌」をみんなで作ってみた。専門家に見ていただき、直していただければ幸い---詩と楽譜があった。戦時中は軍の慰問で中国大陸をかけめぐり、天津で終戦。10ヶ月の捕虜生活を送った。巣鴨刑務所の戦犯の慰問を続けていた。詩は佐伯孝夫、曲は吉田正の両氏が目を通して、吹込みが行われた。そのレコードはモンテンルパに送られた。国交のないフィリピンに渡辺はわたりモンテンルパにたどり着いた。刑務所で涙にくれながら声をかぎりにうたった。歌はラジオ電波にのり、新東宝の映...加賀尾秀忍

  • 六高生

    場所・岡山市中区駅元町岡山駅前広場岡山駅前の六高生。日本の将来を担う若者に、ずいぶん岡山市民も好意的に、また学校を誇りに思っていたようだ。学校は学問も行動も割と自由だった。有名な話は、永野6兄弟の永野重雄さん(富士製鉄社長・日商会頭)柔道部の人で、市中で巡査ともめたさい、その巡査を旭川に投げ込んだ。しかし事件にもならず卒業して東大に進んでいる。六高は広島市との争奪戦で設置できたが、その後、ほぼ各県に高校(ネームスクール)が創立された。しかし戦前では、最終学歴よりも卒業した高校を重視した社会であったようだ。撮影日・2013年10月14日六高生

  • 四高生

    場所・石川県金沢市広坂石川四高記念館戦前の日本の最高エリートコースである、ナンバースクール→帝大。そのナンバースクールは、だいたい同時期に設立されたのかと思っていたが、ずいぶん年度差があった。(Wikipedia)一高第一高等学校1886年(明治19年)東京都二高第二高等学校1887年(明治20年)仙台市三高第三高等学校1886年(明治19年)京都市四高第四高等学校1887年(明治20年)金沢市五高第五高等学校1887年(明治20年)熊本市六高第六高等学校1900年(明治33年)岡山市七高第七高等学校1901年(明治34年)鹿児島市八高第八高等学校1908年(明治41年)名古屋市北海道にはない、福岡にないが九州には2校ある。「石川県の歴史」山川出版社2000年発行明治20年の四高(第四高等中学校)創設は、県民に...四高生

  • 貫一お宮

    場所・静岡県熱海市館野弘青1976年森繁久彌が元気なころ、「金色夜叉」をテレビで歌っていた。〽熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人連れ共に歩むも今日限り共に語るも今日限りJR熱海駅で降りて、坂道を下って海岸線までいくと、そこに像は建っていた。この像には衝撃を受けた。暴力そのものだ。今でいう、DVなんてものではない。下駄で座った女性を強打している。文学作品を銅像にしたというイメージが飛んでいった。男性の怒りを像で表現した、というならいくらかわかる。しかし、数少ない明治のエリート高校生がこうゆう犯罪のような暴行はしない。歌詞のように気持ちにとどめる。〽宮さん必ず来年の今月今夜この月は僕の涙でくもらして見せるよ男子意気地〽ダイヤモンドに目がくれて乗ってはならぬ玉の輿人は身持が第一よお金はこの世のまわり物まあびっくりした銅...貫一お宮

  • 昭和18年、国民学校の卒業旅行

    義母は国民学校を昭和18円3月に卒業した。当時は修学旅行でなく、卒業前に行くので”卒業旅行”と呼ばれた(と思う)。義母は岡山県後月郡(しつきぐん)芳井町の芳井国民学校の生徒だった。6年生は昭和17年4月~昭和18年3月、戦争の真っ只中。果たして卒業旅行はあったのだろうか?あるとすれば日帰りか?行先はどこだろう?尾道?岡山?義母の話・2021.3.14他の学校では、行かない、やめた、という話はよく聞いていた。うちの学校では校長先生が旅行について熱心で伊勢神宮に行った。一泊した。(五十鈴)川の水が冷たかったことだけをよく覚えている。学校には夜に帰ってきた。(義母は分校の出身で)友達のお兄さんが学校まで迎えに来ていた。それで3人一緒に村まで帰った。村の入り口に、自分の親と友達の親が迎えに来ていた。そこからは賑やかに家...昭和18年、国民学校の卒業旅行

  • 昭和南海地震(昭和21年)のこと

    3月11日、「東日本大震災」10年に関してテレビや新聞で東日本震災が大きく報道された。(2021.3.11朝日新聞)(2021.3.12朝日新聞)山陽新聞では、災害の記録記事も載った。↓2021年3月12日山陽新聞昭和南海地震Nさん(84)は9歳の時の災禍を今も鮮明に思い出す。終戦直後の1946年12月、夜明け前に襲った昭和南海地震。マグニチュード8.0の大地震は、干拓地の旧三蟠村(現岡山市中区)を容赦なく揺らした。屋外に逃れたが、立っていられず畑の木にしがみついていると、100m先の民家がごう音とともに崩れた。その場で泣き叫ぶ女性の姿が忘れられない。徐々に明るくなると。村の家々は軒並み傾き、旭川の堤防には幅1mもの裂け目ができていた。三蟠から笠岡まで直線距離で約45kmほどある。ところが、この地震について茂平...昭和南海地震(昭和21年)のこと

  • お里沢市

    場所・奈良県高市郡高取町壷坂寺奈良県高取町は、たいへん印象深い街となった。訪問した目的は日本三大山城である”高取城”への登城だった。近鉄高取駅でおりて、街を抜けて登山口までの道は「土佐街道」と呼ばれる古い町並みで趣があった。山頂の城跡は壮大な石垣が残っていた。下山は周回コースでおりていたら大伽藍にであった。それが「壷坂寺」だった。城跡見物に行ったら、街並みと、名刹と同時に三つが楽しめた。壷坂寺の事は歌で知っていた。ほんの少しだけ。三波春夫が浪曲入りで歌っていた。妻は夫をいたわりつ夫は妻を慕いつつ頃は六月中の頃夏といえど片田舎木立の森もいと涼し(Wikipedia)壺坂霊験記つぼさかれいげんき『壺坂霊験記』は、明治時代に作られた浄瑠璃の演目。盲人とその妻の夫婦愛を描いた世話物、一段。歌舞伎や講談、浪曲の演目にもな...お里沢市

  • 瓜生岩子

    場所・東京都台東区浅草浅草寺瓜生岩子は福島県喜多方市の生まれ、明治時代に孤児や貧民の救済事業に半生を捧げた。会津のナイチンゲール瓜生岩子「歴史と旅」昭和55年2月号秋田書店秋月しのぶ作ナイチンゲールその人が、クリミア戦争の傷病兵の看病に挺身していた頃、岩子は会津の城下町で呉服商を営む幸福な若妻だった。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦い。8月に新政府は会津攻撃にとりかかった。戦場と化した市中では、弾丸の中泣きながら逃げる子、瀕死の重傷を負い血だらけで倒れている傷兵を目にした時、岩子は内部から吹き上げてくるヒューマティックな気持ちにつき動かされるように、生き残った婦女子を励まして、負傷者の看護をするのだった。戦争は、子供たちの両親を奪い、今また飢餓が、武士の子の矜持や、知性さえ奪おうとしている。岩子は一人一人を抱きしめた...瓜生岩子

  • 中将姫像

    場所・奈良県葛城市當麻寺(たいまでら)謡曲、浄瑠璃、歌舞伎そして、講談社の絵本でも知られる「中将姫」。継母(ままはは)に、虐められたり、さんざん悪さをされた悲しくて美しいお姫さま。曼荼羅を描き、生きたまま浄土に去って行った。(Wikipedia)中将姫説話今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいっ...中将姫像

  • 夢千代

    兵庫県美方郡新温泉町浜坂(湯村温泉)小学生の時、夕方決まったようにラジを付けて聴くラジオドラマがあった。それがラジオ東京(TBS)の人気番組「赤胴鈴之助」。この子供向けのラジオ番組の出演者(声優)から二人の有名人が生まれた。山東昭子(語りて)は現・参議院議長に、吉永小百合(さゆり役)は大女優になった。大女優の吉永小百合は主に映画であって、テレビ出演は只一つの連続ドラマを除いて印象が薄い。それが「夢千代日記」。今から40年ほど前のテレビドラマ。すでに吉永小百合は国民的人気の大物女優になっていた。(顔は小百合ちゃんソックリの銅像。おやや、夢千代像でなく平和の像になっている)薄幸な役だったが、小百合主演とあって但馬の山あいの温泉地は、一挙に有名温泉に押し上げられた。湯村温泉は湯けむり、川おと、山なみの風情がある温泉地...夢千代

  • 奴奈川姫

    場所・新潟県糸魚川市JR糸魚川駅前新潟県のJR糸魚川駅は、北陸新幹線が通る大きな駅。その糸魚川駅は、駅前大通りを500mほど行けば日本海に突き当たる。その間に同じような銅像が二つ建っている。それが”奴奈川姫(ぬなかわひめ”の像。(糸魚川駅前)奴奈川姫とは?(糸魚川市の公式ウェブサイト)「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」は『古事記』や『出雲風土記』などの古代文献に登場する高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われています。『古事記』では出雲国の大国主命が沼河比売(=ぬなかわひめ?)に求婚に来た、とあり、また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して御穂須々美(みほすすみ)命を生み、この神が美保に鎮座していると記されています。あくまでも伝説ですが、それでも奴...奴奈川姫

  • 人見絹江

    場所・岡山県岡山市北区いづみ町カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であればそれは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。女学校を大正13年に卒業。京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。アムステルダムオリンピック100mまさかの準決勝敗退準決勝で4位。「もう目の前は真っ...人見絹江

  • 有森裕子

    場所・岡山県岡山市北区いづみ町カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前有森裕子選手は二度見た。最初は瀬戸大橋の橋の上。瀬戸大橋開通20周年記念行事の時で、参加者にもみくちゃにされるていた。次々に握手や抱擁をされて前進できないほどだったが、本人は笑顔で対応していた。二度目は笠岡ベイファームマラソンで、先にゴールした有森は走る選手に声援を送っていた。選手を引退後も、スポーツや社会活動で岡山県や日本を代表する活動家として頑張っている。人見絹江と同郷のメダリスト、有森裕子は、就実高校時代、長距離走に取り組んだ。岡山市内で開かれた山陽女子ロードレースで、優勝舎に贈られるのが人見絹江杯だった。有森自身はm、リクルート時代の1989年(平成元年)行われた第8回大会のハーフマラソンで優勝、人見絹江像のトロフィーを手にし...有森裕子

  • 鶴姫(藤公園)

    場所・愛媛県今治市大三島町「藤公園」まだ橋がないころ、大三島の宮浦港への旅客船は風情があった。船が着くと住民やお参りの人が大勢乗り降りしていた。橋ができて大山祇神社への参拝は、ほぼ全員が陸路となった。そのため、港から神社への参道はさびれていった。大型バスの駐車場の近くに「大三島藤公園」ができた。公園には”藤棚”と”鶴姫像”ができた。GWに「藤まつり」が開催されている。(Wikipedia)鶴姫(大三島)鶴姫(つるひめ)は、戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。1966年(昭和41年)に小説『海と女と鎧瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が発表されてから知名度が上がった人物で、同書が出版されるまでは小説の舞台である大三島の島民さえも彼女のことを知らなかった。鶴姫は、現在では大三島の観光業に大いに利用されるコンテンツとな...鶴姫(藤公園)

  • 鶴姫(宮浦沖)

    場所・愛媛県今治市大三島町宮浦刀に鎧兜での戦の場に、女性がいるのは、映画や漫画ではよくある話だが、実際にはないように思う。しかし長い歴史上では、少数の人がいたとしても不思議ではない。そう思って誰がいたかな?頭をふりしぼる。木曽義仲の夫人、巴御前は有名だな。他には・・・、会津戦争の中野竹子。娘子隊のリーダー。後はつづかない。巴御前と中野竹子に共通するのは、”若い”、”賢い”、”美人”、”戦死”である。女性が武勇で歴史に名を残すハードルは高い。瀬戸内海の大三島(おおみしま)には”鶴姫伝説”がある。鶴姫もまた、若い・賢い・美人・戦死、と四拍子そろっている。さらに悲恋が加わる。鶴姫像は、大山祇神社の玄関である宮浦港にある。鶴姫様は海の中。伝説では、戦国時代に水軍を率いて、散々大内軍を負ったそうだ。撮影日・2009年3月...鶴姫(宮浦沖)

  • 自由の女神 (ラスベガス)

    場所・米国ラスベガス市「ニューヨーク・ニューヨーク」中学生や高校生の頃、ション・ウェィンやゲーリー・クーパーが活躍する西部劇が好きで、といっても映画館にいけず少年雑誌や映画雑誌を見るだけで満足していた。西部劇の舞台のモニュメントバレーは憧れを通り越して、夢みるような場所だった。それから10数年後、日本はあっという間に経済成長して、アメリカは庶民でも行ける国になった。その、少年時代に夢見ていたモニュメントバレー観光のため、2005年にラスベガスに行った。ラスベガスの街は日本人では発想できない市街地を形成していた。おったまげた。特にホテル。ホテルは皆巨大で、部屋数は2.000~4.000。建物の形はニューヨークあり、ベニスあり、ピラミッドあり、パリもある。無料のショーがよかった。噴水や火山が爆発する。いちばん記憶に...自由の女神(ラスベガス)

  • 自由の女神像

    場所・米国ニューヨーク市2003年、ニューヨークのニューヨークシティマラソンに出場するためニューヨークに行った。その前日に自由の女神像を見に行った。バッテリーパークの港の船に乗ると、船の乗客は明らかに、アメリカ人のお上りさん、世界からの観光客であふれていた。出港した船から見るニューヨークの摩天楼は素晴らしく美しかった。乗船客は,海上から見る摩天楼を眺めて感嘆していたが・・・・やがて、乗客全員が船の進行方向に姿勢を向き変えた。すると、(当然ながら)自由の女神像が、小さな島に巨大に聳えていた。船が島に近くなるほど乗客の感動する声が大きくなった。(その頃、デジカメの電池マークが切れた(;∀;)。上陸後に最初に土産店で使い捨てカメラを買った)前年にツインビルがテロで倒壊し、自由の女神像に入ることは禁止されていた。しかし...自由の女神像

  • サモトラケのニケ

    場所・岡山県高梁市成羽町成羽は愛宕花火で有名だが、町歩きも楽しい町。成羽川が流れ、豪壮な陣屋の石垣があり、静かな武家屋敷がつづく。町は高瀬舟を始め、水運や陸運の中継地として栄えた。その成羽の町に彫刻の世界的名作「サモトラケのニケ」が建っている。サモトラケのニケWikipedia『サモトラケのニケ』は、ヘレニズム期の大理石彫刻。翼のはえた勝利の女神ニケ(ニーケー)が空から船のへさきへと降り立った様子を表現した彫像である。1863年に(エーゲ海の)サモトラケ島で発見された。頭部と両腕は失われている。フランスのルーブル美術館が所蔵。動的な姿態と、巧みな「ひだ」の表現で知られており、ギリシャ彫刻の傑作とされる。大理石製で、高さは244cmである。最初の発見は1863年で、胴体部分が見つけられた。それに続いて断片と化した...サモトラケのニケ

  • 平和の群像(二十四の瞳)

    場所・香川県小豆郡土庄町子どもの頃、映画は娯楽の王様だった。映画を見ることが一番の楽しみだった。その後テレビやビデオでも映画を見ろことができ、笑ったり、泣いたり、感動したり、家でできるようになった。好きなのは東映の痛快時代劇で、剣を振り回して悪者を斬るのが見ていて楽しい。その分野でいえば内田吐夢監督、中村錦之助主演の「宮本武蔵」が最高傑作と思っている。では時代劇や現代劇を合わせて最高傑作は?となると木下恵介監督、高峰秀子主演の「二十四の瞳」、これが戦後の邦画の最高傑作に違いない。映画の終盤、目が見えなくなって復員した磯吉(田村高広)が写真を指さして「この写真はな、・・・見えるんじゃ」のシーンには、いつ見ても目から涙が飛び出してくる。DVDも販売されている、宣伝文句は「日本中が涙した名匠・木下惠介後世への最大遺物...平和の群像(二十四の瞳)

  • 林芙美子

    場所・広島県尾道市尾道は何度行っても飽きない街だ。海と坂道と船とお寺、千光寺山と向島、そんなものが同居して魅力が尽きない。街角や海辺の通りには、多くの彫刻作品が並んでいる。その中に、別格の雰囲気で林芙美子の銅像が建っている。戦前から人気作家で、日中戦争では”芙美子さん、武漢一番乗り”と従軍作家で戦地に派遣されている。戦後はいろんな作品が芝居や映画化され、名が新聞や女性週刊誌によく掲載されていた。中でも有名だったのが森光子の舞台「放浪記」。有名な作家・林芙美子だが、未だに一冊の本も読んだことがない。読まず嫌いなのか?どうも女性が好む小説で、男性むきでないような思いこみをしている。しかし、この言葉だけはよく知っている。花の命は短くて苦しき事のみ多かりき花の命が短いのはわかるが、苦しきことのみの部分は辛い。撮影日・2...林芙美子

  • お市の方

    場所・福井県福井市北ノ庄城跡織田信長の家系は容姿が優れていたのだろうな、みな。お市の方も、美人・悲劇・血筋を残し、名を歴史に残した。「歴史と旅」昭和52年9月号秋田書店戦国三美人お市の方・ガラシャ・勝頼夫人来水明子ひたむきな母性愛---お市の方お市の方は、おそらく10代後半の年齢で、浅井長政のもとに嫁ぎ、天正元年9月の小谷落城まで、足掛け7年の歳月を浅井家に過ごして、長政との間に数人の子女をもうけた。夫の長政が自刃を遂げたあと実家に戻って寡居すること10年、本能寺の変のとしの天正10年(1582)の8,9月頃に、信長死後の勢力分野再調整の一環として、柴田勝家と再婚し、翌天正11年4月24日、越前北ノ庄城で勝家とともに世を去った。つまりお市の方が勝家夫人であったのは正味8ヶ月ばかり、一年にも足らぬ期間のことで、も...お市の方

  • 赤い靴の女の子

    神奈川県横浜市中区山下公園昭和50年代の後半、横浜に住んでいた。その頃、本かテレビか忘れたが、”横浜の歌”の代表は流行歌「ブルーライト横浜」、童謡「赤い靴」であるというのを覚えている。あれから40年経ったが、今でも横浜の歌といえば、その二曲がいちばん似合うような気がする。赤い靴はいてた女お子異人さんにつれられて行っちゃった横浜の埠頭から船に乗って異人さんにつれられて行っちゃった「歌のよこはま」富樫啓著有隣堂昭和54年発行赤い靴童謡「赤い靴」が発表されたのは、大正10年(1921)12月の児童雑誌「小学女生徒」誌上で、作詞作曲は「青い目の人形」と同じ野口雨情、本居長世のコンビ作。赤い靴の女の子、埠頭、汽船、異人さんと青い目、別離--港ヨコハマにあふれたエキゾチズムを幻想的にうたったこの童謡は、メロディの魅力もあっ...赤い靴の女の子

  • 山内一豊の妻(郡上八幡城)

    場所・岐阜県郡上市八幡郡上八幡城郡上八幡は踊りで有名だが、街並みの魅力も捨てがたい。重伝建に指定された古い町並み、名水の町、古城・郡上八幡城、町を流れる長良川、背後の高い山々。何度も行って、町歩きをしたいけど笠岡からは遠い。「戦国武将100話」桑田忠親監修立風書房1978年発行千代の逸話はいくつか伝えられている。一豊と結婚したころ、一豊は近江に住んでいたが、生活は貧しく、家にはマナ板さえなく、千代は枡を裏返して代用していた。一豊が秀吉の配下として築城の監督を命じられたが、人夫の夜食も出せずにいると、千代はひそかに髪を切って金にかえ、それで米を買ってきて、一豊の面目をたてたという。撮影日・2015年8月1日山内一豊の妻(郡上八幡城)

  • 山内一豊の妻(高知城)

    場所・高知県高知市丸ノ内維新の英雄が出た高知には、まだ銅像も多い。桂浜の坂本龍馬、室戸岬の中岡慎太郎をはじめ、山内容堂、岩崎弥太郎、ジョン万次郎・・近代の吉田茂まで、西日本一と思える銅像の宝庫。高知城に行けば、もちろん”内助の功””良妻の鏡””良妻賢母”の『功名が辻』のお人の像もたつ。「戦国武将100話」桑田忠親監修立風書房1978年発行山内一豊といえば、その夫人の内助の功のエピソードであまねく名を知られている。一豊が織田信長に仕える軽輩だったころの話である。安土の城下で東国一というふれこみで、すばらしい馬が売りに出た。織田家中の侍たちのいずれもがその見事さに驚嘆したが、さりとて値が高く、誰も手が出ない。一豊とて例外ではなかった。それどころか、生活さえかろうじて成りたつ貧乏暮らしだった。妻の千代は「このお金をお...山内一豊の妻(高知城)

  • たまがきと祐清像

    場所・岡山県新見市JR新見駅前新見の駅前にずいぶん立派な銅像が建っている。たまがき(Wikipedia)たまかき(生没年不詳)は、京都東寺領の新見庄(岡山県新見市)の荘官、惣追捕使の福本刑部丞の妹とされる。たまがきは、寛正3年(1462年)、東寺から直務代官として、新見に着任した東寺の僧・祐清(ゆうせい)の身辺の世話をしていたらしい。祐清は、寛正4年(1463年)7月、年貢未納の名主・豊岡を追放したことを機に、隣接する相国寺領に住む豊岡の親族によって斬殺される。東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国的に珍しい史料といえる。なお、この書状がたまがき自身がしたためた物であるか否か、また、たまがきが遺品を譲り受けることが叶ったのか、たまがきの年齢、祐清との関係などは伝...たまがきと祐清像

  • たつこ姫

    場所・秋田県仙北市田沢湖町田沢湖たつこ像は、像そのものが田沢湖と合わせ東北を代表する観光名所。水深、透明度、山脈、たつ子姫伝説、期待を裏切らない美しさがある。秋田は美人どころとして、自他ともに認めている。若い娘さんのことを”おばこ”という。その、秋田美人の産地として有名なのが角館や田沢湖周辺一帯ときかされた。昔からの美人どころであるあかしのように田沢湖にはこんな話が伝わっている。八郎潟に住む八郎太郎は、いつしか田沢湖の美女タツコ姫と親しくなり、蛇身となって毎年、秋の彼岸になると田沢湖にやってくるようになった。二人の逢瀬は、春までゆっくりと続けられ、若い二人の情熱は、北国の湖に氷をはらせなかった。いまも田沢湖は氷結しないし、周辺に美女が多いのは、伝説のタツコ姫にあやかってのことだろうか。「祭りと芸能の旅」参議院議...たつこ姫

  • おしまさん(有明海)

    場所・佐賀県鹿島市おしまさんは豊作の神様として、今でも有明海沿岸の人々に信仰されているようだ。佐賀県鹿島市観光協会沖の島まいり(おしまさんまいり)沖の島(おしまさん)まいりとは、大漁豊作や航海安全を祈願するため、有明海沿岸の各地域から有明海の「沖ノ島」へ向けて船が出航することです。鹿島市では、七浦地区の集落から道の駅に複数の船が集まり、沖ノ島へ向かう前に船上で「浮立(ふりゅう:かねや太鼓、笛の音に合わせて踊ること)」や「皿踊り」が披露されます。それと同時に七浦地区の夏祭りが開催され、郷土芸能の披露や盆踊り大会などが行われます。沖の島まいりの由来は次のとおりです。江戸時代に干ばつに見舞われたときに、「おしま」という娘が雨が降ることを願って有明海に身を投げ、流れ着いた先が沖ノ島であったと伝えられています。そして、お...おしまさん(有明海)

  • 美少女おいの

    場所・和歌山県新宮市浮島の森和歌山県の新宮市の伝説。県のホームページに載るほどだから、紀ノ國では有名な話なのだろう。和歌山県企画部「和歌山県の民話」美少女おいの源平のころ、このあたりに、おいのという美しい娘がいた。木こりをしていた父のもとへ、昼の弁当を届けるのを日課としていたが、ある日、父が浮島の森へ行ったため、おいのも森へ入った。この日おいのは、あちこち遊び回りたいと思い、自分も昼の仕度をして行った。父に弁当を手渡した帰り、石に腰をおろして弁当をひらいたところ、ハシを忘れたのに気づき、ススキの茎を折り、ハシの代りとした。森の中は夏でも涼しく、あまりの快さに思わずうっとりとし、眠気をもよおした。遠く聞こえる規則的な父の斧の音に、しだいに夢の国へ誘われるようであった。ふと物音に気づき、われにかえると、黒い大蛇が目...美少女おいの

  • 服部大池の”お糸”

    場所・広島県福山市駅家町服部大池駅家(えきや)の服部大池には”お糸さん”伝説がある。地元で知らぬ人はいない。”お糸さん”は、忠魂碑と並んで建つ。この場所が服部地区の中心を意味する。像には『人柱お糸之像」と刻まれている。服部大池(Wikipedia)服部大池は1643年(寛永20年)に福山藩初代藩主であった水野勝成が隠居後に神辺平野の干魃対策のひとつとして神谷治部を総奉行として服部川を堰き止めて造らせた。福山藩で最大のため池で春日池、瀬戸池と並び領内三大池のひとつに数えられる。1645年(正保2年)に完成し20ヶ村に恩恵を与え周囲の治水を大きく安定させた。以後、度々の改修を受けつつ農業用ため池として現在も用いられており、近年では1997年に改修工事が行われた。池の周辺は公園として整備され桜の名所として市民に親しま...服部大池の”お糸”

  • 笠岡の人柱(ひとばしら)

    (Wikipedia)人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、などなど)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。笠岡市では下記の2件がよく知られている。(富岡の土手・2018.3.30).お七伝説富岡新田の築堤に際して人柱...笠岡の人柱(ひとばしら)

  • 神武天皇像

    岡山県笠岡市高島建立・2020年10月神武天皇の東征は、下記、吉備の高島に3年間滞在したとある。『日本書紀』乙卯年(紀元前666年)3月6日、吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。昭和15年の皇紀2600年祭の頃、天皇が滞在した”吉備の高島”は国民論争となり、備前の高島(岡山市)備中の高島(笠岡市)備後の高島(福山市)が最終候補に残り、正統性を争った。結果は笠岡市と福山市の高島が落選した。笠岡市の高島にも帝国大学の先生方が何度も来て、掘削や出土品をしらべた。しかし、考えてみればそもそも日本書紀の話自体が物語であるに、偉い帝大の先生は何を調べ、なんでもって岡山市の高島と定めたのだろう。不思議なことだ。「日本は神の国である」そのことを、懐疑的に思うものは非国民。神話...神武天皇像

  • 児島高徳像

    場所・岡山県津山市院庄母は、ほとんど歌をうたわない人だった。童謡も、民謡も、児童唱歌も、流行歌も。その母が歌って聴かせたくれた曲が二つある。青葉茂れる桜井の・・・「桜井の訣別」(楠木正成)桜ほろ散る院の庄・・・「忠義桜」(児島高徳)どちらも天皇家の忠臣を歌っていて、学校教育が神国化していたのがうかがえる。特に児島高徳は児島の人であり、津山での古事が曲となっていて、学校でも熱心に歌ったようだ。児島高徳はいったい何をした人なのか?それを説明するのは歌がいちばん。忠義桜桜ほろ散る院の庄遠き昔を偲ぶれば幹を削りて高徳が書いた至誠の詩(うた)がたみ君のみ心安らかれと闇にまぎれてただ一人刻む忠節筆の跡めぐる懐古に涙湧く「天勾践を空しうするなかれ時に范蠡なきにしも非ず。」風にさらされ雨に濡れ文字はいつしか消えたけどつきぬほま...児島高徳像

  • 楠木正成騎馬像

    場所・広島県福山市松永町天皇家の大忠臣といっても、それは敗者の南朝天皇への忠臣であって、北朝側から見れば逆臣だった楠木正成。逆臣ではあったが、明治政府は「お国のために死ぬ」という理想の人物に仕立て、教科書に、読み物に、歌にいいように利用した。備陽史探訪の会「備陽史探訪:178号」高諸神社の境内にセメント製の「楠木正成騎馬武者像」がある。これは戦前今津小学校にあったもので戦後この場所に移された。当時は奉安殿(昭和十年落成)の横に建立されていたもので銅像であった。この楠木正成の銅像は神戸に在住した今津出身者二人による寄附である。上記によると、奉安殿の横に銅像で建立されたが戦時中に供出した。すぐに代わりにコンクリートで再建。終戦後、学校から撤去。たぶんその数年後に、この場所にもってきた。この場所は、「高諸神社」で、大...楠木正成騎馬像

  • ゆめタウン松永店

    場所・広島県福山市松永町柳津無くなった日・2021年3月21日撮影日・2013年1月7日松永のゆめタウンが3月21日に閉店する。年々、この店の西側に中小の新しい店がオープンしていた。そうなると、ゆめタウンは松永の東の端に位置しているのが気になりだした。かつて、イ草や塩田で栄えた松永。柳津では下駄や履物工場が多かった。ゆめタウンの前には松永湾が広がり屋上からの眺めもよかった。写真の正面は尾道市の浦崎半島。(福山市の中に尾道市が飛び地がある)閉店後の建物や土地の利用は未定だそうだ。ゆめタウンは福山市では近年、ポートプラザのヨーカドーの店舗跡に新店ができたので、これでおあいこかな?ゆめタウン松永店

  • 和気清麻呂

    場所・岡山県笠岡市西大島この像は終戦後すぐに学校から撤去された。破壊するのは忍びないと、旧家の庭に隠すように埋められた。その後、時代が落ち着いて学校に復旧さしてもいいのではないかという声が出るころ、学校が統合されて元の学校はなくなった。掘り出された像は、統合先の学校に建った。和気清麻呂は天皇家を護った忠臣として、戦前は楠木正成と並ぶ英雄だった。多くの学校や公的な場所に銅像があったと思えるが、その銅像は西大島と似て、撤去後破壊、撤去後隠す、のどちらかだっただろう。学校に再び建った清麻呂は、再び”忠臣”で蘇ったかといえば・・・まったく違う。一言もない。像の隣に建つ説明文を転記する。和気清麻呂略伝和気清麻呂は、日本の古代史の中で、奈良時代から平安時代の転換期に活躍した人物です。天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町...和気清麻呂

  • 津田白印

    場所・岡山県笠岡市笠岡岡山龍谷高校城見小学校の講堂(正式名「真田講堂」)に、水墨画のような絵が掲げてあった。小学校の6年間眺めたが、卒業後は一度も母校の講堂に入ることはなかった。その後、同じ画家と思えるものを何度も見て、城見小学校の絵は津田白印画伯の絵だと確信した。卒業して20年ほど後、講堂は解体され新たに体育館ができた。白印さんのあの絵は今、どこにあるのだろう?津田白印(1862~1946)は、文久2年4月、笠岡浄心寺住職の津田明海の次男として生まれる。成富椿屋について南画を学ぶ。画趣は温和にして自由闊達であり、画とともに書にもすぐれていた。「笠岡市史第3巻」淳和女学校・甘露育児院の創始者であり、教育・福祉に情熱を傾けた津田明導(白印)は、教職を退いた後も、美術界に大きな足跡を残し、昭和21年2月15日惜しま...津田白印

  • 原爆ドーム

    場所・広島県広島市中区訪問日・2013年5月3日2013ひろしまフラワーフェスティバル(FF)日本政府が終戦を決意したのは、原爆の影響もあるが、直接的にはソ連の参戦だった。どうにか瀬戸際で敗戦を決めたのはよかった。もし、決断がなかったら南九州からも、関東地方沿岸も連合軍が上陸進軍し、国民の屍と国土の荒廃、国家の分割があったに違いない。・・・・・・「しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2002年発行原爆ドーム西日本の陸軍の最大拠点となっていた広島を壊滅させようと、アメリカの原子爆弾搭載機エノラゲイ号は、10.000m上空から、この特徴のある相生橋の中央を狙って原爆を投下した。だが風のために南東にずれて、ドームは奇跡的に倒壊を免れた。今日ヒロシマの原爆被害の象徴となっているのは、この建物がいろいろな催し物の会場として広島...原爆ドーム

  • 大阪第四師団

    「続しらべる戦争遺跡の事典」柏書房2003年発行大阪第四師団司令部庁舎と空襲の跡明治から昭和初年にかけて、大阪城周辺一帯には数多くの軍事施設があった。明治3年、兵器を造る大阪砲兵工廠明治4年、大阪鎮台(のち第四師団)1874年、歩兵8聯隊1896年、歩兵37聯隊大阪城とその周辺の広大な地域は軍用地であったために、一般市民は立入は容易にできなかった。大阪城とその周辺は軍事一色に塗りつぶされていた。この聖域の場内に昭和の天守閣を建てる計画が、昭和3年の御大典記念事業として市会で議決された。このために天守閣のそばに第四師団司令部の庁舎を新築し、陸軍に献納するという破格の交換条件を陸軍にもちかけた。師団司令部の建築費が天守閣より1.7倍かかった。観光施設としての天守閣が完成したことによって、市民が自由に出入りできるよう...大阪第四師団

  • 広島市民球場

    場所・広島県広島市中区無くなった日時・広島カープは2008年まで使用。球場の解体は2010年。撮影日・2008年9月24日マツダスタジアムが出来てから、広島カープの試合はいつも満員になった。ほぼ毎年、元上司だったMさんから「いっしょに見よう」とご招待があったが、数年前「チケットがとれない(買えない)」とお詫びの電話があった。カープのチケットは手にはいりにくいのは、既に新聞報道で知っていた。では、古い球場である広島市民球場が悪かったかといえばそうではない。それなりの良さがあった。便利だった。広島のまんなかに市民球場はあったので、すべての面で便利だった。Mさんと行くときには、そごうの前で待ち合わせていた。あれっ?ジェット風船が”赤”色でない!日本のプロ野球観戦の風物詩になった「ジョット風船」も、このころに始まったの...広島市民球場

  • 岡山駅前の桃太郎像

    場所・岡山県岡山市岡山駅前移転の日時・2021年?撮影日・2016年6月26日岡山には路面電車はあるが、この出発駅の場所は割と不便。それでもまあ、モータリゼーション化の時代に多くの都市が廃止したことを思えば、電車が残っていてくれてありがとうとも言える。その不便だった出発駅を駅前にもってくることが2~3年前に決まっていて、今年位には工事が始まるだろうからこの光景は今年が見納めになる。路面電車の駅は桃太郎像と噴水の間にできるので、押し出されるように、双方が移動する。右に行くのか左に行くのかは不明。路面電車の新駅は2022年に完成予定だが、広島市の路面電車が駅構内に移転工事中のことを思えば、岡山市は一周遅れの感じがする。岡山駅前の桃太郎像

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